【黄宗建先生追悼のページ(2006)】

 
<目次>
 1,黄宗建先生の急逝を悼む(小林文人)
 2,追悼アルバム→(別ページ)
 3,黄宗建博士の歩みと業績
(肥後耕生・作成)
 4,黄宗建・自分史をかたる (1)(2)
   
TOAFAEC「東アジア社会教育研究」第4号、第5号(1999,2000)

 5,黄宗建さんの沖縄訪問・語録
(1995/2/25〜28)
  6,
中国・山東省烟台日本語学校訪問(2003/11/26〜27)

 7,海をこえる友情25年、その歩みきし道を・・−山に眠る黄宗建先生を訪ねて(2008)
 8,肥後耕生著「『黄宗建と韓国社会教育の歴史』(韓国:学而時習、2013)」出版 
*関連写真(20)■

 


 黄宗建先生の急逝を悼む

  *南の風第1686号(2006年7月23日)小林文人
                     
*関連写真→200310-川崎■
                     *韓国本・編集■ 
  

黄宗建先生@中国・烟台、20031126

★<黄宗建先生の訃報>
 2006年7月22日の昼、韓国の黄宗建先生が亡くなられたという知らせが飛び込みました。あんなにお元気だったのに・・・と、しばし茫然、なんとも残念無念の思い、享年まだ77歳の若さ!でした。
 その後の肥後耕生さんの連絡(Sat, 22 Jul 2006 17:26)では「20日午前10時13分にお亡くなりになられ、今日22日午前10時に出棺、「最期、お会いできなく残念です」とのこと。
 この間の経過。「南の風」には載せませんでしたが、6月下旬、魯在化さんの電話で黄先生が中国から急遽ソウルに帰られて、空港よりそのまま緊急入院されたことを知りました。親友の金済泰牧師以外は誰も会うことができず、詳細が分からず。しかしその後は一段落されている様子でもあり、経過を見守っているところへの訃報でした。
 この4年近く難航を重ねてきた『韓国の社会教育・生涯学習』(編者:黄宗建、小林文人、伊藤長和)刊行の見通しがようやくついて、最終編集の経過報告を(当時滞在中の)中国に送ったのが5月。しかし、いつものようにご返事がなく、気になっていたのでした。黄先生からは早々の原稿をいただいていましたから、もしかすると(日本側が遅れていることに)怒っておられるのかも・・・と思ったり。もうそのころは体調をこわしておられたのでしょう。
 黄先生との出会いは、1980年1月。故諸岡和房さん(マンチェスター留学の友人)を介して、日本社会教育法の調査に来日された時です。中断をはさんで、1990年以降はソウルで、また東京・鹿児島・沖縄・佐賀や川崎で、あるいは中国・烟台等でも、親しくお付き合いをさせていただきました。その経過の一部は、9月刊行予定の上記・韓国本にも書いています。私たちの研究年報「東アジア社会教育研究」4号、5号には「黄宗建・自分史をかたる」を掲載し、最近、ホームページにも再録。その末尾に略歴や業績も。韓国の社会教育研究・運動の文字通りのパイオニヤでした。
 いろんな思い出が脳裏をよぎります。昨日は何も手につかず、古い写真を探し出すと、どの顔も実に楽しそうな笑顔ばかり。とりわけ南の島(与論、沖縄)では解放感あふれる表情。沖縄再訪を約束していたのに、待望の新本を前に乾杯したかったのに…残念です。(小林文人)

★黄宗建先生を悼む(2006年7月22日夜、ぶ)
◇海越えて薫り続けし大輪の孤高の花に雨降りしきる
◇虚ろなる心でさがすアルバムにその顔ありて歌の聞ゆる






下記・写真移動→こちらへ(追悼写真)→■

在りし日の黄宗建先生(TOAFAEC韓国訪問団を迎えて、ソウル、19960302)
黄宗建・自分史を語る(下掲)収録を終わって慰労会、「花」の合唱(ソウル、19990301)
黄宗建氏と小沢有作氏(東京都立大学)、日韓社会教育セミナー@大阪、19920130
左より小林平造、ボヤンバートル、黄宗建、小林文人@名護市中央公民館、19980516

関連写真
『韓国の社会教育・生涯学習』編集記録・写真 → 
       
同編集会議(川崎訪問、2003年10月〜11月)  →
        


*黄宗建先生・追悼アルバム→■






 黄宗建博士の歩みと業績
 −肥後耕生・作成 (2006年7月)−


<略歴>


1929年6月3日、ソウル東大門近く昌信洞で生まれ、昌信洞幼稚園、昌信国民学校、城南
  中学校を出る。父の学問と教育に対する熱情に影響を受け、人生の方向を決定づける。
1946年 ソウル大学校専門部へ入学。孤児院で孤児の面倒をみる。
1948年 ソウル大学校師範大学教育学科へ進学する。
1950年 6.25動乱の困難を経験する。
1952年 ソウル大学校師範大学教育学科を卒業し同大学院へ進学。
1953年 休戦後、家庭事情でソウルにもどり、同徳女子高校で教師をする。
1955年 清州大学の専任講師となり、大学教授生活の第一歩を歩き始める。
      学生達と一緒に農村啓蒙活動に参加し、清州市で勤労青少年夜学を運営する。
1957年 コロンビア大学校師範大学入学。教育社会学、成人教育などを学ぶ。
1960年 成均館大学教授となる。
1962年 "大学教育と学問の自由"という論説が問題となり辞職勧告をうける。
1963年 中央教育研究所研究員となる。大韓赤十字社青少年諮問委員会の委員になる。
1964年 イギリス連邦コロンボプラン奨学金をもらい、マンチェスター大学成人教育学科で
      修学。1964年と1965年にかけて、ペスタロッチの遺跡を探訪する。韓国教育学会
      常任理事(−1966年)となる。
1966年 韓国教育学会 社会教育研究会 初代会長となる。
1967年 啓明大学校教授となる。(同教育大学院長、社会教育研究所長、大学院長歴任)
1969年 慶尚北道教育委員(−1982年)。戦争孤児事業財団の理事、孤児院長、孤児達の
      中学校教師となる。
1974年 韓国教育学会 教育社会学研究会 会長(−1977年)となる。
1976年 韓国社会教育協会創立 総務理事(−1980年)となる。
1979年 アジア南太平洋成人教育機構(ASPBAE)第3地域会長(−1981年)となる。
1980年 ロビーキッド教授の推薦でカナダOntario Institute For Studies in Education
      で研究教授となる。
1982年 韓国教育学会副会長(−1984年)となる。
1984年 韓国社会教育協会会長(−1988年)となる。
1985年 国際成人教育協会(ICAE)副会長となる。
1986年 国際成人教育協会(ICAE)機関誌編集委員となる。
1987年 ASPBAE第3地域会長(−1990年)となる。
1988年 明知大学校社会教育大学院教授となる。ユネスコ韓国委員会委員。
      APPEAL国内委員会委員長となる。
1989年 教育部中央教育審議会委員となる。
      韓国文解教育協会会長となる。
1994年 定年により退任。
2000年 ソウル大学校総長発令招聘教授となる(−2001年)。
2003年 中国・山東紡織職業大学校に招聘され、韓国語顧問となる。
2006年 7月20日、永眠。

<著書>

・『教育社会学:地域社会と学校』1961年
・Bramed, Theodore著『Education as Power』(訳) 培英社1964年
・『教育社会学的研究の理論と実態』現代教育叢書出版1968年
・『教育社会学:地域社会と学校』蛍雪出版社1971年
・Brameld.D著『文化の危機と教育』(訳)培英社1975年
・『地域社会と学校』啓明大学校出版部1978年
・『韓国の社会教育』教育科学社1980年
・『地域社会と教育』啓明大学校出版部1980年
・『黄宗建随想集』正民社1984年
・『産業化に伴う地域社会の変化と教育に関する研究』啓明大学校出版部1986年
・Eric Hoffer著『大衆運動の実情:大衆運動の社会史的分析』韓国教育公社1990年
・『社会教育の理念と実際』正民社1994年

<共同著書>

・「教育社会学」『現代教育叢書6集』現代教育叢書出版部1961年
・「学習指導」『現代教育叢書7集 』現代教育叢書出版部1962年
・「教職と教師」『現代教育叢書9集』 現代教育叢書出版部1962年
・「社会教育」『現代教育叢書11集』現代教育叢書出版部1962年
・「教育研究」『現代教育叢書12集』 現代教育叢書出版部1962年
・『教育と国家発展』教育出版社1968年
・『学校と地域社会』u文社1973年
・『教育過程の発展的志向』ソウル特別市教育委員会1974年
・『韓国社会教育総覧』韓国社会教育協会1983年
・『教育社会学』教育科学社1987年
・『平生教育原論』教育科学社1989年
・『社会教育学序説』教育科学社1991年
・『韓国教育の新しい選択』21世紀政策研究院1992年
・『韓国の教育と倫理』韓国精神文化研究所1994年
・『韓国の文解教育』韓国文解教育協会2005年

<研究報告書>

・『郷土学校の理論と実態』中央教育研究所1963年
・『国際理解のための教育:韓国中学生の日本に対する理解と態度に関する研究』
 中央教育研究所1966年
・『韓国の社会教育:歴史的変遷と現況に関する調査』中央教育研究所1966年
・『産業化に伴う社会の変化と教育に関する研究』啓明大学校出版部1973年
・『社会教育制度の比較研究』啓明大学校社会教育研究所1980年
・『韓国社会教育現況』韓国社会教育協会1986年
・『外国放送通信大学の比較研究』韓国放送通信大学1987年
・『平生教育の理念と遠隔教育大学の発展モデル』韓国社会教育協会1988年
・『韓国教育の改革方向』明知大学校社会教育研究所1991年
・『韓国社会教育の構造と現況』明知大学校社会教育研究所1993年
・『ベトナム改革政策と人力開発教育体制』明知大学校社会教育研究所1994年
・『韓国社会教育総覧』明知大学校社会教育研究所1994年

<学術論文>

・Freeman「教育の自由と私たちの責任」(訳)『新教育』9大韓教育協議会1957年
・「米国教育の進歩主義と本質主義」『教育評論』26教育評論者1960年
・「反省と批判、1960年の」『教育評論』28教育評論社1960年
・「国家再建と教育者の役割」『教育評論』34教育評論社1961年
・「郷土学校建設の問題点」『所報』中央教育研究所1962年
・「ペスタロッチの教育思潮:現代教育思潮講座第2講」『教育資料』教育資料社1962年
・「デューイの教育哲学:現代教育思潮講座第5講」『教育資料』教育資料社1962年
・「進歩主義教育とその批判:現代教育思潮講座6回」『教育資料』教育資料社1962年
・「米国の最新教育思潮:現代教育思潮講座7回」『教育資料』教育資料社1962年
・「韓国教育新年の展望:国民教育運動を中心として」『教育評論』39教育評論社1962年
・「韓国郷土学校運動の問題点」『教育』13ソウル大学校師範大学教育会1962年
・「専門職としての韓国教員:韓国教員は専門職視されるだけの資格を持っているのか?」
   『新教育』15大韓教育協議会1963年
・「知性の総動員令が残念だ:入試問題に関する文教政策の貧困」『新教育』1963年
・「現代教育における東洋的な伝統主義」『教育資料』教育資料社1963年
・「郷土学校建設のための郷土社会的背景」『所報』中央教育研究所1963年
・「私たちが選ぶ土地をすぐ見よう」『新教育』大韓教育協議会1964年
・「国際理解のための教育:中学校学生たちの日本と日本国民へ対する理解と態度に関す
   る研究」『所報』中央教育研究所1964年
・「大学の過剰と解決されるべき問題」『教育評論』67教育評論社1964年
・「近代化のための教育の使命」『新教育』大韓教育協議会1965年
・「伝統と進歩の調和:英国教育から学ぶ点」『所報』京畿道教育研究所1965年
・「韓国成人教育の問題点:人文教養と市民教育を中心として」
        『新教育』大韓教育協議会1966年
・「Adult Education:Imperative for a New Society」『KOREA JOURNAL』
   Korean National Commission for UNESCO 1966年
・「ペスタロッチの生涯と事業」『新教育』大韓教育委員会1967年
・「価値観の変遷と教育」『頭流』晋州教育大学学生会1967年
・「韓国の教職と教職団体」『新教育』大韓教育委員会1967年
・「社会教育:1980年代の未来像」『教育評論』101教育評論社1967年
・「韓国の社会教育:その意義と現況」『自由公論』18 自由公論社1968年
・「浦項総合製鉄工場建設に伴う大松地域の社会変化と教育に関する研究」『東西文化』
   啓明大学校東西文化研究所1970年
・「国家社会発展と社会教育の役割:わが国社会教育の現況と問題」『新教育』
   大韓教育委員会1970年
・「国家発展と教育研究機関」『新教育』大韓教育総合会1973年
・「マスコミの社会的機能とその教育的価値」『東西文化』啓明大学校東西文化研究所1973年
・「農漁村教師の地位と勤務条件:農漁村教師の優待策」『新教育』大韓教育総合会1974年
・「都市学校と田舎の学校隔差」『教育評論』193教育評論社1974年
・「大衆社会と図書館の役割」『円協』韓国図書館協会大邱慶北地区協議会1975年
・「韓国農村の発展と地域社会教育の必要」『啓明』啓明大学校学徒護国団1975年
・「地域社会変化と教育:産業化に伴う農村社会の変化と住民の反対を中心に」『新教育』
   大韓教育総合会1975年
・「韓国農村の近代化と農民教育の問題」『教育評論』203教育評論社1975年
・「社会教育:韓国教育30年」『新教育』大韓教育総合会1975年
・「地域社会開発と教育:教科教育の地域化」
   『教育研究』韓国教育生産性研究所教育研究社1976年
・「各国の社会教育:英国・米国・デンマークを中心に」『新教育』大韓教育総合会1976年
・「韓国女性の地位向上と教育の問題」『女性問題研究』暁星女子大学校附設韓国女性問題
   研究所1976年
・「教育の機会均等問題、80年代教育の方向と課題」『国会報』157国会事務所1977年
・「社会開発と教育革新」『新教育』大韓教育総合会1977年
・「平生教育と私たちの課題」『科学と教育』170視聴覚教育社1978年
・「Urbanization and its Related Educational Problems in the Pohang Area」
   『社会文化論』1978年
・「社会教育の制度的基盤」『教育開発』8韓国教育開発院1980年
・「平生教育と地域社会学校」『私学』13大韓私立中高等学校校長会1980年
・「教育における人間主義と世界主義」『教育管理技術126韓国教育出版1981年
・「学校教育と社会教育の紐帯1」『キロギ』205興士団1982年
・「学校教育と社会教育の紐帯2」『キロギ』206興士団1982年
・「社会教育の現況と問題点」『私学』22大韓私立中高等学校長会1982年
・「学校教育と社会教育の紐帯」『社会教育研究』韓国社会教育協会1982年
・「国際成人教育協会(ICAE)パリ総会参加報告書」
                    『社会教育研究』韓国社会教育協会1982年
・「大学の社会教育参与」『大学教育』6大学教育協議会1983年
・「平生教育の意義」『教育管理技術』149韓国教育出版1983年
・「社会変遷に伴う価値観教育」『私学』31大韓私立中高等学校長会1984年
・「専門大学院の発展と機能」『大学教育』10韓国大学教育協議会1984年
・「地域社会と文化院の社会教育機能」『韓国文化院』韓国文化院連合会1984年
・「韓国社会教育の法的構造と行政組織」『社会教育研究』韓国社会教育協会1985年
・「協会活動10年の回顧」『社会教育研究』韓国社会教育協会1986年
・「民主主義と教育」『社会教育研究』韓国社会教育協会1987年
・「民主市民教育の理念」『自治行政』20地方行政研究所1988年
・「教育課程改編に関する研究」『放送通信教育論叢』5
  韓国放送通信大学校放送通信教育研究所1989年
・「地方自治と社会教育の課題」『地方行政研究』15韓国地方行政研究院1990年
・「社会教育と万人の教育実現:成人基礎教育の民衆教育史的照明」
  『社会教育研究』韓国社会教育協会1990年
・「国際化社会に対応する韓国教育」『教育月報』114教育部1991年
・「社会教育の意義と社会教育者の姿勢」『教育訓練情報』22中央公務員教育院1991年
・「学習者としての成人」『教育訓練情報』23中央公務員教育院1992年
・「韓国社会教育の現住所:歴史と現況と問題」『教育月報』128教育部1992年
・「韓国文解教育運動の展開と今日の問題点」『社会教育研究』韓国社会教育協会1992年
・「未来志向的社会発展と社会教育の課題」『国会報』319国会事務所1993年
・「社会教育振興のための大学の役割」『新教育』韓国教育新聞社1995年
・「学習社会実現のための平生教育の理念と課題」
  『研究論叢』14教育部教育行政研修院1996年
・「大学社会教育」『新教育』韓国教育新聞社1996年
・「社会教育;成人の3分の1が基礎教育を受ければ」『新教育』韓国教育新聞社1996年
・「ハングル知らない文盲が何ということか:先進化・世界化が無色だ」
  『民族正論』44韓国政府研究会1997年
・「夢をつくりだす竜:中国に対する新しい印象」『シアレソリ』咸錫憲記念事業会2005年

<セミナー・シンポジウム>

・「文化変化と教育の課題」韓国教育学会国家発展と教育セミナー1967年
・「マスコミの社会的機能と教育的価値」啓明大学校文化研究所セミナー1975年
・「韓国のマスメディアと文化価値」中央教育研究民衆市民教育セミナー1975
・「生涯の地位向上と教育の問題」韓国女性問題研究所1976年
・「社会開発と教育」韓国教育学会研究発表大会1976年
・「農村近代化と教育の課題」韓国農民教育協議会1976年
・「社会教育の制度的基盤」韓国社会教育協会1979年
・「学校教育と社会教育の紐帯」韓国社会教育協会1982年
・「世界の意義と未来の教育」大邱未来学会第6回シンポジウム1984年
・「韓国社会教育の法的構造と行政組織」『社会教育研究第10号』韓国社会教育協会1985年
・「遠隔教育機関の本質的志向」放送通信大学セミナー1989年
・「文解教育の歴史と展望」ユネスコ韓国委員会1990年
・「みんなのための教育」韓国社会教育協会1990年
・「解放後韓国社会教育の足跡」日本社会教育学会1992年
・「放送通信高等学校の問題と展望」韓国教育開発院セミナー1992年
・「生きの質と社会教育」韓国精神文化研究院セミナー1993年
・「韓国社会教育の体制鼎立」21世紀に目指す教育セミナー1993年
・「大学社会教育制度比較」啓明大学校学術シンポジウム1993年
・「東アジア文字改革運動と文解教育の問題」韓国文解教育協会1994年

<日本語による論文・報告>

・「民族の独立と文解教育運動−韓国識字運動の歴史的考察−」
  日本社会教育学会編『国際識字10年と日本の識字問題』日本の社会教育第35集1991年
・「韓国における文解(識字)教育運動と現在の問題点」
  第2回日韓社会教育セミナー(関西大学)1992年
・「韓国社会教育の誕生と足跡」日本社会教育学会紀要30 1994年
・「黄宗建・自分史をかたるT、U」TOAFAEC発行『東アジア社会教育研究』
  第4号1999年、第5号2000年

<褒章及び表彰>

1978年12月 社会教育功労表彰(文教部長官)
1981年12月 大韓民国勲章 (大統領)
1985年 9月 ASPBAEアジア地域社会教育功労者(ASPBAE会長)
1990年 1月 ICAE功労賞(国際社会教育協議会会長)
1991年12月 ASPBAEアジア地域社会教育功労者(ASPBAE会長)
1994年 5月 啓明大学校40周年記念大学発展功労感謝状(啓明大総長)
2004年12月 齋魯友情賞(中国山東省人民政府)



黄宗建博士(中国・烟台、20031126)小林・撮影








TOAFAEC『東アジア社会教育研究』第4号(1999年)
“この人−先達の自分史”

   黄宗建氏・自分史をかたる(1)
                  ー金済泰氏の証言もー


<解題>
 それぞれの国の社会教育(成人教育・生涯教育)の歴史には、情熱をたぎらせ理論を探求しつつ、未開拓の分野を拓いてきた先達がいる。第2次世界大戦からすでに半世紀を経過した今日、戦後の教育改革期から新しい仕事に関わってきたこれら指導者たちにも、過ぎし日を回想するに充分な歳月が流れたということができよう。静かに語られるそれぞれの自分史の証言は、激動の現代史と戦後の社会教育の形成史を見事に映し出す。これらの貴重な証言を、国を越え、世代を越え、海を渡って、問いかけ、語りあい、東アジアの記録として残していきたいと考えている。
 第1回の企画は、韓国・社会教育の研究と運動の第一線で活躍されてきた先達・黄宗建氏(啓明大学校・明知大学校教授等を歴任)と、同席された金済泰氏(牧師、韓国文解教育協会・会長)のお話を伺うことにした。
        
 場所  :韓国ソウル・世宗ホテル
 日時  :1999年3月1日午後 
 参加者 :小林文人(和光大学)
         都築継雄(高麗大学大学院)
        江頭晃子(東京多摩社会教育会館市民活動サービスコーナー)
        染谷美智子(和光大学学生)
        萱野智篤(北星学園大学)
        内田和浩(北星学園女子短期大学)
 進行(聞き手):主として小林文人
 記録・テープおこし:金子満(鹿児島大学大学院、ソウル留学中)
        
 当日は折しも3月1日、しかも1919年3・1独立運動から80年の記念の日、黄宗建氏に同行された金済泰氏の「3・1運動」の話から始まった。なお(  )内は編集部の注記である。

  関連写真こちら■
 



<はじめに>

聞き手:本日は3月1日という歴史的な記念の日に、両先生のお話を伺うことが出来て、たいへん有り難うございます。日本から、この日に合わせて参上した意味がありました。主として、黄宗建先生の自分史をゆっくりとお話いただきたいと思っています。どうぞよろしくお願いします。
黄宗建:まず金済泰先生から3・1運動について、すこし話をしてもらってはどうでしょう。教会でもたいへん大事な話をなさいました。
聞き手:今回は、韓国の文解(識字)教育運動についても、金先生にいろいろ教えていただき、ご紹介をお願いしたいのですが、今日は黄宗建先生とご一緒にお出でいただき、願ってもない機会となりました。ぜひお願い致します。

<「独立」運動のこと>

金済泰:1919年に万歳事件が起きたときに、当時の大切な言葉は「独立」ということであったと思います。その当時に必要なことは国民に対する教育でした。なぜかというと韓国が日本から独立するということは、アメリカがイギリスから独立することとは次元が違うことであるからです。ある国から独立するということではなく、あらかじめあった国が独立するということで、1945年の8月15日は「光復」とよんでおり、普通の独立とは違う概念であります。なぜかというと、合併という言葉を使うか、解放という言葉を使うかなどは、今でも研究者の間でさまざまな考えがあります。いわゆる「韓日併合」についても、私の見解は、日本と韓国との代表者が集まり、もちろん強制的ではありましたが、条約(1910年)を結んだということで、国と国との約束事であったと思います。
 私が思うに、その1919年の3月1日独立運動の意義を考えますと、韓国というのは昔から中国よりさまざまな影響を受けており、いわば韓国は中国に政治的に大きな影響を受けており、文化的には隷属されていました。国民にとって独立というのは、私たちの国は私のたちの国だと言う考えをおしえる教育が大切なことを確認するいい契機だったと思います。この3・1独立宣言文は、当時の弱小民族であった韓国の人々にも意義があったと思いますけど、1919年の当時を振り返りますと、世界的にも、時代精神を十分に表現しているいい文章であると思います。
 この宣言文は日本から独立して、ひとつの国を作るという内容よりも、私たち、韓国が主張することは何なのかという、時代的な精神を主張するというものでありました。この内容をみると日本に対する、悪い感情よりも、日本がどのようにすべきか、韓国はどのようにすべきかを主張し、ひいては、どうすれば東洋の平和、そして世界平和につながるかということを、3・1独立宣言文はあらわしていると思います。ここに特に書かれていることは暴力行為をしようとか、すぐにでも独立をしろという早急めいたことではなくて、どうすればこれから住みよい世界が作れるか、ということが書かれています。

<東学党との異同>

 そういう意味で、私が考えたことは、この独立宣言に書かれたことと、東学党の乱の精神とは違いがあるということ。東学党の乱(1894年)のほうは、暴力的な性質が強く、独立宣言とは次元が違うということであります。とくに根本的には、東学党の乱は、権力者や役人たちから、搾取されたことに対して、農民たちが自主的に立ち上がったことですので、乱という言葉は使ってほしくないというのが私の考えですが、19世紀の東学党の乱では、日本軍が強大な軍事力でこれを平定しました。そして、日本軍が朝鮮半島に軍隊を送り、そしてそれを意識して、中国の清も強大な軍隊を同じく朝鮮半島に送ってきました。そのために日清戦争がおきてしまって、東洋の平和にとっておおきなマイナスの要因になってしまいました。
 そういう意味で、3・1の万歳運動は、平和的な運動でありますので、特に民族の良心、もうひとつは日本人の良心を強調して、非常に意義があったと思います。もう一度いいますと、武器を持ってくる人たちに対して素手で、対抗したということで、非常に良心的で意義があると思います。
 このような過程のなかで1919年の2月に東京のYMCAで、宣言が行われました。これは3・1独立宣言の前の出来事ですが、3・1独立運動が起こったときも日本の憲兵たちが、考えられないほどの残虐行為を行い、弾圧を行ったということです。たとえば、堤岩里(チエアムリ)教会で、教会の中に韓国人を閉じ込めて火を放ち、逃げ惑う人たちを拳銃で撃ち殺したという事件がおきまして、日本人に対して、感情が悪化したということです。
 ここにおられる小林先生をはじめとして、意志のあられる日本の研究者たち、3.1独立運動を十分に解析する能力を持っていらっしゃるということにまず感謝を申し上げたいと思います。とくに、韓国の政治が民主化される過程で日本の知識人たちがいろいろ応援したりしたことに対して大変感謝いたしております。80年代の10年間、日本の人たちが韓国の政治的な圧力に対して冷静的に分析をしてくださったことに感謝し、また、その冷静な分析によって韓国の歴史を見る目もずいぶん養われたと考えます。

<日帝時代について>


 1910年から1945年までの時代を日帝時代または日政時代といいますが、なぜ日帝時代と呼ぶかといいますと、現在の日本とは違うと、現在の日本は帝国主義でないから、区別するために日帝時代と言う言葉を使っています。こちらの日政時代という言葉を使っている人たちは、ときには進歩的だといわれていますが、その理由としては、日帝時代というのは、韓国の人たちにとっても感情的な表現でありまして、日政時代といいますのは、政治的な体制ということで、こちらが一般的な言葉だと思います。
 現代という時代にとって、日本と韓国がお互いを反省して平和的な考えを持つことが大切ではないかと思います。とくに、私の周りにも愛国者といわれる人たちがいますけど、ここにいられる黄宗建先生みたいに、歴史を客観的に見ることができるひとがもっと増えればいいと思います。
 黄先生は、終戦前は反日主義者でありましたが、戦争後は親日派になりました。1919年の3.1の独立運動から1945年までの間は、歴史的に見ても、どうしても反日であるしかなかったのですが、1945年の終戦後は、意のある人もない人もすべて親日として、日本と韓国がお互いが、密接な関係をもって、世界平和につなげることが大切ではないかと思います。


左より小林、中央・金済泰氏、右・黄宗建氏(ソウル・世宗ホテル、19990301) 関連写真(追悼アルバムへ)

<クリスチャンの家庭>

聞き手:金先生の意味深いお話を有り難うございました。印象深く伺いました。それでは、黄宗建先生、お願いします。まずはじめに、黄先生のお父さんのお話からをお聞きしたいのですが、お父さんは何年のお生まれですか。
黄宗建:父は1895年、平凡な家庭の中で黄海道(北朝鮮)に生まれました。当時父は、学問による出世のため科挙(国家試験制度)を目指しソウルに移りましたが、成功しませんでした。そこでソウルで、書堂(日本の寺子屋のような小さい部屋で、子供たちに勉強を教える民間的機関)を開き運営しました。私の父は、志が高く、勉強し、そして西洋の文化も積極的に取り入れようとした人でありましたが、韓日併合の発表のときは、たいへん衝撃をうけて自殺をしようと考えたほどでした。当時父は、上海臨時政府の国内連絡先の役割を果たしていた義熱団の一人で、それにかかわった事件で、10数人が刑務所にとらわれてしまいました。義熱団の活動は主に平壌(ピョンヤン)を中心として活動していましたが、そのとき父はソウル支部長として活動しており、そのため父も囚われの身となり、2年間を刑務所で服役することとなりました。
 母は、ソウルの東大門の近くで、貧しい農家の家に生まれました。当時、韓国で一番大きな影響を及ぼしたのがキリスト教の輸入でありました。日本の政治に反対し、独立精神を持っていた人の中には、あの当時、キリスト教に入信する人が多かったそうです。キリスト教は全国的に広まっていきました。その後、東大門にも教会が1900年前後に設立され、そこで父と、母方のおばあさんは、教会の一員となりまして、私の家はクリスチャンの家庭になりました。

<小学校時代ー三つの名前>

聞き手:黄先生は何年のお生まれですか。
黄宗建:1929年にソウルの城下町である東大門外で7人兄弟の3番目として生まれ、1935年に小学校に入学しました。
聞き手:そのとき学校では日本語を使っていたのですか。
黄宗建:日本語を使っていました。しかし、そのころは日本の子供たちが通う学校は小学校とよばれ、韓国の生徒たちが通う学校は普通学校と呼ばれていました。その時、学校では日本語が使われていましたが、初期には、朝鮮語も何時間か正規科目として教えてもいいという政策がありましたが、1939年からは日本語常用になりました。私が学校に通った6年間に学校の法律的名前が3度も変わりました。はじめは普通学校という名前だったのが、次には尋常小学校と変わり、その後又1941年の教育令の改定により国民学校という名前となりました。この国民学校と言う名前は、終戦後も韓国ではずっと使われてきました。 わたしがその国民学校に通っている間に、わたしの名前も3つの呼び名がありました。ひとつは黄宗建の朝鮮語発音「ファンジョンゴン」と言う名前でありました。しかし、小学校ではこの名前を日本式に「こうそうけん」と発音しなければなりませんでした。それがまた、1941年以後から創氏改名を強制され、そのとき名前を、「神岡成宗」と改名しました。創氏改名に対しては、韓国人は回想したくない気持ちでそのことを話す人は一人もいません。
聞き手:回想したくないことを思い出させてすみません、けれどもそのあたりを少し詳しくお話してください。
黄宗建:そのような複雑な時代的な背景のなかで私は小中学校を過ごしたわけです。1931年に満州侵略の仕掛けとしての、萬寶山事件というものがありました。私が小学校に入る前から、日本による満州戦略という歴史がすでに始まっていました。しかし1910年から1935年までは、韓国歴史のなかで、一番華やかで華麗な文化的教育的、あるいは産業的活動があったものと考えます。でも韓国人達は誰も、その時代のことを肯定的に話そうとはしません。とにかく日本の帝国主義者たちが支配していた時代は、真っ黒にして、考えたくも、話したくもないものでありました。しかし、私の歴史的な分析や理解によると、その時代では、いろいろな文化活動、教育の拡大、鉄道の建設など、さまざまなものが発達したことと考えます。もちろん日本の文化や日本式の教育などといった文化的・政治的統合政策の下で行われてきたものではありましたけれども。
 その当時、ちょうど私が9歳のころ国民学校に通っていた頃の生活を思い出してみると、日本人の先生のなかで水飼先生という本当にやさしくて、親切な先生がいました。その先生に対する韓国の生徒達の尊敬と愛は大変なものでした。終戦後、同窓会においてその先生を韓国に招待したことがあります。人として見れば、韓国人と日本人ではなく、先生と生徒の関係でありました。また韓国人の先生たちが、全部親切で尊敬できるわけではありませんでした。つまりそれは、人の問題で、日本人や韓国人との政治的問題ではありませんでした。

<中学校時代ー勤労動員>

聞き手:先生は、どのような中学校に通ったのですか。
黄宗建:あの時は、中学校が5年でした。1941年からが4年制に移行したのですが、そのとき中学校に入学しました。その中学校は城南中学という名でありました。
聞き手:そのときの城南中学では、朝鮮人と日本人の比率はどのようなものでしたか。
黄宗建:当時、私がいた東大門の近くにいくつかの小学校がありましたが、日本人の学校はごく少なく、多くは朝鮮人たちの学校でありました。東大門の昌信(チャンシン)小学校、これは朝鮮人のための学校で、日本人は一人もいなかったと思います。私の小学校では、6年まで、日本語を常用していましたが、友達と会話を交わすときは朝鮮語を使っていました。しかし、私が中学校に通う頃になると、時代的に朝鮮語を使用することが難しくなってきて、学校内では日本語だけをつかいました。また中学校の学生達は、さまざまなところから集まってきたということもあり、家庭の背景も違いました。官吏の子供もいたし、田舎の子供もいました。その中学校は、朝鮮人の陸軍大佐である金錫源というひとが設立しました。この学校での教育は純日本式でありました。校長先生が日本人の陸軍少将であり、日本人の先生たちも多数いました。
聞き手:1945年の8月15日のことを思い出してください。どのように過ごされていましたか。
黄宗建:中学校の3年からは、大部分勤労動員の中で学校での授業はごく一部分でした。それがどんどん厳しくなって、1945年に入ると学校で勉強をひとつもした覚えがありませんでした。あのときの勤労動員は、飛行機場建設と言った過酷なものでありました。
 しかし、学校に一生懸命出席するのが学生の務めでしたし、やはり学校にいくと友達に会えるという楽しみがありましたので、熱心に労働に参加していました。1945年の4月頃には、戦争の状況が悪くなっていきました。サイパンなどで日本軍が次々と敗戦しているとき、学校では、先生たちが「私達は、絶対に負けません、敵がくれば玉砕します。」と熱弁していたのを覚えています。
 しかし、私は朝鮮人ですから、表では日本を応援するふりをしていましたが、心のなかでは、B29が飛んでくればとてもうれしく感じていました。敗戦が近くなっているということも感じられました。そこで、私のお父さんと相談して、「今母が危篤だから家に帰れ」と言う、うその電報を学校に送ってもらい、それをもって疎開した田舎に行き、学校には帰らず、そこに8月15日の終戦(解放)までずっといました。
 その田舎では、終戦になった直後に全部外に出て踊りうれしさを体で表現していました。しかしソウルは違いました。終戦の発表が終わった後でも、ある程度時間が過ぎるまで、どのように対応していいかわからず、お互いが様子を見合っていると言う状態でした。当時の校長と訓練を主導する配属将校達は、日本人でした。
 終戦直後の日本人に対する朝鮮人の待遇には38度線の北と南では大きな差がありました。北のほうでは、日本人達は全員殴られけられして、追い出されれ、大変ひどい目にあいました。南ではそのようなことはあまりなかったみたいです。南のほうでは、終戦後2,3ヶ月後も日本人達が滞在し、家財道具などを売り払い、ゆっくりと日本に帰る準備をしていました。

<戦後の識字運動>

聞き手:
学校生活にお戻りになられたのは1945年のいつ頃ですか。
黄宗建:終戦(解放)を迎え、疎開先からソウルへ帰りすぐ学校生活に戻りました。私のお父さんも大変興奮していました。しかし、お父さんはソウルに戻られてから、政治のほうに大きな関心を寄せるようになりました。もちろんその頃、一般的に独立運動をした人達はみんな政治のほうに強い関心を示したのです。わたしは、お父さんがやった独立運動は、朝鮮人としては当たり前のことをやったと思いましたし、何か特別なことをやったとは思いませんでした。自分の心の中に、独立運動に加わったと言う、誇りがあればそれでいいと思っていました。私の家庭は、独立運動に多く貢献したと言うことで、「保勲家庭」と呼ばれ、そのため、最近は年金とか国からの特別な待遇を受けていました。
 私の家は、子供も大勢おり、経済的に苦しかったにもかかわらず、私のお父さんは、解放後に家庭をかえりみず、政治活動に没頭したため、貧しい生活をしていたことに、私は随分不満でした。わたしも政治には関心がありますけれども、あのときの政党や団体などに属したくはありませんでした。そのときの政党や団体は、形式的で、名誉主義的で、そして感情的な人達の集まりが多かったのです。
聞き手;1945年8月の日本降伏後に、韓国のハングルが読める人達の比率は大変低かったと聞いています。そして戦後のハングル普及運動で、それがずっと回復していくわけです。これは世界の識字運動史のなかでも驚異的なことなのですが、そこで、学生や先生達が農村に入って、ハングル運動をされていた頃の話を少し黄先生からお聞きしたいのですが…。黄先生も当時恐らく中学生か高校生の時代だと思いますが、やはり農村などに行かれましたか。
黄宗建:あの頃のハングル運動は学生中心ではありませんでした。日本統治時代、即ち1930年ごろには、朝鮮日報とか東亜日報が中心となって、4,5年にわたって大きなハングル運動がありました。東亜日報ではこれをブ・ナロード(民衆へ)運動と名づけました。これはロシアの言葉です。朝鮮日報のキャッチフレーズは、「知識は力、学ばないと生きられない」というものでした。この運動は学生中心でおこなわれました。学生達が夏休みや冬休みなどに、田舎に行って、民衆啓蒙運動を行いました。韓国における近代的な民衆啓蒙運動であり、最初の識字運動であったわけです。

<戦後の学生運動>

聞き手:韓国のブ・ナロード運動についてもう少し話していただき、そして、黄先生がどうして社会教育分野で研究をして行こうとされたのか、伺いたいのですが。
黄宗建:終戦後つまり解放後の3月に中学校を卒業する予定でありましたが、解放による学制の変動で卒業が延びてしまい、1946年の7月に卒業を迎えることができました。そのときソウル大学の単科大学部の前に専門部と言うものがありまして、そこに入りましたが、入るときは、どの分野にいくかは決めていませんでした。あの頃は、政治的・経済的な混乱のなかで、大学に通いはじめましたので、大部分の学生達は大変貧しい状態で勉強を続けていました。その頃大学生達は、政治的ストライキやデモが盛んでした。左翼のほうではこのようなストライキをたくさんやりました。右翼もいましたが、左翼と比べるとそう多くはありませんでした。
 あのとき、学生達の主流は左翼でした。左翼の学生達は指導力もアイデアもよかったが行動においては共産党の手足でした。右翼の主流は、キリスト教信者の学生達、そして、北朝鮮から避難してきた若い学生達で過激な連中が多かったです。
 わたしは、民衆に関心をもっていた青年でありました。小学校のときから、周囲の道端を通るとき、貧しい子供達をみると何とかしてあげたいと言う気持ちでいっぱいでした。こうした状況において私が歩んだ道は、中道左派と言う道でした。この私の中道左派という立場は、学問的だとか、イデオロギーの面で作り上げたものではなく、わたしの感じ方歩き方そして生活の仕方が中道左派といえると思います。
 はじめは、右翼のほうが、保守的で荒い人が多かったため、左翼の学生達の方に関心がありました。しかし、政治的にどちらにも属していなかったのでやはり大変難しい時期を過ごしました。家の中でもお父さんとの考えの違いで随分葛藤がありました。私のお父さんは上海臨時政府の金九先生を支持する保守的な人でした。今でも私は金九先生を尊敬しますが、その人の政治的活動におけるテロリスト的傾向に対しては、絶対反対でした。
聞き手:大学に入られたのは何年のことですか。
黄宗建:1946年の9月に大学専門部に入学しました。はじめは予科と呼びましたが、後に専門部と変わりました。そのときはまだ専攻が決まっておらず、2年後の1948年に教育学部に入学しました。

<教育学を専攻ーペスタロッチとの出会い>

聞き手:どうして教育学を選ばれたのですか。
黄宗建:それは中学校3年の時のことですが、とても面白くない教え方をする先生がいらっしゃいまして、親しく感じたことがなかったんですが、たが、結局はその先生の影響で私が教育の道を歩んだと思います。その先生は、とてもまじめで、授業の時間はきっちりと守るし、授業のほうも、なにか心に響いてこないような教え方をする先生でした。私は、はじめその先生は日本人だと考えていましたが、朝鮮人であると言うことがわかり、しかもその先生は後にソウル大学での有名な哲学教授になられた催載既先生でした。
 しかし、そういった几帳面で面白くない先生がある日、「ペスタロッチ」に関する本を持ってきて、一時間中「ペスタロッチ」に対する話しをしてくださいました。その瞬間、私の心の中に、一つの小さい種が産み落とされました。教育の効果と言うのは全部覚えるものではなく、なにか種を植えておくものであると。それがある時期に発芽するわけです。 大学に入学して、学校では、ストライキや学生達の集団的闘争が盛んでありました。こういう左翼や右翼のいざこざにかかわりたくなかったので、時間を見つけては国立図書館によく行きました。
 そこで、私は、この図書館の本をすべて読むぞと言う気持ちで、歴史や文学の本を読み始めたときに、そこでまた、ペスタロッチに出会ったわけです。全部で数十冊のペスタロッチに関する本がありました。
聞き手:それは全部日本語ですか。
黄宗建:はい、全部日本語でした。そして、それを1,2冊読んだとき、私が行く道はこの道であると確信したのです。早速、ソウルの南山にある、普和園という小さな孤児院に出かけました。そのとき私の心のなかで、この孤児達を助けたいと強く思ったことを覚えています。その孤児院に通い始めて2,3日過ぎたころ、園長がこの孤児院に住んでもいいといったため、そこに住んだ経験があります。その孤児院に関する私の報告が、大韓教育教育併合会によって朝鮮戦争以前に出版された雑誌に掲載されましたが、それを探さなくてはなりません。
 とにかく私の教育学に関する関心は、社会教育や教育社会学などよりまず、民衆、特に貧しい人のために何か役に立つことができないであろうかと言う考えがありました。それが出発です。さらに大学のほうでは、そのような活動とはまた別に、真実を勉強しようとするサークルに友達と一緒に属していました。そのサークルでは、ひとつの本をみんなで読みながら勉強し、毎日その本に対するゼミを開いていました。
 その頃は、原書(英語)があまりありませんでした。そこで当時、市場に行くと米軍部隊からの教育に関する本(EM版)を求めることができたのです。その学習サークルの名前をペスタロッチグループと呼んでいましたが、これは私が命名したものです。そのグループから2人の総理大臣(イ・ケイトク、ジョン・ウォンシク)が出ました。

<ソウル大学での教育学研究>

聞き手:当時のソウル大学校・師範大学では、専攻はどれぐらいありましたか。教育学科のなかはどのように分かれていましたか。
黄宗建:教育学科は1つしかありませんでした。すなわち師範大学自体が日本の教育学部でありまして、その中に教育学科がありました。
聞き手(小林):少し私のことをお話しますと、同じ頃、私は日本で九州大学教育学部に入学するわけですが、その当時、社会教育という分野は存在せず、伝統的な教育哲学がありまして、そして、教育心理学の専攻がありました。そのときに新しい分野として出てきたのが教育社会学です。わたしも最初は教育社会学から入ったわけです。黄先生も教育社会学ですね。だから黄先生は、はじめ教育社会学者からはじまって、そのうちに成人教育と出会い、社会教育の研究に進まれるわけで、その点では黄先生と仲間意識があるんですけれども、ソウル大学で勉強されて、どのあたりで、社会教育と出会われたのですか。
黄宗建:あのときの予科又は専門部というものは、今の教養学部のようなもので、そこを卒業すると法科大学や、師範大学など、どこへでも行くことができました。師範大学の予科にいた人達でも、法科大学に行った人もいるし、文理科大学に行った人もいましたが、ペスタロッチグループの連中は、師範大学の教育学科を志望しました。そのときの大学でのカリキュラムは、教育学概論、心理学概論、教育方法論等の教科ぐらいで、今の教育学科のカリキュラムと比べると大変少ないものでした。それが朝鮮戦争の後に、教育評価とかガイダンス・カウンセリングといったいろいろなカリキュラムが増え出したのです。
聞き手:とてもアメリカの影響が強いわけですよね。
黄宗建:朝鮮戦争の後には、アメリカの影響をうけた学者達が入ってきて、カリキュラムを作ったわけです。私の大学卒業は1952年ですが、そのときは教育社会学と言う講座が開設されていなかったのです。教育社会学の講座が開設されたのは私の大学卒業以後のことでした。

<朝鮮戦争、父の回想、苦難の日々>

聞き手:朝鮮戦争のお話をお聞きしたいのです。当時、先生はソウル・師範大学に在学されていましたが、6月25日に北朝鮮の兵隊が北から入ってきたとき、大学はどうでしたか。すぐに閉鎖されたのですか。
黄宗建:実は1950年6月25日の未明に、戦争が起きましたが、わたしがそれをわかったのは、その日の昼ぐらいになってからでした。道に出て行くとトラックが兵士達を輸送するのを見て、これは戦争だということを実感しました。27日の夜から銃の音が聞こえはじめ、28日の朝、北朝鮮人民軍がソウルにはいってきました。そのとき韓国軍はぜんぜん対抗できませんでした。人民軍が入ってきた後は、外に出て赤い旗を振る人も大勢いました。これは私の人生にとって大きな出来事でした。私のお父さんは、政治的な背景もち、キリスト教の長老でありましたので、北側にとっては、要注意人物であったわけです。ですから、私はお父さんに「いっしょに変装して逃げましょう」と何度かいいましたが、父はどうして逃げる必要があろうかと、こういう考えでした。
 そして、28日に父は、人民委員会に連行されてしまいました。父は区役所に監禁されていました。面会はできませんでしたが、食べ物を持って行った覚えがあります。区役所で誰に会いに来たかと問われたとき、私が父の名前を言ったとき、相手は、お父さんの名前を呼び捨てにしたので、憤慨した記憶があります。
 人民軍がソウルに侵攻してきたため、経済のすべてが狂ってしまいました。2,3日のうちにソウルは食べ物も無くなり、電車も動かなくなってしまいました。そのためソウル市民達は、食べ物を求めて田舎のほうに歩いて行くものも大勢いました。わたしは3男でしたが、私の上の兄は、太平洋戦争(日中戦争)のときに海軍軍人として出て行きました。その後戦死し、もう一人の兄は、韓国軍の陸軍将校であったため、朝鮮戦争のときには、私が家では一番上でした。弟は5人いましたので、彼らを食べさせて行くために、私と、お母さんが働かなければなりませんでした。
 ある日、田舎に行って米を少し買って家に帰ったとき、弟達が泣いていました。なぜ泣いているのかと問うと、先ほどお父さんが東大門警察署に連れて行かれたとのことでした。それがお父さんとの最後の別れでした。
 このような状況のため、大学のほうには行くことができませんでした。あの時大学は人民共和国の支配にありまして、大学に行くと、なにか組織に巻き込まれるか、人民軍に志願させられる状態でしたし、また私の家庭は反逆者の家庭であるということもありましたので、大学に行くことができませんでした。あの時は、人民軍の兵隊が町ごとにいて、見つかった青年たちは全部人民軍に連れていったために、外を簡単に出歩くことはできませんでした。
 私は大学には行かず、生活のために毎日働かなくてはいけませんでした。現在の東大門のあたりは、たくさんの建物が立ち並んでいますが、当時の東大門の外には、たくさんの畑がありました。母の弟、つまり叔父さんがそこに多くの畑を持っていて、農業を経営していましたので、そこに行って毎日農作業をして働いていました。人の見えない畑にいると人民軍や人民委員会に囚われる心配は無かったので安心して生活をしていました。昼は、畑で働いて夜は家畜の畜舎で夜を過ごして、朝を迎えていました。
 このような生活を3ヶ月ほど続けていましたが、ある日、南のほうからアメリカ軍のジェット機が飛んで来るのを見ました。あの時から毎日、UN軍の飛行機が飛んでくるのを待ちわび、心から歓迎するのがひとつの慰めでした。その後、6月の下旬頃から、戦線が北のほうに移動しているのを感じることができました。そして、7月の中旬にUN軍の勝利を迎えたのです。

<ソウルからプサンへ、そしてソウルへ>

 UN軍がソウルに入ってきて、解放された後にすぐに大学に通うようになりました。しかし、再び12月はじめから、中共軍が朝鮮戦争に加わり、南下してきました。あのとき私は釜山まで避難しました。わたしは、釜山にあるアメリカ軍のキャンプ食堂で一時期働いたことがあります。そこで仕事をしながら、ほかの仕事を探しに釜山に出て行ったとき、ある知り合いが、米軍の人事部で、アルバイトを募集していることを私に教えてくれました。対象は大学生でした。何をするかと言うと、巨済島と言う島がありますが、そこで北朝鮮の捕虜に対してハングルの識字教育を行うというものでした。
 あのときにうろついていた大学レベルの若者達が識字教育の先生として全員動員されました。そこは米軍の基地のなかでしたので、生き残ることもできるし、安全でありました。私は、大学4年生の頃まで内省的性格でしたが、学徒護国団学生会つまりいまの師範大学の学生会長になりました。そういう役割を果たすためには、積極的な自分の経験をしなくてはいけませんよね。あのときから、わたしにリーダーシップというものが、養成されたのかもしれません。
聞き手:私(小林)は、当時1950年九州大学に入ったのです。福岡に板付飛行場がありますが、そこから朝鮮戦争に向けて毎日、米軍ジェット機が飛び立ちました。夜も昼も。そのとき私や諸岡和房さんは学生でした。学生運動もしていました。諸岡さんは私の1年先輩。
 その頃の一番いい仕事はアメリカ軍関係の仕事で、お金が無くなったら、朝鮮戦争で死んだ米兵の遺体を洗う、きれいに洗って棺に入れる仕事に行ったものです。一番給料がよかった。私はそれをしませんでしたが、みな貧しい時代でした。そのときに、先生はプサンにいらっしゃったわけですね。私達も、また左派中道ぐらいかも知れない。私達は南海(玄海灘)をはさんで、黄先生と同時代人として生きていたことになる。その後、先生の親しい友人の諸岡さんとは、マンチェスター留学で会われるわけですね。
黄宗建:私と諸岡さんはマンチェスターで、1年間一緒に勉強して、そこから諸岡さんを通して日本との交流が始まったわけです。
聞き手:話をもとに戻して、それで、プサンからいつ頃ソウルへ帰ってこられたのですか。
黄宗建:1953年の9月頃にソウルに帰りました。その時までは、特別な許可が無いと漢江をわたることはできませんでしが、戦争が終了して入ることができるようになりました。
 もともと私は、教育哲学ないし歴史に関心を持っていました。ソウルに戻った後、生活のために同徳女子高校に2年ぐらい教師をすることができました。あの時は、その女子高にも教育学と心理学の科目がありました。その後、1955年にわたしの歳で言えば26歳の時、私の先輩の紹介で清州大学の専任講師として、その後40年にわたる大学教授生活の、第一歩を歩きはじめました。
聞き手:そこでは何を教えていらっしゃったのですか
黄宗建:教育学です。あのときには教職課程と言うのがありまして、そこで、教員を望む大学生達に教育学を教えていました。そして1957年にアメリカのコロンビア大学に留学する機会を得ることができたわけです。
聞き手:私(小林)は1955年と言えばようやく大学院生ですよ。そのときにもう専任講師になっていらっしゃるし、非常に恵まれた環境にあった訳ですね。当時、大学では外国に行くことなど、なかなかできないことだったのでしょう?
黄宗建:韓国では、兵役の問題もありましたし、外国に行くには、身元調査だけで6ヶ月かかりました。でもとっても運がよかったと思います。

<教育社会学と社会教育研究>

聞き手:教育社会学との出会いはコロンビア大学ですか。
黄宗建:そうです。初めて教育社会学とであったのはコロンビア大学でした。実は私はコロンビア大学に教育哲学を勉強しに行きましたが、それを捨てて、教育社会学を勉強したわけです。
聞き手:当時コロンビア大学の教育社会学者としては、たとえば、ジョージ.S.カウンツなどですか。彼はコロンビア大学ですよね。
黄宗建:ジョージ.S.カウンツスから直接習ったことはありません。彼はデューイの後、キルパトリックと共にコロンビアで教えていました。そのときは、クレメンとかトゥアン、又はヒルというお方がいまして、教育社会学やコミュニティー(地域)社会学を習いました。それが一番私にとって影響を与えました。また、その頃、コロンビア大学では、成人教育と言う科目があり、ポール・エサートという成人教育で有名な先生がいました。
 私は初めてコロンビア大学で教育社会学に触れることができました。教育社会学は本当にすばらしく、そして新しい学問でした。教育の問題を理解するために社会科学的な理論と技術を勉強しようと私は考えていました。そこで、コロンビア大学で学んだ教育社会学をこれから勉強しつづけ、それを韓国に紹介しようと心に決めました。コロンビア大学で修士課程を終了した後、清州大学のほうに戻りました。
聞き手:私も伝統的な教育学研究にあきたらず、教育社会学から研究者の道を歩み始めました。日本で教育社会学の本が最初に出版されるのは1952年前後でしょうか。当時の教育社会学は、教育学出身と社会学出身の両方の研究者がいましたが、はじめから教育社会学専攻と言うのは私達の時代からなんです。この世代が、いま各大学の教育社会学講座の基礎をつくってきました。諸岡さんは最初から社会教育研究でしたが。
黄宗建:おそらく日本で、教育社会学が大学の講座・科目として出てきた後に韓国にも登場したと思います。わたしが本を書くときの学問の基本は、ブルクォーバーでありましが、また当時は、日本の本を参考にしなければならないという状況がありました。その時に参考にしたのは清水義弘でした。
聞き手:黄先生は、アメリカの教育社会学や成人教育学をコロンビア大学で学ばれ、その後マンチェスター大でイギリスの成人教育のことを触れられたわけですが、その違いと言うものはどのように感じられましたか。
黄宗建:まず、私が教育社会学の本を出版し、大学などで講義を行い、この本が全国的に多く普及しました。わたしは、学校と教師を頭に考えて本を書きましたから、地方の大学などでたくさん読まれました。
聞き手:マンチェスターは何年に行かれ、いつ頃から社会教育・成人教育分野に関心を持ち始めましたか。
黄宗建:マンチェスターの留学は1964年でしたが、私が社会教育を中心に活動を展開しはじめたのは、1960年の初期のことでした。そのころから社会教育に関して、関心を持つようになり、それに触れ合う機会となりました。その契機とは、1961年に韓国に初めて日本の「教育学叢書」という本が紹介されまして、韓国でもこのような教育書を作らなければならないと思いました。それで韓国で、「現代教育叢書」という企画を何人かで編集委員会をつくり、これを出版したわけです。そのときの中心の人物は呉元錫(オ・チョンソク)という人でした。
 彼は1930年頃、コロンビアで教育哲学を専攻した後、梨花女子大学校教授を経て、1960年には文教部長官をしたお方です。はじめに全13巻を作りまして、その13番目が「社会教育」という題目の本でした。13番めの「社会教育」の担当は、私が受け持つことになったわけです。その当時、社会教育に関する本は全然、韓国にはなかったと思います。そのころ私は32~3歳だったと思います。その他、編集委員の人達は、全部40〜50歳台の人達ばかりでした。だから私が一番若かったと思います。それは、私がコロンビア大学で教育社会学や社会教育分野の講義を受けたということからだとおもいます。

<韓国の社会教育研究、歴史は流れる>

聞き手:金昇漢(キム・スンハン)先生との出会いはその頃ですか。
黄宗建:1961年当時の教育叢書のなかで「社会教育」を編集する時、金昇漢先生との出会いがありました。私の人生にとって、また韓国の社会教育運動において、重要な人物であります。
 彼は、終戦後にいろいろなことをやりました。ひとつは教育部(当時は文教部)の嘱託員をしたことがあります。その契機でユネスコの奨学金でロンドン大学の地域社会開発部に行くことができました。そこで、バッテン教授のもとで学びました。この人の学問の背景は元は哲学でありました。
 私は韓国に帰ってきた後、ある日バッテンの「地域社会学入門」という本が彼によって翻訳されていたのを知りました。そして、私が、「社会教育」を編集するとき、早速、地域社会開発の分野は、金昇漢先生にお願いすることにしたのです。その他にもいろんな人がこの本の編集に参加することになりました。そのために初めて会った人達もいます。それが契機となって、この人達を中心にして、韓国教育学会のなかでの「社会教育研究会」というものをつくったわけです。はじめは、私が会長に任命されました。さらに、この研究会が中心となって1976年には韓国社会教育協会が創設されることになりました。
聞き手:先生はこれまで、韓国社会教育の研究と運動のなかで、先駆的な、そして指導的な役割を果たしてこられたわけですが、今日はようやくその入口のところまでのお話をいただきました。しかしかなり時間も経過し、少しお疲れでもありますから、また別の機会に続きの「自分史」を語っていただきたいと思います。
黄宗建:最後に歴史は流れるということを話したいと思います。
 韓国人の特徴のひとつに情熱的というものがあります。しかし、感情や情熱を愛国心と同一視することは危険なことであります。歴史的に見て韓国は、感情や激情を動かせて敵を殺すこと、それが愛国心であると教えてきました。100年近くも、一種の感情と暴力を基準とした愛国心を教えて来たわけです。しかし、どのような恨めしい過去があっても、知性と良心を基準にして考えなければなりません。知性と良心は、激情とかそれにつながる暴力とはちょうど反対に位置するものであります。
 安昌浩(アンチャンホ)先生は、独立のためにはまず、知性的で良心的な国民をつくるための国民教育、又は民衆教育が先立たなければならないといって、「準備論」を提唱しましたが、愛国主義的な人たちは、それを消極的だといって非難しました。この人を例にして私が「歴史は流れる」というエッセイを書いたことがあります。あの時の歴史的な環境においては、もしかしたら感情的な行動が愛国として認めれらたかも知れないが、現在も、それをモデルとして教育を行えば大変なことになるということです。このような感情的な歴史教育を以前に行ってきたために、いま韓国の国民性の悪い面のひとつに過激性というものがだんだん強くなりました。その当時は私も情熱的な愛国青年だったですが、終戦後にはこれではだめだと気づきました。このように過去に行った事件、又は制度を現在にまでつないで感情的にものを考えることは、結果的には100年前の歴史に後退することになるとおもいます。
 このように私は、歴史を客観的に科学的に分析し、考えなければだめだと思うようになりました。たとえば、韓国の歴史家たちの考えは、日本統治時代を真っ暗にしてしまい、その時には何もなかったというような考え方をしています。しかし、あの当時の産業化や近代化を認めずに、韓国における近代化が、突然終戦に始まったという考え方は、本当に不合理な考え方であると思います。私の経験においても、日政時代の当時の読み物は、日本語のものが多く、朝鮮語の読み物は余りなかったため、日本の本を中心に勉強したことを覚えています。わたしの人生の道をきめたペスタロッチの本も、日本人の長田新先生が書かれた日本語の「ペスタロッチ全集」とか、「ペスタロッチの生涯と思想」などを読むことから始まったのです。(以下、省略)
聞き手:どうも貴重なお話を有り難うございました。金先生も有り難うございました。




TOAFAEC・小林を歓迎して歌う黄宗建先生(ソウル、19960302)

関連写真(スケジュール欄・2003年10月31日)
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TOAFAEC『東アジア社会教育研究』第5号(2000年)
“この人−先達の自分史”

   黄宗建氏・自分史をかたる(2)
             ー金済泰氏とともにー
                              …承前(第4号)…
 
    
場所 :韓国京幾道牙山(アサン)温泉ホテル
日時 :2000年5月3日午後
参加者:金済泰(韓国文解教育協会・会長)
      小林文人(和光大学・教授)
      金子満(九州大学大学院)
司会(聞き手):小林文人
記録・テープおこし :金子満


<はじめに−叢書「社会教育」>

聞き手:一年前の1999年の3月1日に、ソウルの世宗ホテルで黄宗建先生と金済泰先生にお話を伺うことができました。激動の歴史を背景に、主として黄宗建先生の話を中心に貴重な「自分史」を語っていただきました。その記録は『東アジア社会教育研究』第4号に収録しています。
 今年は、牙山の温泉ホテルで両先生のお話を伺うことができ、大変光栄に思っています。前回の「自分史を語る(1)」では、黄先生の生い立ちと、ようやく研究者として学会活動に参加され、研究活動を開始される時期までのお話を伺いました。今回は、その続きということで、黄先生が社会教育研究者としてご活躍をされる1960年代、それ以降の歩みについて、いろいろとお聞ききしたいと思います。少し重複しても結構ですので、よろしくお願いいたします。
黄宗建:まず、韓国の社会教育学会が組織される以前の私の研究活動についてお話したいと思います。1962年に、韓国で初めて教育学のあらゆる分野を包括した「現代教育叢書」が出版されました。この「現代教育叢書」は、16冊の教育関係の本で構成されており、その13冊目の本が「社会教育」という題目の本でした。その本が、韓国で初めて社会教育を取り扱った本でありました。私はこの「現代教育叢書」の、とくに「社会教育」の編集者として依頼をうけ、その編集と執筆の協力をお願いするため、社会教育関係の主要な方を招聘しました。その方々とは、白賢基(中央教育研究所長)、金宗西(ソウル大学教授)、金昇漢(中央日報論説委員)、金恩雨(梨花大学教授)でした。この集まりがきっかけとなり、金宗西、金昇漢、黄宗建が、韓国の社会教育学会とその後の全国社会教育運動を主導することになりました。
聞き手:韓国の教育学会のなかで社会教育研究会が始まったのは、いつ頃でしょうか。
黄宗建:1965年です。ちょうどその年の秋にWCOTP(世界教育団体連合会)が韓国で開かれました。このWCOTPは、韓国で初めておこなわれた国際会議でした。その国際会議では、さまざまな分科会が開かれており、そのなかに成人教育・社会教育がありました。そのことがきっかけとなり、WCOTPの連絡団体として、韓国教育学会の中に社会教育研究会が発足したのです。

<コミュニテイ研究への関心>

聞き手:黄先生が、社会教育を中心のテーマとされる以前に、教育社会学を学んでいらっしゃったことを伺いましたが、教育社会学に関連する本もお書きになったのですね。
黄宗建:1962年に、「教育社会学 −地域社会と教育―」という本を書きました。私の教育社会学の主要なアプローチは、「地域社会」でした。この本は学校の教師を対象に書いたもので、実際的なアプローチは「地域社会における学校」でした。この本は、その後の韓国における教育社会学研究において先駆的なものとしての評価を得てきました。
聞き手:黄先生は、ペスタロッチの研究などのように、社会教育学や教育社会学ではないところから教育学研究に関心をもっていらっしゃったと思いますが、何がきっかけで、コミュニティー研究の方へ興味をおもちになられたのですか。
黄宗建:私の人生観の形成においては、やはりキリスト教の影響が大きいと思います。私は、教育学などといった学問的なことを考える前に、まず、貧しい人、弱い人、助けを求める人たちのために働きたいという思いがありました。それには、幼いときからの人生観などが影響していると思います。だから自然にペスタロッチの影響を受けました。
 私たちが、韓国の大学で勉強するときはまだ教育社会学という分野はありませんでした。朝鮮戦争の後に、カリキュラム・カウンセリング・教育評価といった学問がアメリカから導入されてきましたが、私は、教育哲学と教育史のほうに関心がありました。その時に、ペスタロッチを学ぶことになったのです。その後、私が教育社会学のテーマに出会うきっかけとなったのは、コロンビア大学への留学でした。コロンビア大学では、具体的に「成人教育」というプログラムがあり、また教育社会学という魅力的な講座がありました。留学当初は、教育史などを勉強する予定でしたが、教育社会学のアプローチの重要性を感じ、熱心に勉強しました。当時の学問に対する基礎的なアプローチは、哲学・心理学・社会学でした。そのなかで、私は、社会科学的なアプローチで教育学について研究を進めていくことにしました。
聞き手:当時のアメリカの学者たちのなかで、どういう学者たちから刺激を受けられましたか。
黄宗建:社会教育では、エサート教授、成人心理学では、アウビン教授、教育社会学では、メルビントーマン教授がいらっしゃいまして、私は、その人たちから影響を受けました。そして、アメリカに行かなければ出会うことのなかった学問といえば、モゼルヒル教授の「地域社会学」でした。以前は、農村社会学ということで扱っていた問題をコミュニティー、つまり「地域社会」という立場でまとめたものです。
聞き手:日本でも、同じようにアメリカ社会学の影響をうけ、農村社会学あるいは都市社会学の研究方法や調査手法を活用するかたちで、教育社会学という研究分野が開拓され、一方では社会教育という研究分野も形づくれてきました。1950年代のことです。教育社会学と社会教育学のそれぞれに学会組織が結成されるのは50年代です。しかし初期はともかくとして、1960年代になると、この両方の学会があまりいい形で協力・連携しませんでした。韓国の場合はどうでしたか。
黄宗建:韓国のほうでは、むしろ両方が重複し、混ぜ合わさったような状態でした。その理由として考えられることは、当時は、教育社会学を研究している人が社会教育の研究も同時に扱い、また教育社会学や、社会教育学の概念を理解していない人が多く、この両方を同じようにとらえる人が多かった為であると思います。

<朴政権とセマウル運動>

聞き手:当時の韓国は、政治的に軍事政権であり、特に朴政権下では、非常にきびしい政治的な統制の枠組みがあり、そして北朝鮮との関係もきわめて対抗的なものがありましたので、研究の自由の問題は大変に厳しいものだったと思います。軍事政権下で、黄先生が教育社会学や社会教育学を研究されていく過程で、苦しんだりすることはありませんでしたか。
黄宗建:政府による学問に関する拘束はありませんでした。しかし、その当時、社会学または社会教育学という言葉を使いますと、社会主義と関係が深いと思われることが度々ありました。実際に現われた拘束としては、大学の学科を設立するときに、社会学科が設立されなかったことなどです。約20年以上、大学の中に社会学科がない、哲学科がないという、危機的な教育経営でしたが、教育社会学や社会教育学を研究するということで、拘束を受けるということはありませんでした。
聞き手:韓国の大学の中で社会教育の学科や講座が一番最初に設置されたのは、どの大学でしたか。
黄宗建:当時、社会教育という専攻はありませんでしたが、唯一ソウル大学で、社会教育の講義を陣元重という方が担当されていました。その後に、社会教育の講座が、他の大学でもおこなわれるようになりました。また教育社会学も社会教育と同様に、ソウル大学だけで開設されていましたが、私がアメリカから帰国した以降には、他の大学にも普及していました。
聞き手:朴政権下になって、朴政権の“新しい村”「セマウル運動」政策が推進されますが、この「セマウル」政策と社会教育の研究は、どのように交錯していくのですか。
黄宗建:セマウル運動に対しては、私は少し批判的な見方をしています。まず、セマウル運動が全国的に展開されていく背景について少し説明したいと思います。朴政権の存続をかけた選挙戦で、金大中が名もない状態から野党として選挙に出ました。結果は朴大統領が政権を獲得するわけですが、金大中の得票率は朴正熙が考えていたよりはるかに高かったのです。その後の国会議員選挙では、金大中が率いる野党が優勢になりました。事態を重く見た朴大統領は、戒厳令を敷きました。その批判をそらすべく、朴大統領は、セマウル運動をおこないました。もともとセマウル運動は、朴政権の前から、農業開発部が、イギリスや西洋の地域開発運動のモデルを韓国へ導入したものでした。当時、水原の農科大学の近所に、新生活研究所という新しい村づくりのセンターがありました。この研究所で、訓練を受けた人たちが農村へと派遣され、地域開発運動をおこなっていました。その後、この運動に注目していた朴大統領は、ある長官会議で「新しい村づくり運動」つまりセマウル運動を取り上げ、上から下へと、大規模なセマウル運動の組織を展開させ、セマウル運動推進本部・支部が、わずか1週間の間に全国的に設けられたのです。
 私が考える運動とは、自発的な精神と努力により普及し、展開するものだと思います。たとえば、民主運動などがそうです。しかし、朴政権が推進したセマウル運動は違うものでした。このセマウル運動は、朴政権を延長する目的で行われたものでした。例えば、政府の指示で、農村のわらぶき屋根をスレートの屋根に変え、ペンキを塗らせるというものでした。その改装費は、政府から半額しか支給されませんでした。わらぶき屋根は、夏は涼しく、冬は暖かいもので、とても伝統的で文化的なものだと思いますが、セマウル運動によって、このように短い間に一気にわらぶき屋根はスレートの屋根へと改装されました。外国の人々は、こうして改装された屋根を見て、セマウル運動をすばらしいものだと評価しますが、私はそうは思いません。

<米・英への留学と社会教育研究>

聞き手:その後の韓国社会教育学会、そして社会教育協会が設立されるまでの経過や背景をお聞かせください。
黄宗建:まず、1965年にWCOTP(前述)という国際会議があり、韓国にも社会教育の窓口の必要性が生じ、教育学会の中に社会教育研究会を作ろうという動きになったのは先ほどお話しました。教育学会のなかの社会教育研究会が設立され、私が第1回の会長に就任しました。ちょうどその時、私はアメリカのコロンビア大学で成人教育を学び、帰国しておりました。そのころ成人教育を勉強した人はほとんどいなかったため、私は韓国での社会教育の第一人者として認められ、「社会教育」の本の編集を依頼されたわけです。
 そのころの私を取り巻く環境について少しお話します。1964年に、イギリスのマンチェスター大学に留学し、成人教育学科で授業を受ける機会がありまして、専門的に社会教育を研究しようと思いました。イギリスの社会教育運動、とくに大学の社会教育運動は、イギリスの民主化と近代化において重要な役割をはたしたと思います。私は、労働者教育協会(WEA)の成人教育学級に、毎週1回参加するという経験をもとに、韓国での社会教育を、もっと組織的にしなければならないという考えをもつようになりました。
 そして、帰国後、啓明大学校(大邱)において、1967年に社会教育プログラムをはじめ、71年に正式に、主婦大学講座を開きました。あの時私は、39歳で大学院長を務めたのです。それが契機となり、正式に大邱市からの援助をうけて、社会教育の講座が始まったのです。当時の大学の組織では、社会教育院というのはありませんでしたので、地域社会教育研究所という名前で、大学での社会教育プログラムを実施しました。その名称の由来は、私が書いた「社会教育」という本のなかで、将来の課題として地域社会教育という提案をしたことを受けて、そうのように名付けました。
聞き手:啓明大学校が大学開放を行い、大邱市も行政的な援助をしたということは、当時の韓国では初めての試みだったのですか。
黄宗建:そうです。韓国において初めての大学中心の社会教育活動でした。わたしが英国の影響をうけて、それをもとに社会教育研究所をつくり、それが、研究所兼教育院としての役割を果たしました。また、大学だけではなく、地方都市の浦項でも社会教育プログラムを実行しました。そして、都市だけではなくて農村においても、社会教育プログラムを実施しなければいけないと思い、「アジア財団」からの援助を受けながら、農村に対して社会教育プログラムを広げるために努力しました。
聞き手:
イギリスの場合は、大学開放を行い、労働者と市民の横のつながりを拡げていくために、WEAという組織が活発に動いてきましたが、このWEAの構想を韓国ではお考えになりませんでしたか。
黄宗建:WEAについての考えはありましたが、当時の韓国ではまだ、その能力は備わっていませんでした。私は、もともと農民教育に関心をもっていましたが、農民教育よりも、労働者教育が、急速な盛り上がりを見せていました。そのころ啓明大学校から始まった全国的な社会教育制度の変化に、「アジア財団」が関心をしめし、1971年から、少しずつ援助をもらうようになりました。その援助金は、地方の大学・短期大学に、社会教育プログラムを普及するために使われました。地方大学でも、このような社会教育プログラムに関心がありましたので、仁川の教育大学などと連携しながら、それぞれの大学に対し、援助を行いました。また、私たちの教育社会学の研究にもアジア財団は、大きな役割をはたしたのです。例えば、浦項製鉄の建設を契機に、その地域社会がどのように変化し、そして教育がどのような役割を果たしたかという調査も「アジア財団」の援助により続けることができました。

<韓国社会教育協会・創立への歩み>

聞き手:
韓国社会教育協会をつくられる、直接のきっかけはなんでしたか。
黄宗建:この時期から、YMCAなどの団体や農民系統の社会教育に関するプログラムが韓国各地に現われました。金済泰先生もそのうちの1人で、1972年に「ソウル平生教育院」という老人教育施設を設立しました。また、カナアン農民学校で実施された社会教育プログラムは、歴史も古くとてもすばらしい活動でした。これらの活動は、民間団体の社会教育をモデルにしていましたので、政府主導の社会教育プログラムよりも、より民主的でありました。
聞き手:金済泰先生に、平生教育院の名称の由来と、設立についてお伺いしたいのですが。
金済泰:平生教育院という言葉を使い出したのは、1973年の9月からでした。その前は、社会教育院という言葉を使っていました。ちょうど1973年の8月に、順天で平生教育セミナーがありました。その時に私は、アメリカで使われているLife long educationや日本で使われている生涯教育より、平生教育という言葉に心を惹かれたのです。
 次に、私が、平生教育院を設立させ、そして社会教育協会と関係をもつようになったいきさつについてお話したいと思います。
 私は、韓国語と神学を専門に勉強し、1959年から牧師として教会を担当するようになりました。自分が担当した、監理教会の創設者は、ジョン・ウェスリーというかたでした。ジョン・ウェスリーは、18世紀の経済的にも厳しく、道徳的な面でも混乱していた英国社会の中で、スラム街へ行き、文解(識字)教育をおこなうなどの奉仕活動を行った人です。私は、ジョン・ウェスリーを尊敬し、この人のようになりたいと思い、教会が属している地域の教育の奉仕を自分が担おうと考えました。また、アメリカの黒人の指導者にプコー・ワシントンという人がいました。そのひとは、黒人で、リーカン大統領が黒人解放運動を進めるときに一生懸命勉強して、後にトスキキ大学を設立した人です。トスキキ大学は、黒人に識字教育を施しながら、社会指導者を養成する機能を果たしました。私は、このジョン・ウェスリーやプコー・ワシントンの考え方に影響を受けながら、地域社会奉仕活動を中心に活動しました。
 1965年から社会教育協議会に関わるようになった背景について、少し説明したいと思います。私は、この牙山地域から韓国非正規教育研究会(ノンフォーマル・デュケーション)をつくり、師範学校を中心に勉強会をはじめました。1960年代は、農村から都市へと人口が流動した時期で、農村の青少年たちは、ほとんど産業化の過程のなかでソウルに移動してしまいました。私は、この農村からソウルへと移動した青年たちの教育プログラムを実施しようとソウルへ行き、活動を展開しました。70年にこれまでの韓国非正規教育研究会という名前から韓国社会教育振興会へと改名しました。まず、午前講座をひらき、農村からきた青少年、とくに女子を中心に文解教育と中等教育をおこないました。わたしはソウルで牧師をするかたわら、このような仕事を中心に活動し、72年度からは、ソウル平生教育院へと名称を変更しました。 個人的な考えですが、そのころ婦人や青少年に対する社会教育は行われていたと思いますが、老人に対する社会教育はなかったと思います。そこで、私は、老人に対する教育をおこなう講座を開くことにしました。このような活動をしていた人たちは、全国にたくさんいらっしゃったと思いますが、これまで、社会教育協議会を運営されている人たちと、私たちのような活動家との接点が、ほとんどありませんでした。そのような人たちが、黄先生が指導される韓国社会教育協会をとおしてお互いが横のつながりを持つようになり、共に協力し、情報を提供するようになったのです。また、社会教育活動をおこなってきた活動家たちは、学者の方々とのつながりを深めることにより、自分たちのおこなってきた活動に対して、自負心を持つことができるようになりました。また学者たちは、これまで机の上での研究に明け暮れ、孤立した存在でしたが、この協会を通して、地域社会に目を向けるようになり、学者たちと地域社会を結ぶ役割を果たしました。このような意味でも社会教育協会は、大変重要なものであったと思います。
聞き手:社会教育協会の成立が1976年ですが、これは大邱の啓明大学校を中心におこなわれていたのですか。
黄宗建:そうです。社会教育協会の設立のきっかけとなったのは、「国家発展と社会教育の役割」という題目で、1976年にアジア財団の援助と教育部(文部省)の援助をうけて開かれた、全国セミナーからでした。そのセミナーは啓明大学校で2泊3日の日程で開かれ、講演会や交流会がおこなわれ、教育学者、社会教育関係者、そしてさまざまな団体を招待しました。講演会および交流会は盛り上がり、啓明大学校で宴会も開かれました。そして最後の閉会式の時に、「これで別れるのは、しのびない。このセミナーをきっかけにして、お互いに学びあえる協会を創ろうではないか。」という意見が出され、その結果、社会教育協会が設立されることになりました。社会教育協会の初代会長には、啓明大学校の学長が就任され、私はこの協会の育成に力を注ぎました。
聞き手:韓国の社会教育協会設立のお話をお聞きしましたが、協会の出発として本当にいいスタートを切られたと思います。私(小林)が、1980年に初めて韓国を訪問したときに私をご案内された方が、赤十字事務総長の徐英勲先生でした。そして会場では、YWCA・YMCAなどの、さまざまな民間団体の人たちや、教育部の方、大学の方、そして牧師の方もいらっしゃるというように、ほんとに多彩な方々によって歓迎されたことを覚えています。
黄宗建:私が思うに、社会教育協会の性格は、政府の役人たちや大学の人たちのためだけではなく、さまざまな人々が関わっていかなくてはならないと思っています。この社会教育協会を通して出会った人たちは、本当にいい関係で結ばれています。

<韓国・社会教育法の制定>

聞き手:韓国社会協会と教育部との関係についてお聞かせください。
黄宗建:韓国社会教育協会に対する教育部の干渉は全然ありませんでした。わたしたちが、教育部に対して、社会教育活動に関する援助を要請し、多くはありませんでしたが、毎年援助を受けることができました。もともと韓国の教育部は、社会教育とあまり関係がなかったのです。教育部は、ほとんど学校中心の事業を遂行していました。
聞き手:黄先生は当時、社会教育法制定の研究をなさっており、80年の2月頃、日本にいらっしゃいました。そして私が韓国に招ばれ、日本の社会教育とその法について講演をしましたが、ちょうどその頃、韓国では、朴政権が倒れ、全斗換大統領の政権へ移行する中間の時期でしたが、社会教育法を作られる段階において、時代的な影響はうけましたか。
黄宗建:社会教育法制定の研究は、朴政権のころから、継続していました。日本は1949年に、また台湾では1953年に社会教育法が制定されましたが、韓国で社会教育法を制定すべきだと考えはじめたのは、ちょうど1960年代の頃、そして本格的に社会教育法の法制化に取り組みだしたのは、1970年代後半のことでした。1977年頃から社会教育法制のための研究を教育部から委嘱されて、社会教育法制に関する案を教育部に数多く提出しました。そしてついに1982年の12月に、社会教育法が国会で通過したのです。
 しかし、教育部の事業は学校中心であったため、社会教育の法律があっても、予算などの問題により、実際に活動することができなかったのです。私の提案では、社会教育を推進するためには、韓国にも公民館のような施設を実現しなければならないと考えていました。その提案はもちろん社会教育法の中で提示してありますが、当時は、社会教育に対する予算がなかったため実現されませんでした。また、教育部社会教育局は、体育社会教育局・文化局・職業社会教育局等に名称が次々と変わっていきました。その各局のなかで、社会教育課というものがありましたが、職員も少なく、活動する予算もなかったため、法律があってもうまく進むことはありませんでした。
 わたしが社会教育法成立後の18年間を評価するとすれば、韓国社会教育法は、結局空文化してしまい、中身がないものであったと考えます。社会教育法で、社会教育専門要員(社会教育主事)という規定があり、社会教育をおこなう機関には、社会教育専門要員を置かなければならないという法律があります。大学では、社会教育に関する科目の単位を取れば、社会教育専門要員の資格を受け取ることができるのですが、その受け皿がないという状態です。この資格証は、さまざまな大学でとることができますが、実際にはその証明証を利用する場所がないというのが現実でした。

<アジアの社会教育とASPBAEの活動>

聞き手:つぎに黄先生が70年代に活躍されていたASPBAE(アジア・南太平洋地域成人教育機構)についての話をお聞きしたいのですが…。
黄宗建:ASPBAEに関係するのは77年頃だと思います。1970年にカナダのモントリオールで、大学成人教育国際連盟の会議が開かれました。そのときはじめて社会教育にかかわる国際団体、および大学の社会教育連合会があることがわかりました。私が啓明大学校に在籍していた当時、大学で成人教育の講座を開いていましたので、ぜひ参加したいと思い、参加しました。その後、あの会議でお目にかかったことのある、クリスティックというオーストラリア国立大学の社会教育院所長から、私宛に手紙がきました。そのクリスティックという方は、ASPBAEの事務総長として、ASPBAEを再建するために努力されていたかたです。クリスティックが、「ASPBAE再建のための活動をしたいので、あなたの協力をお願いしたい。」との申し出を私によこし、ソウルを訪れたことがありました。私は、その時にはじめて、ASPBAEというものがあることがわかり、クリスティックと連絡をとりあうことにしました。これが、私とASPBAEの出会いでした。
 その年に、ASPBAE第3地域(リジョン)の会議に出席し、それから毎年ASPBAEに出席するようになりました。1978年には、金宗西先生と一緒に、マニラでの会合に出席しました。そして、翌年の79年には韓国で行うこととなり、日本からは諸岡和房さんと山口真さんが参加されました。その後、韓国では、ASPBAEの会議を3回ほど開催しましたが、その度に教育部から援助をいただくことができました。そして1979年に第3地域の会長に私が要請されました。ASPBAEの全体の会長は、第3地域と第1地域の会長が交代に1年ずつ行うというシステムだったので、私もASPBAE全体の会長をしたことがあります。
聞き手:日本の場合は、韓国のように社会教育関係者とASPBAEとの出会いがスムースではなかったように思います。日本には社会教育連合会という組織があり、文部省関連の性格がつよく、この団体が主としてASPBAEと対応してきたのでしょう。研究者が中心の日本社会教育学会もあれば、実践や運動の関係者を含む社会教育推進全国協議会もありますが、当初は双方ともASPBAEへの積極的な参加 はみられず、むしろ冷ややかな目でみていたところがありました。しかし、ICAE(成人教育国際協議会)への関心も増大し、ASPBAEでは識字問題や女性の社会参画などがアジア・レベルでさかんに取り上げられるようになり、ようやくASPBAEへの関心がたかまり、その役割を評価する研究者も増加してきたのです。    
 ASPBAEへの加盟は1990年代になってからです。わたしが社会教育推進全国協 議会の委員長をしているときにASPBAEに参加することになりました。あいついで日本社会教育学会もICAEAに加盟し、ASPBAEの活動に参加するようになってきました。
黄宗建:残念ながら、90年代の初期にASPBAEの機構が大きく変化しました。役職もインドの人たちを中心に構成され、東アジアの人たちは、少ない人数となってしまいました。ASPBAEは、ドイツの成人教育協会(DVV)から支援をうけてきました。その援助金はもともとドイツ政府の公的資金ですが、そのお金が民間団体を通じて出てくるわけです。つまり財政的な援助が、民間団体のDVVをとおして全世界に送られ、ASPBAEが全体的なプログラムをおこなっていました。
聞き手:日本の場合、ODAなどの対外援助資金はかなりの額になっていますが、教育や文化のほうに目を向けていない。日本は、サミットにも参加し先進諸国として、世界的に期待されているところが大きいのですが、ASPBAEをはじめとして成人教育の国際的な団体に対して貢献がなく、日本に対する批判も出ていると思います。
黄宗建:日本に対する批判は、アジア全体にあります。例えば、東南アジアに対する日本の援助は、学校教育に対して多少あるだけで、社会教育の民間団体や施設に対しての支援は、ほとんどありませんでした。しかし、先ほどもお話しましたが、ドイツでは、政府の公的資金が民間団体を通じて、全世界に援助の手を差しのべており、ドイツに対する各国の評価が高いのです。日本に対して露骨に非難する人は「大戦中に日本は、東亜共栄というスローガンをうちたて、東アジアに進出したが、現在に至るまで、特に社会教育・成人教育に対して何の援助もないではないか」というのです。
 1990年以降、世界的な傾向ですが、国際的な社会教育・成人教育団体の勢力が全体的に弱まっています。イギリスにおいても、政府の社会教育に対する援助削減が問題になっています。ユネスコは、世界の成人教育の発展に大きく貢献していますが、ユネスコの弱点は、政府間の組織であるために、政府からの指示によるプログラムしかできないことです。もっと民間の精神で運営をおこなうことが大切だと思います。

<識字問題と文解教育協会の運動>

聞き手:
それでは、両先生に韓国の文解(識字)教育協会の成立の経過についてお聞きしたいと思います。
黄宗建:私は、1980年代にようやく文解教育に関心をもつようになりましたが、それまでは、韓国の文解教育に対する関心はありませんでした。韓国では、1960年に義務教育の普及率が98%に達したということで、文解教育は発展途上国の問題であるとされ、韓国では重要な問題とは考えられていませんでした。この問題を明らかにしようと思ったのが1985年頃からでした。その具体的動機は、やはり、ユネスコやASPBAE、そしてICAEなどの国際成人教育団体で活動したことです。
 国際的にみると1970年代から、イギリス・アメリカ・フランス・ドイツなども識字教育の問題がとりあげられており、文解教育の概念や基準・方法などに対する考え方が、先進諸国と韓国とでは、違いがあることに気が付きました。そこで、文解教育に関する認識をとらえなおさなくてはいけないと思い、識字・文解教育の概念を再度検討し、1988年には、ソウル・大邱・光州の女性に対して識字調査を行いました。
 あの頃は、識字教育というものは恥ずかしいものと考えらており、非識字者は障害者のように取り扱われていました。これは大変問題があると考えました。彼らは、歴史的な構造の矛盾によって生まれたもので、この人たちが、無能だったわけではなく、ましては障害者でもないのです。ですからイリテラシィを意味するものとして「文盲」という言葉を使ってはいけないと思ったのです。現代社会においても、「コンピューター文盲」というように、いまだに文盲という言葉を使います。欧米諸国の文解教育は韓国人が考えるように、簡単な読み書きができればいいというものではなく、その人が住んでいる社会において、文化的・社会的生活を送る上で、不便を感じないほどの読み書きができて、人々とコミュニケーションを取れるようになることです。つまり、文解教育の目的と方法は、生活全体の問題、すなわち女性の地位向上や平和の問題、そして職業と連携した学習であり、生活に密着したものでないといけないと考えました。私のこの考えはパウロ・フレイレの「意識化と自己解放」から多大な影響を受けたといえます。
 15年前の韓国では、国勢調査によって、国民の識字率を調査していました。そのときの調査は、韓国国内に非識字者がどれくらい存在するかというものでした。その国勢調査の結果、非識字者はいなくなったと判断され、識字率の調査はおこなわれなくなりました。しかし、韓国では文化的に、自分の恥じを表に出さないという気質があります。そのため、「あなたは文盲者ですか」という問いに関して、「私は文盲者である」と答える人は、本当に少なかったと思います。アメリカでは、識字の基準を何千語の単語を実用しているというように、ある程度の基準をもっておこなっているのに対し、韓国では、そのような基準も、また識字に対する哲学もなかったのです。
 そこで私は、文解教育協会を設立しなければならないと思い、全国で識字教育をおこなっている機関との連携を進めるべく、協会を設立するに至りました。その時、約20の識字教育団体を確認することができました。それが1989年のことです。その後の活動の甲斐もあって、識字教育団体・機関は10年後には、300以上の数となりました。
聞き手:日本では、「識字」という言葉を使い、そして韓国では、「文解」という言葉を使っていますが、誰がこの言葉を使い始めたのですか。
黄宗建:この「文解」という言葉を公的に使い出したのは、私たちが設立した文解教育協会でした。「文解」という言葉は、文字解読という字を約したものです。文字の解読であるから「文解」としましたが、私の個人的な考えでは、文化的解放という意味もこの言葉に含まれているわけです。

<これからの歩み、課題>

聞き手:
文解教育協会の母体は、韓国社会教育協会ですか。
黄宗建:そうです。もともと韓国社会教育協会には、女性教育、農民教育、文解教育そして平和教育などの分会がつくられていました。そのなかで文解教育分会が1989年に文解教育協会として独立したのです。ちょうど1990年がユネスコの「国際識字年」とされ、2000年を目標に、全世界の非識字者を無くすという目的で、各国に識字教育関係機関が必要であるという動きがありました。その要求に答えるという意味も含めて、文解教育協会を設立したのです。そして私の構想では、文解教育を継続的に推進しながら、この協会を後に成人教育と関連させて、「成人文解教育」とし、そして文解教育の目標が達成されれば、成人教育協会へと発展させようと考えています。
聞き手:こうした韓国でのご活躍の間にも黄先生は、ベトナムに行かれ、そしてモンゴルとの交流にも努力されていますが、その間の状況についてお聞かせください。
黄宗建:私は、1989年からベトナム、ラオス、モンゴル、そして中央アジア諸国の社会教育および識字教育支援のための活動をしてきました。そのため、ベトナムは10回、モンゴルは6回、そして中央アジアには3回程の旅行をしました。ちょうどその頃私は、ASPBAEの第3地域の会長でしたので、ユネスコの会議にも度々出席していました。ユネスコの会員には、共産国の人たちもいましたが、あの人たちとの出会いは、いつも窮屈なものでした。1985年以前は、お互い顔も見ず、挨拶もしませんでした。しかし、1986年頃には、少しずつ挨拶を交わすようになりました。1988年には、ベトナムの教育次官のミスター・キーと出会いがありました。ミスター・キーは、私に丁寧な挨拶をしながら、お互いに協力していこうという提案をしてきたのです。ASPBAEもベトナムに対して協力していく姿勢をみせ、私がベトナムに訪問することになったのです。
 ベトナムは韓国との交流もないし、飛行機も不便だったので、最初の訪問はソウルから3日程かかりました。まず、タイのバンコクで一泊した後、ベトナム大使館でVISAをもらって、その翌日、バンコクから1週間に2度しか飛ばない飛行機に乗り、ベトナムに向かったのです。モンゴルやカザフスタンに行ったときも、ベトナムと同様に、厳しい道のりでした。北京で一泊した後、カザフスタンに行くときは、カザフスタンの臨時飛行機でウラジオストークへ飛びシベリア経由で、モンゴルに行くときは、モンゴル飛行機でウランバートルまで、やっと行くことができました。
 ベトナムに対して、ASPBAEは、社会教育制度の整備や社会教育のトレーニングなどに使うように、毎年約1万ドルの援助をしました。モンゴルは、1990年に自由化と市場経済の導入により、忘れられようとしているモンゴルの伝統文化とモンゴル文字の復活政策によって、全国的な識字事業が展開されていました。これに応じてASPBAEは、モンゴル教育部の識字教育政策と指導者訓練を支援することになり、その行事を私が援助したのです。
聞き手:たくさんの興味深いことをうかがってきましたが、最後のまとめとして、文解教育協会設立後の10年について、どんな課題をもっておられるか、現在会長であられる金済泰先生にお聞きしたいと思います。
金済泰:韓国文解教育協会の会長の立場として、現在の状況についてお話したいと思います。韓国文解教育協会創設後の数年は、全国にいる学者と各団体が識字に対する関心を示し、学者たちと地域で活動する「現場」の人たちが、お互いに出会うきっかけを作り出したという点で大変意味があったと思います。しかし、だんだんと文解教育に対する必要性を学者たちが、感じなくなってしまい、この文解教育協会から去っていく人たちが増えてきたのです。文解教育協会で学んだ人たちは現在、女性なら女性の問題、労働者なら労働者問題へと問題関心の目線を変えています。私の意見としては、文解教育協会の創立当時の精神をそのまま持ち続けながら、その理念を哲学化して、それぞれの社会教育活動を展開していってほしいと考えています。これからの文解教育協会の役割は、文解教育に含まれる理念の哲学化をおこなうこと、そういう研究を中心に進めていきたいと考えております。
聞き手:貴重なお話を有り難うございました。日本の社会教育の研究と運動にとっても、たいへん教えられることが多い。これまでの歩み、その一筋の「自分史」の証言だけでなく、今後にむけて大事な課題問提起をいただいたように思います。今後とも韓国と日本の社会教育関係者の相互交流を拡げていく必要があります。両先生ともに、ますますお元気で、国をこえて先達としてのご発言を続けていただきたいと願っております。どうも有り難うございました。

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黄宗建博士・略歴と業績

  1929年・ソウル生れ
  韓国・平生(生涯)教育研究所・所長
  韓国・文解教育協会・名誉会長

[略歴]1946 ソウル大学校・師範大学入学、同教育学科進学、大学院修了
    1955 清州大学専任講師
    1957 米国留学(コロンビア大学など)
    1960 成均館大学教授
    1963 中央教育研究所研究員
    1964 英国留学(マンチエスタ−大学)
    1967 啓明大学校教授、同教育大学院長、社会教育研究所長、大学院長など歴任
    1988 明知大学校教授
    1994 定年により退任

*なおこの間、韓国社会教育協会会長(1984〜88)、韓国教育学会副会長(1980〜82)、韓国ユネスコ委員会委員(1988〜)、ASPBAE(アジア南太平洋成人教育機構)第3地域会長(1979〜81)、などの要職を歴任

[表彰]社会教育功労賞(1978)、大韓民国勲章(1981)、ASPBAEアジア地域社会教育功労賞(1985)、国際成人教育協会(ICAE)功労賞、など

[著作]韓国社会教育総覧(1994)、韓国社会教育の構造と現況(1993)、ベトナム改革政策と人力開発教育体制(1994)、教育社会学(1984)、社会教育制度の比較研究(1980)、その他、韓国の青年運動、平生(生涯)教育、文解(識字)教育等に関して多数。

*日本語による論文−「民族の独立と文解教育運動−韓国識字運動の歴史的考察」日本社会教育学会編『国際識字10年と日本の識字問題』学会年報35集(1991)、「韓国社会教育の誕生と足跡」日本社会教育学会紀要 30(1994)(招聘講演)など

[最近の日本訪問]
1995年2〜3月 沖縄訪問、佐賀大学・生涯教育国際セミナー(佐賀、中・韓・日)
1998年5月 鹿児島大学・東アジア生涯教育国際セミナー(鹿児島ー与論ー沖縄)

−1999年現在−






TOAFAECニュース第1号
「東京・沖縄・東アジア・社会教育のひろば」(1995年6月2日)

5,黄宗建さんの沖縄訪問・語録 −1995/2/25〜28−  
                             小林ぶんじん


 <いきさつ>
 黄宗建さん(韓国平生教育研究所長、前明知大学、啓明大学教授)との出会いは前に書いたことがある(「韓国社会教育への旅」東京学芸大学社会教育研究室、1992)。1980年以来の親しい友人だ。1992年久しぶりに韓国を訪問する機会があったが、その時には自ら金浦空港まで出迎えていただき「朋友遠方より来る」と日本語で歓迎してくださった。今回の沖縄行きで黄さんがふらりと福岡空港に降り立った時、私も同じ言葉で出迎えた。
 黄宗建さんの沖縄訪問の計画は次のような経緯から始まった。さかのぼれば、話が長くなって恐縮であるが、私がはじめて訪韓したのは1980年、その当時はまさに沖縄研究に発熱していた(沖縄病と評されていた)頃であった。そのことを黄さんはよく憶えていて、10年あまり経って大阪(第2回日韓社会教育セミナ−)で再会した時にも、まわりの韓国の学者たち(金信一・ソウル大学教授など)に「この人は沖縄研究に熱中している」と紹介してくれた。嬉しかった。そして「小林さん、一度沖縄に行きたい」と言われた。私は「そのうち機会をつくってぜひご一緒いたしましょう」と答えた。

 <韓国社会教育協会のこと>
 1994年の夏、韓国社会教育協会(当時、金信一会長)からの招聘をうけ、私は日本・社会教育推進全国協議会を代表するかたちで協会の年次総会に出席した。光栄にも「住民自治と学習権」をテ−マに講演する機会も与えられた。長老格の黄宗建さん(韓国社会教育協会の創設者といわれる)はもちろん出席されていて、会場の利川・ユネスコ青少年センタ−の庭で四方山話に興じた。
 聞けば黄宗建さんはこの年、94年夏をもって大学を定年退職されるという。私も95年3月に退職だ。ある種の解放感とかすかな孤独感をただよわせておられた感じがする。実は私には黄さんにある種の“恩義”のようなものが残っていた。かって韓国社会教育法策定に先立って開かれた「専門家会議」(1980年、扶余)に、黄さんを中心とする社会教育協会から招待をうけたことがある。私には忘れられない思い出だ。だから、ずいぶん時期おくれのお返しになるが、お互いの定年の年に、こんどは黄さんをお招きして懸案の沖縄訪問を実現しようと思った。そして利川の年次総会の折りに、佐賀大学の上野景三から依頼された「アジア・生涯学習国際セミナ−」(95年3月1〜3日)への出席要請を伝え、黄さんがこれに快諾されたとき、黄博士沖縄訪問計画は始動することになったのである。
 95年正月、私は研究室の学生たちと一緒に沖縄にいた。毎年の恒例の、私の沖縄年始まわりである。そして那覇でも名護でも、夜の交流会の席上で「黄宗建博士・沖縄訪問」の話をした。韓国の代表的な社会教育学者がはじめて訪沖する(私は詳細な履歴・業績の一覧を作成した)、ぜひご協力を、とすこし強引にお願いした。沖縄の皆さんにとっては誰も「黄宗建博士」のことなど知らない。しかし私は確信をもっていた。沖縄と韓国の社会教育関係者のはじめての交流が実現することになるからだ。むしろいままで交流がなかったことの方がおかしい。黄宗建さんの正義の精神と平和への願いは、きっと沖縄の皆さんたちの同じ想いに通じるものがあるに違いない。韓国と沖縄のこの出会いこそ、まさに大事な国際的な交流だ、そう思った。そして佐賀・国際セミナ−の期日に先立って、2月末わずか三日間ではあるが、黄さんの沖縄訪問がようやく実現したのである。

 <黄さんの沖縄日程>
 韓国から沖縄の直行便は週に2回ほど飛んでいるが、やはり予定した日程にうまく合わず、福岡経由からの乗り継ぎ便となった。黄さんはソウルを朝早く発って、那覇に到着したのは午後4時ちかく、やはり韓国から沖縄はまだ遠い。しかし、那覇空港には、沖縄県青年団協議会の面々をはじめ、この旅に同道した鹿児島大学・小林平造、…、文孝淑(一橋大学・院生)、林恵珍(東京学芸大学・院生)、夏鵬翔(同)など(1日おくれで劉栄全・院生も参加)などが出迎え、賑やかな歓迎風景となった。日程は次の通り。
 2月25日 那覇着−首里城、夜は南風平町へ(沖青協OB宅、お子さんの満産祝いに参加)。
        夜は那覇・青年会館泊り。
   26日 午前−南部戦跡へ、韓国人慰霊塔、具志頭村歓迎昼食会(上門道場琉舞)
        午後−黄博士特別講演会(小林基調報告、紹介)、夜・交流会。
   27日 午前−読谷村、波平区公民館、チビチリがま、座喜味城など。
        午後−名護市、市史セミナ−で講演(黄博士、小林)、夜・交流会。
   28日 午前−屋部区(集落)をまわる(比嘉久・案内)、昼食は名護そば。
        午後−那覇、福岡→佐賀(佐賀大学;アジア生涯学習国際セミナ−)へ。 
 講演会も夜の交流会も実に内容のある、盛大な集いとなった。黄さんは楽しげに語り、飲み、そして歌い、愉快に踊られた(名護の交流会)。
 今回の沖縄訪問にあたっては、前記・沖縄県青年団協議会をはじめ、沖縄青年会館、沖縄地域児童文庫連絡協議会、おきなわ社会教育研究会、具志頭村有志、名護市教育委員会等の皆様にさまざまのご協力、ご援助をいただいた。この場をかりて、御礼申しあげる。 

 <黄宗建さん語録>
 
黄さんは誠実、率直なお人柄だ。どこでもあまり遠慮もされず、達者な日本語で話された。文孝淑さんが通訳を引き受けてくれたが、いつも熱情的に語られ、ほとんど一人の独演の趣きであった。そのなかから、印象的な言葉をいくつか紹介しておこう。
・ベトナム、モンゴルなど、これまで世界のほとんどあらゆる地域に行ったが、一番近い沖縄に
 どうして今日まで訪問しなかったのだろう。来るのが遅すぎた。
・「韓国人慰霊塔」(摩文仁)は「朝鮮人」全体の慰霊塔とすべきだ。南だけでなく、北の人たち
 もともに沖縄で死んでいった。
・涙ながれて止まず(ひめゆり平和記念資料館にて)。
・教育・社会教育にたずさわる指導者たちは、まず第一に平和のために努力すべきだ。 
・韓国と沖縄の社会教育の新しい交流を始めよう。






【南の風】1177号(2003年11年28日)ぶんじん日誌
6,山東省烟台日本語学校訪問(2003年11月)

 <黄先生の烟台訪問(ぶ)>
 
…当方(小林と張林新)は11月27日にお待ちします、と伝えたのですが、黄先生は待てない感じで、26日午後の高速バスで烟台に現れました。3時間あまりのバス旅行だった由。学校の日本人教師(工藤君たち)を交えて、思いがけない日・韓・中による歓迎夕食会。食後は自習室の一室で、若い学生たちとの交流も。楽しいひとときでした。
 27日は学校を一まわり。後ろに山、前に海の景観、元気よく(日本語で)挨拶する若者たちの声、家族学校のような雰囲気、黄先生はいたく気に入ったようでした。教室にも参加。
 その後、車で烟台市内を一巡り。経済開発区等のいま急速に発展中(日本企業五百社あまり、韓国企業千社あまり)の様子に驚いた様子。昼食は文化大革命時代を思わせる「社会主義・新農村」。この飯店では「為人民服務」の腕章をまいた紅衛兵のような店員が、客を「同志」と呼び、当時の農村の食生活(野菜・芋・饅頭など)に逆もどりしたような料理で、いささか混乱、しかしなかなか美味でした。
 この間に韓国本のミニ編集会議も。先日の川崎の編集会議で出た方向はすべて金済泰さんに伝えて、交渉が進んでいるとのこと。金さんは川崎からの資料送付(編集会議資料も含めて)を待っている、それをベースに韓国側の執筆体制を整えたい。アメリカの魯在化にはメールを送っているがまだ返事がない、識字教育運動はやはり(金済泰さんでなく)尹福南さんにお願いすることになろう、などなど。
 「タゴール研究」が入手できないままに送付が遅れた経過を説明しておきました。タゴールは次の機会にして、まずは黄先生が託された資料・書籍を金牧師にお送り下さいませんか>伊藤長和さんへお願い。
 烟台はいまにも雪が舞ってきそうな、寒いどんより曇った毎日でしたが、今日はいくぶん寒さも和らぎました。


山東省烟台日本語学校の学生たちに囲まれる黄宗建先生(中央)-20031126- 小林文人・撮影
 




【東アジア社会教育研究】第13号(2008年)
7,海をこえる友情25年、その歩みきし道をいま・・
                −山に眠る黄宗建先生を訪ねて−
                            
 私たちの共編書『韓国の社会教育・生涯学習』(黄・小林・伊藤共編、エイデル研究所、2006年刊)の完成目前に急逝された黄宗建先生(2006年7月20日没)。残された編者・執筆者は、夢想だにしなかったご逝去を悼み、「…その業績を称え、在りし日を偲び、深く頭を垂れて、本書をご霊前に捧げます。」と、新刊本の表紙に書き記した。それから早くも2年が経過している。
 日本で初めて韓国の社会教育・平生学習をテーマに編まれたこの本が、日本各層でよく読まれ、思いがけない評価を得ていることは、天空のどこかにいます黄先生はきっとご承知であるに違いない。晴れた夜、きらきらと星が輝く夜など、そう思って空を見あげたこともあった。しかしこの本を“ご霊前に捧げる”機会はなく、日韓の若い研究者たち30余名が心を通わせあって創り出した共同成果を直接ご報告できなかった2年の歳月はつらいものがあった。
 別稿の伊藤長和氏(共編者)が経過を記しているように、金済泰牧師のご案内によって、2年目のご命日の2日後(2008年7月22日)、ようやく先生が眠る緑の山にお参りすることができた。その名が刻まれている松の木の根に、大好きだった琉球のヤチムン杯を据え、かってともに酌み交わした銘酒を献じたとき、ようやく2年越しの宿願を果たすことが出来たと思った。この日、山は雨、天から降ってくる涙のようにも思われた。
 ご霊前には、共編『韓国の社会教育・生涯学習』とともに、先生の追悼号となった『東アジア社会教育研究』第11号(2006年、TOAFAEC発行)も供えられた。ご逝去後わずか2ヶ月で急遽編集し発行された年報であった。先生にご縁があるもの8名が追悼の文を献じ、「黄宗建博士の略歴と業績」(肥後耕生)も収録されている。私は「東アジア社会教育の先達」として先生を偲び、1980年に始まる二人の出会い、日韓社会教育セミナーのこと、沖縄への訪問、新本編集の取り組の経過などを書いている。日本社会教育学会やTOAFAEC研究年報(たとえば「黄宗建・自分史を語る」第4号、第5号、1999〜2000年)に収録されている関連の諸論稿・記録等のことも記している。またTOAFAECホームページには「黄宗建先生追悼のページ」を掲載、自ら語られた「自分史」「略歴・業績一覧」は、この追悼サイトにも収録している。
 
 当日の雨の中、金済泰牧師は、黄先生の壮年時代のお元気な横顔と、こぼれるような笑顔の写真を用意され松の木に飾られた。夏の雨のしずくがそれらを濡らして悲しかった。
 私たちのアルバムに残されている先生の写真は、どれも魅力的である。お人柄がそうであったように、多くの人の心を包み込むような写真が多かった。私は、上掲・第11号に「…この追悼サイトに挿入している写真は、いずれも表情豊かに、楽しく、歌っておられる写真ばかり。」と書いている。写真を見るだけで先生の歌声が聞こえてくる。いまそのなかの1枚を書斎にも飾っている。
 しかし、楽しく歌い、素敵な笑顔の写真とともに、深く物思いに沈み孤独感ただよう表情も強く思い出に残っている。追悼サイトには、そんな1枚をあえて掲載している。2003年11月、中国山東省・烟台の日本語学校(名誉校長・小林)にお出でいただいたとき、学校関係者で歓迎会を催し、上記「韓国」本の編集を含めて、これからのことを語りあった一夜があったが、その翌朝のスナップは淋しげであった。当時、先生は中国在住、同じ山東省(ウエイバン)の紡績職業大学で指導(韓国語学科)にあたられていた。この一両日のことは「南の風」1176〜77号「黄先生、烟台滞在」に短く書いている。
 先生は2006年春に中国で体調をこわされ、急遽ソウルに帰国、わずか1ヶ月余で亡くなられた。その晩年のことを今回、山から帰る車中で、金済泰牧師にお聞きすることができた。韓国社会教育・平生教育の偉大なる指導者、あの賑やかな黄先生が、異郷の地でさびしく病床に臥されたことは何とも残念なことであったが、金牧師を含め少なからぬ方々の友情あふれる配慮があったことを知り、心安らぐものがあり、ほっと胸をなでおろした。

 先生との出会いから30年近くが経っている。とくに後半の15年、いろんな機会にたくさんのお話を聞いてきた。たとえば沖縄訪問の折々、あるいは自分史証言の聞き取り、とくに烟台にお泊りの夜など。ひそかに「黄宗建語録」として温めてきた。一緒に本をつくろう、若い人を大事にしよう、韓国と日本の真の友好とは何か、東アジアの視点にたつ研究交流を進めなさい、韓・中・日に拡がる友情のネットワークを、ともに肩を組み歌をうたいたい、平和こそともにめざす道だ・・・、と思い出せばきりがない。
 黄先生が説いたその道を、これからも歩みつづけていきたい。期待に応えきれないけれど、後進の一人として、努力していきたい、と山を下りながら考えていた。
 黄宗建先生は、金済泰さんなど良き友をもたれた。私も、海をこえて先生との出会いに恵まれ、その幸せをしみじみと思いおこしていた。

付記:「南の風」2065号(2008年7月25日)ぶ日誌欄
 当日、降る雨は黄先生を悼む天の涙、私たちの心を洗い、想いは胸に深く刻まれて、忘れることができない1日となりました。ご案内は親友の金済泰牧師、一行8名。ノートのすみに書き留めた拙い歌を記録としていくつか掲げさせていただきます。
◇雨しとど清州の山濡れそぼつ 亡き人眠る松を探しぬ   −7月22日、昼−
◇“黄宗建”三度叫びぬ声かぎり 雨に消されて木霊(こだま)返らず 
   −松を囲み、天に向かって
◇老友の眠りたまえる松の根にそそぐ樽酒、やんばるの杯−日韓の銘酒、名護の古我知焼
◇歌を愛せし在りし日偲び合唱す“夕焼け小焼け”と沖縄の“花” −あの歌声が聞こえる−
◇二歳(ふたとせ)過ぎようやく捧ぐ追悼の ページを濡らす夏雨悲し
   −「日本の社会教育・生涯学習」と「東アジア」第11号−
◇先達の歩みし道の厳しさを聞く若き瞳(め)に未来を見たり −帰りの車中、金牧師は語る
◇自らの誇り貫く生きざまは多くの語録残し給えり −愛を説き、正義に生きて−
◇天空に星は輝き緑なす里に人群れマウルの学校 −その夜、公州(忠南教育研究所)の集い


黄先生が眠る松樹、左・3人目に金済泰牧師、右端は肥後耕生さん (20080722)

黄宗建先生・三回忌、黄先生の松を囲んで (李揆仙さん撮影、20090728)





8,肥後耕生著「『黄宗建と韓国社会教育の歴史』(韓国:学而時習、2013)


8−1,李正連(東京大学) 南の風3082号(2013年5月8日)
 … 今日はすばらしい本をご紹介したくご連絡させていただきました。現在韓国の公州大学韓国農村教育研究センターで研究教授として働いている肥後耕生さんのご著書が最近韓国で出版されました。おめでとうございます! 『黄宗建と韓国社会教育の歴史』(韓国:学而時習、2013)
http://112.216.21.50:9090/sns/mailContent.jsp?campaignID=372
 上記のサイトにアクセスすれば、出版社が著者の肥後さんにインタビューを行った文章(ハングル)が見られます。ちなみに、私は出版社から送られてきたメール(同サイト紹介)で肥後さんの著書が出版されたことを知りました。あまりにも嬉しかったので、皆さんに早くご紹介したくご連絡させていただきました。(肥後さん、先に紹介してすみません!)
 同書についての詳しい内容は著者である肥後さんから直接(きっと)ご紹介があるかと思いますが(楽しみにいます!)、簡単にご紹介しますと、同書は、解放後(戦後)の韓国社会教育・平生教育研究の第1世代である黄宗建先生についての研究を通して、韓国の社会教育・平生教育の展開過程を明らかにしている本です。このような研究を韓国平生教育学界において外国人(日本人)研究者が行い、それが本として出版されたということは大変画期的なことであり、韓国平生教育学界に与える影響も大きいのではないかと思います。
 肥後さん、本当におめでとうございます!そして、本当にお疲れ様でした!

8−2
,小林文人(南の風3082号、2013年5月8日)
 ≪快挙とはこのこと!≫
 昨夜(5月7日)深更、思いがけない朗報が李正連さん(東京大学)から舞い込みました(上掲)。「肥後耕生さんのご著書…皆さんに早くご紹介したい」と李さん。当方も同じ気持になって、本欄を急ぎ書き始めました。
 故黄宗建先生の研究を通して韓国の社会教育・平生教育の展開過程を明らかにしている本とのこと。おそらくドクター論文が基礎になっていることでしょう。肥後さん、待望の出版、まことにおめでとうございます。快挙とはまさにこのこと!
 黄先生が晩年、「私のことを日本の若者が研究テーマに取り上げてくれる、こんなに嬉しいことはない」と話されたときの、あの笑顔をいま思い出しています。追悼サイトの冒頭に掲げている写真(烟台、2003)のような笑顔。
 私と黄先生との出会いは1980年(東京、扶余、大邱)。そして1990年代以降は、大阪、ソウル、水原、鹿児島、沖縄、光州、烟台など、いろんなところでお会いしてきました。最後となった共編の本づくり(『韓国の社会教育・生涯学習』エイデル研究所、2006年)。刊行の直前に急逝されたのでした。公州大学・ヤンビョンチャンさんの車でお墓参りに行った思い出(2008〜09年)も切ない。今回の出版は、黄先生も(あの松風のなかで)きっとお喜びと思います。たまたま肥後さん・李さんが一緒に写っている写真がありましたので、下に掲げます。
第49回全国集会(阿智村)、左より2人目に梁炳賛、右より二人目に肥後耕生、3人目に李正連、の皆さん(20090822)


8−3
,肥後耕生(韓国 公州大学校 韓国農村教育研究センター(KoREC) *関連写真(20)■
                    南の風3083号(2013年5月9日)
 …「南の風」(3082号)にて、李正連さんよりご紹介していただいたとおり、著書『黄宗建と韓国社会教育の歴史』をこの度出版いたしました。早い段階でお知らせできず、申しわけございませんでした。
 2009年6月に出版社・学而時習より出版のお話をいただき、その年の冬に出版を予定しておりましたが時間ばかり過ぎ、約4年の月日を経てようやく出版となりました。出版社・学而時習の企画であります平生教育歴史研究シリーズの一作として出版を計画したもので、そのシリーズには、李正連さんも『韓国社会教育の起源と展開』(2010年9月)を出版されております。
 『黄宗建と韓国社会教育の歴史』は、博士論文『黄宗建の社会教育理論と実践研究』(韓国・中央大学校)を再構成したものです。本文は7部18章で構成しており、付録として「黄宗建の生涯」、「黄宗建の業績」、解放後の韓国社会、社会教育・平生教育の出来事と黄宗建の生涯及び業績を年ごとに整理した「解放後黄宗建年譜」などを加えております。解放後の韓国社会教育・平生教育の展開過程を黄宗建という一人の人物の生涯を通じて浮き彫りにさせようと試みたものであり、黄宗建の学問意識の変化や生活の変化などの転換点に着目しながら彼の生涯を修学期、研究期、海外実践期、そして展望期という4つの時期に区分し、彼の学問形成過程と実践を、社会的背景や社会教育・平生教育の実態とともに探っております。
 私の黄宗建先生との出会いは、1997年12月(当時、学部1年)に鹿児島大学と韓国・全北大学校(全州市)との交流が行われた際、ソウルにてお会いしたのが初めてでありました。そのときの黄先生の笑顔、一緒に「ふるさと」などを歌ったことなど思い出します。
 翌年には、鹿児島大学で開催された「東アジア社会教育シンポジウム」にて黄宗建先生と再会し、この時に私は文人先生との出会いもありました。与論、沖縄への旅も同行させていただきました。その後、小林平造先生のご指導の下、全北大学校への交換留学、「平生教育法」の翻訳や各年の『平生教育白書』の一部を翻訳し『東アジア社会教育研究』に掲載する取り組みを通じ、また『東アジア社会教育研究』を読み韓国社会教育に関心を持ち、こうしたことが契機となり黄宗建研究を始め、今回出版にまで至りました。まだ本が手元に届いておらず、どのように出来上がってくるのか楽しみです。これを機に、さらなる研究を続けたいと思います。

新刊『黄宗建と韓国社会教育の歴史』を手に肥後耕生(左)、瀬川理恵(右)のお二人(130523)




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