じんぶんヒストリー・記録◆(その1)       TOP
 
(2018年7月〜 2021年9月,第1回〜第6回     
 第7回(2022年〜)以降・次ページ→■ 関連・研究史ノート→■



(2018年7月27日、高井戸)

<目次>
1, 少年Bが米寿を迎えるまで (2018/7/7)
2,少年Bから青年Bへ:時代の転換点に考えたこと
 (2019/1/25)
3,研究者を目ざす青年B・その源にあったもの(2019/7/26)
4,社会教育・公民館研究への登場(2020/5/29)
5,沖縄研究への道、沖縄からの提起(2021/3/26)
6,
学芸大学・社会教育研究室物語(2021/9/→第7回(次ページ)


(1)2018・
7月定例(第252回)研究会・記録
          *江頭晃子(Mon, 9 Jul 2018 21:19)

 <第252回(7月定例)研究会 じんぶんヒストリー(第1回)ご案内>
 昨年秋の急な入院、2回の大手術を経て、杖は持ちつつも訪沖されるまでお元気に復活された文人先生。これまで、先生の頭の中には、次から次へと、これからやるべきこと・作るべき本などが、頭の中にいっぱいのようです。しかし、ご自身のヒストリーを断片的に聞くことはあっても、まとめて伺う機会はありませんでした。
 「年寄りの自慢話になるのは嫌」と拒否する先生を何とか説き伏せ、TOAFAEC 定例会で年2回程度、「じんぶんヒストリー」を開催いたします。毎回テーマを設定し(例えば社会教育法制論、沖縄研究、東アジア研究、公民館をめぐる論議、社全協や月刊編集長・学会での経験、大学闘争、自治体研究などなど)、そのテーマについて聞きたい人をインタビュアーとして開催します。文人先生のライフヒストリーを通して、戦後日本の社会教育史を紐解いていきます。
 今回は記念すべき第1回目ということで、少年Bから現在に至るまでの、まさにライフヒストリーを話していただきます。
 また、この「じんぶんヒストリー」プロジェクトのメンバーを募集中。それぞれの聞きたいテーマのインタビュアー、テープおこし、プロジェクトへのアドバイスなど、多くの皆様の「じんぶん」を拝借させていただきながら、すすめていきたいと思いますので、ご協力・ご参加をお待ちしています! 文人先生を知らない人の参加も大歓迎です。
【参考】「じんぶん」とは、「うちなーぐち」(沖縄方言)で、知恵・才覚などの意。日常的によく使われます。語源は「人文」か(中村誠司さん説)。2002年の社会教育研究全国集会(第42回)名護集会の大会テーマは、「じんぶん寄せあって21世紀の自治・文化・地域社会を創ろう!」でした。
じんぶんヒストリー(第1回), TOAFAEC第252回(7月定例)研究会
・日時:7月27日(金)19:00〜20:50
・内容:「少年Bが米寿を迎えるまで 
・話し手:小林文人先生
・インタビュアー:江頭晃子(アンティ多摩)
・会場:杉並区高井戸地域区民センター第3集会室
     〒168−0072杉並区高井戸東3−7−5 TEL 03−3331−7841
     *京王井の頭線「高井戸」駅下車3分(環八を渡ってすぐ)
・終了後(21:00〜)懇親会 「イーストビレッジ」 03-5346-2077
・プロジェクト連絡先 ringox@nifty.com(えとう)
左・ぶんじん、右(司会)江頭晃子 (高井戸、20180727)


■報告
 栗山 究(Sun, 29 Jul 2018 11:15)
 <じんぶんヒストリー(1) TOAFAEC7月(第252回)定例会報告>
テーマ:少年Bが米寿を迎えるまで 〜個人的社会教育概史〜
参加者(敬称略):李正連、江頭晃子、呉世蓮、小田切督剛、金亨善、小宮(杉並区民)、栗山究、小林文人、・(セン)瞻、田邊伸子、持田(中村)津希子、山口真理子、山本秀樹、林忠賢
内容(報告者:小林文人先生):江頭さんの呼びかけから始まった「じんぶんヒストリー」プロジェクト。とても楽しみに参加させていただきました。第1回目は、「じんぶんねんぴょう」に即し「少年B」が現在に至るまでの大枠を、お話いただいた内容でした。
 時代区分は、@少年Bが旧制中学に入るまでの戦前・戦中期。A戦後〜1950年代、20代の青年Bが、学生時代の葛藤と研究、紆余曲折を経る時代。九州農村の調査を数多く手がける。B1960年代大きく農村・地域が変わり、九州大学を離れ、育英会時代の麻生誠さん(昨年逝去)との出会い、九州産業大(社会学担当)での500人の大講義、東京学芸大学では教育社会学担当の教員となる時代。C70年代の自治体・公民館研究とくに三多摩をフィールドに社会教育研究に移行していく、学生運動から刺激を受ける時代。D1980年代(50代)、学生部長・図書館長(管理職)就任により、東京・三多摩の社会教育のつながりは薄れるが、「沖縄」研究が拡がり、研究室に東アジアの留学生が増えていく時代。E1995年以降、冷戦終結・グローバル化を背景に中国・韓国・台湾へ渡る機会が増えて、TOAFAEC が創設され、留学生をブリッジに東アジア研究が本格化する時代。学芸大学を退職し和光大学に移り自由に海外を動けるようになり、PC通信「南の風」発行が始まる。公民館学会創設に参加し、辞典編集や中国・韓国に関わる出版が実現する(70歳代)。Fそして2010年から現在…。
 それぞれの局面で、期待どおりの語りとともに、更なる発見も数々あり、温かな雰囲気のなか参加者一人ひとりが、一緒にわくわくどきどきしながら、「少年B」のお話しに耳を傾け、意見交換しあった2時間+懇親会でした。参加された皆さんからは、例えば、戦中・戦後期の「少年B」や福岡時代の公民館との出会いに関するお話をもっと掘りさげて聞きたかったという声、現在に至る留学生とのコミュニティが生み出されてくる経過、アメリカ都市社会学の定説や方法に対する批判的意識についてなど、今後も掘り下げてお聞きしていきたい内容をさまざま挙げていただき「また次回以降の機会に」ということになりました。
 特に30代・40代、研究者として社会で働かれ始めている皆さんにとっては、自らの年齢と重ね合わせて文人先生の歩まれてこられた道を確認していらしたことが共通していたことも、興味深い点でした。文人先生が「社会教育」へと本格的に向きあっていったのが40歳を前後とする年代であったことも意外でした。先生自身も自認されていましたが、現在の私たちが目にしている様々な成果、残されているお仕事の大半は60歳を超えた頃,むしろ定年後であったということも、勇気づけられながら受けとめられていたように思います。
 年表を作った江頭さんからは、学生部長期の困難な局面のなかでも図書館の新人事や博物館学を開設され、大学の中で社会教育を拡げられていったことの紹介もあり、若き先生と時代をご一緒された学芸大学の先輩の方の感想からもさまざまな視点を学ばせていただく機会となりました。ぜひまた参加していきたいと思います。
懇親会(イーストビレッジ、20180727)


≪じんぶんヒストリー(1)終わる  南の風3965号【 7月30日】
 沖縄・名護では「じんぶん」(人文)という言葉がよく使われるという話から、江頭晃子さんは「じんぶんヒストリー」を造語し、「ぶんじん」に「個人的社会教育概史」の話を求めてきました。忙しい中、詳細な年表も用意していただき、ご苦労さまでした。なにしろ「少年Bが米寿を迎えるまで」のタイトル。短い時間に86年をどう語るか、詳しい話はいずれ次の機会とし、大まかにこれまでを振り返って、特徴的なことを回想風に雑然と語ることになりました(7月27日、252定例研究会)。猛暑の夜、雑駁な話を聞いて下さった皆様、まことに有難うございました。
 栗山究さんからは早速に「参加記・感想」をお寄せいただき、感謝。江頭さんから転送されてきましたので有難く定例会の記録として掲載させていただきました。前半の時期区分のところ、誤解があってもいけませんので、少し補足、ご了承を。また韓国研究フォーラム・小田切督剛さんメールにも当夜の感想が記されていました。例によって本人の了承もなく(きっと許してくれるに違いないと)上掲させていただきました。他にも感想をいただきましたが、「私信」とありましたので、これは控えましたが。
 李正連さんや呉世蓮さんから写真をたくさん送っていただき、ありがとうございました。久しぶりに「ぶんじん」(左)が神妙にお話しさせてもらっている場面(司会・江頭さん)をまず1枚を本欄ホームページにアップしました(下掲)。懇親会の集合写真はいずれそのうちに。当日のテーマにいちばん近いHP「研究史ノート」ページには「ぶんじん」一人だけの写真。(多分、李正連さん撮影) →■http://www.bunjin-k.net/kenkyusi2012.htm 
 少々入院疲れの長髪の横顔。いまこの長髪を以前のように短くするか、この機会に長髪姿に変貌していくか、と思案中の1枚でもあります。率直な感想・助言をお願いします。

当日・配布資料・ぶんじん年表(江頭晃子さん作成)




(2)第2回じんぶんヒストリー 2019・1月定例(第258回)研究会ご案内
      (江頭晃子、Thu, 10 Jan 2019 23:51)

 <第258回(1月定例)研究会 
じんぶんヒストリー(第2回) ご案内>
 昨年7月に開催した「じんぶんヒストリー」第1回では、少年Bが現在に至るまでの時代を大きく7つに分けて、駆け足で全体を話していただきました。参加者からの次回のリクエストは、やはり若き日の少年Bの話をまずは聞きたいとのことで、第2回目の今回は、@少年Bが旧制中学に入るまでの戦前・戦中期。A戦後〜1950年代、20代の青年Bが、学生時代の葛藤と研究、紆余曲折を経る時代を中心に話していただこうと思います。
 遡ること88年、満州事変の直後に生を受け、15年戦争中に育った少年Bは当時のエリートコースであった熊本の「陸軍幼年学校」への入学を夢見る軍国少年でした、…が、しかし…。戦中から戦後へ。九州大学にすすんだ青年Bは九州各地の農漁村に入り込み、多くの調査を手がけていきます。そう、誰もが、文人先生の地域へのこだわりや視点は、その時代にあるのでは!と思う部分です。
 時代や人、地域、さまざまな出会いが、どのように少年から青年Bをつくっていったのか、参加者皆様からの疑問・質問を交えながら、ご一緒にひも解いていきたいと思います。今年初めての定例会、初めての方もどうぞお気軽にご参加ください。
じんぶんヒストリー(第2回), TOAFAEC第258回(1月定例)研究会
・日時:2019年1月25日(金)19:00〜20:50(開場18:50)
・テーマ:少年Bから青年Bへ:時代の転換点に考えたこと 
・話し手:小林文人先生
・インタビュアー:江頭晃子(アンティ多摩)
・会場:杉並区高井戸地域区民センター第5集会室
     〒168−0072杉並区高井戸東3−7−5 TEL 03−3331−7841
     *京王井の頭線「高井戸」駅下車3分(環八を渡ってすぐ)
・定例会参加:無料
・終了後(21:00〜)懇親会(自由参加・飲食代実費)会場「イーストビレッジ」
・じんぶんHプロジェクト:ringox@nifty.com(えとう)

2019年1月定例研究会、ぶんじん報告(高井戸、20190125、堀尾先生提供)


報告 (小田切督剛、Sun, 27 Jan 2019 11:43)
参加者:上田孝典、江頭晃子、遠藤輝喜(2次会)、小田切督剛、小林文人、武田拡明、堀尾正靱、
      持田(中村)津希子、( )、山口真理子−敬称略
内容:
 江頭さんの呼びかけから始まった「じんぶんヒストリー」。2018年7月に続く2回目です。文人先生のレジメや江頭さんの資料も、1回目を踏まえ入念に準備されたものでした。 
 1931年の出生から、地域調査・農村社会学を経て、研究者としての姿勢を固めた1960年前後までの約30年をお話しいただきました。この30年における「2つの大きな転換点」として、1945年の「戦争から戦後へ」の転換と、1950〜60年代の全国での「地域の地滑り的変動」「地域共同体の崩壊」を挙げられました。
 第一の転換点である「戦争から戦後へ」については、主に3つのエピソード。
1 学校(旧制中学)での軍事教練、評価が悪いと「成績すべてに響く」と言われる中で、軍人勅諭や、銃の訓練・組立なども覚え、エリート養成・出世コースだった陸軍幼年学校への進学に憧れたこと。「戦時中の神がかり的な教育の重みは、忘れることはできない。圧倒的な国家統制の教育の実態は、到底言葉で言い尽くせない」。
2 陸軍需品廠に勤労動員された時に、少し上の青年世代の朝鮮人労働者たちが、せまい「飯場」に押し込められ、ともに激しい軍労働に従事させられたこと。アリランを教わったりトラジを聴いたりとわずかながら交流もあり、少年なりに植民地支配の実態が少しわかる感じがある。
3 軍需工場を守るための強制疎開として、自分たちの家が軍隊により引き倒され、美しい庭も滅茶苦茶にされ、祖父が落胆して亡くなっていったこと。赤いレンガ蔵だけが残った。少年Bには「軍国少年」であり、また「戦争や軍隊への憤り」という両面があった。
 陸軍幼年学校に進学した同級生たちは、終戦後に帰郷してくるが、戦後適応できずに虚脱感などから自殺に追い込まれた方もあったそうです。しかし少年Bにとって戦後はむしろ「教科書もなく、非常に混乱していたが面白い時代」だったとのこと。「男女共学も始まり、旧制・中学明善(めいぜん)が久留米高女と同じ新制高校となり、すごく感激した」や、「『文ちゃん、大学行ったのかァ?!』と旧友に驚かれるほど、本を読まず受験勉強もしない子だった」との話に何度も爆笑しました。
 質疑応答では、堀尾さんと武田さんから戦時中の国家統制について、持田さんと森田さんから朝鮮人労働者について質問が相次ぎました。「徴用工問題も、その歴史体験から見る。韓国の人たちにとっては『植民地支配の歴史そして日本人をどう見るのか』という問題なのだろう」と。
 第二の転換点である高度経済成長、「地域共同体の崩壊」については、主に3つのエピソード。
 1 かつてはどの地域にも青年団や娘組など年序の組織があり、地域の祭があった。柳田国男が『こども風土記』(1941年)で紹介しているように、地域の子どもには子どもの自治が認められ、役割があった。6年生がカシラになって仕切り、徹夜して遊ぶ「観音さんのよど」などを自分も経験してきた(「よど」は、筑前中・南部、筑後にかけて夏に行われる神仏の宵祭り)。「子どもたちは(家庭・学校だけでなく)地域で生まれ、地域で育つ」という重層的な構造があった。
 2 しかし1950年代後半より、巨大な高度成長政策に流されて農村が大きく変貌した。地域の共同生活の自治や、地域の祭、昔語りやわらべ歌まで全国で壊れていく。この時期、九州各地の農漁村に入り、変貌する地域の状況を調査した。1人ではなく研究室メンバー4〜5人で調査するため、他に場所がなくお寺の本堂に寝泊りした(佐賀県名尾)。一番面白かったのは漁村調査(熊本県天草)だった。調査のためにお酒やタバコも覚えた(笑)。
 3 地域の共同体組織や価値が解体していく過程で、九州農漁村のインテンシブな実態調査にたずさわったことになる。その後、1970年代後半から中心テーマとした沖縄調査では集落の自治・共同を再生しながら米軍基地問題に対峙した沖縄の地域共同体(字、しま)に魅かれることになる。あれほどの戦争を経験しながら、なぜ字共同体が村おこし拠点として生きてきたのか。地域共同体の現代的な機能・意義を沖縄に発見することになる。本土では戦時中の地域統制的組織とされた「隣組」が、沖縄(とくに中部)では子どもをまもる共同体「教育隣組」として展開を見せることになる。
 質疑応答では、上田さんから1957年の修士論文「都市における近隣集団の教育的機能−久留米市暁住宅調査」について質問、さすが研究者です。「暁住宅は旧兵舎に引揚者や戦災者向けの住宅を作ったもので、生活保護や母子家庭も多かった。地域の有志が子ども会活動を始めたが、青年Bの父がその地域の校長だった関係もあり、九州大学から2〜3人入り、2年ほど勉強会などをした。近隣集団(ネイバーフッド)は都市で壊れていくという定説があるが、都市でもいくつかの条件があれば独特に教育的機能が形成されていくのではないか、と課題提起。地域の教育的機能については、佐賀農村の「年令階梯組織とその教育的機能」(1963年)をまとめているが、その過程で青年団や婦人会、そして地域の公民館と出会った」とのこと。
 「論文は客観的に書かねばならない。社会学的な社会構造分析だけでは、人間的な形成の過程や主体としての営みが背景に退く傾向があり、『もう少し人間への着目を』という思いが、1960年代以降の社会教育研究の道に進ませることになるとのことで、3回目からの「じんぶんヒストリー」が、今から楽しみです。
 終了後は、「イーストビレッジ」へ。文人先生「店の前の歩道が広くなりましたね」と声をかけると、マスター夫妻も「これまでは、階段で落ちる人もけっこういたからね〜」と笑顔。激務を終えた遠藤輝喜さんも駆けつけ、みんなで「イーストビレッジ」に乾杯しました。お話にあった強制疎開や道路拡張工事から守った、久留米・実家の赤いレンガ蔵が最近ついに壊されたとのことで、文人先生は「ひと段落したという思い」とビールを何度もお代わり。私たち研究会の2019年の活躍を期して、お開きとなりました。

■激動の青春(南の風4021号・1月31日、ぶ)

 あらためて御礼、先日(25日夜)1月定例研究会、寒い夜、ご参加の皆さま、ご苦労さまでした。当夜は、今年最初の研究会、思いももかけぬ人が参加してびっくり。早速に小田切督剛さんより詳細・長文の報告を送っていただきました(27日・昼、上掲)。有難うございました。別にどなたからか感想など来るかもしれないとお待ちしたのが本号配信が少し遅くなった理由です。空いているスペースには、当日配布した「ぶんじんレジメ」を転載することにしました。ご覧ください。
 当日のテーマは「少年Bから青年Bへ」、約30年余りの歳月、(60年前を)想い出しながら、激動(戦争と戦後、1960年代高度経済成長と地域「地すべり」的変貌)の歩みを少しお話しました。もともと研究者の道を志したのではなく、しかし成り行きのなかで、いつの間にか大学院へ戻り、社会学の世界で村落調査に従事するうちに大学に籍をおくようになりました。今回は、社会教育研究の世界に入るまでの歩みをお話しする結果に。学生運動などにはほとんど触れることなく反省も残っています。いずれ次の機会に。

◆当日配布資料
:じんぶんヒストリー(2),TOAFAEC第258回(1月定例)研究会・レジメ
テーマ:少年Bから青年Bへ:時代の転換点に考えたこと・
話し手:小林文人 インタビュアー:江頭晃子
・生い立ち・略歴(1)
 1931年11月 福岡県久留米市(筑後)に出生(6人弟妹の長男)
 1938〜43年 荘島尋常小学校(国民学校)在学
 1944年(旧制)福岡県立中学明善校入学 1950年 (新制) 明善高等学校卒業
*国家総動員体制、戦時統制下の少年、中学明善校1年(軍事教育)
 2年(勤労動員−陸軍需品廠) 
*「自分史」メモ(南の風・記事など)→http://www.bunjin-k.net/jibunsi.htm
  「軍国少年」と戦争・軍隊への憤り(強制疎開) 赤いレンガ蔵
1、戦後混乱、解放感、憲法・民主主義の唱導、新学制・教育改革
 戦災、飢餓感、買い出し、物不足(戦後一時期・はだしで歩いていた)
 バレー(九人制)部、(1946〜1950〜1952)
 受験戦争(パス、進学適性検査)
2、 略歴(2)1950年・九州大学教養部(文科)入学、52年・教育学部進学
*新制大学(陸軍歩兵連隊あと校舎―九州大学第三分校)
 1954年・九州大学教育学部卒業、久留米市立教育研究所(1年)所員、
 1955年・九州大学大学院(教育学研究科)修士課程・教育社会学専攻
*修士論文「都市における近隣集団の教育的機能−久留米市暁住宅調査」(1957)
 1957年・博士課程進学 58年秋に九州大学教育学部助手(文部教官)へ
 1960年 日本社会教育学会第7回大会(九州大学)12月 坂口富美と結婚        
 1961年3月、九州大学退職、東京へ・日本育英会(専門員室)へ就職
3、学生運動、うたごえ運動。教育科学研究会(雑誌「教育」)、山びこ学校・生活綴り方運動 
*卒業論文「アメリカにおける社会科の発展」、教育学研究への懐疑・失望
4、農村社会学・地域調査(九州大学文学部・社会学ゼミ)*喜多野清一教授
  調査地点・・・佐賀県名尾地区・本庄地区、大分県上津江郡雉谷、日田市城内地区
   福岡県八幡市、三潴町、甘木市周辺、浮羽町(町村合併)、
   熊本県天草郡横浦島(地引網組織と大家族組織)
〇小林・初期発表論文→■(別ページ・業績一覧)




(3)じんぶんヒストリー(第3回) 2019・7月定例(第264回)研究会 

ご案内  江頭晃子(Sun, 07 Jul 2019 06:09)
 <7月定例(第264回)研究会 じんぶんヒストリー(第3回) ご案内>
 半年に一回、開催している「じんぶんヒストリー」。今回(V)はいよいよ青年Bが学生時代の挫折と葛藤、一時は研究から離れるものの大学院に戻り、そして大学助手へ。社会学・教育社会学から社会教育研究へ出会うまでのお話を伺います。
 時代は、戦後の混乱から朝鮮戦争、その特需により地方産業も活気が戻る時代。しかし経済高度成長から農村変貌への激動へ。戦後の日本国憲法下で新たな教育制度が定着・変容するなかで、民主的な社会教育への道に希望をみた研究者たちが動きだす時代でもありました。青年Bは、どういう研究室・フィールドワークに出会いつつ、自らの研究者生活をスタートさせていったのでしょうか。
 インタビュアーには社会教育の専門家である上野さんにお願いしました。青年Bを通して、戦後1950年代から60年代への激動期、社会教育研究の草創期の熱を体感してください。
◆じんぶんヒストリー(第3回), TOAFAEC 7月定例(第264回)研究会
・日時:2019年7月26日(金)19:00〜20:50(開場18:50)
・テーマ:研究者を目ざす青年B・その源にあったもの 
・話し手:小林文人先生
・インタビュアー:上野景三さん(佐賀大学・日本公民館学会)
・会場:杉並区高井戸地域区民センター第3集会室 (〒168−0072杉並区高井戸東3−7−5
      TEL 03−3331−7841) *京王井の頭線「高井戸」駅下車3分(環八を渡ってすぐ)
・定例会参加:無料
〇終了後(21:00〜)懇親会:イーストビレッジ 03-5346-2077

じんぶんヒストリーV  左・ぶんじん、右・上野景三さん (高井戸・20190726)


報告
 山口真理子(Mon, 12 Aug 2019 11:55)
<じんぶんヒストリー(第3回)記録…7月定例(第264回)研究会ご報告>
・参加者:(敬称略) 江頭晃子,遠藤輝喜,小田切督剛,ハスゲレル,持田津希子、( )、山口真理子
・内容:今回ははるばる佐賀から上京の上野さんがインタビュアーとなっての「じんぶんヒストリーV」。上野さんは、前回の話を報告で読み、どうしても伺いたいことがあった由。一つは、そもそもどうして九州大学に入られたのか。もう一つは一旦就職しながらなぜ大学院に進まれたのか、社会教育に"道を踏み外した"のはなぜか、というようなこと。文人先生は、この日は1960年代から話されるつもりで、資料もその用意だったので、1950年代に戻ることで、ちょっと混乱する、とおっしゃりながらも質問へのお答え、話を始められました。
 九大に進まれたのは、経済的な事情からの条件があったそうです。その当時、戦争直後の大学進学をめぐる社会的状況を話されました。「進学適性検査」(いわゆる「進適」、受験「学力」をテストするのではない)なるものがあって、それは軍隊から帰ってきた人たちはもとより、演劇やスポーツに夢中だった人たちの救いになったこと。先生も高校時代は9人制―6人制とは違う!と強調・・・が生活の中心で、受験勉強はやっと2ヶ月だけだったらしい。そのためか、学友は復員兵,新聞記者経験者,他大学卒業生など、人生経験豊富な人も多く、バラエティに富んでいたそうです。
 教養部(文科)から教育学部を選んだのは、消去法的な理由もありますが、無着成恭の「やまびこ学校」の話(講演会が久留米であった)を聞いたのが大きかったそうです。
 ここで教育学についてのお話になります。戦前の教育学は「哲学・倫理学」と並ぶもの、国家主義的・師範教育的な流れも過去にあり、それから脱皮し「教育科学」へ、新しい教育を創ろう、「新教育への道」という雰囲気も当時満ちていたそうです。
 卒業論文は『アメリカにおける社会科教育の発展』をテーマに。この論文は評価も悪くなかったそうですが、既成の教育学への反発もあり、「やまびこ学校」など生活綴方・民間教育研究運動に魅かれていたこともあり、既成の教育学ベースの学問研究から離れようと大学を去ることに。就職した久留米市立教育研究所は設立後1年で専任が置けなくなる事情があり、また所員時代にはいろいろな先生に出会えたという刺激もあって、大学院に戻ることになったとのこと。
 大学院では、伝統的な教育学からいちばん離れた分野へ。それが教育社会学。農村社会学ご専門の喜多野清一教授(文学部)に教えを受けられます。非常に影響が大きく、多くのことを教わった、と先生はおっしゃいます。喜多野教授の下で、農村調査・フイールドワークの機会をたくさん持つことができ、体で教えてもらった、そんな訓練を受けた思い出。その後の先生の進路を決定づけたとも言える修士論文は、『都市における近隣集団の教育的機能―久留米市暁住宅調査』のフィールドワーク。その経過や修論後の研究についても述べられましたが、第2回とダブルところもありますので省きます。 
 喜多野先生の社会学ゼミ。@最初に古本屋に連れていってもらったこと。A調査地へ、その周りを回って調査村落をを選ぶ、B泊めてもらえる所(お寺など)を決める、C壬申戸籍(明治初期)を全部写して、村落の家族構成や移動、同族組織を頭に入れてインタビューへ。―エッ!壬申戸籍って閲覧できるの?−。
 とくに農村社会学的な調査、インタビューの方法を教わったそうです。face to face、ラポール、「社会調査は一人ではできない」という教えは、先生が常々おっしゃる「学問は協同・共有するものだ」に通じることでしょうか。
 上野さんからは研究者による方法論の違いなどの質問も出ましたが、当然、研究者の問題意識やテーマにもよるだろうと。デュルケームの「社会的事実」、マックス・ウエーバーの「理念型」概念、日本農村社会学の有賀喜左衛門、福武直,そして鈴木栄太郎などの古い名前が飛び出し、その学説なども説明されたり、先生の記憶は相変わらず健在でした。
 1967年以降、社会教育研究への道へ。社会教育法の法社会学的研究として「法の地域定着」研究がいわばスタートと。今回はここから話を始めたかった、とは最後の言葉。以下は「じんぶんヒストリーW」のお楽しみ。

◆「楽天の思想」 ぶんじん(南の風4069号、Mon, 29 Jul 2019 09:21) 
 26日・7月定例会(じんぶんヒストリーV)、ご出席の皆様、ご苦労さまでした。とくに遠路の上野景三さん(佐賀大学)、お疲れさまでした。話し手としては「社会教育研究への道」について、ほぼ1960年代以降の歩み(先回で1950年代「青年B」の話は済んだ・)と考えて、メモも用意していきました。ところがご質問は、むしろ大学時代にもどって、さらに大学院・「助手」時代の、屈折を含む当時の話題となりました。つまり1950年代後半に逆戻り、「じんぶんヒストリー」はほとんど前に進みませんでしたね。しかし「本当におもしろかった」(上掲・小田切メール)の感想も寄せられ、話し手も充実感あり。
 人生には、誰しも模索や反発の時代がある、挫折・混迷のつらい思い出がある、そんないきさつを少しお話しした結果になったようです。上に苦しく語る写真一枚をアップ(江頭晃子さん撮影)
 私の旧制中学(久留米・明善)の校訓に「楽天」という言葉がありました。いま企業やプロ球団の名称となってしまって、あまり口にしなくなりましたが、私なりに(友人たちも)大事にし自慢もしてきた言葉です。ただし「克己」「尽力」と並んで「楽天」。当時の“尽忠報国”などが叫ばれていた軍国主義時代に、「楽天」には独自の響きがありました。「お國のために」という流れの中に、個人の生きる思想、といったニュアンスが含まれているようです。自分なりに力を尽くせば楽天の境地が拓ける、頑張れば必ずや何かが待っている、そして天命を楽しむ、と励ましの響きもあったような。当夜のぶんじんの話には、この「楽天」について触れるべきでしたが、余裕がありませんでした。若いときだけでなく、いま年を重ねて、ときどき思い出す大事な言葉です。


◆当日配布資料

・日時:2019年7月26日(金)19:00〜20:50
・テーマ:社会教育研究への道−1960年前後〜1970年代
・話し手:小林文人 ・インタビュアー:上野景三さん(佐賀大学)
1、(1950年代〜)1960年・スタート
・日本社会教育学会との出会い―1960年(第7回研究大会、九州大学 )
・「月刊社会教育」との出会い
・社会教育法大「改正」(1959年)。文部省・行政当局と学会・研究者との対立構図
・「社会教育法制研究会」(学会1969年〜1973年)→「沖縄社会教育史料」(1977年〜)
 *戦後社会教育法制・行政資料の収集・保存・共有の運動
 社会教育研究全国協議会・発行(『社会教育ハンドブック』エイデル研究所、1979〜)
2、社会教育法制の地域定着(社会教育法制に関する法社会学的研究)1972年
 *社会教育法制の地域定着過程にかんする研究 東京学芸大学紀要第22集(教育科学)
  社会教育法制の地域定着 日本社会教育学会年報第15集『社会教育法の成立と展開』
3、『日本近代教育百年百年史』(国立教育研究所、明治学制百年記念事業)7巻,8巻(1974)
 ・学会・社会教育法制研究会、→沖縄社会教育史研究、→2冊の「資料集成」刊行へ
  *『社会教育法成立過程資料集成』昭和出版1981)、(『公民館史資料集成』エイデル1986)
 ・地方史研究(長野県・松本、君津・千葉県、沖縄県市町村、東京・三多摩、笠懸村、豊中市等)
4、自治体社会教育計画・公民館構想(1970年代)−東京研究(『大都市東京の・・』2016)
 ・(美濃部都政)社会教育委員(男・女3銃士)、国立市公民館運営審議会委員など
 ・東京都「東京都の自治体行政と都民の社会活動における市民教育のあり方」1973 
 ・東京「新しい公民館像をめざして」(1973〜74, 三多摩テーゼ)
*社会教育法制研究資料(学会1〜15集)1969〜1973年 
  〇地方資料(第12集・第13集「解説」、第15集に所収)
   東京研究(「三多摩の社会教育の歩み」13冊)、沖縄研究(「沖縄社会教育史料」7冊)
5、公民館像(社会教育における「教育機関」)構築、職員の専門職制の追求 
  (亜紀書房『公民館・図書館・博物館』1977、東洋館『社会教育職員論』1974)




■急告!新型コロナウィルスの感染拡大、定例研究会は延期します!
(4)TOAFAEC定例研究会(第270回)じんぶんヒストリー(第4回)
        
江頭晃子(Fri, 7 Feb 2020 23:51)NPOアンティ多摩  
 <2月定例(第270回)研究会 じんぶんヒストリー(第4回) ご案内>
 半年に一回、開催している「じんぶんヒストリー」。第4回となる今回は、迷いながらも出会いを大切に前に進んでいった青年Bを卒業し、社会教育研究の道を歩み始めた「若き文人先生」のお話を伺います。
 1967年に東京学芸大学へ(36歳)。「月刊社会教育」や社会教育学会での研究者や実践者との出会いがあり、新しく住み始めた国立市の公民館や市民との活動がありました。東京都の社会教育委員や「新しい公民館像をめざして」作成に参画。学会では「社会教育法制研究会」を担い、「日本近代教育百年史」(社会教育)の執筆も。そして「社会教育法制の地域定着過程にかんする研究」が注目された時期。当時の文人先生はどんなことを考えていたのでしょうか…? そして当時の学芸大学の様子は…?
 今回も前回に続き、インタビュアーは、日本社会教育学会長の上野景三さん(佐賀大学)です。文人先生や社会教育を、よく知ってる方も、知らない方も参加大歓迎です。
◆じんぶんヒストリー(第4回), TOAFAEC 2月定例(第270回)研究会
・日時:2020年2月28日(金)19:00〜20:50(開場18:50)
・テーマ:社会教育・公民館研究への登場 
・話し手:小林文人先生
・インタビュアー:上野景三さん(佐賀大学・日本社会教育学会)
・会場:杉並区高井戸地域区民センター第3集会室
  (〒168−0072杉並区高井戸東3−7−5 TEL 03−3331−7841) 
〇終了後(21:00〜)懇親会:イーストビレッジ 03-5346-2077
*京王井の頭線 高井戸駅下車。すぐ陸橋(環八・歩道橋)を渡り、左にガードをくぐり、
 神田川を渡る。大きな茶色のマンションの裏1F。駅より徒歩2分。
*当日の連絡先:山口真理子さん(TOAFAEC 事務局長) 042-482-9143
・じんぶんHプロジェクト:ringox@nifty.com(えとう)



(4)じんぶんヒストリー(第4回) 2020・5月(第270回)研究会、オンライン開催案内
             *江頭晃子(Wed, 6 May 2020 09:25)
 <5月定例(第270回)研究会 じんぶんヒストリー(第4回)ご案内>
 コロナ禍の中、ストレスを感じられている方が多いと思います。私のGWは、ウェブ授業への転換のためシラバスを組みなおしています。人間の権利保障のために教育は不可欠であること、市民組織の運動を含めた社会教育が今、その権利保障のための教育実践として何が可能なのかを、学生さんと一緒に考えあいたいと思っています。
 さて、2月〜4月までお休みしていた 定例研究会ですが、zoomでの編集委員会(4月24日)の成功経験を経て、李編集長のお力を借りて、ウェブ上で以下の通り開催します。パソコンやスマホなどの機材が必要となってしまいますが、遠方等でこれまで定例会にご参加いただけなかった方も含めて、新たな出会いがあるのを楽しみにしております。ぜひお気軽にご参加ください。内容や申し込み方法は以下の通りです。ご不明点などありましたら、お気軽にご連絡ください。
◆5月定例会ご案内
 半年に一回、開催している「じんぶんヒストリー4」。すでに第4回となる今回は、迷いながらも出会いを大切に前に進んでいった青年Bを卒業し、社会教育研究の道を歩み始めた「若き文人先生」のお話を伺います。 
 1967年に東京学芸大学へ(36歳)。「月刊社会教育」や社会教育学会での研究者・実践者との出会いがあり、新しく住み始めた国立市の公民館や市民との活動がありました。東京都の社会教育委員や「新しい公民館像をめざして」作成に参画。学会では「社会教育法制研究会」を担い、「日本近代教育百年史」(社会教育)の執筆も。そして「社会教育法制の地域定着過程にかんする研究」が注目された時期。当時の文人先生はどんなことを考えていたのでしょうか…? そして職場・東京学芸大学の様子は…?

〇じんぶんヒストリー(第4回), TOAFAEC 5月定例(第270回)研究会
・日時:2020年5月29日(金)20:00〜21:30(zoom開場19:45)
・テーマ:社会教育・公民館研究への登場 
・話し手:小林文人先生
・インタビュアー:上野景三さん(西九州大学・日本社会教育学会)
・申込み:
 @下記のHPにアクセスし、名前とメールアドレスを送付 (締め切り:5月22日)
  https://forms.gle/ymRg9Svw1RpYEfqp9
 A申込んだ方にzoomのアドレスなどをお知らせします。
 B別途、お名前とご所属(または文人先生とのご関係や参加する動機などでもOK)聞きたいと
   思っている質問等がありましたら、江頭:ringox@nifty.com までお知らせください。
   締め切り:5月22日 *(参加者のお名前は共有します。)
〇終了後(21:40〜22:30)質疑応答・懇親会、それぞれお好きな飲み物等をご用意ください。
〇連絡先:zoom申し込みに関して:aozora999@hotmail.com(李正連さん)
 その他については:ringox@nifty.com(えとう)まで
記録 (江頭晃子、Mon, 1 Jun 2020 22:24)
〇参加者:李正連、石川敬史、石井山竜平、井口啓太郎、入江優子、上田孝典、上平泰博、上野景三、江頭晃子、遠藤輝喜、大前哲彦、呉世蓮、小田切督剛、木下巨一、金亨善、栗山究、瀬川理恵、中村津希子、松尾有美、ハスゲレル、包聯群、堀尾正靱、安井節子、山口真理子、米山義盛(25人)
〇インタビュアー:上野景三(TOAFAEC代表、西九州大学)
〇内容:2月に予定していた、じんぶんヒストリーでしたが、李正連さんにホストをお願いし、3か月遅れでオンラインで開催、各地から参加者あり賑やかになりました。機材の不具合や聞き手の表情が見えない不安も先生にはあったかと思いますが、後半はいつもの鮮明な記憶力とぶんじん節が蘇り、質問も絶えませんでしたが、23:00にやや強引に終了しました。次回は、やはり直接顔を合わせて開催したいですが、中継方法も併せて模索したいとも思っています。

 今回のお話は、1967年に東京学芸大学に赴任し、社会教育研究者として歩み始めるところから始まりました。1960年代から経済成長政策のひずみ、公害問題、他方で革新自治体の登場の時代、そして学生運動が活発な時代。九州では社会学中心の講義を担当していましたが、学芸大学に赴任し教育社会学そして教育原理を担当するようになり、講義準備に大変。住宅は当たった公団住宅がたまたま国立市。具体的な社会教育実践や研究との接点も増えていきます。当時の社会教育研究者は宮原誠一(東京大学)、平沢薫(東京教育大学:現筑波大学)、古木弘造(名古屋大学)、福尾武彦(千葉大学)、吉田昇(お茶の水大学)他少数、学会員も社会教育関係団体や自治体職員の比重が高かった。
 社会教育研究は「社会教育法制の地域定着」が端緒。学制100年を記念しての文部省プロジェクト『日本近代教育百年史』7〜8巻「社会教育」編執筆や社会教育学会の法制研究資料調査・復刻、資料の共有に関わったことで本格的になる。「社会教育法制の地域定着」研究が注目されます。
 立市公民館の運営審議会をはじめ東京都社会教育委員をつとめ、三多摩職員とのつながりも深まり、公民館の新たな展開を図って「多摩テーゼ」制定など公民館研究、専門職としての職員研究、学級・講座論の構築も広がっていきます。1979年、「社会教育ハンドブック」編集・刊行についても画期的な意義を追求されました。上野さんのインタビューで「なぜ教育社会学から社会教育に転換したのか」には、大勢の前で話せることでないこともあると言いつつ、社会学の「貧農の人の暮らしや差別的な実態を客観的に記述するということだけで終わるのは耐えられない。自分の価値観を入れられず、実践的な活動に広げられない、社会的事実だけに注目して人間の顔が見えてこない」違和感とともに、社会教育の「実践的な面白さ、人が何を求めるのかというテーマ性」への魅力を語られました。「なぜ法制研究だったのか?」という問いには、当時の近代教育100年史編纂・執筆(戦後法制・行政史、公民館を担当)があり、学会も社会教育20年記念(年報)を組み、そして1959年社会教育法改正による論議などの時代背景があったが、先生の中では、法制研究ともに、職員論、公民館論、講座論構築など的実践的に広がってきた1970年代の充実の印象を持っているとのことでした。
 参加者の皆さんからは、「社会教育法を実質的に豊かにしていくという当時の意図」「資料の活用方法」「伊藤壽郎・博物館研究の位置」「大都市研究の経過」「社会教育研究における市民館・隣保館等への評価」「学校教育との関わり」「職員研究の所在」「学生との向き合い方」「炭鉱労働者が都市部に流れた時代の社会教育」「主婦大学(目黒)」「住民運動が盛んだった時代の国立市公民館」など、多彩な質問を寄せていただきました。それでも全員からの質問を確保できず(進行役として)申し訳ありませんでした。
 次回の話になりますが、先生はこの後、沖縄研究に入っていきます。今回語られた三多摩テーゼや公民館の講座主義が、沖縄では必ずしも積極的評価だけではない、批判される側面もあったことなど、また違った視点で社会教育の可能性を発見していきます。お楽しみに。インタビュアー募集中です



当日配布資料
   ・日時:2020年5月29日(金)20:00〜21:30(zoom開場19:45)、懇親会
   ・テーマ:社会教育・公民館研究への登場 
   ・話し手:小林文人 ・インタビュアー:上野景三(西九州大学)
1、概要 1967年(東京学芸大学)〜1970年代〜1980年
 ・時代状況―美濃部革新都政、学生運動(パリ5月革命)、市民運動・反戦運動など
 ・社会教育研究へ、とくに社会教育法研究・法制資料収集、資料の共有化、復刻
 ・自治体(市町村)社会教育の登場、集落・住民組織、市民運動・実践
 ・社会教育学会(1968「幹事」〜)、月刊社会教育編集(73〜5編輯長)、社全協など
 ・東京都社会教育委員、国立市公民館運営審議会、小金井、東村山ほか各種委員 
 ・東京学芸大学・いくつかの「闘い」
  (以下、*印はホームページ「小林・編著書・論文一覧」より)
    →http://www.bunjin-k.net/1954gyouseki.htm (1970年代)
2、スタートとしての社会教育法制の地域定着―法社会学的研究
  *社会教育法制の地域定着過程にかんする研究  学芸大学紀要第22集(1971)
  *社会教育法の地域定着  社会教育学会年報(『社会教育法』)第15集(1971)
3、『日本近代教育百年史』7〜8巻「社会教育」編(吉田昇、古木弘造ほか計16人)
  *社会教育法・行政、公民館の項執筆(1968・・・1971)刊行→1974
  *社会教育学会「会教育法制研究会」『資料』全15冊・刊行(1969〜1973)
4、公民館研究・「新しいい公民館像をめざして」(東京都、1973・1974)
  *関連ホームページ→ http://www.bunjin-k.net/tokyou23ku.htm
  *『公民館・図書館・博物館』(亜紀書房 講座・現代社会教育Y)1977
5、社会教育職員研究、専門職化の追求
  *『社会教育職員論』社会教育学会年報(第18集)東洋館出版社 1974
  * 学会「社会教育職員研究資料」(社会教育職員研究会、1〜4集)1972〜1973   
  *「社会教育職員養成制度の検討−社会教育主事制度」『教育学研究』(1973-巻2号)
  *「はげまし学ぶ主事たちの動き−その苦闘と創造と−」 1976
    小川利夫編『住民の学習権と社会教育の自由』勁草書房、所収  
6、学級・講座論の構築
   *東京都「新しい学級・講座をめざして」、「市民主体の学級・講座づくり」1974
   *東京都 「続・新しい学級・講座の創造をめざして」−その新しい課題(続)−1975
   *目黒区「主婦大学についての調査と提言」目黒区教育委員会, 1976            
   *「社会教育における学級革命の視点」 月刊社会教育・第21巻2月号, 1977
7、社会教育推進全国協議会編『社会教育ハンドブック』総合労働研究所 1979
8、東京学芸大学社会教育研究室『沖縄社会教育史料』
   (第T集)社会教育法制、1977
   (第U集)社会教育行政・財政 1978
   (第V集)戦後沖縄の社会教育史研究に関して(証言)1979
〇メモ:今回コロナ騒ぎの空白、またズーム定例会のため新参加者が多く、あえて第3回レジメとの重複を厭わず記した。
報告 (江頭晃子、Mon, 1 Jun 2020 22:24)
〇参加者:李正連、石川敬史、石井山竜平、井口啓太郎、入江優子、上田孝典、上平泰博、上野景三、江頭晃子、遠藤輝喜、大前哲彦、呉世蓮、小田切督剛、木下巨一、金亨善、栗山究、瀬川理恵、中村津希子、松尾有美、ハスゲレル、包聯群、堀尾正靱、安井節子、山口真理子、米山義盛(25人)
〇インタビュアー:上野景三(TOAFAEC代表、西九州大学)
〇内容:2月に予定していた、じんぶんヒストリーでしたが、李正連さんにホストをお願いし、3か月遅れでオンラインで開催、各地から参加者あり賑やかになりました。機材の不具合や聞き手の表情が見えない不安も先生にはあったかと思いますが、後半はいつもの鮮明な記憶力とぶんじん節が蘇り、質問も絶えませんでしたが、23:00にやや強引に終了しました。次回は、やはり直接顔を合わせて開催したいですが、中継方法も併せて模索したいとも思っています。
 今回のお話は、1967年に東京学芸大学に赴任し、社会教育研究者として歩み始めるところから始まりました。1960年代から経済成長政策のひずみ、公害問題、他方で革新自治体の登場の時代、そして学生運動が活発な時代。九州では社会学中心の講義を担当していましたが、学芸大学に赴任し教育社会学そして教育原理を担当するようになり、講義準備に大変。住宅は当たった公団住宅がたまたま国立市。具体的な社会教育実践や研究との接点も増えていきます。当時の社会教育研究者は宮原誠一(東京大学)、平沢薫(東京教育大学:現筑波大学)、古木弘造(名古屋大学)、福尾武彦(千葉大学)、吉田昇(お茶の水大学)他少数、学会員も社会教育関係団体や自治体職員の比重が高かった。
 社会教育研究は「社会教育法制の地域定着」が端緒。学制100年を記念しての文部省プロジェクト『日本近代教育百年史』7〜8巻「社会教育」編執筆や社会教育学会の法制研究資料調査・復刻、資料の共有に関わったことで本格的になる。「社会教育法制の地域定着」研究が注目されます。
 立市公民館の運営審議会をはじめ東京都社会教育委員をつとめ、三多摩職員とのつながりも深まり、公民館の新たな展開を図って「多摩テーゼ」制定など公民館研究、専門職としての職員研究、学級・講座論の構築も広がっていきます。1979年、「社会教育ハンドブック」編集・刊行についても画期的な意義を追求されました。上野さんのインタビューで「なぜ教育社会学から社会教育に転換したのか」には、大勢の前で話せることでないこともあると言いつつ、社会学の「貧農の人の暮らしや差別的な実態を客観的に記述するということだけで終わるのは耐えられない。自分の価値観を入れられず、実践的な活動に広げられない、社会的事実だけに注目して人間の顔が見えてこない」違和感とともに、社会教育の「実践的な面白さ、人が何を求めるのかというテーマ性」への魅力を語られました。「なぜ法制研究だったのか?」という問いには、当時の近代教育100年史編纂・執筆(戦後法制・行政史、公民館を担当)があり、学会も社会教育20年記念(年報)を組み、そして1959年社会教育法改正による論議などの時代背景があったが、先生の中では、法制研究ともに、職員論、公民館論、講座論構築など的実践的に広がってきた1970年代の充実の印象を持っているとのことでした。
 参加者の皆さんからは、「社会教育法を実質的に豊かにしていくという当時の意図」「資料の活用方法」「伊藤壽郎・博物館研究の位置」「大都市研究の経過」「社会教育研究における市民館・隣保館等への評価」「学校教育との関わり」「職員研究の所在」「学生との向き合い方」「炭鉱労働者が都市部に流れた時代の社会教育」「主婦大学(目黒)」「住民運動が盛んだった時代の国立市公民館」など、多彩な質問を寄せていただきました。それでも全員からの質問を確保できず(進行役として)申し訳ありませんでした。
 次回の話になりますが、先生はこの後、沖縄研究に入っていきます。今回語られた三多摩テーゼや公民館の講座主義が、沖縄では必ずしも積極的評価だけではない、批判される側面もあったことなど、また違った視点で社会教育の可能性を発見していきます。お楽しみに。インタビュアー募集中です。
■≪ズーム研究会の混乱と楽しみ(ぶんじん)≫ 南の風4157号【2020年 5月31日】
 本日は五月最終日。この間コロナ騒動で延ばし延ばしになってきた定例研究会(じんぶんヒストリ―4)がようやくオンラインにより開催されました(29日・金曜日)。ご参加の皆様、お疲れ様でした。いつもの定例会と違って、佐賀、大分、高知、大阪、そして信州、また仙台など各地からのご参加。お互いの顔が見えて楽しいひととき。
 しかしズーム(オンライン)による対話は何か調子が違いますね。当方のミスもあって途中に何度か中断、失礼しました。『日本近代教育百年史』第8巻に話が及んだとき、よせばいいのに約1300頁に及ぶ重い本を紹介し、その際パソコン・キーボードの上に載せてズーム・ライン中断。それとは知らず、話を続けて、「聞こえません、ラインは切れていますよ!」との電話で、慌てました。すぐにラインは復旧せず、あらためて別の古いパソコンを立ち上げる始末。そのパソコンも機能不全なときあり再度の中断がありました。残念な思い、お詫びします。されどワインを楽しみながらの研究会は格別なもの、いい気分になりました。しかし次もまたズーム研究会・・・? 早く脱皮したいもの。
 



(5)
2021・3月(第279回、定例)研究会、オンライン開催ご案内
               
TOAFAEC事務局 江頭晃子
 <3月定例会・じんぶんヒストリー(第5回)―沖縄研究の歩み>
 3・11から10年を迎えました。明日は「じんぶんヒストリー」(第5回)、いよいよ沖縄研究についての報告です。今回は、1970年代後半からの、社会教育法制史・法定着研究、そして三多摩テーゼ等の取り組み、地域の実践と並走しながらの職員論や学講座論の構築、そして「月刊社会教育」編集長や社全協運動にもドップリと関わる中から、沖縄研究が始まります。ぶんじん先生にとって新しい沖縄フイールドワークと沖縄戦後史との出会い。どんな展開になるのでしょうか。
 今回は、インタビュアーは設けず、先生に思う存分語っていただいた後、参加者の皆さんから質問をお寄せいただきながら進める形にしたいと思います。どうぞどなたも、お気軽にご参加ください。
じんぶんヒストリー(第5回), TOAFAEC35月定例(第279回)研究会(Zoom開催) *詳細案内
・日時:2021年3月26日(金)20:00〜21:30(zoom開場19:45)
・テーマ:沖縄研究への道、沖縄からの提起
・話し手:小林文人先生
・申込み:@お名前、Aご所属(または先生とのかかわり)、Bご質問などを明記の上、
  江頭:ringox@nifty.com までお知らせください。前日にZoomアドレスをお知らせします。
・締め切り:3月25日(参加者のお名前は共有します。)
〇終了後(21:40〜22:30)質疑応答・懇親会、それぞれお好きな飲み物等をご用意ください。
江頭晃子

◆当日・報告レジメ
≪26日定例研究会・じんぶんヒストリー(第5回)―沖縄研究・報告tレジメ≫
〇沖縄研究への道 小林ぶんじん(2021年3月25日)
          *ホームページ「沖縄研究交流」ページをご参照ください。 
           →■http://www.bunjin-k.net/06okinawa.htm  
1,沖縄研究のスタート・・・
1970年代とくに『日本近代教育百年史』8(1974)
  「沖縄」欠落への自己批判
  研究の第一テーマ「戦後(占領下)沖縄社会教育の実態調査・資料収集」
2,戦後沖縄社会教育研究会(1976)、おきなわ社会教育研究会(那覇、1977)
  
         ・・・『沖縄社会教育史料』全7冊の共同制作
3,戦後沖縄の荒廃した状況の中で・・・
  
占領者・アメリカ軍政の「宣撫工作」と、沖縄側の「集落」「社会教育」再生・復興の錯綜
 ・USCAR(アメリカ民政府)―成人学校、米琉親善、琉米文化センター、紙の爆弾等
 ・集落の自力建設(シマ、字)、村屋、学校建設、自治・自衛(二才)、教育隣組、  
   
*読谷村宇座区公民館『残波の里』(1974)「村の栄えは公民館から興る」
4,沖縄への公民館制度の導入過程(1953「公民館設置奨励について」琉球政府)
   
*自治体と集落の関係―公立「中央公民館」設置は1970年の読谷村に始まる
5,沖縄型(字公民館を中心とする)社会教育と三多摩テーゼとの論争
  
<沖縄>「市民の大学」への違和感、<東京>「集落」「地域」の欠落
6,教育四法(教育基本法、学校教育法、教育委員会法、社会教育法)民立法運動
          
・・・曲折を経て1958年公布(図書館法、博物館法は不発)   
  
*沖縄県教育委員会『沖縄の戦後教育史』、同『資料編』(1977〜78)
7,フィールドワークの研究手法、共同研究集団の形成、収集資料の共有と記録化
   
*学会・社会教育法制研究資料(15冊、1970代)継承、沖縄7冊(1980年代)
8,その後の展開 1986年(最終報告)『民衆と社会教育』(1988年、13人の共同執筆)
  
・全沖縄全集落公民館の質問紙調査―沖縄大学研究室のシロアリ被害
  ・1990年代―(日韓セミナー、東アジア成人教育法制研究、識字調査を経て)
   1998年・沖縄研究再開を呼びかけ、「南の風」発行
   2000年〜先島(与那国島・竹富島)フィールドワーク、中頭青年団証言収集
   2010年〜北部「やんばる対談」―12回・現在コロナ中断)
9,東アジア・モデルとしての沖縄(集落組織・基層文化・現代的展開・・)
10、文献・・・末尾(ぶ)欄参照
→■http://www.bunjin-k.net/minami4201.htm
小林文人・平良研一共編『民衆と社会教育』(1988、エイデル)


〇第5回:報告・感想
参加者:
石川敬史、うそまこと(劇団はてな)、上平泰博、内田純一、江頭晃子、嘉納英明、金侖貞、熊本博之、
  栗山究、小林文人、武田拡明、ハスゲレル、樋口寿美、堀尾正靱、包聯群、山口真理子、米山義盛(17名)
内容 報告・感想 (嘉納英明 名桜大学)
 じんぶんヒストリー第5回(3月26日)は、文人先生の沖縄研究のきっかけになったことを聞けるとあって、申込〆切は過ぎていたが、江頭さんにお願いしてパスワードを頂いた。当日、文人先生の少しばかり興奮した面持ちで、2時間以上も、沖縄とのかかわりや社会教育研究を始めたきっかけなどをお聞きすることができた。沖縄の社会教育研究の欠落を大いに意識して、文人先生は共同研究を始めた、という。単なる研究対象としての沖縄ではなく、沖縄に対する深い愛情を感じさせるお話であった。また、文人先生の真摯な研究態度は、きっと沖縄の社会教育関係者を魅了させたことであろう。沖縄大学の平良研一先生、名護在住の島袋正敏さん、前名護市長の稲嶺進さん、うるま市在住の宮城英次さん、又吉英仁さんらのお名前が次々と出てくる。沖縄研究を通しての交友関係の広さに驚くと同時に、羨ましさを感じた。そして、沖縄の現地を歩き、史料を集め、分析していくという研究者としての基本的な姿勢をあらためて学んだ思いである。
 文人先生の沖縄研究は、集落と字公民館に注目していることに特徴がある。とりわけ、字公民館は、教育文化、生産活動等の地域の拠点として機能し、戦後の沖縄復興のシンボルでもあった。その例として、文人先生は、読谷村の波平公民館の経済門と文化門についてふれた。さて、その沖縄の字公民館は、公民館の生みの親である寺中作雄の構想と関係したのか、というのが、私の関心事であり、質問したかったことである。文人先生は、「寺中は、初期公民館構想の中に集落公民館をつくっていこうとする考えをもっていたが、この考えが占領下の沖縄の教育関係者に共有されてはいなかった。だが、沖縄の集落(字)公民館の考えは、寺中構想と共通するものであった」と明快に答えて頂いた。
 沖縄の復帰後、末本誠さんらとの本格的な共同研究の推進を始め、東京から沖縄をみるのではなく、沖縄のウチからみていくことの大切さを語って頂いた。文人先生の沖縄研究から大いに刺激を受け、今後とも遅々としながらも、研究を継続していきたい。
読谷村波平区公民館ー右に経済門(横に売店)、左に文化門(横に図書室)ー2003/7/1ー




(6)
2021・9月(第284回、定例)研究会、オンライン開催・ご案内                                   江頭晃子(2021/09/12/22:39)
 <9月(24日)定例(第284回)研究会・じんぶんヒストリー第6回・ご案内>
 今回は「じんぶんヒストリー」第6回目になります! お待たせしました。
 東京での「若き研究者」としての文人先生の話が続いています。第4回は社会教育の学会活動や運動体、地域との関わりなど、第5回は沖縄研究について、そして今回の舞台は「東京学芸大学」です。これまでの記録は本ページに記録。

 1967年に東京学芸大学へ(36歳)、当初は教育社会学の担当。社会教育は選択科目としてわずか2単位のみ。教員養成大学の狭さや硬さとの格闘(カリキュラム改造やゼミ単位・卒論導入など)、学閥との闘い、社会教育の単位開設と主事資格取得への取り組み、とくに博物館学開設の歩みが画期的。
 1974年に社会教育担当教員1名増、1979年に社会教育主事そして1982年には博物館学芸員資格取得が実現しました。この間、1980年に教官研究室が相部屋から一人部屋となり、加えて「社会教育研究室」(実験室)スタートが大きな前進、ゼミ・諸活動の拠点となりました。1987年に社会教育講座(大学院)開設、さらに1988年、学部の新しい教養課程に「生涯教育」3コースが開設、、へと拡がっていきます。教員体制1名から、なんと5名へ(図書館学を含む)。
 一方、1980年代には学生部長、1987年に図書館長(各4年間)の管理職も歴任、学生運動との対峙もありました。大学管理棟封鎖の学生ときわどい深夜の交渉も。
 学生とのかかわりでは、新「研究室」を舞台に自主ゼミ・読書会・中国語学習会等が始まり、また「麦笛」「麦の子」など児童文化運動系のサークル顧問、沖縄研究会、留学生向けの「アジアフォーラム」。1990年代になると、東京各地に胎動してきた日本語学級・識字実践の調査に取り組み、東京では初めてとなる報告書刊行。
 研究室の冷蔵庫には、泡盛やビールがあり、学生だけでなく三多摩の職員や市民との交流も。大学を市民に開く動きが、小さな社会教育研究室を拠点に取り組まれた15年の実験とも言えましょう。(1995年退職、和光大学へ)。
 大学は市民・運動にとってどのような存在なのか。地域・自治体にとって大学はいかなる役割を果たしうるか。その拡がりのなかに学生たちはどう参加するか。当時の「社会教育研究室」物語を伺いながら、「地域・市民と大学」の関りについてご一緒に考えていきたいと思います。どなたもどうぞ、お気軽にご参加ください。
◆じんぶんヒストリー第6回、 TOAFAEC9月定例(第284回)研究会(Zoom開催)
・日時:2021年9月24日(金)20:00〜21:30(Zoom開場19:45)
・テーマ:学芸大学・社会教育研究室物語
・話し手:小林文人先生
・申込み:ringox@nifty.com (江頭)までメールでお申し込みください。前日に
 Zoomアドレスをお知らせします。※参加者のお名前は共有します。
〇終了後(21:40〜22:30)質疑応答・懇親会、それぞれお好きな飲み物等をご用意ください。

ご報告
 
山口真理子 2021/09/26(日)21:22 
 参加者:石川敬史、上野景三、内田純一、江頭晃子、大前哲彦、小田切督剛、栗山究、見城慶和、小林文人、
       中村(持田)津希子、樋口寿美、松尾有美、山口真理子 以上13名(敬称略)
 九州大学助手、日本育英会専門員、九州産業大学助教授(社会学担当)を経て、1967年36歳に東京学芸大学助教授として赴任されました。東京学芸大学は戦前東京の5つの師範学校が戦後統合され大規模・教員養成大大学へ。戦前的体質を色濃く残し、大きな学部だけに、代議員会があり、年に数回の大教授会(体育館で)。教授会自治とはかたちだけの感あり。カリキュラムは教育職員免許法に大きく規定され、卒論やゼミは当時まだ単位化されず、選択科目の比重がきわめて少ない等。旧師範学校的な課題が残り、学生のカリキュラム改革の要求強く、赴任当初からカリキュラム改編をめざす学生ストに見舞われた想い出が語られました。また施設的には旧兵舎がまだ残り、とくにに図書館の貧弱さに失望。研究室は相部屋、50人教室のみが続く校舎。国立大学(とくに教員養成大学)に対する国の政策の貧しさを思い知らされたスタートだったと。そのなかに新しく「社会教育」「博物館」関係単位を開設し、各資格コースを実現していく「物語」が話されました。
 先生は学内・学閥的にはマイノリティ。組合活動に参加、果敢に改革に向けて奮闘。教授会で発言、学生とも議論、まず演習・ゼミ的な運営を工夫し、実質的にレポートを大きくして卒業論文を単位化するなどの試みから始まった。
 人文系研究棟新営(1980年)により研究室相部屋が解消し「社会教育実験室」が設けられることになります。施設的に画期的なことでした。ここまで13年が経過、しかし大きな前進。この日、とりわけ熱のこもったお話は、この「実験室」の様々な活動の創造的な取り組みについて。研究室を、教員の専有空間とせず、学生を主体とした学びの「公共空間」にしていこうというプロセス。レジメ〈文献〉にある「社会教育研究室外史―ゼミの空間、曲折のあゆみの記録」(東京学芸大学教育学研究年報 第15号)を紹介され、一部を読みながらの説明でした。詳しくはホームページにも収録されていますので、この記録にぜひアクセスしてください。→■http://www.bunjin-k.net/bunjinronbun.htm
 昼間は本来のゼミなどの研究指導。夜になると「大学」という枠を超えた集いの場となりました。沖縄研究会、中国語学習会、識字研究会、アジアフォーラム、季節行事(歓迎会、月見など)。研究室を外に開くベクトルを重視し、市民・自治体職員の参加を歓迎。加えて、80年代から新しく登場してきた留学生たちが参加するようになります。研究会や学習会ではありますが、そこでは、歌ありサンシンあり、酒もあり、先生の表現では「音も匂いもあった」空間でした。まさに外に開く研究室。私事で恐縮ですが、同じ年報(東京学芸大学教育学科「教育学研究年報」第15号1996年)に私も「社会教育実験室after5の小林先生」という小文を書いてます。
 研究室の活用は 社会教育主事資格取得の単位開設、博物館学芸員資格取得のコース開設の歩みと平行していました(図書館司書資格取得は「司書教諭」に関連して実現していた)。担当する教員は「教養課程」(教員養成=教育課程、以外のコース)新設(1988年〜)により、教員体制は当初の1名(小林)から5人へと増員されたことが注目されます。国立大学で唯一といってよい博物館コースの開設とともに注目されました。また小林先生の管理職(学生部長4年、付属図書館長4年にともなう非常勤講師枠によって、外部講師陣も豊富。研究室としての「講師歓迎会」は研究室最大の行事として定着していきました。特に博物館担当・伊藤寿朗さんを専任教員として位置付けることができたいきさつは、ちょっとドラマチック。

 休憩10分後は、参加者も交えて自由な懇談となりました。口火を切った上野景三さん(日本社会教育学会長)の話からは、先生の学生の育て方(?)や先生の研究に対する姿勢が披露されました。「論文指導」はなかった。一緒にフィールドワークするなかで学んだ」と。内田純一さん(高知大学)は「本からではなく、小さな事実から入りなさい、真実は細部に宿る」と。人形劇サークル「麦笛」の樋口寿美さんは「自分たちのことを“若きアーティスト”と呼んでくださって感激した」と「うそまこと」さん(当日欠席)を紹介。江頭晃子さんも、前述の年報に「“ひと”を咲かせる先生」という文を書いていますね。次の「じんぶんヒストリー」では、どんな展開となるでしょうか。
人形劇サークル「麦笛」の[月見」企画ーすすきとお月さま(社会教育研究室,19901003) 関連→■


*南の風4270号・ぶんじん日誌
  ーその後の研究室は?
 ・・・あれから3040年が経過、さて学大・研究室の今はどうなっているのだろう、当時(奇跡的に)実現した5人の
教員体制のその後は?など気になってきました。年
に一度(名誉教授あて)送られてくる「名簿」では、ずいぶん変わ
っている感じ。
あるいはすでに解体しているのでは、と気にもなってきたのです。故伊藤壽朗さん(博物館学担当)
の後任・君塚仁彦さんに何度か電話したのですが、多忙でつかま
らない。今は管理職で会議の連続のようでした。
 1日経って君塚さんからの電話。名簿上の記載は分かれているが、特任教授一人を含めれば、かっての5人体制
は「今も維持されている」とのこと。よかった!これか
らも頑張ってください。
 当夜、話題となった「麦笛」がつくった「お月さま」の写真はホームページ上にアップされていました。当時の麦笛メ
ンバーとともに輝いていますので、本欄写真
とし上に掲げます。人形劇サークルOB「うそまこと」さん(ほんと!の人
形劇ネーム)
から寄稿あり(上掲)有難う!(ぶ)



第7回(2022年〜)以降・次ページ→■

                         TOP