★伊藤長和・烟台の風T(2009年4月〜 南の風・記事

            *烟台の風U(2010年9月〜 94号以降)→■
            *烟台の風V(2011年8月〜 172号以降)→■




伊藤長和さん−壮行会−
   (TOAFAEC第149回研究会、2009年3月25日、東京・荻窪,)

 *川崎市教育委員会退職後、2009年4月より中国山東省烟台日本語学校へ赴任
   2010年7月・一時帰国

*烟台日本語学校(中国・山東省)記録→■




■烟台の風94(2010年9月)→■



■烟台の風93俳句で遊ぶ船の旅 (Wed, 7 Jul 2010 09:57)
 烟台から遣唐使の帰還船の海路(北路)を航海して無事帰国しました。
 天津港から神戸港までの2泊3日の船旅でした。私は満喫した船旅を記憶するため、船中で遊び心を高揚させて、自由俳句(無季俳句)を詠んできましたのでご笑覧下さい。
 重い荷物を船室に運びこんでから、私は出航準備中の「燕京号」のデッキに上がりました。後ろから「先生」と呼びかけられ、振り向くと烟台の日本語学校で出会った女学生でした。仲間と一緒に研修生として福井に働きに行く林歓歓さんです。こんな不思議な出会いがあるんですね。
○「研修の教え子笑う船の旅」  ○「研修の平安祈る船旅ぞ」 
 船旅は、今まで経験したことの無いベタ凪の海でした。渤海、黄海、対馬海峡、玄海灘、瀬戸内海、と静かな海原が続きました。
○「黄海は海神眠りて波静か」  ○「波静か八仙人が渡海して」
 渤海から黄海に出る頃、明るい空は梅雨空に変わり、霧雨が降り出しました。
○「濃霧にて遣唐使船夢枕」   ○「波消えて遣使の夢も霧の中」
 生憎の天気で朝鮮半島は見えませんでしたが、韓国のイカ釣り船の大船団を見ました。闇に浮かぶ煌々と輝く明かりに感動しました。 
○「韓(から)国の漁火見ゆる梅雨の海」  ○「漆黒の水面を照らす漁火か」 
○「梅雨空に青丘隠れ我悲し」
 早朝に関門海峡を抜け瀬戸内海に入りました。まだ小雨が降っています。中国人のサクソホーン演奏者の二人に私は「瀬戸の花嫁」を歌って聞かせ、この歌を知っているかと尋ねると、「知っている」と言って共に歌い、続いて「昴」を歌いました。松山沖を通過する頃には、天気も快晴となりました。三つの海峡横断大橋をくぐります。
○「瀬戸内の島見え隠れ梅雨の海」  ○「梅雨晴れの紫雲たなびく鬼が島」 
○「瀬戸内やあれが屋島か小豆島」  ○「梅雨空に瀬戸の花嫁高らかに」 
○「日中の歌の共演瀬戸の海」

 濃霧のためか、「燕京号」は約1時間半遅れで神戸港に接岸しました。私の重い荷物を見かねた演奏者が一つ持ってくれました。瀬戸の花嫁のお蔭です。神戸から叔母の住む名古屋に立ち寄りました。だいぶ弱っていましたが、我が亡き母とそっくりです。
○「年老いた美人姉妹の叔母に会う、母の面影探し求めて」
 翌日の新幹線で私は帰宅しました。車窓から富士山がちょうっぴり顔を出しました。鶯が小さな我が家の庭にやってきて、しきりに「良く帰ってきた」と鳴きつづけてくれています。
○「青冨士や梅雨の雲間に顔を出し」  ○「梅雨の間の七里の海は輝きて」 
○「気まぐれな鶯鳴くや我迎え」
 冬休みの一時帰国の時に、ビール教室で作った自作のビールで乾杯をしました。 
○「手作りのビールで祝う帰国かな」        *「南の風」 2466号 (2010年7月7日)

■烟台の風92−烟台のおばさん・おじさん、再見!(Fri, 2 Jul 2010 11:10)
 今日でこの住み慣れたマンションともお別れか、と思うと何もかもが愛おしいく思われます。マンションのエレベーターの中に漂う子犬の小便臭さにさえも、愛おしさを感じざるをえません。
 今朝、マンションの1階に新しく店が開店しました。祝賀の花火と爆竹が大音響をたてて轟きわたっています。この音ともお別れかと思うと、無性に寂しさが込上げてきます。烟台の福来里(フーライリ)のおじさん、おばさん、ありがとうございました。キャンパスの中の教員宿舎の生活では、味わう事のできない様々な経験をさせていただきました。中国人の生の生活習慣にも触れることができました。
 パン屋の小太りした丸顔のおばさん、いつもおまけをしてくれてありがとう。中国語で話しかけてくれて、駄目だとわかると満面の笑顔でブロークンな英語を使ってくれました。路上でキュウリとトマトだけを一年中商うおばさんは、この辺りのピカイチの美人です。紫と緑と赤のジャンバーを毎日着替えています。ある日私が「とても素敵な色だ、とても良く似合う」と、言うとニッコリ笑ってキューリをおまけしてくれました。もちろん中国語ですよ。隣りの店の方が鮮度が良いのに、私はこの福来里の楊貴妃の店を訪れるのでした。
 果物屋の女将さん。早朝から夜遅くまで、本当に良く働きます。私が、これが欲しいと言うと、「それは古いからやめときなさい」と別の新鮮なフルーツを勧めてくれました。洗ってないフルーツを差し出し味見をさせてくれますが、私は農薬が気になり最初は、困惑しましたが、今ではそれもなれました。
 人懐っこい小学生の息子、実家の内蒙古の53度の白酒(バイジョウ)を私に一瓶くれた果物屋の老板。毎朝挨拶を交わした、廃品回収業のおじさん。前歯が欠けている笑顔でご挨拶。日本のタバコと帽子を差し上げ、明日帰国する、と告げると、笑顔が複雑な顔に変わりました。毎朝マンションの前の公設のゴミ箱をかき回す彼と会話をする人はもう居ないかもしれません。
 皆さん、お元気でお暮らし下さい。急に涙がこぼれてきました。再見!
 *「南の風」 2463号 (2010年7月2日)

■烟台の風91ロマンと怨念の海を渡る (Fri, 25 Jun 2010 21:06)
 烟台から日本への直行便は、大阪関西空港への週3便(火・木・土)が出ていますが、東京(成田・羽田)はありません。東京には乗り継ぎ便を利用するか、青島空港からの直行便を使うことになります。烟台から隣接の青島までは車で3時間かかります。烟台から北京の乗り継ぎ便を利用するビジネスマンが多いようですが、私はソウル仁川空港の乗り継ぎ便をいつも使っています。韓国語に接すると、なぜかホッとするからです。
 今回の帰国は、私の長年の夢であった、船旅にすることにしました。その昔、遣隋使(600年〜614年)と遣唐使(630年〜894年)が渡海した海路を航海して、その頃の苦労を体感してみたいという理由からです。烟台の風9号でご紹介したとおり、遣唐使船は白村江の戦い(663年)で朝鮮半島情勢が不穏になるまでの北路で、その後は九州坊津の南路に変わりますが、今回の私の旅は、この北路による遣唐使帰還船と同じ海路の船旅なのです。当時と違うのは、出港が登州(烟台市)ではなく天津港で、入港も難波ではなく神戸港だということだけです。
 海上の天候が気になりますが、青丘(朝鮮半島)が見えるのでしょうか、済州島が見えるのでしょうか。瀬戸内の島々が見えるのでしょうか、今から少年のように胸をワクワクさせている私です。先日見たテレビドラマ「楊貴妃」は玄宗皇帝の近衛兵に楊貴妃は殺されず、遣唐使船で日本に渡る、という筋立てでした。山口県の油谷町の二尊院には、今でも楊貴妃の墓があります。秦の始皇帝が蓬莱(日本)に渡海させた徐福伝説は和歌山県新宮市をはじめ日本各地にあります。
 関釜航路で朝鮮半島に渡り、満蒙開拓団として大陸に渡った人たちの怨念が浮かぶ玄界灘、明時代に明の海岸線を荒らしまわった和寇が活躍した海原、元の大軍を乗せた船団が押し寄せた元寇の海、と人々の恨みが漂う大海、そして多くのロマンと伝説を生み出した大海を私はこれから渡ります。多くの先進的な文化を持ち帰った遣隋・遣唐使と同じ海路で、私は静かに自分を見つめ直し語りかけるのです。*「南の風」 2462号 (2010年6月30日)

■烟台の風90中国のマンションは広い (Tue, 22 Jun 2010 10:12)
 今日の最高気温は、31度です。強烈な暑さですが、湿気が少ないため、過ごしやすい烟台です。南部地方は大洪水で大きな被害が出ていますが、山東省は自然災害の少ない住み易い地域です。昨日(20日)は、会社の事務員の張雪平さんのご家庭に招待されました。張雪平さんは、この学校と会社の中では一番のベテラン職員です。6年前に、3年間福井県で研修生として働いた経験が有ります。私の世話も何かと細かく気遣ってくれます。
 昨年の夏にご主人とお嬢さんには、烟台の海水浴場でご一緒しましたが、ご自宅にお招きいただくのは、初めてです。私の自宅に車で迎えに来ていただけるというので、手土産に今が旬の烟台名物の「桜桃(サクランボ)」1箱と大房の「香蕉(バナナ)」を買い求めて待ちました。
 ご自宅は、私と同じ芝罘区(チーフ・ク)ですが、ちょうど東西の端と端にあたり、私が東で彼女が西に住んでいます。烟台の風80号で紹介させていただいた芝罘島の入口付近のマンションの6階が住まいです。同居をしている、彼女のご両親の出迎えを受けて私は入室をしました。日本のマンションに比べ、間取りの寸法が大きいくて、広々しています。台所、ダイニングルーム、夫婦、両親、子どもの部屋とシャワー・洗濯・トイレの部屋と物置部屋ですが、とてもゆったりとしている間取りです。
 4歳のお嬢さんは、日本語の単語と日本の童謡が歌え、私に披露してくれました。ご主人は歯医者さんで働いていているので、いつも子育てはご両親がなさっているのだそうです。お父さんは、家具職人で会社を経営なさっていらしたそうです。お孫さんに絵を描いてあげる手つきは、家具のデザイン画で身に付けた技術でした。
 張雪平さんの手際の良い料理が出来上がる頃に、私の秘書役の程冬梅さんも到着し、賑やかな昼食会となりました。大連の「雪花」というビールで乾杯し、張裕のワインで美味しい手作家庭料理をたらふくいただきました。張雪平さん、ご主人の申東奎さん、お嬢さんの申佳卉さん、そしてご両親、いつまでもお幸せに! *「南の風」 2458号 (2010年6月23日)

■烟台の風89最後の留学生を送り出します (Sun, 20 Jun 2010 09:23)
 私が教えた最後の学生二人とお別れ会を行いました。二人ともこの9月には日本留学が決まっており、きょう(18日)はお祝いの会でもありました。遅明昊さんはいつもニコニコしている色白の好青年です。彼は、高等専門学校で造園学を修めたのですが、なぜか心理学を目ざして日本留学を決めたそうです。お父さんは食糧事務所の役人だそうです。私の教え子の中で一番大器晩成型の学生で、いつも私から叱られてばかりいましたが、それでもニコニコ顔で頑張ってきました。八仙人で有名な蓬莱の出身です。
 もう一人は、閻勇良さんです。彼は莱陽梨で有名な莱陽市の出身ですが、梨ではなく林檎農園を家庭は経営しているそうです。お父さんは林檎の加工品を製造する会社も経営していて、いわば恵まれた家庭の子息なのです。親父さんの後を継ぐのかと思えば、その会社を飛び出して、自分のやりたい電子工学の道に進むために日本留学を決めたのだとか。彼も、日本語の授業で
は私を手こずらせた学生の一人です。二人とも異色の存在です。
 その可愛い学生二人が最後まで残った私の学生なのです。ようやく日本留学が決まり私の責任の一端が果たされたのです。
 以前からの約束どおり中国式シャブシャブ(火鍋)で、乾杯を重ねました。彼らの心もとない日本語と私の稚拙な中国語の会話で、時には英語や筆談を交え話題は尽きませんでした。他のグループと会食すると、大概残してしまう食べ物も、さすがに若者です。3人で6人前頼んだ、牛肉、豚肉、羊肉も野菜も一切れも残すことなく完食でした。
 「先生、日本では肉は高いですか」「先生、日本人の一番好きな食べ物は何ですか」、と次から次ぎへと質問の矢が飛び交います。おやおや、授業の延長みたいですね、と私は思わず苦笑したのです。日本での再会を願い、「困ったことがあったら私に連絡しなさい」と、硬い約束をして、別れたのです。この程度の日本語の会話力、聴力、読解力では、日本に留学しても、相当苦労するぞ、と思う私の考えが徒労に帰すことを願いつつ、二人からいただいた中国茶の土産を抱えて、「これで私の役割は終えたのだ」、と心の中で叫ぶ私の足取りは軽く弾んでいました。
*「南の風」 2457号 (2010年6月22日)

■烟台の風88−突然消え去ったレストラン (Fri, 18 Jun 2010 22:48)
 「烟台の風」が第88号を迎えました。これも「南の風」はじめ、多くの読者の励ましがあったお蔭です。ありがとうございました。
 8という数字は中国では、とても縁起の良い数字です。北京オリンピックが8月8日の8時に開会式を開催したことは、まだ記憶に新しい出来事でしたね。私の授業でも、「中国人の好きな字と嫌いな数字」「日本人の好きな数字と嫌いな数字」などを取り上げて話し合ったことがあります。その、おめでたい第88号には相応しくない話題を紹介します。

 私の行きつけのレストラン兼居酒屋の「金秋餐館」が、突然消え去ったのです。5月19日の夜、私を訪ねてくれた友人とこの店で会食をしてから、24日に旅行から帰ってみると、看板が全く違っているのです。他のお店が営業していました。近所の果物屋の女将さんや駐車場の管理人のおばさんに、聞いてみましたが、誰も「不知道(プ・チーダオ)!」といってその理由を知りません。
 この店は蓬莱料理の店で、味が比較的あっさりしていて、新鮮な野菜と魚介類を使った料理を安く提供してくれる私のお気に入りの店でした。特に蓬莱小麺と蓬莱餃子は、なかなかの味です。両方とも海鮮と野菜の2種類があり、どちらも甲乙付けがたい美味しさを誇っています。店内はいつも満席でとてもはやっていました。なのに....。何があったのでしょうか。
 この料理の味もさることながら、この店を経営する若い夫婦の人柄が良くて、二人の笑顔を求めて私は通ったのかもしれません。老板のご主人は痩せ型の好男子、奥さんの女老板は、目の大きな美人です。「日本語を勉強したい」と言っていた、13歳の一人娘も将来が楽しみな可愛い子でした。お店は、メニューなどはなく、入口に今日料理する献立の見本が20種類ほど展示されていて、それを客がそれぞれが選ぶ方式です。中国語が不自由な私でも、指差して注文できます。料理の名前や素材については、いつも筆談でしたが、奥さんは笑顔を絶やすことはなく、大きな目をくりくりさせて、綺麗な字で教えてくれました。
 日本から持ってきた、チョコレートや煙草などを土産に差し上げると、大変喜んでくれました。逆に煙台名物の林檎「冨士」を一箱いただいたこともありました。私の住むこの街の商店を見ると確かにいろんな店が、開閉店を繰り返しているようです。劉さんご夫妻、お嬢さん、お幸せに。
*「南の風」 2456号 (2010年6月20日)

■烟台の風87−毛沢東の詩「沁園春・雪」を暗唱  (Mon, 14 Jun 2010 12:59)
 (前回につづく) 私は、舞踊劇の題名「一代天驕」の意味を王斌さんに尋ねました。すると彼は即座に毛沢東の詩を手帳に書き込み、私にくれたのです。高校生時代に習った詩だそうです。私は驚愕しました。それは完璧に暗唱している詩を、スラスラと書いている王斌さんの姿にです。題名の「一代天驕」は、毛沢東の詩「沁園春・雪」の一節を借りたのだとか。意味は、「蒙古で最も有名な」とでも言うようです。
 この詩は毛沢東が国民党軍との戦いに破れ、長征を行い1936年2月に延安で詠んだ詩です。ですから、自らを中国史の英雄と比べて自身を鼓舞しています。毛沢東の生地は中国南方の温かい湖南省の韶山市ですから、北方の寒さにはさぞかし辛い思いをしたことでしょう。ここで、王斌さんがメモをして私にくれた詩を紹介させていただきます。
 『北国風光、千里氷封、万里雪飄。望長城内外、惟餘莽莽;大河上下、頓失滔滔。山舞銀蛇、原馳*○象、欲与天公試比高。須晴日、看紅装素裏、分外妖*□。紅山如此多嬌、引無数英雄競折腰。惜秦皇漢武、略輸文采;唐宋宋祖、稍遜風騒。一代天驕成吉思汗、只識彎弓射大雕。倶往矣、数風流人物、還看今朝。』 *文字○は虫編に昔(ローソク)、*□は女編に堯(ようえん)。
 以下は、私伊藤による稚拙な和訳です。追い詰められた革命家であり、詩人、書家の毛沢東の面目躍如ということでしょうか。
 『北国の景色は遥か彼方まで氷に封じ込められ、どこまでも雪が風に舞っている。万里の長城の内と外を望めば、ただ広々として、黄河の上流や下流では、水はたちまちに氷付いて流れが失われる。山は白銀に舞い、原野は一面真っ白である。天の神と試しに高さを比べてみたいものだ。晴れた日を待つ。白い雪原に紅い太陽見る、とりわけ艶やかである。
 祖国の山河はこんなにもとても美しいのだ。多くの英雄に競い合わせて、敬意を表す。残念なことには、秦の始皇帝、漢の武帝はだいたい文才に劣る。唐の太宗、宋の太祖はやや文学に劣っている。モンゴルの最も有名なチンギス汗はただ大鷲を射ることだけを知っているだけだ。みんな過ぎ去ってしまった。英雄的な人物を数えあげるのなら、なお今日の人(毛沢東)を見よ。』 
*「南の風」 2454号 (2010年6月16日)


■烟台の風86−チンギス汗の舞踊劇を鑑賞  (Mon, 14 Jun 2010 12:47)
 昨日(6月10日)は、私の全快祝いと称して、烟台市文化センターの大劇場で開催された舞踊劇「一代天驕」を、お世話になっている青年二人を招待して観劇と洒落こみました。
 一人は、私の通訳兼秘書兼生活指導役の程冬梅さん。彼女は山東省の省都「済南(チーナン)」市の出身で、魯東大学の日本語科を卒業した25歳の女性です。私の看病の時は、台所の掃除、玄関床タイルのモップがけ、と働き詰めで、近所のレストランから食事を運んでくれました。彼女は就学前、幼稚園には通わず、お祖父さんが、厳しく『唐詩』を教えてくれて、それを暗唱させられたそうです。今は東京に留学中の劉暁宇君も幼少の頃、お祖父さんに『大学・中庸』を教わったと聞きましたが、まだ中国の知識人の世界には、こうした伝統的な教育が息づいているのですね。
 もう一人は、私のPCの先生で、何かトラブルが起きると直ぐに駆けつけてくれる王斌さんです。彼は洛陽の近く河南省駐馬店市の西平(シーピン)県の出身で25歳の男性です。日本語はまるっきり駄目で、私との会話は英語か筆談なのです。9日も私のPCのマウスが壊れてしまいましたが、直ぐに修復してくれました。
 演劇のチケットは、一人120元です。バスが1元、牛肉ラーメン5元、卵炒飯4元、ですからかなり高額なチケットです。私は観劇の時間前に彼らを夕食に誘いました。文化センター前の「天天漁湾」という高級レストランです。「今日は日頃のお礼だから、何でも遠慮なく注文して食べて下さい」と私が言うと、彼らはお互いに顔を見合わせて、そして言いました。先生、ここは高いから他の店に行きましょう」と。
 路地裏の「ワンタン」の店に私は連れて行かれました。「若いのに遠慮なんかすることないのに」、と私が言うと、「先生、あそこは座っただけでも一人50元以上します。ここなら6元ですよ。」とたしなめられました。舞踊劇「一代天驕」は、モンゴルの英雄「成吉思汗」の叙事詩です。舞台は、音楽、照明、美術と演出構成がそれはそれは見事に組み合わされ、豪華絢爛に繰り広げられていました。套図格(トクタホ)さんや賽音吉雅(セーンジャー)さんに見せて上げたいですね。(次回につづく) *「南の風」 2453号 (2010年6月15日)

■烟台の風85点滴注射は大芸術家を生む (Thu, 10 Jun 2010 17:56)
   (前号のつづき) :私の病状は好転しないまま、結局3日連続の点滴治療となりました。点滴を受けた後、車で自宅まで送っていただき、床に伏すとそれはそれは不思議な体験をしたのです。
 目を閉じていても、目をあけていても、天井を見る私の網膜には、様々な天然色の模様が飛び交うのです。抽象もあれば具象もあって、現代絵画を眺めているようなのです。万華鏡を覗いて廻しているかのように画面は次から次へと移り変わります。私は抽象画の大画伯か、グラフィックデザイナーにでもなったかのような錯覚におちいりました。幻影、幻想、幻覚、です。マイク・シャガールのような大画面が飛び交うとおもえば、古き日本の伝統文様までが飛び交うのです。
 画面は模様だけでなく、今は亡き多くの人たちの顔、顔、顔、が続きます。一人は確かに名古屋の叔父でしたが、こちらに手招きをしています。お前の親父も呼んでるぞとばかりに。訪中前に目白大学の黄丹青先生から、「中国では簡単な風邪でも直ぐに強い点滴注射を打たれますから、気を付けて下さい。」と教えていただいたのは、このことだったのですね。
 強い薬の中には、覚せい剤に近い成分も含まれていたのでしょう。音楽家やアーティストに覚せい剤を常用する人が後を断たないのは、詩や音楽や美術に関わる、幻影、幻想、幻覚、が薬の成分によって生み出されるからなのでしょうね。
 3日目にようやく、聴診器による胸部の診察を受け、4日目にやっと胸部のX線検査をして、無事治療は終了となりました。中国ではレントゲン写真は、患者にそのまま持たせてくれます。貴重な体験をさせていただき、ありがとうございました。*「南の風」 2452号、2010年6月13日)

■烟台の風84−初めての点滴治療 (Thu, 10 Jun 2010 11:34)
 山東省旅行団のご一行を見送ると、私の心はポッカリ穴が開いてしまいました。それまでの緊張から開放された気の緩みからでしょうか。それとも連日早朝起床と8時出発の長距離バスの疲れからでしょうか。幹事部屋での深夜11半まで痛飲が原因でしょうか、私は重い風邪(中国語で感冒)に心身共に冒されてしまいました。
 私がいつも持参する常備薬の「ルル」を飲んでも全く効き目がありません。近所の薬局で地元の薬を買い求めても、かえって症状は悪化するばかりです。見かねた学校事務の程冬梅さんが、「これから直ぐに病院へ行きましょう」、と私を王君さんの運転する車で案内してくれました。
 烟台には高層の最新式病院がたくさんあります。私たちが到着したのはこの地方で最も伝統のある格式の高い「青島大学医学院附属烟台毓黄(正しくは王編に黄)頂医院(ユファングディング・イユァン)」です。創立は古く1890年。歴代医院長の中の初代から6代まではアメリカ人ですが、7代目(1939年〜1942年)は日本人の石垣太郎という人です。日本軍が烟台を占領したのが、1938年と1941年であったのと符合するのです。建物は、旧ヨーロッパ風の建築で、玄関ホールは広々としています。
 受付に来意を告げると1階の呼吸器の受付に回されました。そこで医師の問診を受けて、先ず料金を支払います。そして血液検査が行われました。それから問診を担当された女性医師に検査結果表を提出したのです。医師からサインを求められ、その問診表を携えて、料金をまた支払い、いよいよ点滴治療です。およそ2時間そのままベッとに伏せていました。
 日本ですと、最初に聴診器を当てたり血圧を計ったりしながら、胸部X線写真を撮ったりするのですが、ここ中国(烟台)では、いきなり点滴液による治療なのです。岩本陽児先生、イギリスではいかがでしたか。この病院の初代から6代は米国人でした。(次回につづく) 
*「南の風」 2451号 (2010年6月11日)


■烟台の風83−老舎の記念館と老舎の人生 (Thu, 27 May 2010 09:03)
 (前号から) 老舎の旧居は、ドイツ総督府(日本守備軍司令部)の建物の近くにある「老舎公園」にあるのかと私は想像しましたが、違いました。私たちが宿泊した「東方飯店」の近くにありました。そこは「小魚山」という地域です。青島市内観光地図では分かりにくいのですが、路地の辻に案内板が設置されていました。「小魚山文化名人故居分布示意図」と表示されていて、30人ほどの名前と住所が地図上に書かれていました。住所を頼りに、ホテルの前の大学路を美術館に沿って歩き、黄県路を左折すると、そこが「老舎故居」でした。なんとホテルから5分の距離です。
 さて、またしても偶然が私を招き入れたのです。旧居の敷地内は大勢の来賓客と報道陣が詰めかけ、外の道路は警備する警察官と車で溢れています。実は5月24日のこの日、老舎の旧居を利用した記念館の開館式が開催される日だったのです。記念館は老舎の代表作『駱駝祥子』(1936年)の名をとって「駱駝祥子記念館」となっていました。旧居は1階が展示室、2階が茶館、3回は畳を敷き詰めた中国茶道の部屋となっています。
 老舎は、清末期の1889年に北京で生まれた満州人です。父を義和団事件で亡くし、母によって育てられ、貧しい少年時代を過ごしたそうです。慈善家の援助を通じて北京師範学校を卒業して、わずか19歳で小学校長を務めました。その後ロンドン大学で中国語の講師を行い、この時から小説を書くようになりました。1930年に帰国して青島の「山東大学」に赴任します。この時の住居が黄県路に現存する「老舎故居」です。この当時、日本軍の中国侵略は山東省にも及び、老舎は「抗日作家」の道を歩みます。
 その後、周恩来の要請により「全国文芸界抗敵協会」の理事として機関誌『抗戦文芸』の編集長を努めたのです。解放後、老舎は「人民芸術家」の称号を得て、創作活動を展開しましたが、文化大革命により紅衛兵に糾弾されて自殺(1966年)に追い込まれてしまったのです。そして1978年に名誉回復がなされました。記念館の2階は、老舎のもう一つの代表作『茶館』(1956年)の名を借りて茶館と名付けられています。(「南の風」 2445号、2010年6月1日)

■烟台の風82−偶然という名のチャンス (Thu, 27 May 2010 08:13) 
 烟台を訪れた友人が機内で配られた新聞を私に渡して「長さんは、日本の新聞が読みたいでしょう」と言いました。手渡されたのは、5月19日付けの朝日新聞の朝刊でした。私は揚げ物を作った後、油を直接流し台に流さぬよう、新聞紙に油を吸い取らせています。それ故、有り難く頂戴し自宅に持ち帰りました。
 青島から烟台に戻った私は、煮物の鍋敷きにその新聞を用い、何気なく開くと、都内版に私の眼は釘付けになったのです。そこには、「戦前中国にあった日本人学校・青島高女」「創立95周年節目、同窓会活動に幕」、という記事が掲載されていたからです。偶然とはいえ、たまたま捨てる前に開いた紙面に、昨日散策した青島に係わる日本の記事が載っていたのです。実に出来すぎた話ではありませんか。先日の「5月5日と竹馬の友」(南の風2432号:烟台の風78)の時も不思議な力を私は感じたのですが、今回も泰山、労山の神々が私を神秘の世界に引き込んでくれたのです。
 さて、皆さんは「老舎」という小説家・劇作家をご存知でしょう。私は青島で老舎の旧居を訪ねてきました。今回の山東省旅行に韓国から参加された、李時載先生にお誘いをいただき「青島菜館」で食事をした時です。「中国の知識人・文化人の生き様」についてお話をうかがいました。激動の時代、狂乱の時代をどのように生きるのか、ということです。この国では、自説を曲げ、変節に変節を重ねて生き抜いた人もいれば、自説を守り死を選んだ人など様々な知識人がいたそうです。老舎は文化大革命で紅衛兵に暴行を受けて入水自殺をしています。李時載先生はこの老舎の生き方に関心を持っていらっしゃるそうです。
 そこで私は翌朝、私の脳裏に焼き付けられた老舎が実際に暮らしていた旧居を訪ねたのです。これも偶然なのです。旅行団の中で李時載先生だけが帰国便のチケットが入手できず、1日青島で私と連泊されましたが、これが無ければ私は老舎の旧居を訪れてはいなかったでしょうね。(次号につづく) (「南の風」 2444号、2010年5月29日)

■烟台の風81−無神論者から多神教論者に (Tue, 25 May 2010 20:16)
 山東省旅行団一行の帰国を見送り、青島に残った私は一人「労山」一日観光バスに乗りました。労山(労は山偏に労)は道教発祥地のです。前夜予約したバスがホテルまで迎えに来てくれました。先ず青島のテレビ塔の展望台に案内され、360度の地形を観察します。バスに同乗した若いカップルが片言の英語で私をエスコートしてくれます。バスガイドの早口な中国語は、私には何も理解できません。個別に昼食の注文を聞きにきた時には、漢字での筆談でした。
 「ドイツの租借地を日本が占領して」とでも言っていた、ガイドの説明の時は、満席の中国人の観光客の目が私に集中しました。でも皆農村からやって来た気の良い人たちです。さあリフトに乗り、その後は山登りです。ガイドは乗客の若い青年に私のガード役を依頼しました。彼は流暢で美しい英語を話します。カナダに留学中の22歳の学生で「江衛杰(ジャン・ウェイジェ)」君と言います。休暇を利用しての一時帰国だそうで、この旅行のあと大学に戻るとのこと。専攻は化学だとか。私の専攻や過去の履歴、現在の仕事などを事細かく英語で私に質問を浴びせかけてきます。私は英語と中国語のチャンポンで答えるのです。
 巨大な岩山の登山はかなりきつく、喘ぎ喘ぎ息き絶え絶えの私ですが、河北省張家口市から来た農民は、私と同い歳なのに軽い足取りでいて、私を気遣ってくれます。泰山ではあんなに軽かった私の足は、ここ労山では重いのです。労山の頂上から眺める黄海は絶景でした。山裾は薄紫色の桐の花とニセアカシアの白い花が新緑に浮かび上がっていました。
 道教の聖山ですが、参拝したのは仏教寺院の「華厳寺」でした。山深い所に建立されている寺院ですが、境内は現世御利益を願う観光客で一杯です。私も並んで尊いお坊さんから念仏とともに額と胸に聖水をかけていただきました。私は日本からやって来たと言うと、僧侶はニッコリ頷きました。合掌して「阿弥陀佛」とお経の最初と最後に全員で唱えるのです。
 寺院に登る入山口には、西域の砂漠を越えた天竺求法の「法顕」の大き銅像と、『仏国記』に記された場面の銅製レリーフが何枚も設置されています。何故この地に法顕がと思い、調べてみると、インドからの帰途、法顕は海路でこの労山にただ一人漂着したのだそうです。時は412年のことだとか。
 翌日私は、道教の「天后宮」に参拝して、それから1908年にドイツ人が建てたキリスト教の教会を訪れました。急に私は青島で無神論者から多神教論者に変身してしまったのです。観光バスは「東方飯店(ホテル)」前で私だけ途中下車させてくれました。私は大声で、「今天、非常感謝!大家、一路平安!」と中国語で全員に別れの挨拶をして車を降りたのです。青年にはメールで写真を送る固い約束をして。(「南の風」 2443号、2010年5月27日)

■烟台の風80−乙姫さまの白日夢 (Fri, 14 May 2010 22:38)
 烟台に来て初めて芝罘島(チーフーダオ)に行って来ました。ここ烟台は、烟台と名付けられる前は、長らく芝罘と呼ばれていたところです。唐の時代の地名は、登州と呼ばれ登州府が置かれていました。遣隋使、遣唐使が中国に到着して最初に上陸した土地です。いわば長安への表玄関が現在の烟台だったのです。
 芝罘の名は芝罘島からきています。今では島は陸つづきとなっていますが、秦の始皇帝時代は島だったのです。ここに、始皇帝は3回巡幸しています。海の無い内陸育ちの始皇帝は、ここへ来て、「不老不死」の薬を求め、はるか彼方の「蓬莱(日本)」を見つめ、徐福に命じて渡海させたのでしょう。
 バス停に向かう近道の途中に海産物問屋の市場があります。そこを抜け出ると烟台駅前のバス停なのです。足早に歩を進めると、早朝の仕事を終えた人たちが歩道でトランプや麻雀をしています。私は歩みを止めて麻雀を覗き込みました。男女2人づつが真剣勝負をしています。その中の一人の女性は、この魚の臭いが立ち込めた市場には、不釣合いな服装の、それは竜宮城の乙姫さまのような美人です。急いでいた私は、しばしそこに立ち止まり、麻雀を覗いているがごとく美人を眺めていたのです。負けて支払う10元札を投げる白魚のような指も艶かしいのです。老人が公園や歩道でやっている麻雀は1角、2角(3円)の単位ですが、さすがに日銭の稼げる市場ともなると10元(150円)と賭けけ金も高額です。この乙姫さまは、たぶん始皇帝の霊が私に遣わしたのだ、と納得して私はその場を離れバス停に向かったのです。
 さて、芝罘島はバスに乗って30分で到着です。造船所と軍の施設と漁民の集落からできている地域です。バスは島の先端までは行かず途中で終点でした。対岸の烟台の中心地の海岸にそびえ立つ高層ビル群が霞んで見えます。出船入り船が無数に行き交います。大連行きの船、韓国仁川からの船、大きなタンカーがやって来ました。
 あれは、小野妹子の乗った遣唐使船です。妹子が手を振っています。いやあれは、倭寇の一団でしょう。そうかしら、あれは清の北洋艦隊では。違う、日本軍の山東出兵の艦隊では。何を馬鹿なことを、徐福の渡海船ですよ。
 黄海の烟台湾を眺める私に白日夢が駆け巡り、先ほどの乙姫さまが手招きをしています。私は時間を忘れてそこにたたずみ、空白の心を満たしたのです。(「南の風」 2436号、2010年5月16日)

■烟台の風79高価なワインに大満足 (Wed, 12 May 2010 18:29)
 私の娘二人が友人を伴い烟台に来てくれました。数日前からの天気予報では、あいにくの雨天でしたが、ここ山東半島の気象は海洋性の気候と大陸性の気候とシベリアからの気団がぶつかり合うためか、予報官泣かせの気象です。あに図らんかな、10日は晴天となりました。青空に柳絮が舞う絶好の旅日和となったのです。天帝に感謝です。
 昨日は、親に似ず飲ん兵衛な愛娘を案内して、張裕葡萄酒博物館を見学しました。烟台は、中国のワインの名産地です。郊外には延々と葡萄畑が広がります。中でも有名なのが張裕の赤ワィンなのです。この赤ワインは、国際ワインコンクールで金賞を受賞したそうです。他社のワインは40元ぐらいで買えますが、私が日本へ土産に持ち込む張裕赤ワィンは126元(1890円)もします。
 私は、この博物館に何度も友人を案内して見学しているのですが、世界各国のワインの紹介とラベルの展示がなされているコーナーには、なぜか日本は紹介されていないのが、私にはチョッピリ不満なのです。入館料は30元ですが、お土産にブランデーのミニボトルをくれます。
 その晩の歓迎の夕食会では、ビールで乾杯ですが、友人の一人が健康上焼酎しか飲めない、との事前の情報で、私は大型スーパーマーケットの「大潤発(タールンファ)」に出かけ、韓国産「真露」を買い求めて持込をしました。中国の白酒(バイジョーウ)は酒精度数が強すぎて飲めないのだそうです。
 私の長女は藤沢でレストランを経営していますので、ビールもワインも、何でも来いですが、二女は白ワインしか飲みません。宴会の料理は、山東省の海鮮料理です。地元烟台の山の幸、海の幸をふんだんに使ったたくさんの珍味です。宴席の支払いは8人で総額650元(9750円)でした。その中で、なんと白ワイン1本が150元(2250円)です。この白ワインは、赤ワインが好きな長女が白ワイン好きの妹を気遣い注文したものです。
 日本円に換算すればたいした金額ではありませんが、こちら中国の生活感覚で言えば、高額なのです。そうです、大卒初任給の一ヶ月の給料が1000元〜1200元(18000円)なのですから。ちなみに有名な茅台酒の値段を紹介します。度数によって価格が違います。一番低い33度は418元、38度(468元)、43度(539元)、53度(798元)です。30年ものの茅台酒は、なんと13,998元(約21万円)なのです。こんな高い酒を誰が飲むのでしょうか。(「南の風」 2435号、2010年5月14日)

■烟台の風785月5日と竹馬の友 (Thu, 6 May 2010 22:18)
 初夏のような気温とともに沿道の花壇に花が植えられました。ペチュニア、マリーゴールド、サルビア、などが色鮮やかに咲き誇り、これが数日前(4月28日)にみぞれが降った烟台市かと疑いたくなるような晴天が続いています。数日前の二日間は、最高気温28度でした。昨日は23度で今日は、17度です。黄宗建先生が赴任なさっていた○(さんずいに維)坊市(ウェイファン・シ)は32度と高温でした。
 私には名前が分かりませんが、各所で桐の木の花に似た高木が薄紫色の花を青空一杯に咲かしています。学校近くの歩道では、八重桜が重そうな花弁を競い合って広げています。花蘇芳、花桃、雪柳、小梅桜、等も負けてならじと、一斉にその美しさを主張しているのです。街路樹もようやく銀杏、プラタナスの若葉が長い冬の眠りから目覚めて歌を歌い出しました。でも、ソウルでは満開だったつつじは、ここ烟台ではまだ咲き出してはいません。昨日の5月5日は「立夏」だというのに。
 昨日私は、何気なく小林先生のHPを開いて「追悼のページ・アーカイブス」というファイルを見つけ、タイトルに引かれ「15.お幼な友、大鶴泰弘くんの思い出」を拝読させていただきました。小林先生が竹馬の友の突然の悲報に接し、奥様に差し上げたお悔やみの書簡でした。小林先生のお人柄を表す、文章を拝読するうちに私の目頭は熱くなりました。
 私も、私の成長に影響を与えてくれた友が何人かいますが、最近は皆年賀状だけのお付き合いだけになってしまっています。そうだ、帰国したら早速連絡を取り合い、会って過ぎし日の若き日を語り合い、「長(おさ)ちゃん」、「ゴンちゃん」と呼び合おうと心に決めたのです。それから、そのファイルの末尾の日付を見るとなんと1993年5月5日でした。なんと、17年後の同じ5月5日に小林先生の文章を拝読させていただいたのです。とても不思議な引き合わせでしょう。(「南の風」 2432号、2010年5月7日)

■烟台の風77私的老朋は環境保護と家事の天才 (Mon, 3 May 2010 20:36)
 4月30日から5月2日にかけて韓国を訪れました。4月28日にはみぞれが降る異常気象の烟台でしたが、ソウルはすっかり夏の気温でした。仁川からのリムジンバスの車窓からは、街路樹の桜が満開に咲き誇り、私を歓迎してくれました。今回の旅行は、川崎市の市議会議員の飯塚正良さんが、川崎市と姉妹友好都市の韓国富川市から「名誉市民証」を授与され(南の風2410号既報・3月31日)、その受賞式と講演会に招かれて出席したのです。
 式典や交流会では、いきなり私が川崎側の川崎・富川市民交流会を代表して挨拶を求められました。突然ですし、何にも事前準備のないままの挨拶でしたが、それが幸したのか全部韓国語で挨拶ができました。ほとんど使う機会のない韓国語で錆付いているはずですが、なんとかなるものですね。
 面白い話をご紹介します。韓国側の富川・川崎市民交流会の代表の李時載教授(カトリック大学)は、当日の授賞式と講演会が終了後、日程が重なり交流会(歓迎会)には出席できず、そのお詫びに翌日の夜、私たちを招いて下さいました。李先生は韓国の環境社会学を創設され、自治体政策の指導的な重鎮でもいらっしゃいます。環境問題だけでなく多くの市民運動を支援してこられました。川崎市と富川市を結び付けたお仲人さんでもあり、度々川崎にも調査に来られ、20年来の私の韓国の古き友人(老朋)です。今度烟台(5月19日〜23日)にも来てくれるそうです。
 さて、ご招待いただいたレストランですが、そこは、李先生が理事長の環境保護運動の市民団体が経営する、自然農法(無農薬)野菜を使ったレストランです。韓国の王宮の「景福宮」のそばにありました。

 この環境保護運動団体は、中国で植樹をしたり、国内自治体の環境調査研究をしたり、ダム建設の反対運動などをしていますが、それだけではなく、生活協同組合(店舗と配送)の設置や「エコ食膳」という名のレストランを経営している、ユニークな団体なのです。もちろん、エコ弁当の注文も受けています。「環境農業団体連合会」の作成したパンフレットには、「医食同源」ではなく、「医食農同源」と農を主張しているところに私は関心させられました。
 当日は、無農薬純国産米で作った「マッコリ(濁り酒)」と、「木苺のワイン」をご馳走になりました。美味しいマッコリに話が盛り上がった時のことでした。伊藤が「私は初めての一人暮らしで大変だ」と言い、「38年間、女性教育一筋の私は、これからの男性は家事も育児もできなければなりません、と市民に言い続けてきたのに、私は何にもできないのです」と、我が恥を紹介しました。そして私は、「李先生は東大大学院留学5年間、アメリカで客員教授1年間、北京大学で客員教授1年間、など海外生活は豊富でいらっしゃるので、一人暮らしは慣れてるでしょうね。」、と質問をしたのです。
 すると李先生は、「私は料理をするのが大好きです。得意です。」「アメリカ赴任は、妻が大学で教えていて休めないので、3人の子どもを連れて渡米しました。」「3人の子どもの朝ご飯を支度して、学校に送り出してから大学に行き、夜も夕食後に子どもの勉強を手伝った。」と言われました。今でも毎日食事は奥さんとご一緒に作るのだそうです。
 亭主関白の日本の男性には聞かせられないですね。いや怖い「山の神」には聞かせられないですね。私は、妻に感謝をしている毎日ですが。(「南の風」 2431号、2010年5月6日)

■烟台の風76『牟氏庄園史実写真』の読後感 (Thu, 29 Apr 2010 21:07)
 「牟氏荘園」を前回(烟台の風73・74号)紹介しましたが、売店で『牟氏庄園史実写真』崔学明著(新華出版・2001年)という本を買い求めました。今まで見たことの無い漢字が多く印刷されていますが、何とか文意は読みとれます。寝る前に開いて見ると、余りの面白さに思わず時が経つのを忘れてしまいました。
 当時の農民が困窮のあまり、地主の牟氏と減税交渉した結果、農民25%、地主75%が収穫物を取得するということになった、と記述されていました。私の荘園訪問の第一印象の「農民の汗と涙」が実に正確であったことが立証されたのです。
 江戸時代の日本ですら「六公四民」で、それでも高額負担というので、百姓一揆が度々起きていたわけですから、25対75がどれだけ過酷なものであったのかは、想像に難くないですね。それも減税交渉以前はそれよりも過酷だったわけですから。観光バスを連ねて見物にやってくる人たちが、豪華な荘園に目を奪われて、そこで農奴的暮らしをしていた当時の庶民の生活を思いやる人がどれだけいるのか、私には心配でなりません。
 続けて本の内容を紹介します。土匪の襲撃、牟氏一族内の内紛、日本軍の侵攻、国民党の支配、八路軍(共産党軍)による解放、と歴史の荒波は牟氏一族を翻弄します。解放後の1951年、共産党による人民裁判では、国民党に協力したとのことで、牟氏の二人が有罪となり、その場で処刑されています。観衆は1万人を超えたそうです。本には、「遺体を埋葬する者誰も無し。犬が争って遺体を食う」と残酷な状況が記述されれいます。

 そして、文化大革命(1965〜1976年)が起きます。旧地主階級への徹底的な糾弾が始まりました。牟氏一族への批判集会は1966年の晩秋でした。紙で作った円錐の三角帽をかぶされ、、胸には首から下げた看板を吊るし、大群集の前に引き出されて膝まづき、頭を床につけて罵詈雑言を浴びせられ、その後街中を引き回されたのです。三角帽には「牛鬼蛇神」と書かれ、胸には「悪覇地主牟○○(名前)」とか「反革命分子牟○○」」とか、女性には、「悪覇地主婆」と書かれています。その後は、労働改造をさせられたのですね。
 同時に紅衛兵による文化財の破壊が徹底的に行われました。従って今荘園に展示されている美術工芸品は、破壊から逃れて残されたもので、荘園の最盛期のほんの一部にすぎないのです。
 本を読み進めるうちに、上品な老人を私は思い出しました。ノートを取り出して見ましたが、記録魔の私としたことが、名前を記録するのを忘れたのです。それは、牟氏一族の一人です。長身で気品のある穏やかな老人でした。大きな画仙紙を広げ、掛け軸の整理をされていました。同行の程冬梅さんが、清朝時代の宮廷衣装に身を包んだ男性の写真を指差し、「これは貴方の写真ですか?」と尋ねると、「そうです。」との返事でした。
 牟氏一族を襲った歴史の風雪に耐え忍んだ人の、もの静かで穏やかなたたずまいに、私はすっかり心を奪われ、その老人の名前を記録するのを忘れてしまったのです。私は本のページをめくる度にその老人の姿が目に浮かぶのです。(「南の風」 2430号、2010年5月4日)

■烟台の風75インターネットによる詐欺行為 (Wed, 28 Apr 2010 11:16)
 今朝、みぞれが降り出しました。三日続けての早朝の降雨です。不思議なことに、午前中9時頃には昨日も、一昨日も晴れ上がり、太陽が輝きました。昨晩は、高層ビルの谷間に満月が顔を出し、私は阿倍仲麻呂のように郷愁にひたったのでした。なのに、こんな朝を迎えるとは、クレジー・ウェザーです。英国みたい。3月6日から、雨は降らず乾燥しきっていましたので、惠みの雨ですが、あと3日で5月だというのに、「みぞれ」なんですから。
 さて、先にご紹介(南の風2422号)したように、26日に私をたずねて國學院大学での教え子で現在、渤海大学の日本語の先生の後藤さんが烟台にやって来ました。大学がある錦州から列車で5時間、大連からカーフェリーで6時間かけて、手土産の錦州銘酒をさげてやって来てくれました。大連港9時15分発、烟台港15時15分着の「普陀島」に乗船するという事前連絡を受け、私は出迎えに心を弾まして出かけたのです。船は15分遅れで着岸しました。彼とは5年ぶりの再会です。
 後藤さんは歓迎の宴席で、高津市民館の屋上で毎年開催していた、外国人市民の手づくりによる「多文化フェスタ」に私が学生たちを案内して、ビールを皆に振舞った、という話を披露してくれました。私は、遠い昔の甘い思い出のような感じで記憶を蘇らせたのでした。昨日は、蓬莱閣に彼を案内しましたが、車中でこんな面白い話を彼から聞きましたので、ご紹介します。
 後藤さんは錦州からインターネット検索で烟台市内のホテルを予約したそうです。20件ぐらい掲載されていた画面から、4つ星「太平洋大酒店」を選んだそうです。バスタブ付き(中国はシャワーだけの部屋が多いのです)素泊まり一泊135元です。私は、歓迎会の後、ホテルまで彼を送って別れたのですが、事件はその後です。
 彼はホテルのフロントで予約表を提示すると、「ここではない、このホテルの裏にある建物だ」、と言われて案内されたそうです。そこのホテルは「奇山酒店」という名の別のホテルだったそうです。
 インターネットによる、中国版詐欺行為ですね。最低でも4つ星ですと350元はするのですよ。うまい話は気をつけましょう。後藤さんは薄着でしたので、私の春物上着を差し上げましたが、これから青島に出かけるとのこと、風邪をひかぬよう「一路安全」を祈ります。みぞれが雪に変わってきました。彼との別れの涙が氷ついたのです。(「南の風」 2427号、2010年4月29日)

■烟台の風74−北方地方で最大規模の荘園A(Fri, 23 Apr 2010 21:13)
 <烟台の風74号−北方地方で最大規模の荘園A>(前号の続き)
 私は、新潟県魚沼地方の豪農の屋敷「目黒邸」を2度ほど訪れたことがあり、その豪華さに驚嘆したことがありますが、牟氏荘園はそれに比べれば、雲泥の差、月とすっぽんの違いがあります。その暮らしは、地方の小領主なのですから当たり前かもしれませんね。
 テーブルを紹介しましょう。樹齢千年を超える花梨の一枚板の卓子です。それも厚さ17センチ、幅170センチ、長さがなんと7.8メートル、重さ2トンもあるのです。さらに、中国で最大の硯が有りました。56匹の龍の彫刻が浮き彫りにされた硯で厚さ1.35メートル、幅3.5メートル、長さ14メートル、重さ68トンもあるのです。
 家具、調度品の数々はすべて豪華な彫刻がほどこされています。陶磁器をはじめ、どれもが美術工芸品です。これだけの富を生み出したのは、牟氏が所有した平地面積6万ムー(約4020ヘクタール)の耕作地と山地面積12万ムー(約8040ヘクタール)の山林。でも、その蔭で多くの農民の涙が流されたのでしょうね。改めて毛沢東の農民解放路線の偉大さを私は再確認したのです。
 石と木で作られた建物は、300年間の風雪にも耐えて、依然として当時の姿を保っています。旅行案内書には、「この封建地主の荘園は、百年荘園の生きた化石」「伝統的建築物の貴重な宝物」と紹介しています。
 入口付近の建物に「抗日戦争記念展示室」がありました。1940〜1944年までの間、この栖霞で、「日本軍によって1万9千の民家が焼かれ、共産党幹部が87名、軍人が1317名殺され、3.7億斤の食料と11万斤の食用油と3769頭の家畜が奪われ、2.5億元の現金と30万両の白銀、20万両を超える黄金が略奪された」、と表示されていました。実際、日本軍の空襲から逃れるため、1938年に造られた地下の防空壕も保存されていました。この展示は、美術品を鑑賞した後の弾んだ私の心を一気に曇らせたのです。(「南の風」 2426号、2010年4月27日)

■烟台の風73−北方地方で最大規模の荘園@ (Fri, 23 Apr 2010 21:13)
 烟台の山は、まだ深い眠りについたまま目覚めていません。それでも山麓の各地で桃の花,杏の花が満開になり、山に早く目を覚ますよう促しています。道路わきのレンギョが黄色い花を満開に咲かせて遅い春の訪れを告げてくれています。昨年の今頃とは20日ぐらい開花期が遅れていて、本年の厳しく、長かった冬を物語っています。柳、銀杏、ポプラがようやく芽吹きはじめています。車窓から眺める延々と続く果樹園はまだ枯れ枝を広げて春の衣は着ていません。
 今日は、烟台市の「栖霞(チシャ)」という町に遠出をしました。高速道路を車で走り1時間の距離です。ここに中国北方地方で最大規模の荘園が文化財として保存されているのです。「牟氏荘園」といって、旅行ガイドブックや教科書にも紹介されている野外博物館施設です。最近、当時の封建地主の豪華な暮らしと、農奴的な農民の暮らしを描いた「牟氏荘園」という同名のテレビドラマが放映され、多くの人が観光に訪れるようになっています。
 この荘園は、「民間の小故宮」と呼ばれ、広大な面積を有しています。清末からこの地方の大地主であった牟氏一族の荘園で、中国の封建的な地主の典型的な荘園です。かつては、5500戸あまりの家屋がありましたが、現在は、480棟ほどの建物が2万平方メートルの敷地に国家の重要文化財として保存されています。曲線を描いた屋根瓦の干支の動物が私達を睥睨していました。
 地図が無いと迷うほど石造りの建物がひしめきあっていますが、どの建物も門を入ると四合院風の中庭が有り植木が植えられています。中庭にコブシの大木が白い花を咲かせ黒い瓦屋根を背景にそびえ立っている建物がありました。コブシの花の香りがこんなにも芳香なものとは、私は初めて体験したのです。(次回に続く) (「南の風」 2424号、2010年4月25日)

■烟台の風72嬉しいことが続きます (Sun, 18 Apr 2010 07:58)
 さて、嬉しいことが続きました。昨日(15日)の昼食時の人混みの中で、声をかけてくれた人がいます。振り向くと、韓国学校に勤める李先華先生でした。「どこヘ行くのか」との問いに、「レストランを探している」と答えると、それなら案内すると連れて行かれたのは、紹興名物の「涼皮(リャンピー)」という辛い麺のお店でした。
 レストランというよりも屋台のような小さなお店です。両側の壁のカウンターに向かって食べる椅子が10席、女学生で満席でした。中国版ファーストフード店です。私たちの後にも外で何人か座席が空くのを待っているほど人気のあるお店でした。
 紹興といえば黄丹青先生の出身地ですね。紹興酒で有名ですが、涼皮も紹興名物だそうです。1杯4元です。李先華先生は帰りがけに「臭豆腐(チョウドウフ」を私に土産として買ってくれました。ここもたくさんの若い女性が油で揚がる臭豆腐を待っています。
 臭い豆腐と説明されましたが、揚げたての臭いはきつくありません。さめてくると独特の臭いがするのです。沖縄の「豆腐よう」とは違った味です。
 その夜は、私の弟の嫁さんが上海から電話をくれて、上海万博へのお誘いを受けました。  
 そして今日は、なんと遼寧省の錦州からメールが届きました。國學院大學での私の教え子の後藤さんからです。彼は3月から錦州市の渤海大学で日本語を教えていますが、中国のGWを利用して烟台を訪れるというのです。虫が知らせると言うのでしょうか、私は一昨日、学校の帰りに大連行きのカーフェリーを見に烟台港に立ち寄ったばかりなのです。もう少し暖かくなったら、この船に乗ってみようと時刻表の下見をしたのです。近藤さんはこのカーフェリーで大連からやってくるのです。今から再会が待ちどうしいですね。
 さらに今、部屋の掃除も一段落したところに電話です。先日東京へ留学した学生の李c君からの電話でした。私が先日空港まで見送りに行ったことへのお礼と、学校では伊藤先生に大変お世話になった、そして東京留学生グループは皆元気でやっていて、先日皆で夕食会をした、という近況報告でした。彼の声は弾んでいました。私も嬉しさのあまり、電話の声が大きくなりました。教師冥利に尽きるとはこのことを言うのでしょうか。(「南の風」 2422号、2010年4月20日)

■烟台の風・71−自然の怒りは収まらず (Fri, 16 Apr 2010 20:02)
 上海万国博覧会が5月1日から10月31日まで開催されます。テレビでも開幕まであと何日と連日放映されています。しかし、そうしたニュースを吹き飛ばすような、大事件が中国では次々に起きています。
 3月6日に私は烟台に戻りましたが、その日から今日まで雲南省、貴州を中心とした西南地方の大旱魃の映像が流されています。黄色い大地が地割れ。農民が汗と涙を流しています。
 3月28日に起きた山西省王家嶺の炭鉱出水事故は4月10日頃まで連日報道され、人名救出の作業が映し出され、鉱夫の家族の涙が私たちの心を痛めました。
 そして、4月14日には、青海省の玉樹県で大地震が起きました。今朝の(16日)のニュースでは、温家宝首相が現場に駆けつけて、救助隊員に一人でも多くの人命を救助するようにと檄を飛ばしていました。私たちの記憶に残るのは、2008年5月12日に起きた四川省の地震ですが、またもや大災害が発生しました。
 中国の炭鉱事故は、頻繁に起きています。これは人為的な災害ですが、地震は自然災害だけに、人間の無力さを痛感せざるを得ません。中国では、1976年7月28日に有名な唐山地震により大被害が起きました。この年は周恩来の死去(1月8日)、毛沢東の死去(9月27日)、四人組の逮捕(10月6日)、と相次いで大事件が発生して、天変地異と人間の営みとの関係を主張する中国の伝統的な思想が浮上したのです。
 この頃、私は初めて北京を訪れて大変驚きました。夜中の路上にたくさんの市民がテント生活をしていたからです。「なんと貧しい国なのだろう!」が私の中国への最初の印象でした。しかしそれは誤解でした。その時まだ、唐山地震の余震が続いていたため、市民が避難をして屋外生活をしていたのでした。
 先週、私は炊事中に3度も食器を壊してしまいました。手からすべり落したのです。ご飯茶碗、コップ、湯のみです。不吉なできごとの予兆でないと良いのですが。(「南の風」 2421号、2010年4月18日)

■烟台の風・70−マンション族の清明節 (Sun, 11 Apr 2010 15:46)
 「清明節」は、春分の日から数えて15日目の日で、中国24節気の一つです。今年は4月5日で国民の祝日として休日でした。その1週間ほど前から雑貨屋の店先や露天商では、うず高く積み上げて黄色い紙の束が並べられていました。これは、紙銭(チーチェン)と言います。沖縄でも清明節を「清明祭(シーミー)」と呼んで、「ウチカビ」という黄色い紙銭を持って墓参りに行くそうですが、それと同じ紙銭です。
 こんなに沢山の紙銭が売れるのかと、思わず心配するほどあちこちで売られているのです。B5判ぐらいの黄色い粗末な紙で1束20センチ位の厚さです。
 中国では清明節を「墓掃節」とも呼んでいて、墓を掃除して先祖を供養するために持参した紙銭を焼くのだそうです。どうやら中国の民衆の宗教行事が沖縄に伝えられたのでしょうね。最近では、黄色い紙だけでなく、実際の紙幣を模したような札束や、紙花、長細い線香なども店頭に並べられています。
 自宅近くにお墓の有る人、郷里に帰えることが出来る人は、お墓を掃除して、紙花を備え、紙銭を燃やし、料理を墓前でいただくのだそうですが、烟台のような大都市では、どうするのでしょうか。ほとんどがマンション暮らしなのですから。
 私は清明節の夜7時、いつもの散歩コースを歩いてみました。古い習慣だからと、最初に四合院風の古い建物が集中する路地に入り込んでみたのです。昼間と違って薄暗く人通りもなく怖い感じです。ここでは、何も動きも有りませんでした。そこで点在している小さな広場を巡ってみましたが、そこも静けさだけの空間で人間の霊を感じることはできません。
 そこで、高層マンションの周りに脚を運んでみたのです。なんと、強い炎が明るく燃え上がってるではありませんか。歩道の角、つまり辻で紙幣を焼いて先祖供養をしていたのです。自分の家の角に先祖の霊を呼んだのでしょう。1キロ四方の空間で14ヶ所目にしました。厚い黄色い紙をほぐして次から次へと黙々と燃やしています。念仏を唱えることもなく。そうですね。古くから烟台に暮らす旧市街地の人たちは郊外に墓地があるのですね。それに比べて新住民のマンション族は家の戸口に近い歩道で先祖供養をしていたのです。(「南の風」 2419号、2010年4月14日)

■烟台の風・69−烟台赴任一周年記念にあたってC>(Sat, 10 Apr 2010 15:55)
  …(承前)…
 (4)高齢者を敬い大切にする人たちです。
 中国の民衆の良い習慣は沢山あるのですが、その中の一つを紹介します。私が混みあったバスに乗り込むと、必ずと言っていいほど席を譲られます。最初は慣れないせいもあって、私は丁寧にお断りをしていました。それでも私の袖を引っ張り座席に座らせようとします。この頃は「謝謝!」と言って、素直に厚意を受けています。
 先日気分転換に野球帽をかぶってバスに乗ると、誰も席を譲ってはくれません。私の後から乗り込んだお婆さんが席を譲られました。そうです、野球帽で私はちょっぴり若く見られたのです。それ以来、私はバスに乗る時は野球帽をかぶらないことにしています。
 ここ山東省は、孔子の故郷です。「儒教」の教えが2千5百年間この地の人々の体の中に染み付いているのでしょうね。
 最後に、最近慣れた中国の風習を紹介して、一年間のまとめとさせていただきます。それはお客様をもてなす心です。先ず違和感を持ったのは、自分の口に運ぶ箸で、お客様に料理を取りわけることです。さらには、各自が鍋や大皿の料理を自分の箸で取って口に運ぶのです。これは、人と人の親密さや信頼関係をあらわすものでしょうが、私は不衛生だと当初は思っていたのです。しかし、学生たちや先生方との会食で、今ではすっかり慣れてしまいました。でも、舐め箸や探り箸だけはやめて欲しいですね。
 広州や上海と違い「社区教育」らしきものは見当たらない烟台ですが、中国がこれから国際社会で生きていくには、終身教育(生涯教育)に力を入れて、家庭教育や市民(シチズンシップ)教育や多文化共生教育に取り組むことがなりよりも大切なのではないでしょうか。
 56民族が暮らす多民族国家なんですから。(「南の風」 2418号、2010年4月12日)

■烟台の風・68烟台赴任1周年記念にあたってB (Wed, 7 Apr 2010 07:50)
  …(承前)…
 (3)美と醜が同居している人たちです。 中国は「見栄」と「面子」の国だと中国を紹介する書籍には沢山書かれています。つまり、社会生活上の表と裏とでも理解したら良いのでしょうか。
 先日学校に向かう道路沿いの美しい植え込みの横に黒い高級車が停車しました。道でも尋ねられるかと私は注視したのです。すると、ベンツの窓を開けた紳士が、車の中からペットボトルを取り出し、植え込みに投げ捨てて走り去りました。
 烟台市内を散歩してご覧なさい。表通りはそれはとても美しく、一歩路地裏に入りこめばゴミだらけです。商店主が店内のゴミを歩道に掃き出す光景は日常茶飯事です。学校の上階やマンションの上階から投げ捨てられるゴミには、この国の社会的な公徳心の不在を嘆かざるを得ないのです。
 子連れの若いお母さんがコンビニから出ると、やおらアイスクリームの包装紙を破って歩道に投げ捨て、アイスクリームを子どもに手渡していましたが、この子の将来が私には気がかりです。まさに家庭教育不在なのですから。これらは誇張した特別な出来事ではありません。いつも街で見慣ている市井の民の営みなのです。
 一人っ子政策であれば、家庭教育は本当に重要なのですが、現実は子どもたちが「小皇帝」として甘やかされて育てられていて、大人が社会人としての模範になりきれないのが現状なのです。
 路上で、手鼻、痰、唾を吐き出す人々には私は当初呆れて嫌悪感を抱きましたが、今では少しだけ慣れて「グァーツ」という声を聞いたら、周囲を見渡して注意しています。サウナ風呂の個室の中で、床に唾を吐き出した紳士がいましたが、これには私も思わず部屋を飛び出てしまいました。
 この国の姿を憂うのは外国人の私だけでしょうか。先週、青空骨董市でご婦人がチラシを配っていました。手渡されたチラシを開いて見ると、なんと文化大革命で名をとどろかせた「毛沢東思想宣伝隊」と同じような名称の団体「烟台市毛沢東思想人宇科学宣伝隊」が作成した環境保護を訴えるチラシだったのです。
 そこには、「路上に果物の皮や紙屑、ビニール袋などを捨てないように」、「地上にタバコの吸殻や痰をはかないように」、「路上で立ち小便をしないように」、という提唱書だったのです。「子や孫の世代に向けて、美しい生活環境と地域社会を創りだそう」、という呼び掛けに私は感動したのです。(続く) (「南の風」 2417号、2010年4月11日)

■烟台の風67−烟台赴任一周年記念にあたってA (Mon, 5 Apr 2010 16:54)
 …(承前)…
 (2)騒音に鈍感な人たちです。バスに乗ると運転席の後ろの液晶テレビが大きな音をたてて放映されています。私の席の直ぐ後ろの席で大きな怒鳴り声がしました。私の耳の鼓膜がパニックを起こします。そうです、お馴染みの携帯電話です。混んでいるバスの中で、それはありったけの声を張り上げているのです。前の方では、学生たちが大声をあげて談笑しています。まるで喧嘩でもしているかのようですが、これが普通の日常的な会話なのです。
 そろそろ我慢も限界に近づいた頃、私はバスを降りてビルのエレベーターに乗ります。この中でも液晶テレビが大きな音をたてて放映されています。もちろん大声の携帯電話、小さな箱の中での大声の会話と、騒音は途切れることはありません。学生たちとカラオケに行ってご覧なさい。いつもおとなしい学生が突然人が変わったかのように大声をあげ、怒鳴り声で歌を熱唱します。
 私の行きつけの蓬莱料理の店はいつも賑わっています。そこでも常に大声の競演で、私は1時間も我慢が出来ないのです。隣の席に負けてなるものか、と他の席も腹の底から声を張り上げて会話を楽しんでいるのです。初めは喧嘩でも始まったのかとも思いましたが、笑顔でそれぞれが自己主張をしているのです。
 そうです、13億人もいれば、自己存在感のアピールは必要なのです。どうか許してあげて下さい。国も広大ですから大声を出さないと声が届かないのでしょう。
 でも、女性客同士の大声には私は降参し早々に退散です。京劇をご存知の方はお分かりでしょう。中国語発音の第一声の甲高い高音を頭の先から噴出させる話し方ですね。お祝い事に付き物の爆竹や花火などは、人間の声の騒音に比べれば、可愛いものですよ。
 さて、ここまで紹介すると、「いつからお前さんは嫌中派になったのかい?」、と私は誤解を招きそうです。今でも私は、昔から中国を愛する者の一人なのです。中国大好き人間です。先日も厚い『唐詩』の本を買い求めたばかりなのです。もう一つ、気になる指摘をお許し下さい。(続く)
  (「南の風」 2416号、2010年4月9日)

■烟台の風・66−烟台赴任一周年記念にあたって@ (Sun, 4 Apr 2010 17:04)
 「へーぇ!、もう1年になりましたか?」「それじゃーあ、中国の生活には慣れましたでしょうね!」、と私は聞かれると返事に窮するのです。「はあー、そうですね」、と私は曖昧に答えるのです。そして、「歳ですから!」と付け加えます。年寄りは順応力が弱いのです。中でも保守的な味覚が駄目ですね。「香菜」や「八角」の味には悲鳴をあげてしまいます。そこで、私がいまだに戸惑っている風俗を少しだけ、4回に分けて紹介いたします。
 (1)交通マナーが無い人たちです。赤信号でも、歩行者の多くが平気で道路を横断しています。信号の無い所は緊張します。他人について渡る私です。とにかく歩行者優先の思想は皆無で、車優先社会。車も交差点では右折、左折が直進よりも優先していて、ウィンカーを出さず急に曲がる車が実際に多く、青信号で渡っていても安心できません。常に曲がる車に注意力を集中しなければならないのです。これまでにも「ヒャー」としたことは数知れないのです。改革開放経済体制により、急速なモータリゼーションを迎え、交通マナーがそれに追いつかないのが現状なのでしょうか。
 それと、歩道が歩く人のために無いということも指摘できます。歩道に横付けでなく、ふさぐ形で縦に駐車する者がいれば、店先の歩道に商品をいっぱいにひろげて、商売する者もいれば、歩道をロープで塞いで洗濯物を吊るす者など、公の空間と私の空間のけじめが全く有りません。その都度私は危険な車道を歩かされるのです。車のクラクションもバスとタクシーと一般乗用車が競い合って鳴らしています。少しでも車間が空けば直ぐに割り込んできます。
 絶えず行う車線変更は当たり前なのです。(続く) (「南の風」 2415号、2010年4月8日)

■烟台の風・番外まる1年を迎えました (Sat, 3 Apr 2010 18:03)
 昨年の4月3日に希望と不安を抱えて烟台に降り立ち、今日でまる1年を迎えました。早いものでアッという間に1年がたちました。この間、多くの皆さまに支えられて、天国のような暮らしをさせていただきました。関係者の皆さまに深く感謝申し上げます。
 とりわけ、陰日向でご心配いただいた、名誉校長の小林文人先生と十二分な生活支援をしていただいた、張林新理事長、徐井校長には言葉ではあらわせないほど、感謝いたしております。
 昨日は、私のクラスの日本留学生を烟台空港に見送りに出かけました。女性2人と男性2人ですが、ご家族が涙を流して見送る姿に、私も目頭が熱くなり、日本での学業の成果を嫌がおうにも祈らずには得ませんでした。「大家!加油!」
 先ほど、その中の一人からメールで無事到着した旨の連絡を受けました。私も一安心です。
 今日は土曜日ですから、一人ぼっちの「一周年記念」祝賀晩餐会をします。これからの1年を考えながら。「お前さん、そんなに若くないのだから、そろそろ引退の時期ではないか?」という天の声も聞こえてきます。「少し、ゆっくり中国各地を旅行したら!」という声もささやかれています。
 烟台の蓬莱料理に舌鼓を打ち、美しき老板娘を眺めながら、じっくり考えてみましょう。今夜の「烟台ビール」「青島ビール」の味は、格別な味ですぞ。(「南の風」 2414号、2010年4月6日)

■烟台の風・65−莱陽梨と釈迦果と干し柿 (Tue, 30 Mar 2010 11:04)
 4月に東京に留学する劉暁宇君がお母さんと一緒に、中国で有名な烟台の梨を1箱手土産に持って、挨拶にみえました。「莱陽(ライヤン・リー)という梨で莱陽地方の特産品です。莱陽梨は洋ナシのラ・フランスを2まわり程大きくした形で、外皮が黄緑色した地に茶色の斑点がまだら模様になっています。秋の旬の時期ではないこの季節には、とても高価な果物です。
 一人ではもったいないので、いつもお世話になっている人達にお裾分けをして、学校の先生方と一緒に味わいました。日本の「幸水」のように創り出された甘さではなく、ごく自然の甘さの梨です。保存方法の進歩のお蔭で春分に梨をいただくことができました。「非常很感謝!」。
 さて、数号前(62号)で、「釈迦果」という果物を紹介しましたが、今回私は初めてチャレンジしてみました。20センチぐらいの不正円の大きさで、お釈迦さまの頭の螺髪(らほつ)のような緑色の外皮の果物です。皮を剥くと白い果肉と丹後の黒豆のような種が40個程入っていました。大しゃじでこそぎ取り、口に運びます。上品な甘さが口中に広がります。例えようの無い味です。さすがお釈迦さまです。1個33元でした。バス運賃が1元、卵炒飯が4元ですから、高価な果物です。
 さらに、珍しい物では、「桑の実」です。子どもの頃、口を紫色に染めた桑の実です。3月に桑の実が食べられる、と私は飛びつきました。小箱(80粒程度)で10元です。烟台の桑の実は3センチほどで細長く濃い紫色をしています。懐かしさだけで、お世辞にも美味しいとは言えませんでした。砂糖黍も売られていて、買うとその場で山刀で皮を剥ぎ、短く切ってくれます。

 実は干し柿が美味いのです。私は幼少の頃、父の工場疎開の関係で山梨県の北巨摩郡白州町で育ちました。柿の名産地で、軒下に吊るす干し柿作りは晩秋から初冬にかけて、この地方の風物詩。そのため私は熟柿や干し柿が大好物なのです。ところが我が家の妻も二人の娘も大嫌いで、私が美味そうに食べていると、まるで気持ちの悪い物を食べているかのように蔑視するのです。
 しかしここ烟台では、誰にも遠慮することなく私は干し柿を頬張ることができるのです。烟台の干し柿は、日本のアンポン柿や市田柿のような形ではなく、丸餅を押しつぶしたように、頭の上部とへたの下部をくっけた形で売られています。大きな干し柿10個で11元(165円)ですから私は大満足です。でも数年前に福島大学の浅野かおる先生にいただいた福島のアンポン柿が何と言ってもナンバーワンですね。
 62号では、日本の柚子とはまったく違う中国の巨大な柚子を紹介しました。日本では、冬至の日に一年を健康で過ごすために「カボチャ」を食べて「柚子湯」に浸かりますね。実は私が山梨県北巨摩郡白州町の「鳳来小学校」1年生の時の出来事です。朝の朝礼で校長先生が、「今日は何の日ですか」という問いに、私は全校生の前で手を挙げて「カボチャを食べる日です」と、大きな声で答えたのです。私は校長先生に大変褒められたのでした。それは当日の朝、今は亡き母が教えてくれたことでした。
 中国の柚子の話から母の顔を思い浮かべることが出来ました。鳳来小学校も今は廃校になっています。昨年の冬至は12月22日でした。3月21日は春分だというのに気温より先に果物が春を運んできている烟台なのです。(「南の風」 2411〜12号、2010年4月3日)

■烟台の風・64大自然の逆襲 (Sat, 27 Mar 2010 10:57)
 ここ連日、中国西南地方の大旱魃の報道がニュース番組のトップで報じられています。雲南省、貴州、広西省、四川省、重慶市、などの被害が大きく取り上げられいます。それなのに、新彊では、雪解け水による大洪水で、橋が流されたため、馬に乗って登校する子どもたちの姿が映像で流されています。北は大黄砂、西は大洪水、西南は大旱魃、と広大な中国を実感させるニュースが連日大きな時間を割いています。
 赤旗を先頭に、険しい山を越えて、何百メートルもの谷底にポリタンクをロバの背に括って水汲みに降りていく村人の蟻の行列の映像には、日頃あまり意識しない豊富な日本の水のありがたさを感じざるをえません。
 こちらでは、飲み水も水道水ではなく、ミネラルウォーターを使う毎日なのです。生水は飲めないのです。部屋では18リットル入りの水容器を常備しています。無くなると、水屋に連絡するとすぐに運んでくれるのです。
 司馬遼太郎の歴史観では、「中国史の王朝の変遷は天変地異による農民一揆や流民・妄流がきっかけとなっている。」と述べていますが、あながちこの説を否定できないほどの大自然の驚異なのです。日本の国土の26倍の面積、56民族が暮らす中国で、全ての国民の暮らしを安定させるというのは容易なことではありませんね。
 ここ烟台でも、この寒さにもかかわらず、汚れた綿入れに身を包んだ物乞いの老婆が、一日中盛り場の路上にうつぶしている姿をあちらこちらで見かけます。改革開放経済による急速な発展から取り残された人々も実際にはいるのです。
 地球規模での人類の自然破壊が、地球温暖化現象を引き起こした結果、いま大自然が中国で逆襲しているのです。(「南の風」 2408号、2010年3月28日)

■烟台の風63−旧暦2月2日は龍抬頭節 (Sat, 20 Mar 2010 11:20)
 皆さんは中国旧暦の2月2日が何の日だかご存知ですか。
 2010年は、3月17日が2月2日でした。前日深夜から降り続いた雪も、午後にはみぞれまじりの小雨となり、夜には雨もあがりました。すると烟台市内のあちこちで打上げ花火の競演が始まりました。大輪の花もあれば、ちっぽけな花もあがっています。
 そこで私は、今日は何の日かと訝り、昨年の暮れに新華書店で買い求めた『2010中国農暦』を開きました。すると、年節民俗の項目に記述されていました。中国旧暦の2月2日は、「龍抬頭」の日だそうです。唐の時代からの民俗行事だとか。この日の星座に青龍(さそり座)が表れて春を予告するのだそうです。いつの頃からかは、嫁の「里帰りの日」、農業の「仕事始め」の日だそうです。
 最近では、春節から龍抬頭の日までは、髪を切るのは不吉とされていて、この年の最初の髪切りはこの龍抬頭の日にするので、街の理髪店は混み合うとのことです。天体と農作業から、道教的な自然観とも結びつき、こんな民俗行事が伝承されてきたのでしょう。
 龍抬頭の日に食べる餃子は、「龍牙」、麺は「龍須面」、ご飯は「龍子」、餅は「龍鱗」、ワンタンは「龍眼」と呼ぶのだそうです。農暦の本には出ていませんでしたが、烟台地方ではこの日に青豆を食べるのだそうです。花火をあげるようになったのは、いつの頃からでしょうか。
 不思議なことに、17日の早朝に私が見た夢は旧職場の仲間とバスに乗って花火見物に行く夢でした。そこは北京工人体育場のスタンドでした。人間には予知能力があるのでしょうか。花火より懐かしい顔、顔に目覚めるのが惜しいまどろみだったのでしたが、まさかその日の夜に実際の花火を見るとは…。
 23時に各地の社区で競いあった打上げ花火が終息したので、私は床に就きました。深い眠りに落ち込んだとたん、電話の音に私は飛び起きたのです。なんとそれは黄丹青先生(目白大学)が、私を励ますために出張先の北京から下さった電話でした。
 本当に嬉しい電話でした。まさに龍抬頭の日です。春の訪れを予告する日でした。23時半喜びと感謝の気持ちを胸に抱いて再び眠りに誘われたのです。「南の風」 2403〜04号、2010年3月21日)

■烟台の風番外−春雪と春告鳥 (Wed, 17 Mar 2010 12:19)
 私は今朝、5時にトイレの起きて、窓のカーテンを引いて驚きました。なんと、あたり一面銀世界で、まだ雪は激しく降り続けていました。昨日深夜からの降雪は、春雪なのに7cmほど積もっています。
 天気予報では、長沙は30度近い気温で、雲南省や内モンゴルでは大旱魃が続き、各地で農産物や牧畜に大被害が起きているとの報道が連日なされています。
 広大な国土を実感させられる早春の中国です。鎌倉の我が家の小さな池では2月の中頃には冬眠から目覚めた大きな蛙が、恋の歌声をはりあげていましたが、こちら烟台の春の訪れはいつになるのでしょうか。
 それでも、先週の土曜日(13日)の散歩で春告鳥の鳴き声と姿を確認しましたので、自然界では春の訪れの扉は開かれたのでしょう。日本の春告鳥は鶯ですが、中国では、「かささぎ」です。かささぎは、佐賀県の県の鳥に指定されている鳥です。韓国では「カッチー}といって国鳥ですが、あまり見かけません。見かけると良い人との出会いがあると言われています。
 中国では、「喜鵲(シーチュエ)」と呼ばれ、春の訪れと幸福をもたらす鳥、として有名です。韓国ではあまり見かけないかささぎも、烟台では群れをなしてたくさん見かけます。「カシャカシャ」と鳴きます。黒と白の燕尾服が飛翔すると、それはとても美しい鳥です。
 春よ来い!早く来い! 「南の風」 2401号、2010年3月19日)

■烟台の風62−烟台はフルーツ天国 (Sun, 14 Mar 2010 18:02)
 外気はまだまだ寒く曇り空ですが、常設の農民や漁民が商う路上の市場を眺めると、着実に春の訪れを感じます。昨日の散歩で目にしたのですが、大きな「竹の子」が店頭に並べられていました。今はイチゴが最盛期のようです。
 多くの露天商が真っ赤なイチゴを並べています。日本の大粒のイチゴよりも更に大きな粒のイチゴです。岩本陽児先生の好物だと思い、私もあやかり買い求めました。食べた後、へたの数で確認したところ43個で10元(150円)です。日本なら1パック・・・・円ですね。
 まだ食べたことの無い果物も売られています。「釈迦果」といって、お釈迦さまの頭のような外皮の果物です。台湾産のようです。次回チャレンジしてみます。私の頭の大きさのような柑橘類も山積みにされています。名前を聞くと「柚子」だとか。日本の柚子は、冬至の柚子湯が有名ですが、同じ漢字でも全く違うものなのです。昨年11月に学生の手土産でいただいたのですが、とても大きいのでタッパーウェアに入れて4日ほど美味しく楽しみました。
 それと今旬なのは、海南島産のパイナップルです。中国では、どこの店先でもパイナップルの皮を剥いて、先端に円錐形のシャベルが付いた大きな刺抜きのようなもで、それは器用に一つひとつ棘を掘り出してから売っています。完成したものが並べられると、芸術作品の置物のようです。中型は1個6元(90円)でした。それはジューシーです。ちなみに、大きな焼き芋は1個5元(750円)です。輸送費のかかるパイナップルに比べて、焼き芋は高いですね。芋は日本の薩摩芋のようにホクホクしていません。オレンジ色でベトベトしていますが、とても甘いのです。
 季節感のないのが、スイカとゴーヤ(苦瓜)です。これは一年中売られています。国土が日本の26倍なのですから、どこかで生産されているのでしょう。とにかく烟台はフルーツ天国です。
                           「南の風」 2400号、2010年3月18日)

■烟台の風・61−渤海湾の3人の日本語老師 (Sat, 13 Mar 2010 23:03)
 冬休みを終えて烟台に戻り、今日(13日)で1週間がたちました。毎日少しずつ暖かくなってくるようですが、まだまだ厳しい寒さが続いています。今朝この寒さを吹き飛ばす嬉しいメールを受信しました。國學院大學の教え子からの連絡です。一部を紹介します。
 『2004年度に國學院大學で伊藤先生の「生涯学習概論」、「社会教育課題研究」の二つの授業を履修致しました後藤でございます。御無沙汰致しておりますが、お元気でいらっしゃいますでしょうか。その節は、大変お世話になりまして、誠にありがとうございました。授業の受講を終えましてから、もう早丸5年の月日が経つのですね。
 さて、私事ではございますが、この度、急遽、日本語講師と致しまして、中国は遼寧省錦州市に赴任致すこととなりました。以前、日本語教師になりたい旨を伊藤先生にお話致しましたところ、お知り合いの方が山東省煙台市内にて日本語学校の運営をされている旨をお聞き致しました。今回は、その煙台市内の日本語学校に赴任を致す訳ではございませんが、同じ中国の地であるということで親近感を感じる次第でございます(以下略)』。
 彼女は、大学を卒業して日本を代表する大手銀行に勤めていましたが、昇進の男女差別に疑問を感じ、銀行を退職して再度大学で学んでいた異色の学生でした。気になる存在の学生でしたが、連絡をいただき嬉しさがこみ上げてきたしだいです。
 それも、中国という異国の地での同じ日本語老師という同志なのです。私にはもう一人同志がいます。彼は今、河北省秦皇島市の燕山大学で日本語を教えています。私が川崎市の国際交流課長時代の部下だった職場の仲間です。三人とも偶然とは言え、渤海湾の沿岸都市で日中の架け橋として汗を流すことになったのです。彼女は私が昨年から中国に来ていること知りませんので、早速返信します。
 そう言えば、中国では3月8日は「三八節」という祝日です。国際労働婦人デーを中国では「国際労働婦女節」といい、「三八節」と略して各地で記念行事を行っlていました。今年はシカゴで女性労働者が1909年3月8日に男女平等を主張して立ち上がった時から数え100周年の年にあたり、各地でさまざまな記念行事が繰り広げられておりました。それを象徴するような、後藤さんのメールでした。頑張れ!「南の風」 2399号、2010年3月16日)
                            
■烟台の風・60−海水の氷柱(ツララ) (Sun, 7 Mar 2010 16:58)
 1月9日から3月7日まで、約2ヶ月間の長い冬休みを終えて、私は一時帰国をした日本から山東省の烟台市に戻ってきました。「烟台の風」は湘南から2回(58・59号)お届けしましたが、記念すべき60号は、烟台から吹かしていただきます。「レディング通信」(岩本陽児氏発行)が「烟台の風」の回数を超えました。おめでとうございます。
 冬休みをこちらでは「寒假」といいます。長い休みなのでその理由を学校関係者に聞くと、「暖房費」を節約するためだそうです。3月6日にソウル経由便で烟台空港に到着しましたが、機上から眺めた烟台の雪景色はとても美しく感動いたしました。外気はマイナス4度です。
 学校関係者の温かい出迎えが、外気の寒さを吹き飛ばしてくれました。7日の今朝は日曜日です。恒例の路上青空骨董市が開かれる日です。この寒さですから、閑散としているかと私は覗いて見ました。ところが最盛期の賑わいにはおよびませんが、この寒さの中を商魂たくましい露天商とひやかしの客とのやりとりが喧騒に響きわたり、多くの人々が歩道をうめつくしていました。
 雪は5日の木曜日に降ったそうですが、今朝は晴天で部屋の中の陽射しは強く室温は20度を超える暖かさです。しかし外気はマイナス4度です。無風なのに寒気が肌を刺します。海岸に散歩に出てみました。いつも穏やかな海が荒々しく盛り上がり、荒れ狂っています。遊歩道を越えて波がぶつかり、白い波しぶきが飛び散っています。落下を防ぐ遊歩道の鉄の鎖に波しぶきの海水が氷つき、氷柱(ツララ)のカーテンを作り出し光輝いています。海水が凍っているのです。
 私は初めて中国の冬の海、厳寒の海の厳しさを実感したのです。夏とは違って寂しい海浜公園です。客のいない焼きイカ屋が私に声をかけてきました。明日から新学期です。
                            「南の風」 2395号、2010年3月9日)

■烟台の風・59−留学生の声を聞く (Sat, 13 Feb 2010 22:30)
                *山東省・烟台日本語学校(鎌倉に帰省中)
 きょう(2月13日)は、朝からみぞれと氷雨が降り続く一日でした。梅が咲き誇る鎌倉は早朝小雪が舞い、その後はみぞれとなりました。連日友人との集いで、毎日出かけている私ですが、今日は目白大学に留学中の女学生(王麗さん)に鎌倉を案内する約束をした日でした。王麗さんの住む池袋駅から鎌倉駅までは、直行の湘南新宿ラインに乗って約1時間で到着します。まだ日本に来て5ヶ月の彼女ですから、私はちょっぴり心配しておりましたが、約束の時間10時には鎌倉駅で彼女と再会することができました。
 鎌倉八幡宮、鎌倉の大仏、江ノ島の水族館と見物して歩きました。この時期、晴天なら鎌倉の海はおだやかで、三浦半島、伊豆半島、伊豆大島が江ノ島の背景となって浮かび上がり、雪化粧の富士山が美しくそびえるのですが、今日は雨に煙り何にも見えません。こんな天気の日に江ノ島の展望台や植物園や温泉を訪れても趣が無いので、当初の計画を変えて水族館に行きました。悪天候なのに館内は小さなこども連れの家族で一杯でした。イルカショー、アシカショーに王麗さんは喜んでくれました。この水族館のクラゲの飼育数は日本一だそうです。
 鎌倉八幡宮の牡丹園では冬牡丹が満開に咲き誇り寒さを吹き飛ばしてくれました。ディナーは私の長女が営むレストランで私の妻も加わり会食したのです。王麗さんは、「中国は明日が春節で、今日は家族がそろい寝ないで徹夜をして新年を迎える」と、寂しそうに語りました。
 それから、彼女は日本語の成績はクラスで一番だったと嬉しそうに報告してくれました。これを聞いて私も嬉しくなりビールの量が増えたのです。烟台の学校で私のクラスの学生であった王麗さんの友達は、東京の他の大学に留学していますが、その学校の日本語はまだ初級の段階のレベルで、私の学校のほうがレベルが高い」と自慢げに話していました。
 王麗さんの悩みは、マンションの家賃が高いのと、光熱水費が高いのと、それと、適当なアルバイト先が見つからないことだそうです。会話力を高めるためには日本人との触れ合いが大切なのですが、その機会も無いそうです。そこで私は、公民館や国際交流センターなどのサークルを勧めましたが、どなたかご紹介していただけないでしょうか。「南の風」 2382号、2010年2月14日)

■烟台の風・58−江ノ島の海にモンゴルの草原の風 (Mon, 8 Feb 2010 15:34):
 昨日(2月7日)は、雲ひとつない青空に雪化粧の富士山が、伊豆の山々の上にそびえ立ち、湘南海岸の七里ガ浜からは、伊豆大島と利島がくっきり海面に浮かび上がっていました。よほど空気が澄んでいないと利島は姿を見せません。年間を通じて数回しか見えないのです。
 そんなすがすがしい一日、私は「江ノ島アジア映画祭」に参加しました。今年の映画祭は、モンゴルがテーマです。映画、音楽、ファッションショー、食べ物、展示と盛りだくさんの出し物が準備されています。モンゴルで植林活動をしているNPOが熱心に説明をしてくれます。特設のゲルの中では、子どもたちに馬頭琴の演奏体験をしてもらい、モンゴルのミルクティーがふるまわれています。
 会場の神奈川女性センターの大ホールの舞台では、馬頭琴演奏者の賽音吉雅(セーンジャー)さんが、「江ノ島の海にモンゴルの草原の風が吹き抜けました」と語り、美しい音色の民族音楽を奏でてくれました。映画はモンゴルの大草原の過酷な自然の中で、けなげに生きる遊牧民の少女の姿を紹介したドキュメンタリー映画の「プージェー」。笑いと涙に包まれた2時間の映画です。
 この映画が上映された江ノ島の対岸は、鎌倉時代には龍の口の刑場が設けられたところです。ここで、元のフビライの使者五人が鎌倉幕府の執権、北条時宗によって斬首されています。現在、この地の常立寺に元使塚が祀られています。正使の杜世忠の辞世の句が石碑に刻まれて残っています。「出門妻子贈寒衣問我西行幾日 帰来時儻佩黄金印莫見蘇秦不下機」。なんとも哀れの句ですね。
 賽音吉雅さんの馬頭琴の音色が、「故郷モンゴルの風」となり、紅梅白梅の咲く寺院に響きわたり、心を動かした五人の元使の霊は「プージェー」を私たちと一緒に涙を流して鑑賞してくれたことでしょう。賽音吉雅さんは、3月上旬「徹子の部屋」(テレビ朝日系)という番組に出演なさいます。
 伊藤は今、烟台の学校の冬休みで日本に一時帰国しているのです。寒さの厳しい烟台では、公立小中学校は1月25日から3月2日まで冬休みに入っています。(「南の風」 2379号、2010年2月8日)

■烟台の風・57−日本の歌を歌えます (Fri, 8 Jan 2010 23:18)
 本日(8日)で日本語学校は終業で、明日から冬休みに入ります。昨日は、日本語教師の先生方が私の送別の宴を開いてくれました。今日は、会社と事務室の皆さんが送別会を開いてくれ、中国の皆さんの温かい気持ちに胸が一杯です。沢山のお土産までいただき、私はどうやってお返ししたらよいのか戸惑っています。昨年途中で会社を辞めた、張建東さんまで途中から職場を抜け出し会場にかけたつけてくれました。中国式いっき飲みをして、空いたグラスを見せ合う乾杯を14回繰り返し、いささか酩酊をしている伊藤です。
 昨日、私の最後の授業で、バズセッションをして、2009年一番嬉しかったこと、一番悲しかったこと、を話し合って、発表してもらいました。1月25日に日本の新潟市に出かける研修生が「昨年一番嬉しかったことは、伊藤老師に、日本の歌を教えてもらったことだ!」と偶然2人の班の違う学生が発表してくれました。私は、この発表を聞き、思わず涙が出そうになりました。
 3ヶ月の日本語短期学習で、即戦力として単純労働に関わる研修生に、日本の会社での電話の取り方を教えました。彼らが、どんな仕事に従事するのかを、学校からは何にも教えてもらえないので、たどたどしい日本語の学生から直接聞き出したのです。すると新潟市の建設組合だということが分かりました。
 「それなら君たちは日本の歌を歌えなければなりません」、と言って「新潟ブルース」「北国の春」「四季の歌」、そして「佐渡おけさ」を、特訓したのです。建設労働者は仕事の後、酒を酌み交わします。その時必ず歌を歌うからです。伊藤の実家は「伊勢建設」という最盛期、従業員100人ぐらいの中小企業でしたから、建設労働者には酒と歌がつきものだということを私は知っています。でも、恥ずかしそうに小さな声
で歌っていた彼らが、本当に喜んでくれたのだと分かった私は、最大の送別の土産をいただいたのです。(「南の風」 2360号、2010年1月10日)

■烟台の風・56−烟台は雪国でした (Fri, 8 Jan 2010 17:55)
 年末の30日から元旦の日の薄曇りの一日だけを除き、烟台は連日の大雪でした。ようやく本日(8日)は昨日までの雪もあがり、薄曇りとなりました。
 明日の帰国を前に、日本への土産をと買い物に出ましたら、スキーで鍛えた足腰に自信が有る私ですが、何度か滑りそうになりながらも、持ちこたえましたが、ついに転んでしまいました。ヨチヨチ歩いていたお婆さんが、大丈夫かと声をかけてくれました。
 さて、皆さん烟台の雪質は重い雪ですか、軽い雪ですか。黄海と渤海に突き出た山東半島の先ですから、水分の多い重い雪だと思いますよね。ところが、驚いたことに竹ぼうきで掃いて除雪できる程軽いパウダースノーです。竹ぼうきでの雪かきならぬ雪掃きを私は初めて見ました。この雪は踏みしめるとキュキュと歌います。従って、大雪でも傘をさして歩く人はほとんど見かけません。でもここ連日の大雪は、さすがに深夜に氷ついてしまい、雪かきのシャベルの音で目が覚めるのが、冬の朝の風物詩となっています。
 道路は除雪車だけでは間に合わず、ブルトーザー、大型ダンプの前に除雪機を取り付けた応急対応車などが総動員され、沢山の人たちが雪かきをしています。こんな季節には、路上で海産物や野菜を商う露天商の人たちはどうしているのでしょうか。
 3日の日曜日は、雪が降っているのにもかかわらず、青空骨董市には17軒の骨董屋さんがシートの上に商品を並べていました。こんな雪の中で良くぞと頭が下がります。12月27日は72軒でした。最盛期には、300軒を超える露天商ですが、雪の中でも頑張っている逞しい人がいるのです。さすがに古本屋は1軒も出ていません。雪空に焼き芋を売っているおばさんが気の毒なので、私は小さいのを一つ買ってあげることにしました。天秤ばかりにかけて、10元だとおばさんは言います。
 「先日あんたは5元と言った」、「もういらない」と私が歩き出すと、追いかけてきて6元でいいから買ってくれ言います。おばさんには負けました。(「南の風」 2359号、2010年1月9日)

■烟台の風・55−初めての中国の正月 (Sun, 3 Jan 2010 21:25)
 中国の正月は「春節」です。こちらでは旧暦を「農暦」と呼んでいます。今年の春節は2月14日です。春節を盛大に祝う中国は、大晦日までは通常の勤務です。元旦は国民の祝日ですが、今年は、土・日と連なり1日から3日までの3連休となり、学校も郷里に帰る学生のために大晦日の31日は午前中で授業は終わりとなりました。
 30、31日と雪空です。烟台の海岸では、年越しを祝う花火が打ち上げられました。それに触発されたのか、各家庭の花火が競うようにあちこちで打上げられ出しました。「おいおい、春節はまだ先だぞ」と、私は窓の外に向かって抗議をしたのです。
 深夜には、さすがにこの騒音も一段落して収まったのですが、私が熟睡に入りかけたとたん、大音響の打上げ花火が私を叩き起こしました。目覚まし時計はまだ3時です。この時ばかりは私も、中国四大発明の一つである火薬の発明を呪ったのです。結婚式、お店の開店、建築物の地鎮祭、と中国人の花火好きは並みではありません。
 元旦の朝は、一昨日からの雪もやみ薄曇りです。新年を祝う花火と爆竹は午前7時ごろから夜中の11時ごろまで、引っ切り無しで鳴り響いています。
 暮れに計画した、ニューイヤーコンサートはチケットが手に入らず、会社の程冬梅さんと学校の兪純淑さんを誘い映画鑑賞になりました。映画は北京オリンピックの開会式を演出した張芸謀監督の作品で「三槍拍案驚奇」という喜劇でした。さすがに元旦、映画館は、子ども連れの家族で満席でした。館内の爆笑に私もつられて新年の初笑いをいたしました。入館料は午後は40元で、午前は割り引きの20元です。昼食は「火鍋」(中国式しゃぶしゃぶ)で新年を祝いましたが、このレストランも満員、帰国の際の土産物を見に行ったスーパー「大潤発」も人を掻き分けないと商品が見えないような混雑で、13億人の国の実感を味わった元旦でした。
 レストランで、程さんと兪さんから年賀のプレゼントをいただきました。途中から加わった王斌さんからは烟台ゆかりの「八仙人」の記念切手をいただきました。前から欲しかった物だったので、私は八仙人のように空中を飛び、小躍りをしたのです。
 2日、3日は雪の正月です。皆さま、今年も烟台の風にお付き合い下さるようお願いします。
                                     (「南の風」 2357号、2010年1月6日)

■烟台の風・54−嬉しいクリスマスプレゼント (Sat, 26 Dec 2009 19:16)
 今年5回目の雪です。25日の夕方からはホワイトクリスマスとなりました。クリスマスイブは近くの市場を覗いて、「北京ダック」を一羽買いました。鶏の腿肉のローストチキンと赤ワインで一人静かに、今年を振り返ろうと思ったのですが、あいにくアヒルだけです。それも一羽丸ごとです。これがなんと一羽16元(240円)なんですよ。たっぷりと脂がのったアヒルでしたが、やっぱり香辛料が私には合いません。チョコレートが21元もするのに、アヒルさん、ごめんなさい。
 ところが翌日、学生の一人が私の帰りがけに待ち構えていて、「先生、クリスマスプレゼントです。」と紙袋をわたしてくれました。なんと昨日買い求めた「北京ダック」です。昨晩の3分の2以上が食べ残っていて、我が家の冷蔵庫で眠っているのですが、そこへまた大きな一羽が仲間入りをして冷蔵庫を占領して、座席の奪い合いをしています。
 一昨日(24日)は、喜びが重なりました。私のクラスの学生の学期末の会話の試験だったのです。最初は心配していた、ちょっと会話の能力が低い学生も、何とか無事に合格することができました。彼は、私が教室に早めに入ると、まだ彼ら以外に誰もいない教室の片隅で、成績の良い女子学生を相手に会話の練習をしていました。いつも勉強をしない彼が頑張っている姿を垣間見て嬉しさがこみ上げたのです。
 もう一つは、この日に、不安な日々を過ごしていた4人に、東京の大学から留学許可書が届いたことです。それまで、彼らは他の大学への留学をめざしていましたが、「納税証明書」の取得のために、その大学をあきらめた経緯(後日経緯報告)があったので、私も心配していたのです。4人の笑顔が忘れられません。
 今年、私がいただいた沢山のクリスマスプレゼントの中でも、特にこの三つが心に残っているのです。(「南の風」 2352号、12月27日)

■烟台の風・53−門前の小僧習わぬ料理をつくる (Tue, 22 Dec 2009 08:43)
 先日、四人の学生が狭い私のワンルームマンションの部屋を訪ねてくれました。手土産のフルーツは、バナナにミカンと伊予柑がたっぷり袋に入っていました。それと、46度の白酒「杜康」です。我が家の冷蔵庫の中を覗き、調理台の下の調味料を確認してから、足りない食材を下のスーパーマーケットに買出しです。
 学生の一人は料理が趣味と最初の授業で自己紹介をした張家銘君です。彼はお父さんがレストランを経営しているそうで、子どものころから、見よう見真似で料理を作っていたとのことです。私の家に買い置きの無い、長ネギ、青唐辛子、ニラ、トマトと海苔と海老、鶏卵を買いたしました。
 彼らは、中国のおばさんがいつもお店で見せるような真剣な目つきで、野菜の一つひとつを手に取り、鮮度を確認して選別しています。こんなにも若い男性たちが、野菜を選んでいるその姿には、私はとても不思議な気持ちにさせられたのです。
 さて、いよいよ私の部屋の狭い台所で料理にとりかかってくれます。我が家の電気釜は、初めて5合の米を炊きます。張君の作った料理は4品です。海苔と卵の中華スープ、ジャガイモと青唐辛子の炒め物、豚肉とニラとキノコの炒め物、そしてトマトと卵の炒め物です。手際のよさには目を見張らされます。料理はどれも塩分控えめ、油控えめの素晴らしい味です。私一人では1合のご飯は夕飯と朝食の2回もつのですが、さすがに20歳の若者です。みごと5合の釜は空になりました。
 料理の後、食事の後の後片付けと食器洗いも手際よく完璧でした。家庭のしつけ・家庭教育がいきとどいているのですね。私の一人暮らしの貧しい食生活を心配してくれた学生による晩餐会でした。でも、私には中国の白酒は強すぎます。私のはく息もコーリャン酒の臭いがなかなか消えませんでした。(「南の風」 2350号、12月25日)

■烟台の風・52A−夢と幻の戦争と平和 (Sat, 12 Dec 2009 22:49)
 …(前回のつづき)… 主人公の「趙長林」は、死体として戦場で埋められる寸前、郷土の青年に助けられますが、記憶喪失で病床についています。恋人の玉秀はそれとも知らず、やけになり他の男に嫁ぎます。その男はもう一人の生き残りです。彼は記憶喪失の趙長林の生存を知りながら、玉秀に知らせることもなく結婚したのです。もちろん玉秀と趙長林が愛し合っていたのを知りながら。
 郷土の青年の献身的なリハビリにより記憶を取り戻した趙長林は恋人が戦友と結婚したことを知り、黙って郷里に帰っしまうのです。村では、彼を助けた青年の婚礼です。赤い輿に乗った花嫁が赤い民族衣装に包まれて行列をしています。
 すると、突然私の耳元で「早く起きて見ろ!」との天の声がするではありませんか。私は飛び起きて、窓のカーテンを引くと、隣のマンションの広場に赤い二台の輿を担いだ一団が、リズムを奏でて入ってくるところです。どうやら花婿が花嫁の家に新婦を迎えに来たようです。30人ぐらいの一団は、頭の先から足元まで鮮やかな黄金色の衣装に包まれた一行と真っ赤な衣装に包まれた一行です。腰に付けた平胴の太鼓とスナオ(中国のチャルメラ)、チャッパ(中国のシンバル)の楽器を奏でています。輿も赤く屋根はお神輿のような形をして、前後4人で持ち上げています。広場では、チャンチャン、チャ、チャンのリズムに合わせ、民族衣装の一団がオレンジ色のスカーフを振り、両手を左右に揺らし、足を跳ね上げる、歓喜の踊りの輪が出来ました。テレビで見た、8月15日の抗日戦争勝利を喜ぶ市民と八路軍の歓喜の踊りと同じです。新郎新婦の輿はテレビドラマの中で趙長林を助けた青年の婚礼の行列から飛び出してきた物の様です。
 しばらくすると、新郎新婦がマンションから出て来ました。なんと花嫁は赤いベールをかぶった伝統的花嫁衣裳です。中国に来て初めて私は、伝統的な花嫁衣裳を見ました。それぞれの輿に二人を乗せた古式豊かな婚礼の行列は賑やかなリズムを奏でながら広場を出て行きます。リヅムの音がだんだん遠ざかり静けさが戻りました。一瞬私は、「戦争と平和」について考えさせられました。残酷な殺掠シーンを毎日目にする中国の人々の「感性は」と、ちょっぴり心配にもなったのです。(「南の風」 2346号、12月18日)

■烟台の風・52@−夢と幻の戦争と平和 (Sat, 12 Dec 2009 22:49)
 週末の早朝の打上げ花火と爆竹の轟音には、もう慣れた私ですが、今朝はいつもより、長く続いています。昨晩は、来週から新しく受け持つクラスの教案を作っていたため遅くなり、なかなか寝付かれず、この婚礼の花火にも目が覚めることなくまどろんでいましたが、轟音はいつまでも続いています。
 私が最初に中国を訪れた当時の中国は、ソ連を「社会帝国主義国」と呼び、「ソ連が攻めてくるぞ」と、北京の街の地下8メートル下に街を造っていました。そして更に核戦争に耐えるようにと、15メートル下を昼夜兼行三交替で掘り下げて街を造っていました。繁華街の洋服店の地下室から案内された私たちは、中ソの国境紛争もあってか、案内してくれたガイドの説明には、なぜか現実味を感じたことを思い出します。今朝は、「いよいよ戦争かな」と、夢の世界に曳きずり込まれてしまいました。
 それは4月赴任以来、毎日続いているテレビの連続「戦争ドラマ」の影響でしょうか。これまで長期にわたり、「闖関東」「十三章」「勲章」と、重厚なドラマが毎日放映されています。昨晩見た「勲章」は、長い期間の抗日戦争に勝利し、その後の国民党軍と共産軍の錦州城における壮烈な戦いと瀋陽の解放、そして今は朝鮮戦争です。米軍との戦いで、主人公「趙長林」の部隊は、たった二人を残して全滅します。両軍の屍は累々と戦場に重なり合って横たわっております。趙長林を愛していた従軍看護婦主任の「玉秀」は、愛人が生き残ったことも知らず、部隊全滅の報に慟哭して倒れます。この続きは今夜の放映です。…次回につづく…  (「南の風」 2345号、12月16日)

烟台の風・51A−映画鑑賞とイスラム料理 (Mon, 7 Dec 2009 07:51)
 …(前回につづく)…
 映画「花木蘭」は、本年のフランスの「カンヌ映画祭(5月)」と六本木で開催された「東京映画祭(10月)」で上映されて、出演者たちが挨拶をしています。主役の趙薇(ビッキー・チャオ)は、中国四大女優の一人で、容姿も演技も素晴らしいものがありました。恋人役の陳坤(チェン・クン)は、ビッキーと同じ学校で演技を学んだそうです。
 案内してくれた劉君は映画館を出ると、近くの新疆ウイグル族のレストランに私を案内してくれて、美味しい羊の肉料理を振舞ってくれました。かつて私は羊の肉は苦手でしたが、小林文人先生にお伴して内蒙古を旅した際に羊の肉の美味しさを経験したのです。肉は柔らかくて、何の臭みも無いとても美味しい味でした。
 私のマンションのすぐ近くにイスラム寺院があります。そこで串焼きの羊の肉を買って食べたことがありますが、その時は、香辛料が強くて肉の味がかき消されていました。それ以来、羊の肉にはお目にかかってはいませんでした。料理は、「羊肉湯」、「羊肉焼?」、「新疆栄養○(食へんに嚢=nang)」、「手抓羊肉」とビールです。自宅の近くで時々食事をする「蘭州拉麺」というイスラムレストランは、酒は厳禁ですが、この店はビールがありました。文字で料理が推測できますか。手抓羊肉は、ぶつ切りの羊肉と人参などの野菜の煮物です。羊肉湯というスープは自分でお好みの味に調味料を加えて飲みます。
 ナンは、インドカレーに付いてくる小麦粉を焼いたパンですね。名前まで一緒の「ナン」です。ウイグルのナンは、直径25センチほどの丸いピザパイの生地を厚くして焼いたようです。白ゴマがふられていて、薄い塩味でほんのりと香ばしい、それはとても美味しい食べ物です。ビールで乾杯した後、私は「人間は愚かな戦争を今でも繰り返していんだね」と映画の感想を述べました。毎日テレビで放映される「抗日戦争ドラマ」が一瞬頭をよぎりました。
 そういえば、北魏は鮮卑族の国ですし、北魏を悩ました柔然や匈奴などは遊牧民ですから、羊の肉は映画鑑賞の後には相応しい食事だったわけです。劉君ありがとう!
                                  (「南の風」 2342号、12月11日)

■烟台の風・51@−映画鑑賞とイスラム料理
 中国に来てから初めて映画館にいきました。映画館がどこに在るのか分からないため、学生の劉君に案内を頼みました。「どんな映画でも良いから連れて行って欲しい」と私が頼んだです。映画館は私が時々買い物に出かける「大潤発(タールンファ)」という大型スーパーの裏手にありました。チケットは1枚30元です。1階のカウンターで、自分の好きな座席をタッチパネル式機械の画面に打ち込むと発券されます。劇場は2階でした。
 昨夜(4日)の雪で外は寒く、歩道も氷ついているので、さぞかし館内は大勢の観客で一杯だろうと思っていましたが、なんと100名ほどの客席は私たちを含め5組だけです。豪華な椅子が泣いていました。これを学生に話すと、中国ではインターネットで映画を見るので、映画館にはあまり来ないのだそうです。
 映画は「花木蘭(ファムーラン)」という中国では誰もが知っている時代劇です。南北朝時代の北魏(439年〜589年)と匈奴の単于の戦いを舞台に、中国版ジャンヌ・ダルクである男装の女性、花木蘭が大活躍をするストーリーです。壮烈な戦いは一大スペクタクルとなっています。特に両軍の戦いのシーンは兵士の多さに目を見張らされます。馬がひっくり返る場面は大画面なるがゆえの迫力を充分に堪能させてくれます。当然、ラブストーリーも展開されます。画面の下には中国語の字幕が出ますので、私にも理解できます。
 作品の筋書きは、国境を侵略する単于と戦うために北魏が一家に1人の男子を徴兵します。花家の子どもは女性の花木蘭ひとりです。そこで、子どものころから武芸に優れた花木蘭が病弱な父に代わり男装して出征し、手柄を立てるという内容です。父親思いの親孝行な娘の話なのです。女性が発覚して死刑なるところを恋人に助け出され、戦功をたてて将軍に取り立てられます。出征して12年目に皇帝に謁見した後、郷里に戻り年老いた父との再会をはたします。この物語は、もともと北朝の民間伝承文芸として語られてきたもので、京劇にもなっています。文献には『木蘭詩』や『隋唐演義』に書かれているそうです映画では、若干ストーリーが変えられているとのこと。(次回につづく) (「南の風」 2340号、12月8日)

■烟台の風・50−慶祝50号・慶祝烟台赴任8ヶ月 (Wed, 2 Dec 2009 07:48)
 12月3日で「烟台の風」が50号、私の烟台赴任が8ヶ月目を迎えました。「長さんは3ヶ月はもたないよ、早く帰ってらっしゃい。」「半年ももたないよ」、と私の反骨精神を奮い立たせるような、小林先生の逆説的な励ましがなかったら、本当にここまでやってこれなかったでしょうね。それと、何と言っても「南の風」の存在ですよ。寂しくなるとPCを開いて元気をもらいました。ホームシックからノイローゼになったロンドンの夏目漱石にはインターネットが無かったんですから。
 「最初は誰でも環境が変わると一生懸命書くけれど、慣れてくると書かないのよね」、とは黄丹青先生の言葉です。少し「烟台の風」の執筆に間が空いた時のことでした。そして「私の学生にも読ませています」との励ましの言葉に大きな力をいただいたのです。烟台赴任8ヶ月、烟台の風50号は、皆さまのお陰です。ありがとうございました。
 そういえば、読者から『おばさん、おばさんと君は言うけれど、あんたは自分が「お爺さん」であることを忘れてはいないかい。』とのご指摘をいただきました。「いつまでも若くはないんだからね」とも。私は生涯現役ではなく、サミエル・ウルマンの詩「青春」からヒントをいただき、生涯青春を心掛けています。いつまでも青年のような気持ちを持ち続けたいと願っているのです。でも若ぶっては見ても来年の8月には、老人クラブの会員有資格者の仲間入りです。
 この頃は健康にも不安が走ります。学生の一人、張君が数日学校を休みました。後日、聞いたところ64歳の祖母が癌で亡くなったとのこと。劉君は「伊藤先生は若いですね。私の祖父は先生と同じ歳ですが、昨年腎臓の手術をしました」、とのことです。二人とも私と同じ64歳だそうです。
 なるほど、私は彼らからは、彼らの「お爺さん」なのです。ガック!(「南の風」 2339号、12月6日)

■烟台の風・49−羮(あつもの)のレシピ (Mon, 30 Nov 2009 23:25)
 劉暁宇君が大きな荷物を持って私の部屋を訪ねてくれました。中には、大きなドラゴン・フルーツが2つと、生の棗と、他にたくさんの食材です。彼は、袋から取り出して一つひとつ説明してくれました。「これは、銀耳、蓮の実、百合の根、クコの実、竜眼、なつめです」と乾燥した食材と氷砂糖を取り出します。銀耳は、白いキクラゲです。そして、劉君が彼のノートの切れ端に書き付けたレシピを私に差し出してくれました。「私はまだ日本語が上手でないので、紙に書いてきました。」と言って。以下は、原文そのままの彼の文章です。
 「銀耳、蓮の実、ユリの湯」の作り方。中国語で「氷糖銀耳蓮子羮」 bing tang yiner lian zi geng です。材料:銀耳(1個)の根を切ります。手で小さな大きさにわけます。蓮の実15個、ユリ20本ぐらい。クコ20個ぐらい、竜眼6個、なつめ10個、氷砂糖8個。銀耳、蓮の実、ユリは水に浸します。晩7時から朝8,9時まで(12時間がいい)です。なつめとクコは水にちょっと浸して洗います。
 作りかた:1.鍋に水を1キロ入れます。銀耳も入れます。武火(大きい火)で沸騰したとき、蓮の実、ユリ、クコ、氷砂糖を入れます。文火(小さい火)で、40分間煮ます。期間水をすこし入れます。2.なつめと竜眼を入れます。10分間煮ます。3.粥状の様子はいいです。作用:肝にいいです。熱をだします。体内のきたない物を掃除します。眠ることにいいです。とてもいい滋養物です。
○これは今年の4月から日本語を学び出した学生の手書きの文章です。とても立派な日本語ですね。驚きました。と同時に私は、一人暮らしの私の健康を気遣ってくれる劉君の心の優しさに感激しました。彼は、日本留学を心理学の大学か美大か、今もその進路に悩んでいます。今日は、私の手作りで日本のとんかつでも作って劉君にご馳走することにします!そうだ、私の恋女房はとんかつ屋の看板娘だったのだ。(「南の風」 2338号、12月3日)

■烟台の風・4−食器洗いの合理主義 (Sun, 29 Nov 2009 19:20)
 学校に暖房が入りました。11月16日から暖房が入るという通告が、工事の関係で12月9日に延期になるということで、心配していたところ、11月23日(月)に暖房が入ったのです。スチーム式の暖房ですが、期待したほど暖かくはありません。それでも私の教室の一つは、壊れていて暖房が入らないのです。教員室からその教室に入るときは、一枚上着を重ね着して授業をしています。学生たちがかわいそうです。
 「先生、昼ご飯は学生食堂ですか。できたら私たちと外で食べませんか」、との誘いを学生から受けました。烟台大学の前の食堂街です。今日は寒いので「麻辣湯(マーラタン)」を食べましょう、とのことで案内された店は、狭い入口の階段を上った2階です。お店の中は広々としていて、たくさんの女子大生で満席でした。
 プラスティックの四角い籠を取り、ショーウインドの棚に並べられた食材をその中に入れるシステムです。各種の野菜、蒲鉾類の練り物、ソーセージ類、キクラゲ、などが並べられていて、お気に入りを取り、籠に入れてレジで料金を支払います。私の籠を覗いた学生が、インスタントラーメンの袋を籠に追加しました。レジでは、それぞれ大きな番号札が渡されるのです。
 ほどなくすると、ラーメンどんぶりがテーブルに運ばれます。なるほど先ほど選んだ具が入った、とても辛い胡麻ダレ仕立てのラーメンです。麺は先ほどのインスタントラーメンです。味は美味しく店が混み合うはずです。私のは、辛さ控えめを注文したのですが、それでも汗が吹き出てきます。
 圧巻は、食べ終わった食器の後片付けです。なんとどんぶりにはビニール袋が内側に貼り付けられており、残ったスープや具は、袋を引上げて片付けるのです。どんぶりは綺麗なままです。中国式合理主義には脱帽です。ご馳走様でした。(「南の風」 2337号、12月2日)

■烟台の風・4−初めての中国人家庭への訪問 (Mon, 23 Nov 2009 09:24)
: 「先生、土曜日の夜は予定がありますか?」と学生に質問を受けた私は、「空いてますよ!」と答えました。父親が一緒だそうです。どこのレストランに行くのかわかりません。5時に迎えにきてくれるとのことでした。
 学生は、王子懿という名の学生で、成績も学習態度も悪いのですが、どことはなく愛すべき人間なのです。食卓を囲み息子の成績について相談でも受けるのかと思っておりましたら、なんと自宅へ招かれたのです。彼の自宅は、私のマンションから2キロぐらい先のマンションの13階です。私の他に趙洪濤君と張家銘君と孫紅華さんの3人です。張君と孫さんは相思相愛の仲で、どこにいても二人は一緒です。王君はいきなはからいをしたものです。
 ご自宅は、ローズウッドのフローリングで、広くて美しいダイニングルームとご夫婦の部屋と王君の部屋とキッチンです。ご夫婦の部屋も王君の部屋もとても大きなダブルベットが置かれていて、思わず私は「こんな大きな家具は小さなエレベーターでは運べないけれどどうやって部屋に入れたのか」と質問をしてしまいました。ダイニングルームには豪華なソファーと巨大な液晶テレビが壁にかけられ、高価な陶磁器が飾られ、奥様のコレクションでしょうか、ヨーロッパの人形がたくさん飾られていました。
 3人家族で、経済的に余力のある家庭のこれが実態なのですね。偶然とはいえ、テレビではコレクション専用番組が中国陶磁器のオークションを放映していたのも、暗示的なできごとでした。食卓は奥様手作りの家庭料理が並べられ、ご主人は高価な「洋河藍色経典」という江蘇省の銘酒をワイングラスになみなみと注いでくれます。なんと、52度の強い酒で乾杯です。学生4人はジュースで、お父さんと私で1本を空けてしまいました。
 5時から9時の間、お父さんの問いは「息子の留学は大丈夫でしょうか?」、の一言だけでした。(「南の風」 2334号、11月26日)

■烟台の風・46 A−肉声は舞台俳優の命 (Fri, 20 Nov 2009 19:54)
 …(承前)… 会館の入口では、待ち合わせの若者で混雑していました。恋人の到着の遅れに、携帯電話をする者、やっと現れた恋人に満面の笑顔で飛びつく者、どこの国でも変わらぬ風景です。人間ウオッチングもなかなか面白いですよ。私たちは、7時ちょうどに出会い、入館しました。配布されたプログラムも立派なものです。中国や韓国は印刷費が安いため立派なプログラムが作成されています。
 余談ですが、川崎のNPOの「日韓美術交流会」では、富川市との交流展覧会を川崎市で開催しても、作家の作品を掲載したカラープログラムは、いつも日本ではなく韓国で印刷製本しているのです。伊藤はこのNPOの監事をしていました。
 ホールの客席は前から2列目の良い席でしたが、1221席のうち6割程度の観客でした。そのほとんどが若い恋人同士のカップルです。それもそのはず、演劇が「将愛情進行到底」(愛情を最後までつらぬく)という題名なんですから。演劇は3組の男女の織り成す恋愛物語をオムニバス風に展開して、舞台転換も暗転でスピーディーに行われ、役者はコミカルに演じて客席の笑いを誘います。2時間はあっという間に過ぎたのです。
 雨のシーンは舞台に実際の水が落ちてきて、それは目を楽しませてくれましたが、気になったのは役者の全員が小型マイクを口元に固定していたことです。本来肉声で演じるべきなのにマイクですから、息ずかいの雑音まで聞かされるのです。劇団員は台詞が肉声によってホールの隅々まで通るように日頃から練習をしているはずなのに。舞台俳優は肉声が命です。ホールの音響は、音楽は反響音、演劇は吸収音ですから多目的なホールだと、演劇が犠牲になるのですね。最新式の近代的なホールなのに残念です。今回の演出舞台監督の李亜鵬は、中国の有名な映画スターだと、後日同僚の先生から教えていただきました。
 次は、ニューイヤーコンサートかな。でも、京劇が見たいなあ!(「南の風」 2333号、11月25日)

■烟台の風・46 @おばたりあんの竹の子族 (Fri, 20 Nov 2009 19:52)
 烟台市文化センターが完成しました。近代的で斬新なデザインの建物です。一度は行ってみたいと、いつも散歩の折、横目に眺めながら通りすぎていましたが、青年劇が開催されるという会館の懸垂幕を見て、チケットを3枚手に入れました。予約は、例によって事務所の若い女子職員にお願いし、女性二人を誘って18日に出かけてきました。チケットは1枚80元(1200円)でした。翌日日本語の先生に話すと、思わず「高いわね!」と言われました。そうです、こちらの給与水準から比べると高額なのです。
 7時30分開演なので、7時に会場入口で待ち合わせです。会館は烟台市中心部のメインストリートの南大街に面していて、向い側に天后宮の市立博物館があります。会館前の広場では、2ヶ所で2組のグループの老若男女がヒップホップ風のダンスに興じています。傍に近寄りよく見ると、両方とも中高年のおばさんだけのグループです。この寒空にも関わらずスピーカーから流れるロック調の音楽に合わせ、30人ぐらいが隊列を組み、一糸乱れることのないダンスです。
 中国の原宿「おばたりあんの竹の子族」なのです。さすがに太極拳のお国柄だと感心してしばし足を止めたしだいです。そういえば、私の暮らすマンションのそばの空き地では、毎朝6時に大きな扇子をもって太極拳に似たダンスを踊る一団がいます。夏の早朝ならば分かりますが、初冬のこの季節、今朝の日の出の時間は6時39分なんですが、おばさんパワーには圧倒されますね。青空市場のおばさんたちは早朝から夜遅くまで働いています。今日も私は笑顔の美しいおばさんからトマトとキュウリを買います。(つづく) (「南の風」 2332号、11月23日)

■烟台の風・45−これでも温暖な烟台市だそうです(Sun, 15 Nov 2009 11:47)
 今朝は、烟台で2度目の降雪です。この冷え込みの中を、学生たちは、今日は青島で日本語検定試験です。大勢風邪をひいているので、日頃の実力が出せるか気になります。私は、この寒波が来襲する前から、烟台港近くの北馬路の韓国コンビニで「センガチャ」という生姜のお茶を買い、風邪の予防をしています。
 センガチャは、夏には冷やして飲むと、体中が清涼感に包まれ、冬には温めて飲むと、全身が温まります。喉にピリピリ感が走り、いかにも殺菌作用が強いことを実感できるのです。もう残り少なくなってきたので、今朝買いに行こうと思ってた矢先の雪なので、どうしようか思案中です。こんな雪空にもかかわらず、結婚式祝賀の花火は相変らず大音響を轟かせている11月15日の朝です。しかし、雪景色の烟台の山並みをマンションの6階の窓から、熱いセンガチャを飲みながら眺める喜びも自然がくれたプレゼントなのです。
 さて、烟台の風の愛読者から、私が寒さを強調するため、「烟台は日本のどのあたりに位置するか」、との問いが寄せられました。烟台は、北緯37度24分です。朝鮮半島の南北休戦ラインが38度線です。日本の仙台市が北緯38度16分です。福島市が北緯37度46分です。ですから福島か仙台付近だとご理解下さい。参考までに、ソウルは北緯36度34分で、新潟県長岡市や福島県ニ本松市と同じ位置になります。
 しかし、緯度だけでは、気温ははかれません。太平洋高気圧や黒潮や対馬海流による温暖な日本列島とシベリア高気圧が季節風として寒気を降下させる大陸性気候の中国とは、全く気象条件・環境が違うのです。ただし、烟台は渤海湾と黄海に突き出た山東半島のお蔭で比較的過ごしやすいのだと言われています。でも、本格的な厳冬はこれからですから、私はちょっぴり不安なのです。学校の暖房が16日から入ると言われていましたが、工事の関係で12月9日からに延期になったからです。それに、一人暮らしの孤独感は心の温度も下げるのです。(「南の風」 2328号、11月17日)

■烟台の風・44−まだ初冬だというのに (Thu, 12 Nov 2009 20:45)
 
中国の華北地方は大雪です。河北省の石家荘市は、54年ぶりの豪雪だと報道されています。全国で交通機関が大混乱です。中国の天気予報では、豪雪とは言わず、「暴雪」と呼んでいます。降雪、大雪、そして暴雪です。石家荘は今年の6月24日に最高気温42度を記録した町です。
 温暖な気候の烟台(?)は、今朝の天気予報では、降雪でしたが、結局午前中は曇天で午後からは雨です。それでも気温は2度ですからとても肌寒いのです。私は、厚手の靴下を2枚重ねて履き、丈の長い上下の下着を着て、その上にハイネックのセーター、厚手の長袖のシャツ、さらにその上にセーター、そして厚手のブレザーを身に付け、外出用のコートを着込み、毛糸の帽子とマフラーに手袋という完全な冬支度で登校したのです。
 今年の立冬は11月7日でした。まだ、初冬だというのに、これから厳寒に向かい私はいったいどうしたら良いのでしょうか。学校の暖房は16日からだそうですが、コンクリートの建物が一端冷えると元には戻らず、現在は外に出た方が温かく教室の中の方が、しんしんと冷え込むのです。
 そんな悪条件の中、学生たちは15日に青島で行われる日本語検定試験、22日に降雪の北京で行われる日本の大学の面接試験の準備にと、みんな風邪を押して頑張っています。
                                       (「南の風」 2327号、11月15日)

■烟台の風・43
−中国の寿司の味は・・・(Tue, 10 Nov 2009 23:30)
 昨晩(11月9日)は、北京は大雪でした。幸いにして烟台では降雪は無かったのですが、今朝の気温は2度です。最高気温も7度です。昼休みに私は、毎日海岸を散歩しているのですが、今日は完全な防寒服を着こんでも、冷たい風が肌を刺し貫き、とても我慢できる状況ではありませんでした。
 さて、中国で買い求めたPCのプリンターがまた故障です。何度目でしょうか。インクが逆流し、ショートをしました。日本では、10年以上使用していて一度も故障はしないのに。
 あまりに寒いので、手袋を買いに烟台の中心地に出かけました。「大潤発」という大型スーパーです。電化製品から食料品まで、何でも揃っています。歩いて自宅から45分の距離です。いつもの散歩コースです。
 手袋を買い、毎朝作る野菜ジュースのゴーヤ(苦瓜)を買い、水産物コーナーを眺めていると、寿司コーナーがありました。覗くと、巻き寿司、握り寿司が綺麗にパックされています。私は、外国で日本食は自らすすんで食べないことにしています。「郷に入れば郷に従え」のたとえではありませんが、その国の食べ物を食べることにしています。
 でも、ここは食文化の比較研究だと自身に言い聞かして、ワンパック買って帰ったのです。醤油と山葵は小さな小分け袋に入っています。表示は日本語です。お茶を入れて、先ず太巻き、そして河童巻き、アナゴと海老の握り、と次々に口に入れたのですが、味が全く違うのです。見た目は同じでも酢飯の味が違うのです。韓国のキンパプは酢飯ではありませんが、中国の寿司は酢飯です。それにシャリの米が細長いタイ米のような米なので、粘りが無いのです。がっかりしました。これが日本の国民食の寿司だと思われたら、困るなーと思いました。
 エジプトのカイロで小池百合子の経営する日本食レストランで食べたうどんを、その時思い出しました。こんな不味いものを外国人に日本食として出すとは国辱物だと腹を立てたことを思い出したのです。やっぱり、寿司は日本で食べなくちゃあ! (「南の風」 2326号、11月13日)

■烟台の風・42−中国語の発音は難しくて (Mon, 2 Nov 2009 17:12:04)
 今週は急に冷え込み、各地で雪が降ったようです。11月1日の日曜日は北京でも初降雪でした。烟台の気温は最低気温が2度で最高気温は9度でした。吉林省や黒龍江省ではマイナス15度で、最高でも2度でした。それでもこんな寒空にもかかわらず、日曜日の青空骨董市は露天の数は減りましたが、大勢の客で賑わっておりました。2日(月)は烟台でも初雪です。子どものように心が躍りました。野菜や果物が高騰するのに。寒さが一段と厳しくなっています。
 私の中国語の学習が始まり四日目です。発音が全く駄目。特に、最悪なのが「zhi、chi、shi、ri」の発音です。自分ではうまく発音しているように思っても、私の厳しい学生老師は、何度もやり直しを求めます。すると彼らは救いようがないこの老学生に口の絵を描いて説明をします。上の歯と下の歯を閉じて、軽く口を横に引いて、舌を上あごの下で反る絵を描いてくれて、再度発音練習です。
 更に困難な発音が「yu」です。ユーではありません。これも自信をもっていくら発音しても、彼らは首をかしげるばかりです。そして、また口の絵です。舌を上の歯の裏に付けて、軽く唇をつぼめて、声を喉から出さないように発音します。イューのように聞こえます。次は四声の発音です。「山上・上山」(shan1・shang4)と「上山・山上」(shang4・shan1)をまた繰り返し発音させるのです。
 「日本」は「リーベン」と発音しますね。中国では、日本語を「日語」と書いて「りーユー」と発音します。ところが、この(ri4yu3)の発音が私には問題なのです。こんなできの悪い私ですから、私だったらとっくに匙を投げますが、私の若い老師は、我慢強いのです。「匙を投げる」とういう日本語は、当分彼らには教えないようにします。(「南の風」 2321号、11月3日)

■烟台の風・41−学生は促音の発音が苦手 (Sat, 31 Oct 2009 14:13)
 今日は、日本語教育の話をしましょう。
 私の授業のキャッチフレーズは、「ゆっくり、はっきり、大きな声で!」です。授業の開始時間に、皆で声をはりあげてこの言葉を暗唱します。休み時間には、大声で騒いでいる学生が、文章を読ませると、声が小さくて、口の中でモゾモゾ言っていて、何を言っているのか明瞭ではない学生がいます。
 また、落ち着いてゆっくり読めば、しっかり文章が読めるのに、とても早口で読むため間違いが多い学生もいます。そこで、何回も「ゆっくり、はっきり、大きな声で!」を発言してもらうのです。
 何回か試験をして明らかになったことがあります。例えば促音の発音です。一拍分息を止める発音です。「ゆっくり」、「はっきり」、「言って」、「しっかり」などの小さな「っ」です。学生たちは、この読み方と発音が苦手のようです。そこで、大きな声を出して発音練習を繰り返します。「地下1階」という漢字の読みを「ちかいかい」、「一杯」を「いぱい」と書くのです。
 もう一つ、学生たちの多くが共通して間違えることがあります。それは「う」音の発音と漢字の読みや書き取りです。こんなに成績の良い学生がなぜ、と思うほど、多くの学生が間違えます。「う」を抜かすか、「う」を加えてしまうのです。例えば、「旅行」を「りょうこ」と書きます。「銀行」や「番号」は「ぎんこー」、「ばんごー」と長音化して発音しているため、「う」を抜かし、「ぎんこ」、「ばんご」と書いてしまうのです。私は「イト先生」です。そこで、私はゆっくり、はっきり、大きな声で発音練習をしてもらっているのです。
 ユーモア精神に富んだ学生もいます。「航空便」の漢字の読みの試験答案に「エアーメール」と書いた学生がいました。思わず大爆笑です。(「南の風」 2322号、11月5日)

■烟台の風・40−おばさんは苦手だけれども (Fri, 30 Oct 2009 08:49)
 私は、20代前半から社会教育関係団体の婦人団体を担当していたので、おばさんと話すことには何の抵抗もありません。むしろ私はおばさん達に可愛がられたほうです。
 しかし、中国のおばさんはちょっと違います。マンションのエレベーターでよくおばさんに出会います。するとおばさんは人の良さそうな笑顔を浮かべ、必ず大きな声で私に話しかけてきます。山東省訛りの早口で話かけます。私はまだよく中国語を話せません。ましてや地方訛りの方言を聞き分けられるわけではありません。ただ、山東省にも方言があると聞いていたので、先入観でそう思っているだけなのです。
 おばさんの話に、私はニッコリとうなづくだけです。雰囲気で分かる時は、「是(シー)」とあいづちを打ちます。エレベーターの中のおじさんは、とりすましていて、私をジロリと一瞥して知らん顔です。私がニーハオーと挨拶しても、小さな声で応えるだけです。
 昨日、冷蔵庫の果物が何もないので、行きつけの果物屋に出かけ、美味しいイチジク10個とリンゴ2個を買いました。おばさんはニッコリ笑って、イチジクのビニール袋におまけを数個加えてくれました。その夜、時々訪れる蓬莱料理のレストラン「金秋餐館」で食事をすると、おばさんが帰りに、大きなダンボール箱を指差して、「持って帰って!」と言います。部屋で開けて見ると、なんと先ほど買い求めたリンゴ「富士」が45個も入っているのです。そうです、烟台はリンゴの名産地なのです。おばさん、ありがとう。私は、中国のおばさんを好きになります!(「南の風」 2319号、10月31日)

■烟台の風・39−重陽節は敬老の日 (Tue, 27 Oct 2009 19:32)
 10月26日(月)は、旧暦の9月9日です。中国では、古代より9は陽の数字として、大変縁起がよいとされています。9は久と発音が同じで、永遠に安泰という意味も込められているのです。9月9日は、9が二つ重なることから「重陽節」として中国七大節句の一つに数えられています。
 中国では、戦国時代(BC403〜221年)からの風習で、後漢時代(AC25〜220年)に盛んになったそうです。しかし、国民の祝日ですが休日ではありません。この日は、菊花酒を飲み、茱萸(カワハジカミ:山椒)の枝を持って山に登り、災い避け邪気を払ったそうです。
 今では、近代化とともに邪気を信じる人は少ないため宗教行事ではなく、ハイキングなどをするそうです。また、永遠に安泰ということから、また、菊の花は漢方薬で長寿の植物とされていることからも、「老人節」(敬老の日)として祝わい、日本と同じように各地でお年寄りのための行事が行われています。唐の詩人の王維(AC699〜759年)は長安の都から故郷を想い重陽節に兄弟で登った山を懐かしみ、「9月9日憶山東兄弟」という漢詩を詠んでいます。
 〔独り異郷に在りて、異客と為る  佳節に逢う毎に、倍親を思う 通知兄弟高きに登る処 遍く茱萸を挿して一人を少くを〕 日本を離れ、遠く山東省の異郷の地に暮らす私の気持ちを表現している漢詩なのです。(「南の風」 2318号、10月29日)

■烟台の風・38−私の教師は儒学者 (Mon, 26 Oct 2009 22:29)
 川崎市の市長選挙が気になり、深夜にPCを開きました。川崎の市民館(公民館)を教育行政から区役所に移管させようとしている阿部孝夫現役市長の3選確実の報に大きなショックを受けました。いよいよ川崎の社会教育は冬の時代から厳寒・暗黒の時代に突入することになります。
 さて、先日の土曜日に二人の男子学生が私の部屋を訪ねてくれました。二人で私に中国語を教えてくれるそうです。一人は劉暁宇君で、心理学を学ぶため日本留学を志しています。もう一人は、李c君で、歯科医療機器の開発技術を学ぶため日本留学を希望しています。二人とも真面目でいつも笑顔を絶やさず、成績も優秀です。
 初回とあって、李君は四声の発音と、ピーインの資料を作成してきてくれました。劉君は、どんな資料を準備してくれたのでしょうか。なんと!彼は中国の古典で、儒学の教典、「四書」の中の「大学」をコピーして持参してくれたのです。私は、劉君の発音を真似て「大学」を読み、そして日本語訳を教えられるのです。
 彼があまりにも熱心な態度なので、私は「実用会話を教えてよ!」とは言い出せませんでした。劉君は、彼の祖父から10歳の時に大学の素読を教えられたそうです。江戸時代の教養、朱子学では「四書五経」は必須でしたが、その入門編の書が「大学」と「中庸」でした。21世紀の今、まさか中国で「大学」が読まれているとは、全く思いもしませんでした。文化大革命時代には「批林批孔」で弾圧されたはずですが、庶民の生活文化には生き続けていたのですね。
 翌日、路上青空骨董市で私は「大学」の古本を見つけ5元を出して買い求めたのです。君子の思想だとか、封建の思想などと否定せず、古典教養の文化として受け入れてもいいかなと、読み出しました。(「南の風」 2317号、10月28日)

■烟台の風・37−彼は未成熟な茹でピーです(Mon, 19 Oct 2009 20:24)
: 皆さんは、「茹でピー」をご存知ですか。そうです。茹でた殻付き落花生のことです。一部落花生を植えた人々の間や生産地では有名で、神奈川県の秦野や千葉県の八街では良く食べられます。私も家庭菜園で落花生を育て、茹でピーを楽しんだことがあります。ここ烟台市は落花生の名産地です。
 散歩で立ち寄った青空市場に山盛りの茹でピーが売られていました。私は懐かしさのあまり買い求めました。ほんの少しでいいと言うのにビニール袋一杯で4元です。
 レストランで茹でピーが出されたことがありますが、薄い塩茹でではなく、八角などの中国香辛料で味付けされたもので、ピーナッツ本来の味が消されてしまったおよそ茹でピーとは似ても似つかない全く別の味でした。
 本来の茹でピーは、天日干しにしない掘りたての殻付き落花生を塩茹でにしたものです。食べると後を引きます。パソコンに向かう私の手は自然に伸びてしまいます。残りは電気炊飯器の蒸し器で温めて、翌日、翌々日につまみました。
 烟台の茹でピーは、日本の市場では決して出回らないような不揃いの形です。本当は、この茹でピーの最高の美味しさは、まだ未成熟の軟らかい白い実が絶品なのです。これだけは、収穫者だけに与えられた喜びなのです。そんな未成熟の実も少し袋の中に入っていました。思わず幼子のように「ヤッタ!」と。
 噛み締めると、なんと私のクラスの成績が向上しない学生を思い出しました。会話を試みても、質問をしても、いつもニコニコとチンプンカンプンです。ごくたまに叱り付けてもニコニコ顔のA君です。そう、彼は未成熟な茹でピーなんだ。彼だって、速度は遅くとも味はピカイチなんだから、いずれは目的を果たすさ。(「南の風」 2313号、10月21日)

■烟台の風・36−私を見る眼は・・・(Tue, 13 Oct 2009 20:52):
 新中国建国60周年の今年の「国慶節」と「中秋節」の黄金週間は、中国政府の国務院から昨年の12月6日に「10月1日から8日までを連休とする」、と発表されていましたが、実際には振替出勤などをして、11日の日曜日まで延長したところが多かったようです。12日から授業も再開されましたので、早速「私のゴールデン・ウィーク」と題した、作文を学生に書いてもらい、発表会をしました。家族や友達との触れ合い、旅行などが大勢を占めていました。
 私は、こんな経験をしました。烟台空港で搭乗手続きの開始を待つ間、ロビーの一角にある売店を覗きました。店内には客は誰もいません。手持ち不沙汰な若い女子店員が、最初は韓国語、次に英語そして日本語と流暢に土産物の説明して、なんとか私の財布の紐を解かせようと必死です。
 すると奥にいた中年婦人の店長が、「お兄さん、ちょっと」と手招きをします。店内に客は一人ですから、お兄さんとは私のことです。店長は「これいかがですか」、と机の引き出しから小箱を取り出しました。よく見えない私は「それは、何ですか」と尋ねても、店長は笑って答えません。目を近づけるると「VIAGURA」と書かれていました。私は思わず大笑いして「老人には必要無い」と売店を出たのです。
 ソウル仁川空港のことです。待ち時間に余裕があり、売店をぶらぶらと眺めている私を呼び止める男性の声、振り向くと小さな薬屋です。「中国製のバイアグラはいかがですか」と説明をはじめます。「米国製と違い副作用は無い、若返りの回春薬で持続力は抜群だ」と言って勧めるのです。「老人には必要無い」と私は断ったのですが、私はショックです。
 それは、強面の真面目男が、なんと脂ぎった好色に見られているのだ、と知らされたからです。皆さんも私伊藤をそのようにご覧になっていますか。(「南の風」 2310号、10月16日)

■烟台の風・35−中国のゴールデンウィーク (Wed, 30 Sep 2009 09:15)
 中国は、1日の国慶節と3日の中秋節をはさみ、明日(1日)から8日まで、連休となります。こちらでも「黄金週間」と呼んでいます。この連休は国務院の決定で、昨年暮れの12月6日に布告されたものです。私の学校は本日(30日)の午後から11日まで休校となりました。学生も先生方も郷里に帰れるので、うきうきしています。
 ここ1ヶ月、連日国慶節の準備の映像が報道され、いやがうえにも盛り上がっています。今年は建国60周年という記念の年なのです。3軍の閲兵行進は、特別の訓練村がつくられ、そこで連日の訓練が行われていました。糸を横に張って、足を上げる高さを揃えたり、顎の高さ、目線、などにも厳しい指示がなされておりました。こうして、おもちゃの兵隊のようなパレードが行われるのですね。今朝は女性の兵士にお化粧の仕方を個人個人に実演指導をしていました。
 烟台では、10日ほど前から町中が月餅の販売合戦が始まっています。店の前には山積みです。中秋節には月餅を食べる習わしがあるのです。そのため親しい人に月餅を贈るのだそうです。赤い化粧箱に入った月餅の紙袋をいくつも買っている人をあちこちでみかけます。今日から帰郷、観光の旅行で国中が動き出します。月餅を手土産にして。私も、連休を利用して旅に出ます。しばし烟台の風は休眠させていただきます。(「南の風」2304号、10月2日)

■烟台の風・34−烟台の人たちはお金持ちです(Fri, 25 Sep 2009 21:48)
 皆さん、ジャッキー・チェーンをご存知ですね。そうです、香港映画のアクション・スターで、コミカルな演技で、ハリウッドでアジアの実力を証明した男優です。彼は、カンフーのブルース・リーの脇役でしたが、その後継者として今ではリーをはるかに超えた存在です。
 チェーンは、こちら中国では成龍という名前で大変な人気です。たくさんのテレビコマーシャルにも出ています。最近は、シナリオ、監督、主演と銀幕では大活躍です。彼は、スタントマンを使わず危険な演技をすることから有名になりました。その成龍が烟台にやってきたのです。烟台の国際葡萄酒祭りの出し物に出演するのです。中国人の生活と文化に関心を持つ私は、地元のテレビ番組新聞で20日に来訪を知り、9月23日の公演ですから、チケットは手に入らないだろうと思いながら職場の女性にプレイガイドに電話問い合わせをしてもらいました。するとまだ、3枚あるということで、予約をしました。
 日頃お世話になっている女子職員を招待してライブに出かけたのです。会場は烟台の陸上競技場です。私たちの席はスタジアムの3階席でステージからは、はるかに遠い席です。1枚250元の席です。ゴマ粒より小さな出演者は液晶の大画面で見るのです。観客は4万人です。1万人のフィールドの仮設席は1枚4000元です。(大卒の初任給は1000元から1200元が平均。)
 7時半開演で、7時15分入場締め切りだというのに時間を過ぎても入場してくる観客はあとを断ちません。8時に演奏が始まりました。観客はほとんど若い青年男女です。50歳を過ぎた成龍なのにと疑問を持つと、彼と一緒に出演する歌手が若い人気タレントでした。韓国からの若いグループも出演して、みごとな中国語で歌って、踊っていました。
 聴衆は大きな声で声援をおくり、色とりどりのペンライトを振ります。興奮が高まり、舞台と客席は一体となりました。成龍が歌を歌うとは私は知らなかったのですが、若い女性とのデュエットはなかなかのもので、感心したのです。結局ライブは10時半まで続き、帰宅は11時半となってしまいました。家路を急ぐ私に、天国から毛沢東と周恩来が「ケ小平はよくやった」と話していました。(「南の風」2302号、9月29日)

■烟台の風・33−建国60周年記念 (Fri, 18 Sep 2009 22:35)
: さて、今日は9月18日ですが、何の日でしょうか。そうですね。「柳条湖事件」の勃発した日です。1931年(昭和6年)9月18日に日本軍が南満州鉄道を柳条湖付近で爆破し、それを中国軍が起こしたと主張して、中国軍を攻撃した事件です。これから満州事変にと戦火が拡大するのです。翌年3月には満州
帝国の建国宣言が発表されます。15年戦争の始まりの日です。小林文人先生は、この時作曲された抗日救国運動の歌「松花江のほとり」(張寒暉作曲)を私たちによく歌って聞かせてくださいました。小林先生はこの年に生まれたのですね。
 今日は何か特別な行事があるのかと思っていましたが、何もありませんでした。そういえば、毎日抗日戦のドラマが放映されているのですから、「今更何を」、ということでしょうね。中国は一ヶ月も前から「国慶節」の準備が連日放映されていて、千人の愛国大合唱、三軍のパレード行進訓練、少数民族も出演しての民族舞踊、四千人の吹奏楽演奏、そして舞台では大がかりな「復興への道」、映画は一昨日に始まった「建国大業」、テレビドラマは、先日紹介した「闖関東」の後に「解放」が始まり、建国60周年記念一色(祖国祝福悠)です。解放は毛沢東、周恩来、林彪、劉少奇、蒋介石、などが出てきてなかなか面白いです。
 本物そっくりの俳優を使っています。そうそう風の読者から問われました。「闖関東」(烟台の風30号)
とはどんな意味かと。「山海関」の東に移住するという意味だそうで、清朝が禁止していた移住を1860年に開放したことにより、山東半島から大量の漢民族が東北地方に移動したことをいいます。それから、「教師の日」(烟台の風)の9月10日は孔子の誕生日でした。(「南の風」2297号、9月21日)

■烟台の風・32−歩いて登校しました (Tue, 15 Sep 2009 22:28)
: ソウル出張中の金侖貞さんから電話をいただきました。韓国は、新型インフルエンザに感染した患者は、7千人で、9人が亡くなったそうです。こちら中国でも全国的に蔓延しているようで、連日テレビで報道されています。
 今日の午後、急に学生も教師も集められました。高副校長が午前中に莱山区役所に呼ばれたそうです。烟台でも7人の患者がでたとか。十分に注意をするようにとの伝達でした。お隣の区に有る魯東大学では、学生が1人感染して、今日から1週間大学全体が休校となりました。
 さて昨日と一昨日、私の午前中のクラスは突然休講となりました。理由は13日の日曜日に青島で日本語検定試験があり、それを受験した学生が郷里に帰り、留学書類を準備するためとの説明です。月曜日の朝、張り切って登校すると連絡されたのです。今週の土日に振り替えるとのことです。いつも温和な私も本性を表さずにはおられません。「いつ決めたのだ!」「早く通知すべきだろう!」思わず声を荒らげたのです。一事が万事決定がおそいのです。
 日本人の日本語教師の手記を何冊か読みましたが、新学期の担当教科も直前でないと中国は発表しない、と書かれていたことを思い出し、マア〜良いか、と納得したのです。副校長の事務能力はこの程度だと。威張っているだけの男だと。私よりも怒っていたのは中年女性教師の陳先生でした。
 今日は昨日の怒りは消え去り、機嫌よく自宅から徒歩で学校まで1人競歩です。ジャスト1時間8分でした。毎日の送迎の車ですと10分の距離です。8車線道路、続く登り坂、13分もかかったとても長い魁星トンネル、を鼻歌を歌って登校したのです。旧校舎までは徒歩55分、新校舎までは1時間8分です。まだまだ伊藤は健脚です。ご心配なく。(「南の風」2296号、9月18日)

■烟台の風・31−教師の日のお祝い (Sat, 12 Sep 2009 23:31)
 皆さんは、「教師の日」というお祝いの日が中国にあるのをご存知ですか。9月10日です。
 これは、文化大革命で荒廃した教育を復興させるために、1985年に制定されたものです。教師の地位の向上を目ざすもので、教師への感謝を表す記念日です。歴史的にみると、過去3回制定されていましたので、今回で4回目の復活というわけです。
 公立学校では、教師に花束だけでなく過大な贈り物が父兄から贈られて、社会問題になっているようです。私の学校では、私のクラスの教室の黒板に色白墨の絵文字で大きく「教師節快楽」と「老師?辛苦了」と鮮やかに学生が描いてくれていました。横に全員の学生の名前も書いてありました。そして、一人ひとりが「先生おめでとうございます」といってプレゼントを手渡してくれたのです。
 昼食は、学校の主催で全教師が招かれ祝宴です。42度の白酒で乾杯となりました。さすが、儒教の国ですね。ところで、なぜ9月9日ではなかったのでしょうか。中国では、9の数字は永久の「久」と同じ発音で、とても縁起が良いそうです。恋人に花を贈るにも99本を贈り、永久の愛を誓うのだそうです。
 今年は特に999ですから何かあるかと期待していたら、北京図書館(中国国家図書館)が100周年を迎え盛大な祝賀式典が開催されていました。昨年の北京オリンピックの開会式は08年8月8日の午後8時だったことはまだ記憶に新しいでしょう。何につけても中国はこだわりの国なのです。(「南の風」2293号、9月14日)

■烟台の風・30−美人三姉妹の運命 (Sat, 5 Sep 2009 23:53)
 烟台の風が30号を迎えました。小林文人先生のお蔭と感謝申し上げます。記念すべき30号にふさわしい話題を!とも考えましたが、私が毎晩釘付けになっているテレビドラマについて、報告させていただきます。
 北京電視台の「闖関東・中篇」というドラマです。前編は07年に放映され、大好評だったそうです。私は中篇の途中から視聴しました。今日は40回目です。毎日7時30分から9時30分までの大型ドラマです。抗日戦のドラマはどこかのチャンネルで毎日放送されていますが、「闖関東」はちょっと違うのです。人間性が見事に表されているのです。
 関東は長城の外の地方を言います。東北地方、旧満州の農村が舞台です。宋家の三姉妹とその弟の物語です。満州開拓団の日本人の秋田夫婦は心の優しい人たちですが、その息子の青年男子は何かと三姉妹をいじめるのです。彼は、二女との喧嘩で殴り倒された腹いせに宋家の鉄鍋をこわします。すると秋田夫婦は泣いて三姉妹に侘びて弁償します。今までの日本小鬼子の画き方とは少し違います。秋田夫婦の種蒔きを見た長女は、寒冷地だからもっと深く土を掘れと、助言する一こまもあり人間的な心が通います。
 開拓団も8月9日のソ連参戦、そして15日の日本敗戦とともに散って行きます。美人三姉妹の長女の天好は優しくしっかり者、二女の天星は、気が強く秋田の息子と喧嘩をして殴り倒します。三女の天月はおとなしい娘。両親に先立たれ、助け合って生活しています。
 弟の虎子は、日本軍に捕らえられ強制労働の送られます。後に脱走して国民党軍の中尉に抜擢されます。長女はかくまった作男の共産党諜報員と恋に落ちます。二女は八路軍の軍人になり、三女は国民党の大幹部の嫁になります。困難な生活を三人で助け合って生きてきたのに、彼女たちを取り巻く男たちとの関係で、三人の運命は対立することになるのです。
 今日の放映は、行方不明だった弟が行軍の途中に長女の家に立ち寄ります。そこへ同様行軍中の二女が姉の家に立ち寄り、瀋陽で暮らす三女が訪ねてきて、偶然何年ぶりかで四人の涙の再会となったのです。しかし、しばしの喜びの宴も路線の違いが激突し、激しい口論の末、また別れ別れになってしまいました。久し振りに涙で映像が曇りました。愛し合う兄弟の心の葛藤と夫たちの人間模様が見事な作品です。
 今年は、中国建国60周年なのです。(「南の風」2288号、9月8日)

■烟台の風・29−中元節はお盆の原点 (Fri, 4 Sep 2009 23:54)
 昨日(9月3日)は、旧暦の7月15日です。中国では「中元節」、あるいは「鬼節」といって先祖を供養する日です。これが日本にわたり、「お盆」になったそうです。
 烟台市内の雑貨屋の店先には、黄色い粗末な紙がうず高く積まれていました。その横には、日本の子どもがママゴト遊びで使うような札束も積まれていて、お客さんの来るのを待っていました。
 これは満月の7月15日の夜に先祖の眠るお墓で燃やし、あの世でどうぞお使い下さいといって燃やす「焼紙」というお金だそうです。烟台のような都会では、中元節は清明節のような祝日ではないので、郷里の墓地に行く時間がないため、家の路地の四つ角で燃やすのだそうです。先祖の供養と家族の平安と子孫の繁栄を祈って燃やすのだとか。
 今年の4月3日に私は烟台市を訪れました。その2日後の5日が清明節でした。その時に、私はこの黄色い「焼紙」を初めて見て、中国のトイレットペーパーは、なんと粗末なんだろう、と思ったものでした。その後、学生たちと近郊の山を登った時に、山道中腹の墓地で、燃え残った「焼紙」を見つけて、ようやくその用途を理解したのです。社会主義の国でも、伝統的な庶民の精神活動、宗教行事は息づいているのです。(「南の風」2287号、9月6日)

■烟台の風・28−中国の七夕まつり (Fri, 28 Aug 2009 22:48)
 8月26日は(水)旧暦の7月7日です。中国では七夕まつりは旧暦で祝います。牽牛と織女の伝説にあやかり、男性が女性に花を贈る日だそうです。花やの店先はいつもより多くの花が並びます。
 授業を終え、帰宅するため迎えの車を待つ間、事務所の女子職員から今日は七夕まつりの日であることを教えてもらいました。そこで私はその女子職員に日本の七夕まつりの竹飾りの話をして、「中国ではどのようにお祝いしますか。」とたずねると、「中国は2月14日のほうが賑やかです。」という的はずれな答えが返ってきました。
 そこで再度質問をしようとした時、今まで快晴だった青空が俄かに暗黒となり、雷鳴とともに豪雨となったのです。後で気が付いたのですが、それは花を貰えなかった中国女性の催涙雨だったのです。
 車中で、七夕まつりの話を別の女性にすると、「中国では男性が女性に花を贈る日だ。」、と教えてくれたのです。それを聞いて、私は爆笑しました。なんと2月14日の話は「情人節(バレンタインデー)」だったのです。しかも、中国では女性からではなく、男性から女性に花やチョコレートを贈る日だそうです。なるほど、先程の回答の話の辻褄がこれであったのです。中国の男性は大変ですね。2回も贈り物を。いいえ、2回もチャンスが有るのです。
 今年は間に合わないので、来年は私も花束を用意しなければ! (「南の風」2283号、8月30日)

■烟台の風・27−私の誕生日 (Sat, 22 Aug 2009 21:06)
 中国は、連日北部の大旱魃、南部の水害をニュースで流しています。北部の旱魃は農作物の被害だけでなく家畜の被害が20万頭以上に上るそうです。台湾の高雄県の小林村の土石流被害も大きく報じられ、義捐金募集活動が行われています。
 8月22日は私の誕生日です。今日で64歳を迎えました。考えて見ると、自宅で誕生日を祝う経験はとても少ないのです。大概8月の末は、旅に出ていたからです。職場生活でも、この時期はPTAの全国集会や社全協の全国集会で各地に出かけており、家族と過ごすことは稀だったのです。各地の集会会場の地で参加者に祝っていただく誕生日でした。今年の誕生日は中国の烟台で迎えました。
 昨日は、8月3日から担当している留学生の特講のクラスの最終講義の日でした。今日から皆郷里に帰り、9月の日本留学の準備をします。その学生たちが昨日の昼食時に私の誕生日祝いと謝恩を兼ねて食事会を開いてくれました。僅か2週間程度の触れ合いにもかかわらずです。学生からは手作り刺繍のクッション、張裕のワイン、江蘇省宜興産の紫砂の蓋付き湯飲みをいただきました。景徳鎮が磁器で有名なら、宜興は昔から陶器の茶器で有名な町です。
 今日は朝から雨模様、降ったり止んだりです。4時に学生たちと海水浴の約束をしました。集合場所に雨だから誰も来ないだろうとスイカ割りのスイカを持っ行くと全員集まっています。嬉しかったのは、両親の離婚で学校を退学した周君が来て くれたことです。突然挨拶もせず別れた周君が来て くれたのです。
 海水浴の後は私の行きつけの店で乾杯です。ところが先発隊の後のグループがいくら待っても来ないのです。それもそのはず。直径1尺もあるバースデーケーキを買いにいってくれていたのです。ケーキの上にはハッピーバースデーの文字と一緒に64歳の文字が浮き上がっていました。学生たちからまたも、玉製の数珠と筆立てをいただきました。ヘイチャン・カンシェー!
 日本語教師の皆さんからは、山東省青島の有名な労山緑茶のセット、そして事務所の女性からは万年筆セットをいただきました。事務所の皆さんが祝い先延ばしで、パーティー明日の晩を開いて下さるそうです。日本人教師冥利につきます。(「南の風」2280〜81号、8月25〜26日)

■烟台の風・26−烟台の海水浴 (Sun, 16 Aug 2009 23:01)
 敗戦記念日の15日は、こちら中国では特別の行事は無かったようです。午前10時に長いサイレンが流れたぐらいです。毎日テレビで抗日戦争のドラマが流されているので、ことさらにということでしょうか。
 私は、中国に来て初めて海水浴をしました。14日の夜は、遅くまで烟台市莱山区の経済投資部から依頼された中国文の日本語訳の修正をしました。張林新理事長の会社の時永芳さんが訳した文章が直訳ですので、通常の日本語に修正する仕事です。この翻訳文は、名古屋市との経済交流を行う莱山区代表団の挨拶文です。
 夜遅くまで起きていた私は(いつもは6時に起床するのですが)15日は8時ごろまで床にいると、会社の張雪平さんからの海水浴のお誘いの電話で起こされたのです。
 海岸には午後4時半に私を車で迎えに来てくれるというのです。聞き間違えかと思いましたが、なんと昼間は暑いので、夕方から泳ぐのだそうです。なるほど、午後4時半だというのに浜辺も海の中も人で溢れています。最盛期の江ノ島の海岸以上の人出です。海水はあまり綺麗ではありません。土曜日ということもあり、家族づれが多く、それは賑やかでした。張雪平さんも小さなお嬢さんとご主人と一緒でした。それから、時永芳さんが恋人の男性を連れてきました。彼は大きな浮き輪を持ってきました。程冬梅さんと王斌さんもきてくれました。王斌さんは、私のPCトラブル・アドバイサーですが、彼は日本語ができず、程冬梅さんがいつも専属に通訳をしてくれます。程冬梅さんがいない時は、私と王さんは、英語で会話をしています。
 日没が遅く、午後7時まで明るいので、7時になっても帰宅する人はまれです。おだやかな敗戦記念日でした。寂しがりの私をこうして、皆が気遣ってくれる平和なひと時でした。
(「南の風」2276号、8月18日)

■烟台の風・25−別れた学生との再会 (Sat, 15 Aug 2009 17:16)
 今週の烟台は、連日30度を超える猛暑です。一昨日は34度で昨日は35度でした。烟台は、内陸部とちがい30度を超えることは少ないのです。黄海に突き出た山東半島の先端ですから、比較的過ごしやすいのですが、今週はこたえます。烟台の気象予報官は大変です。海洋性気候と大陸性気候に加え、シベリア気団がぶつかりあう地域だからです。先週は、2度大雨の予報が出されましたが、快晴でした。快晴の予報なのに、アラレが降ったり、突然の豪雨だったりするのですから、烟台の天気は、予報官泣かせの気象なのです。
 さて、11日(火)は大変嬉しいことが重なりあいました。一つはキャノン製の私のPCプリンターが修理から戻ったことです。135元の修理代を請求されましたが、4月に購入したばかりで保証期間だと抗議すると、なんと無料となったのです。
 二つは、日本から尊敬する職場の先輩からの手紙が6階の私の部屋まで届けられたことです。それも昼間留守な私を知っていて、朝7時30分に配達してくれたのです。
 三つはハイライトです。別れの挨拶もしないまま卒業していった学生が7人学校に訪ねてきてくれ、夕食に招いてくれたのです。そして食後はカラオケです。烟台ビールで乾杯の挨拶をした学生が「伊藤先生のお蔭で楽しく日本語を勉強することができました。先生ありがとうございました。」と言われたときは、思わず涙が出そうになったのです。
 先週は、悲しみの一週間でしたが、今週は喜びの一週間となりました。まだ、新しい学生たちに元気を貰うまでにはなっていませんが、別れた学生から思いがけない元気を貰ったのです。「留学先の住所を教える」と、約束をしてまた別れたのです。(「南の風」2275号、8月16日)

■烟台の風・24−高価のコーヒー (Sat, 8 Aug 2009 21:52)
: 学生たちに頼まれた、漫画の本を日本の古本屋で買い求め、皆で食べようと和菓子を持って学校にいきました。すると私の日本一時帰国の最中に私のの学生はもう卒業してしまったとのこと。休暇日程の相談の折、卒業日を教えていただいたらと悔やまれてなりませんでした。はなむけの挨拶なり、日本での留学生活で困った時の対応など、話したいことが山のようにあったのに、最後の挨拶ができなかったショックは大きかったのです。
 それと石倉祐志さんの急逝の報、さらに中国での一人暮らしを心配して烟台まで同行してきた妻の日本帰国とが重なり、心にポッカリ風穴があいてしまいました。2日の夜私のメールを見て心配された浅野かおる先生が国際電話をして下さり、励まして下さいました。長女からは、「お母さんの反対を押し切って中国に行ったのだから、頑張りなさい。」、と叱られてしまいました。
 というわけで、烟台の風の再開が遅れました。8月2日妻を送って青島空港に行きました。時間にゆとりがあったのでロビーの喫茶店に入りました。コーヒーがなんと一杯60元(900円)でした。砂糖とミルクを入れるとさらに高くなるのです。そんなに美味しいコーヒーではなのに。
 昼食時に青島空港の近くの排骨飯を名物にしている小さな食堂に入りました。豚のアバラ骨の肉の塩茹でだけのメニューですが、有名な店でいつも混んでいるそうです。日本語学校の運転手はお得意様のようで、店主が挨拶に出てきました。私が日本人だと知ると従業員やお客さんまでが私をもの珍しそうに見て、話かけてきます。私が「ヘン・ハオチー(とても美味しい)」と言うと、嬉しそうな笑顔をみせてくれます。空港の無愛想な喫茶店の従業員とは雲泥の差です。料金もご飯お替り自由で一人前13元(195円)です。
 久し振りに、今日(8日)は運動不足なので、海岸まで散歩をしました。家から15分で海岸に着きます。いつも休息をする喫茶店に入ると顔馴染みのウェートレスが笑顔で出迎えてくれました。この店はメニューがハングルでも表記されています。でも、韓国語で注文すると、韓国語の分かる従業員はいないようです。アイスモカコーヒーを注文すると30元(450円)でした。大玉のスイカが8元、食パンが4元、セロリー5本で2元、リンゴが6つで8元、卵が8つで3元に比べるとコーヒーはまだこの国では、贅沢品なのでしょう。新しい学生の中に8月23日が誕生日の学生がいました。私が22日なので、二人で誕生日祝いの乾杯を烟台ビールでする約束をしました。
(「南の風」2271号、8月9日)


■烟台の風・23−中国のテレビBお国柄です (Mon, 13 Jul 2009 20:08)
 ここ連日、7月5日に起きた鳥魯木斉(ウルムチ)の暴動が報道されます。扱いは、民族問題というよりは一部の暴徒、という扱いです。昨日(12日)あたりからは、市場の映像とともに平穏な生活が戻ったと報道されました。そして、民族大団結が主張されています。
 13日の早朝は、トップニュースで東京都議選の投票風景と開票結果と同時に、グラフで民主党躍進を報道していました。日本のニュースがトップになることはほとんど無いのですが、新型インフルエンザ以来です。中国南部の洪水、雲南省の地震、と広大な国土ですから、ニュースは事欠かないようです。
 お国柄のようですが、胡錦涛主席と温家宝首相とがそれぞれ国内各地を足繁く訪れている映像が流されるのも中国のテレビの特徴と言えます。新聞にテレビ欄がないので最初は戸惑いましたが,「烟台廣播電視報」というテレビ番組専用の新聞が翌週の番組を紹介して、週末に販売されます。1元です。それでも、ドラマのタイトルだけで、抗日戦争物かどうかは判断できません。時代物には「西遊記」や「水滸伝」が放映されていましたが、その他「英雄者」が多いようです。7月4日から始まったのが「八仙渡海全傳」という唐時代の話です。烟台の蓬莱から日本に渡る八仙人の話です。6日からは「少林寺傳奇」も放映されました。
 中国のテレビのコマーシャルは、強烈です。何度も流されます。早口で絶叫します。ドラマが長時間ですから、コマーシャルもたっぷり時間をとるのです。そして、商品の名を絶叫するのです。甲高い声で何度も。薬、化粧品、自動車、ビール、清涼飲料、が圧倒的に多いのですが、特に肥満、成人生活習慣病の薬の宣伝がダントツです。そういえば、通信販売専用のチャンネルもあります。烟台の「烟台図文」というチャンネルは、専門学校や職業訓練学校などの私立学校専用チャンネルです。日本語学校や韓国語学校が盛んに宣伝を競っています。
 改革開放経済によって、社会主義の国の広報機関ではあっても、コマーシャルを放映するようになり、中国中央電視台は国家から運営費予算を削減された時から、コマーシャルを流すようになったそうです。(一時帰国により休み) (「南の風」2255号、7月16日)

■烟台の風・22−−中国のテレビA92チャンネル(Mon, 13 Jul 2009 09:22)
 中国のテレビドラマは、時代(歴史)物、家庭物、純愛物、そして抗日戦争物です。前回報告したように、毎日どこかの局が抗日戦争を放映しています。人道的な八路軍と非道残虐な日本軍。特に日本軍の特務機関の拷問シーンなどは直視できません。
 私の部屋のテレビは壁付けの液晶テレビです。チャンネルは、ケーブルテレビ(CATV)ということもあり92局です。もちろんチャンネルの飛び番号はありません。中国中央電視台(CCTV)の18局にはじまり、山東省と各省の放送局の映像が送られています。中国の省は22省(台湾除く)あるのですが、海南省と福建省が抜けていて20チャンネルです。それに加えて、5つの自治区(新疆、西蔵、内蒙古、広西、寧夏)と、4つの直轄市のうち天津市と上海市を除いた北京市と重慶市のテレビ局の映像が送られてきます。また、東南、東方という地域局があります。どうやら、東南局が福建省で東方局が上海市のようです。なぜか直轄市でもないのに深セン市局の番組を見ることができます。残念ながら特別行政区の香港、澳門は見ることができません。
 山東省だけでも9局放映しています。それと,烟台の地方放送局8局に加え、有料のスポーツ、音楽、教養(漢詩)、娯楽(釣り)、文物、株式、教育、児童、旅行、料理番組と多彩です。残念ながら,衛星放送のアンテナがないので、NHKは見ることができません。日本のCATV と違いBBSやCNNは映りません。

 
今日の斉魯電視台(山東省は春秋戦国時代は斉の国と魯の国でした)の「私の兄弟は順溜」は、日本軍と国民党軍と八路軍(共産党軍)の壮烈な戦いの連続でした。軍隊の協力があるのでしょうか、大量の軍人が死闘を繰り広げる戦闘シーンは迫力に満ちていて、とてもリアルで残酷です。下士官が中国婦人を陵辱し、彼女が井戸に身を投げます。日本軍が降伏するシーンが放映されています。日本軍の連隊長の部屋の壁には「武運長久」と上書された日の丸がどのドラマにも必ず出てきます。虚しい言葉です。日本語学校の学生が友達にふざけて「バカヤロー」と言っていたのは、こうした画面の日本兵の言葉の影響だったのです。日本兵役の中国人俳優の日本語も流暢で、違和感はありません。ー次回につづく (「南の風」2254号、7月14日)

■烟台の風・21−中国のテレビ@抗日戦争ドラマ(Sat, 11 Jul 2009 23:53)
 4月3日に烟台に赴任して、3ヶ月がたちました。それ以来、私は毎日毎晩、日の丸の旗、日本陸軍の軍服、残忍な軍人の映像と、そして「鬼子(クェイズ)」、という言葉を耳にします。鬼子は、日本人を蔑視する言葉です。毎日毎晩というのは大げさではありません、事実なのです。毎晩と敢えて強調したのは、昼間も放映されているからです。日の丸、君が代を批判する私としては、複雑な気持ちで見ております。
 こちら中国のドラマは、日本の大河ドラマのように毎週1回のゴールデンタイムに1時間放映されるのではありません。各局とも午後7時から9時40分ぐらいの長時間にわたって連日ドラマを放映します。したがって完結は2ヶ月ぐらいで幕を閉じます。見逃したてしまった人気ドラマの続きを他の省の放送局で見たことあります。どうやら、映像提供の配信がなされているのでしょうか。番組みのタイトルだけでは、私にはドラマの内容が何だか分かりません。例えば「戦闘の青春」や「保衛延安」なら察しがつきますが、「対手」「藍色档案」「私の兄弟は順溜」「十三省」「沂蒙英雄」「四世同堂」などは全く分からないのですが、これが全部抗日戦争と人間模様のドラマです。
 そこでは、日本軍と国民党軍と八路軍(共産党軍)と大地主が複雑に絡み合い、男女の愛が交差します。ドラマは、大変大がかりで、エキストラの出演も膨大な数です。戦闘シーンは迫力満点です。銃撃戦の後は、銃剣による白兵戦です。血が噴出します。死体は累々と山をなします。凄惨、残酷、残忍、残虐、悲惨、無残、苦痛、過酷、暴虐、悪魔、とテレビドラマとは思えないほど、真に迫ります。これだけの人を動員して、これだけの火力を使うとなると、軍隊の協力があるのでしょうか。本年は、建国60周年なので、特別なのかと同僚の先生に尋ねたところ、例年通りだそうです。どうやら戦争を知らない世代が多くなっているので、建国に至る困難な歴史の周知徹底を図っているのではないでしょうか。ー次回につづく (「南の風」2253号、7月13日)

■ 烟台の風・号外−留学合格お礼の宴 (Fri, 3 Jul 2009 23:10)
 岩本陽児先生の武勇伝(風2246号→■)は、近年にない面白い文章でした。(失礼)
 岩本先生は九州男児には似合わない優男(やさおとこ)だとばかり思っていましたが、本当に強い男は優しいのだと教えられました。
 本日(7月3日)の朝、「伊藤先生今夜お時間がありますか」と女学生の問いです。本当は大事な研究レポートを書かなくてはならないのですが、女性に誘われたら、後姿を見せるわけにはいかないのが大和のますらおです。
 実は、黄丹青先生にお世話になった学生の王麗さんが、留学合格のお礼の宴を開くので来て下さい、と彼女が言うのです。私は、「あんたのお祝いは私がする。学生にご馳走になるわけにはいかない」と断ったのです。すると彼女は泣き出しそうになりました。今朝の人民日報の記事に、統一大学試験(高考試)に合格すると、恩師に感謝の宴をもつが、そうした風習はおかしい、と読んだばかりなのです。儒教の悪習?が今でも続けられているようです。
 しかし、彼女は私の他にもう何人かの指導教師を招待してしまった、と言うのではありませんか。敵もさるもの、もう外堀を埋めていたのです。最初に私に声をかけたら断れる、と思ったのですね。郷に入れば郷に従え、ということで、私は烟台市内でも高級なレストランに参りました。3ヶ月間は世界で一番不味い料理が本場の中国料理だと実感していましたが、本日初めて素材を生かした薄味の美味しい料理を食べました。これも黄丹青先生のお陰です。
 本日の烟台は30度を超えていましたので午後9時の時点でも、市民は歩道や小さな空き地に折りたたみ椅子を持ち込み涼んで談笑しています。昔の日本の下町風景です。男は上半身はだかで、トランプに興じています。そのお腹は皆布袋さんです。おばあちゃんだけの麻雀もみました。青年たちは、文化センターの前の広場でヒップホップダンスです。庶民の一時の幸せな時間です。(「南の風」2248号、7月5日)

■ 烟台の風・20−夏空に雹(ヒョウ)が降る (Tue, 30 Jun 2009 18:38)
 突然の豪雨と雷です。
 昨日は、夕食会に招かれ繁華街に出ました。毎朝、毎晩欠かさず見る、天気予報では、快晴だったにもかかわらず、16時30分雷鳴とともに豪雨。しかも突風が吹きつけます。幸いにして、部屋の窓は締め切って登校したので、影響はありませんでしたが、街中では大渋滞でした。レストランに向かうタクシーは、ほとんど動かないのです。それもそのはず、ビルの看板類が飛ばされ道路に落下していたのです。それも、あちらこちらで見かけました。幹の太い街路樹が折れて、倒れていました。怪我人がいなければいいのだが、と思い火鍋(フウォグォ)の店に私は遅れて到着したのです。店の名は「金海洋肥牛火鍋城」という、千人も座れるような大きなシャブシャブの店でしたが、こんな天気でも満席でした。
 中国の国土は広大ですから、朝のテレビニュースの天気予報は、15分おきに全国主要都市の予報を放映します。烟台は700万人口の小さな都市なので触れられません。でも、7時18分だけは烟台も主要都市として扱われ予報が流されます。私は、それを見てからさらに中国で最大のインターネットの「百度」を開いて、「烟台天気」を見ます。そして迎えの車で登校するのです。
 昨日の天気予報は、テレビも百度も快晴でしたが、何か虫の知らせでしょうか、いつも風を入れるために開けておく部屋の窓を閉め切って出かけたのです。
 今朝(6月30日)も同様に予報を確認した上で、窓を開け放って、登校しました。ところが、授業中15時30分頃、あたりは俄かに暗雲がたちこめ雷雨です。しまった!「部屋の窓を」と思ったのは、後のまつり。途中で授業を打ち切り、学生たちに学寮の窓を閉めに帰らせたのです。
 今日の強い雷雨の吹きつけですが、昨日との違いは、なんと大粒の雹が降ったのです。直径1.5センチはあろうかというヒョウ。手のひらに乗せてもなかなか溶けません。こんな大きな氷雹(ピンボウ)は63年間で初めてみました。果物、野菜と農家の被害が心配です。
 山東半島の先にある烟台市は、今までも予報は雨なのに晴れていたことが度々あったのです。今回は、その逆だったわけで、中国の天気は変化に富んでいますね。
 現在、中国の江淮地方(長江、淮河の付近)は連日梅雨(メイユー)のために雨天ですが、ここ烟台はカラカラ天気です、と報告(風2242号、烟台の風号外)したとたん、私の部屋の窓辺はずぶ濡れとなりました。(「南の風」2246号、7月2日)

■ 烟台の風・号外−中国の梅雨 (Tue, 23 Jun 2009 21:14)
 沖縄は、文人先生癒しの島、すっかり疲れはとれましたでしょうか。TOAFAEC研究会(7月定例・第153回、7月24日予定)の報告者を喜んでお引受申し上げます。岩本陽児先生をはじめ何人かの皆さんから烟台の梅雨についての質問がよせられていますので、ご紹介申し上げます。
 中国は江淮地方(長江、淮河の付近)を中心に南部で梅雨(メイユー)が6月上旬から7月上旬にかけてあります。いわゆる米作地帯です。上海地方は、このところ雨続きです。台風3号の影響もありますが・・・。
 ここ山東省は梅雨らしいものはありません。空気が乾いています。山東省の気候は、内陸部の大陸性気候と黄海と渤海につきでた烟台(山東半島)の海洋性気候に分かれています。今、省都の済南(チーナン)市では、33度の最高気温ですが、海岸都市の烟台(イエンタイ)市は28度です。しかも、あまり湿度は高くないので、とてもすごしやすいです。
 夜10時頃、寝る前に洗った部屋干しの洗濯ものは、翌朝にはカラカラに乾いています。そのため水はよく飲みます。もちろんビールも。ビールは青島(チンタオ)ビールではなく、ちょっぴり愛国心を発揮して烟台ビールを飲んでいます。烟台ビールは日本のアサヒビールとの合弁会社だからです。味も軽やかで飲みやすいのが特徴です。でも資本の多くは青島ビールが取得しています。
 私のマンションは6階ですが、フローリングの床は濡れ雑巾でまめに拭いても、少しザラつきます。黄砂ではないでしょうが、なんとなくそれを連想してしまいます。いま明日の天気予報を見ると、烟台市の最高気温は36度だそうです。小林先生、沖縄の気温はどうですか。(「南の風」2242号、6月25日)

■ 烟台の風・19−珍しい果物 (Sat, 20 Jun 2009 23:32)
 岩本陽児先生の通信が途絶えていましたので、もしやと心配しておりましたら、案の定体調を崩されていらっしゃったとのこと、早期の回復で安堵しました。私は、毎日珍しい、美味しい果物で元気百倍です(から元気ですよ!)。
 皆さまは、「龍眼(ロンユェ)」という名の果物を知っていますか。4月に赴任した時、果物屋の店先で見つけました。薄いベージュ色の直径2〜3センチの球形の果物です。いかにも硬い感じの実です。どうやって食べたらいいのか分かりませんでした。ある日同僚の若い女の先生が、道々歩きながら口を動かしていました。私にもすすめてくれました。からを親指の爪を立てて割ると中から乾しからびた果肉が出てきます。ほんのり甘く漢方薬の味がします。これは乾燥した龍眼で、薬効成分があることから、一年中販売されているそうです。中国の南部やタイが産地だそうです。
 5月から6月は、なんといっても「茘枝(レイシ)」です。楊貴妃が玄宗皇帝におねだりをして取り寄せた、あの茘枝です。小林文人先生から「茘枝を食べに広州に行こう」、とお誘いいただいた時は、日本で冷凍の茘枝しか食べたことが無かった、私はそんなに美味いものか、と訝しげに思ったのですが、烟台で生の茘枝を食し、男楊貴妃の気持ちになりました。
 今日(6月20日)、生の龍眼を行きつけの果物屋で見つけ早速買ってみました。生の龍眼も乾燥の実と同じ色です。茘枝のような濃い赤紫色ではありませんが、皮を剥くと小型茘枝の果肉が出てきます。味も似ています。中国皇帝のシンボルの龍の眼と名付けた意味が分かります。文献では、6月の茘枝が終ると7月は龍眼だそうです。
 日本の26倍の広大な中国は、季節に関係なく豊富な野菜や果物が店先に並んでいます。4月3日の初日に先ず驚いたのは、ドリアン、ドラゴンフルーツ、苺、マンゴー、林檎、梨、そしてスイカ、マンゴスチン、ヤマモモ、バナナ、パイナップル、サクランボ、などが山積みに売られていたことです。サクランボは4月から6月の今でも売られています。斜めに溝を刻むパイナップルの皮の剥き方は芸術品ですよ。(「南の風」2240号、6月22日)

■ 烟台の風・18−突然の校舎移転 (Sat, 13 Jun 2009 23:45)
 しばらく烟台の風が吹き止んでいました。目白大学の黄丹青先生からも「お元気でしょうか。最近風の便りが見ないですね。多分私と同じで、最初の興奮と不安が少し和らげたところで、疲れが少し出てきたのではないでしょうか。」という励ましのメールをいただきました。実は、烟台の風は、多少たまっているのですが、社教学会6月集会の前後ということもあり、また、長文になると小林文人先生にご迷惑がかかるのでは、と遠慮をしていたところです。
 さて、烟台本洲日本語学校の校舎が移転します。これで3回目の移転だそうです。訪中以前に、日本で張林新理事長から、校舎移転については聞いてはいたのですが、いつ、どこへ、は全く未定でした。同僚の教師や職員も誰もわかりません。6月末だというだけです。
 ところが、急に10日に通達です。6月13日(土)、14日(日)に引越を行うのでという出勤命令です。先生方の中には週末予定を組んだ人もいて、不満続出です。
 しかも、引越業者へ依頼するのではなく、学生、教師、職員の人海戦術で行なうのです。毛沢東の大躍進時代の人海戦術です。そして先生方も理解を示して、身辺整理を始めたところ、またもや突然の日程変更です。土曜・日曜の作業を日曜・月曜に変えるというのです。かつての計画経済の国も緻密な計画は苦手のようですね。訪中に際し日本で3冊の日本語教師が刊行した随筆を読みましたが、共通して指摘していたのは、カリキュラムや学科の担当も直前に急に決まるという話でしたが、なるほど、このことだったのですね。
 実に、大陸的というか、上位下達の伝統というか、日本のような職員参加はないのです。もちろん、まだ移転先の住所や電話番号は教えてもらってはいません。
 とは言え、昨日までの校舎は山が見えるキャンパスで、今度は海の見えるキャンパスで、私の本音はとても嬉しいのです。(「南の風」2236号、6月14日)

■ 烟台の風・17−烟台の回転寿司 (Wed, 27 May 2009 21:05) 
 明日(5月28日)は、端午節という中国の祝日です。学生は連休となるため、気もそぞろです。
 「先生、天気が良いから、外に遊びに行きましょう」と私を誘惑します。
 「なんだ、昨晩一生懸命君たちのために作った資料はどうするの」と言いたいところを、グッと我慢して、「よし1時間しっかり、勉強したら次の時間は散歩にしよう」と逆提案です。学生はいっせいに歓声を上げるのです。
 日本人の好きな食べ物ベストテンを発表させました。寿司が1番なのは、皆知っています。回転寿司の話をしたら、「烟台にも有ります」と一人の学生が言いました。「あっそう!」で、授業は終ったのですが、「先生夜時間が有りますか。」と彼の学生。「是非、伊藤先生を回転寿司に案内したい」、との申し出です。私は、外国では高くて不味い日本料理は食べない主義ですが、学生の厚意には応えなければと、出かけました。その店は偶然にも「伊藤家の回転寿司」という店でした。二人の学生と私の三人で出かけたのです。
 一人の学生は、あまり熱心に勉強をしませんが、喜怒哀楽の激しい幼さをもつ学生です。烟台ビール(日本の朝日麦酒と合弁)の力を借りて会話を続けて分りました。彼の両親は離婚をして、後妻の母とは打ち解けず、3ヶ月も帰宅していないのだそうです。今日も皆が連休を利用して実家に帰るのに、学校の寮に一人残ったのです。成績の悪い彼を切り捨てるのは、簡単ですが、彼が自分の力で人生を切り開く力をつけて欲しい、と願いつつ、励ましたり、助言をしたりした私です。
 私がトイレに立ったすきに、高い日本料理の代金を学生が払ってしまい、なんとしても私に払わせないのです。どうしてお返しをしようかと悩みが一つ増えました。(「南の風」2226号、5月30日)

■ 烟台の風・16−国際芸術品収蔵博覧会 (Sun, 24 May 2009 00:03)
: 先日の17日(日)、烟台の風5(私の住む街は骨董の街)でご案内した、「2009中国国際芸術品収蔵博覧会」を見に烟台国際博覧中心に行ってきました。
 前日、市内地図で会場を探しましたが、見当たらず、バス路線図の停留所をにもそれらしき場所の表示がないのです。108路線までくまなく探したところ、3号路線バスが「烟台国際会展中心」の終点になっています。翌朝、自宅前の青空骨董市を眺めてから、3号路線のバスに乗りセンターに到着しました。
 その建物は、烟台海水浴場に接してたたずんでいましたが、なんと9日の日に招待された結婚披露宴の会場の建物でした。不安になり、バスの運転手に聞くと、確かにこの建物の2階だというのです。2階にあがってみると、それらしい施設はありません。大柄なガードマンに聞くと、17号路線に引っ越したと言うのです。バスの終点の名をそのままにして施設は移ってしまったのです。(大陸的ですね。)
 17号路線は、海岸通りでそれは美しい風景の道です。莱山区のはずれ、体育公園の隣の広大な広場に巨大な見本市会場の建物がそびえ立っているのが苦労して目指してきた国際博覧中心でした。国際会展中心の名前は変えられていたのです。A〜D館までで、当日はA〜Cは中国国内の物産展が行われていました。国内全土だけでなく、韓国、台湾(国内でしたか)からの出店もあり、長蛇の列の見物客です。芸術品収蔵博覧会の表示はどこにもありません。
 またもや、と疑心暗鬼になり、受付嬢に英語で尋ねると、流暢な英語でD館の4階だと教えてくれました。やっぱり国際だけあると、自分に言い聞かせて会場を訪れて、二度びっくりです。広々とした会場にたくさんのブースが、ありとあらゆる工芸品、伝統的書画、巨大な自然木の根を加工した、家具・置物類、焼き物、宝石類(ホータンの玉)、端渓の硯、筆、などが出品され、美術雑誌や書道の雑誌の表紙を飾る当代一流の作家が、思い思いに絵画や書を見物客の目の前で書いているのです。
 途中あきらめずに、来てよかったと、余韻も覚めやらない自宅で、バス路線図を再確認しましたが、体育公園のバス停の隣には表示がないのです。「差不多(チャープトゥオ)」、大した違いはない、気にするな。ケンチャナヨー。(「南の風」2224号、5月26日)

■ 烟台の風・15−新型インフルエンザ (Tue, 19 May 2009 20:33)
 今日(19日)の最高気温は、31度でした。黄海と渤海湾に突き出た山東半島は、内陸部よりはいくらかすごしやすいので、内陸部はそうとう気温が上がったと思います。岩本陽児先生の英国のレディングは5月中旬だというのに9度だということで驚いています。
 さて、4回目のPCトラブルで烟台の風を吹かすことができませんでした。4月に烟台に来てから、停電3回、断水が1回ありました。初回の停電は、4月3日に到着したその日、私の歓迎夕食会の時です。本で承知していたとはいえ、初日の歓迎会でキャンドル・パーティーとなり、いささかびっくりしたしだいです。この間、日本から持参した正露丸に4回世話になりました。
 ところで、甲型H1N1ウィルスのニュースは連日、トップニュースとなっていますが、東京はいかがですか。英国の感染者は200人を超えた(レディング通信)とのことですが、関西の映像を見ると心配です。山東省でも省都の済南(チーナン)市で感染者が1人発生して大騒ぎとなっています。11日に北米から東京経由で北京に帰国した中国人が感染者だったため、同乗した飛行機の乗客が一時隔離されたことは、皆さまもご存知だと思いますが、その乗客の一人が烟台本洲日本語学校を卒業した十文字女子学園大学の留学生でした。本人は、両親にも告げず一時帰国で北京にやってきたため、本校に中国政府から問い合わせがなされたのです。今の季節は、日本の大学から、中国の留学生を受け入れるため面接試験が中国各地で行われますが、新型インフルエンザの影響で取り止めとなり、学生や関係者を不安に陥れています。
 さて、17日(日)に烟台国際博覧中心で開催された「中国国際芸術品収蔵博覧会」に行って来ましたので次回報告させていただきます。(「南の風」2222号、5月22日)

■ 烟台の風・14−中国の結婚式に招待されました(3) (Wed, 13 May 2009 21:17)
          … 先日、中国の結婚式の日に花火を上げると報告しましたが、陳美紅と言う
         名前の武漢市出身で湖北工業大学卒業の私の女学生から、武漢では結婚式に
         花火は上げないと教えられました。広い大きな国ですから、それぞれの地方の伝
         統文化が違うのですね。私の文章は山東省の烟台地方の話とご理解ください。
 …(承前号)…
 披露宴は、プロの司会者で進行します。新郎が舞台の下手の蝋燭に火をつけ、それから会場の奥に据えられた絹の蚊帳の中で待つ新婦を迎えに歌を歌いながら舞台を降ります。二人は愛の歌をデュエットで歌い舞台に上がります。またシャボン玉が舞い、そして花火の噴出です。ここで、指輪の交換と再度の腕をクロスしての固めの杯です。続いて両家の両親が舞台に上がり、それぞれの母親に新郎新婦が花束を贈ります。そして、仲人役の張林新・理事長が新郎新婦の紹介と主賓のご挨拶です。大きな声で、堂々としたご挨拶でした。
 それから、新郎の父親がお礼のご挨拶をお客様に申し上げて、張裕の赤ワインで乾杯となりました。乾杯の音頭も新郎の父親がとりました。その後は大宴会です。私は疲労が重なっているため、今日はあまり飲まず、少々のビールを飲もうと事前に硬い決心をしていたのですが、座った席がそれを許してはくれませんでした。新婦の父親と会社で同僚だったという、私と年齢の近い3人の中国人男性と同席。彼らの一人が私と同い歳と分ってからは、ひっきりなしに強い茅台酒で乾杯となったのです。「中日友好に乾杯」と言われたら、受けざるをえませんですよね。しかもその都度同席の全員が立ち上がりグラスをあわせて、それから一気飲みをして、乾したグラスを見せ合うのです。そこで「ハオ、ハオ!」の合唱の連発です。
 新郎は歌が好きと見えて二度目の熱唱です。花嫁のお色直しは、2回でした。白いウエディングドレスから鮮やかな薄紫色に、そして淡いピンク色のウエディングドレスにです。
 この間、お客様が入れ替わり立ち替わり歌の披露をします。中国の伝統的な発声の甲高い歌声です。新郎新婦は各テーブルを回りお酌をしています。来賓は必ず返杯をしていますので、二人はそうとう飲んだのではないでしょうか。12時に始まった披露宴は何時まで続いたのか分りません(後で聞いたところお開きは5時だったとのこと)が、私は2時30分には会場を後にして帰宅しました。引き出物の赤い小さな手提げの紙袋の中には、金文字で喜びの二文字を重ねた、お祝いの煙草、クッキーとスポンジケーキが入っていました。
 中国の結婚式は、新郎が花嫁を迎えに嫁の実家に出かけて、そこで行う伝統的儀式と、新郎新婦がそろって花婿の実家で行う伝統儀式で終えて、その後は完全に家族とは離れて新郎新婦だけの、写真屋さん主導の結婚記念写真の撮影が中心となるようです。披露宴はどこでも同じようですが、日本のように両家の主賓・来賓が次々にスピーチをすることはありません。一人だけでした。朝5時に起きて3時に帰宅と長い一日でしたが、親族しか立ち会えない伝統的婚姻の儀式に立合わせていただいた私は幸せ者です。王さん、呉さんの幸せを心からお祈り申し上げます。(「南の風」2219号、5月18日)

■ 烟台の風・13−中国の結婚式に招待されました(2) (Mon, 11 May 2009 09:43)
 …(承前号)…
 家族、親族を置いたまま6台の車は、近くの公園に向かい、芝生の上で記念撮影です。樹幹にたたずむ二人、石畳を歩く二人と、細かい指示が飛びます。その度にポーズをとる新郎新婦です。続いて車を連ね烟台大学近くの海岸での記念撮影となります。海辺の建物のテラスで手を広げる二人、階段を下りる二人、作り物のウエディングケーキの前の二人には機械が噴出すシャボン玉が演出効果を高めます。昔の花嫁が乗った赤い輿に新婦が乗り、「はいポーズ」。砂浜には、偽物の椰子の木、白いグランドピアノが用意されており、そこでも「はいポーズ」。それから、波打ち際で二人は20mぐらい離れ、よういスタートです。二人は両手を挙げて走りだし出会いと共に抱きあい熱い抱擁となります。「はい、カット」。ちょうどその時、4人の子どもが遊んでいたのを見つけたカメラマンは子どもたちに頼んで、新郎とともに走り出す演出に変え、「はい取り直し」となりました。
 この暑い中を3時から起きて支度をしてきた新婦は大変でしょうが、笑顔が絶えることはありません。その都度メークの女性が駆け寄って化粧を直します。さらに、おしどりが泳ぐ池のほとりで撮影です。これで終わりかと思いきや、私たちの車は、明の時代に砲台が築かれた海岸の公園に到着し、ここで記念撮影は続行です。土曜日の晴天ということもあって、家族連れの行楽客で賑わう中をカメラマンは、二人にいろいろなポーズを要求します。モーターボートに乗せて手を振らせたり、「月亮老人像」の前で、また「はいポーズ」です。ここは、昨年10月小林文人先生とご一緒に烟台を訪れた際に二組のカップルの写真撮影を見かけた所です。今日も私たちの前には一組のカップルがウエディングドレス姿で記念撮影をしています。
 圧巻は、つり橋で「同心鎖」という愛の鍵をくくりつけた後、つり橋の両側に新郎新婦を立たせて、それぞれ後ろ手にロープを握らせ、からだを前のめりにさせて、キスをさせるのです。黒山の見物人はつり橋が渡れないのにもかかわらず、羨ましそうに見ています。
 ここで11時20分。披露宴会場までは数分で到着です。会場の入口には大勢の参列者が待っています。私たちの車が到着すると同時に、花火と爆竹、五色の紙の花吹雪と音楽隊の演奏です。披露宴は400人の招待客だとか。広い会場は10人席の円卓でぎっしりです。会場入口には金文字で名前が書かれた赤い大きな紙が貼り出されています。受付には、新郎新婦に分けて赤いサイン用の色紙が置かれ、赤いバラの造花に貴賓と金文字が浮かぶ胸章が渡されます。そこには投票箱のような赤い箱が置かれていて、新郎新婦に分かれて祝儀袋を入れるのです。招待状も赤い紙に金文字でしたが、祝儀袋も赤い紙に金文字です。こちらでは、祝儀袋を紅包(ホンバオ)と言います。赤はめでたい色だそうです。(つづく)  (「南の風」2217号、5月13日)

■ 烟台の風・12−中国の結婚式に招待されました(1)  (Mon, 11 May 2009 08:48)
 今、モスクワの赤の広場からヨーロッパ戦争勝利64周年記念の祝賀パレードの実況放送がテレビで行われています。これを見ていても、私の目は自然に閉じてしまいます。今でも私の吐く息は茅台酒独特の臭いがします。53度の茅台酒による5分おきの乾杯で、少し目が回っている私伊藤です。
 今日は、待ちに待った総務(烟台日本語学校)の呉雪(ウ・シュエ)さんの結婚式です。私がいただいた招待状は、11時28分(中国の縁起のいい数字)ですが、新郎新婦の縁結びの徐井(シュー・ジン)先生のお誘いで、特別に親族の結婚式に参列させていただいたのです。
 早朝6時30分、烟台市郊外の新郎の王強(ワン・チャン)さんの実家に向けて、徐井先生が運転するベンツで出発です。久し振りに着たスーツとネクタイでは、今日は少々熱いのですが、外は心地よい風が吹いていて気が引き締まります。実家では、もう親族が集まっており、賑やかな会話が交わされています。玄関に向かう道には、大型打上げ花火と連発の爆竹が準備されていました。音楽隊にお祝いの餃子がふるまわれています。新郎の実家は烟台市の市街地から数年前にこの農村に引っ越してきたそうです。豚と鶏と食用の白鳩が飼われていて、敷地の周りは桃、柿、梨、林檎、などの果樹園となっています。
 徐井先生と私も餃子を頂きました。餃子は中国ではお祝いの席には欠かせないものだそうです。レストランで食べる餃子と違い、家庭の手作り餃子はとても美味しいのです。応接間には色々な果物や珍しいナッツ類が山盛りです。外の街路樹にも家の外壁や部屋の中にも、あちらこちらに喜びの二文字を重ねた金文字の赤い菱形の紙が貼られています。天井にはカラフルなモールが吊るされています。この時間、新郎は新婦の家に花嫁を向かえに行っているのだそうです。
 8時過ぎ、今や遅しと待っていた新郎新婦が花で飾られた黒塗りのベンツ4台と2台のビデオクルーズを連ねて農道を走ってきます。花火が大音響を響かせます。12名の音楽隊が演奏する中、新郎と白いウエディングドレスの新婦が新郎に両足を持ち抱き上げられて玄関の前までやってきます。二人が立つ玄関の扉は閉められています。新郎の母親が新婦に部屋の中から扉越しに声をかけています。残念ながら中国語が分りません。後で聞いたところ、「お前さんは、うちの家風に合わないから家に入れない」とでも言っているのだそうです。新婦は、「ご両親につくすので、中に入れて下さい」と言うのだそうです。新郎も、「いい嫁だ」と助け船を出し、ここでめでたく新郎新婦がそろって部屋に招かれるのです。
 これは、新郎が新婦の家に出かけ、花嫁を迎えに行った時も、同じように「お前さんには、うちの娘はやれない」と門前払いされるのだそうです。そこで花婿が「お嬢さんを大切にする」などと述べて入室を許されるのだそうです。
 新郎新婦が入室すると、たくさんの親族が取り巻くなかで一つの小さなチョコレートを二人は両側から食べます。口と口が接します。これから甘い家庭を作るという意味があるそうです。ここで新郎のご両親にご挨拶。続いて赤い紐で結ばれた二段重ねの饅頭を二人は一緒に少し食べます。そして二人は新婚部屋のベッドに腰掛て、腕をクロスさせて小さなグラスの酒を同時に飲みます。そして、一つの椀の麺を新郎が自分の箸で新婦の口に運び、新婦が新郎の口に運び、これで滞りなく結婚の儀式はお開きです。その後、親族紹介が行われていました。 
 9時には、新郎新婦は親族の見送りを受けて、介添えの人と一緒に待たせていた車に乗り、記念撮影に出発です。ここからが、すべて中国的な演出となります。ところで、この間の儀式の進行は、結婚式全体を請け負った業者によるのですが、実際は、ビデオと写真を担当している3人のカメラマンがディレクターとなって進行しています。カメラマンがいろいろ指示を出し、新郎新婦へのポーズもこと細かく要求しているのです。(つづく)  (「南の風」2216号、5月12日)

■ 烟台の風・11−烟台の路上の賭け事 (Tue, 5 May 2009 22:34)
 昨日(5月4日)より、こちらの学校も夏時間になりました。午後1時30分からの授業も2時からとなりました。午前11時30分から昼食をはさんで、2時まで午睡の時間です。帰宅時間も4時5分から4時35分になりました。
 ところで、五・四のことを20人の学生に質問しました。「今日は、中国の歴史にとって大切な日ですが、何の日ですか?」。誰も答えられません。そこで「学生たちが、祖国愛に燃えて抗日運動を始めた日です。」と私が説明して初めて、女子学生が「青年節です。」と答えました。男はだめですね。五・四運動は本年で90周年を迎えます。中国の各地で記念行事をしているのに、残念ながら、私の学生は五・四運動の歴史を知らないのです。
 さて、今日は街角の民衆文化についてご報告申し上げます。ここ烟台市の陽当たりの良い歩道の角地では、日向ぼっこを兼ねてゲームに興じるお年寄りをたくさん見かけることができます。初老のお年寄りからかなりの高齢者までが1角(1円50銭)のコインを傍らに置いて真剣な顔つきで勝負をしています。中には、時々相手の手の内を読んでか、大声で罵倒する者もいます。たぶん勝負相手をからかっているのでしょう。ゲームは、マージャン、トランプ、そして中国将棋です。どのゲームも対戦者は限られた数ですが、それを見物する人だかりの方がはるかに多いのにはびっくりします。
 かくいう私もその野次馬の一人なのですが。こちらの人たちはやたらに大きな声です。飲み屋での会話などは、まるで喧嘩をしているかのような大声で話しています。こちらの会話が聞こえないぐらい。ゲームを観戦する野次馬はごくたまに若い人がいても、やはりお年寄りが圧倒的に多いのです。その黒山の野次馬がマージャン対戦者の4人に、中国将棋の2人に、頼まれもしないのに大声で助言、批評、手筋の予想と、それは賑やかです。それも大声でやかましいのです。まるで自分が勝負をしているかのように長時間、その場に立ちつづけて声援をおくっているのです。
 見物人の中にはお婆さんも見かけますが、マージャン、トランプにはお爺さんを相手にゲームをするお婆さんもいます。皺だらけの顔で目だけを光らして、皺だらけの手で日本よりも大きな麻雀パイを引き寄せる姿には、思わず観察者の私も笑顔がこぼれます。この人たちは、戦後中国の混乱期、文化大革命の世代でしょうから、大変ご苦労なさった人たちでしょうね。顔に刻まれた皺がそれを物語っています。こんな老後の楽しみ方も許されるべきなのでしょうね。
 ところで、トランプのゲームは勝負に加わる人たちが順に、喧嘩ごしの大声とともに、手札をゲーム台に高い音が出るよう叩きつけるのです。トランプは女性も若い人も実際に勝負に加わっています。特に、青空市場などの露天商おばさんが、客足が遠のく時間にご開帳です。店をかまえる人たちも店の土間でマージャンやトランプをしていますが、さすがに見物人はいません。マージャンなぞは、プラスチックのビールケースの上に手作りのゲーム台を乗せたもので、椅子も昔の銭湯の腰掛のような木製椅子です。常連の見物人になると、折りたたみ椅子を持参していますが、多くは長時間立ったままなのです。
 マージャンゲームの好きな私は、日本と全く違うルールに驚いています。早く言葉を覚えて、彼らの仲間に入れてもらいたいと思っていますが、先ずルールを覚えなくてはと、観察を楽しんでいる今日この頃です。(「南の風」2213号、5月7日)

■ 烟台の風・号外−衝撃的事件です! (Mon, 4 May 2009 09:14)
 あっという間に3連休は過ぎました。毎週開かれる、自宅前の青空骨董市は連休の晴天(30度)とあって、露天も多数出店していました。先々週数えると246店でしたので、昨日はもっと多かったかもしれません。そこで昨日は古本だけを見ることにして『当今世界教育思想』1999年、北京人民教育出版社:畢淑芝・王義高編を1冊5元(75円)で買いました。
 さて、衝撃的な事件が起きました。衝撃、驚愕、憤怒、情けない、悲嘆、惨め、恥辱、なできごとで文字になりません。
 夕方、週末の9日に招待を受けた結婚式に列席するため床屋に行きました。スソが伸びてきたので、短くしてくれと中国語で書いた紙片を持って出かけました。
 先客があり、歩道で囲んでいる麻雀を眺めて待つと、ほどなく呼び出され、片言の中国語で話し、紙片を見せました。整髪もおわり髭剃りで目が覚めました。
 「いかがですか。」とのすてきな女主人声に鏡を見て、「ハオ、ハオ! ピヤォラン」と、返事をして再度鏡を見ると、全く知らない人が笑っています。家族の反対を押し切り伸ばしていたあごひげが、口ひげを残しさっぱり無いのです。みすぼらしい私となっていました。明日学校で学生に笑われるだろうな、と思うと同時に会話力の無さに腹が立った私です。首のすそに剃刀をあててが間違って伝わったのですから。(「南の風」2212号、5月5日)

■ 烟台の風・10−蓬莱の「八仙人」 (Sat, 2 May 2009 22:15)
 昨日(5月1日)の天気予報は、雨だということで、「八仙人」のまち、「蓬莱」への小旅行を一日延期しました。高速バスの路線が発達している中国で、私は密かに一人旅を計画していました。どこで切符を買い、どこからバスに乗るか、料金は幾らか、など事前準備をしました。しかし、計画は漏れていました。言葉の不自由な老人の外国人を一人にするわけにいかない、ということで、急遽学校の車で、張建東さん、張雪平(女性)が同行して下さり、運転は王君さんです。
 先日、学校の仕事で車が青島に出はらい、私にはタクシーが用意されましたが、それを私はことわり、絶好のチャンスと事前に地図などで調べたルートで、公共汽車(バス)に乗り学校まで出かけました。職員室でそれを披露すると、皆んな信じられないというのです。
 その翌日は、自分の足で歩いて学校まで行きました。丁度1時間2分で到着しましたが、やはり信じられないとの声です。「英語の全く通じないイタリア、ボローニャ郊外の田舎のカーサデル・ポポロへ、俺は一人でバスに乗って行ったんだぞ」、と自慢しようと思いましたが、やめました。
 今朝、天気予報は外れ、霧がたちこめ肌寒いのです。4人を乗せたワゴン車は、片道5車線のハイウェイ、両側に葡萄畑が広がる郊外を快適に走ります。韓国の財閥系企業が点在しています。1時間半で「八仙人」のまち「蓬莱」に到着です。10時だというのに霧はまだ晴れません。
 張雪平さんは「伊藤先生が来たことを歓迎して、仙人が霧の上に現れたのです」と、慰めのジョークを発してくれました。実はこの地は、蜃気楼で有名な地で、始皇帝もそれを見て「蓬莱」だと錯覚したそうです。4月17日に蜃気楼が発生したと、烟台の新聞で読みました。今日は期待できそうです。明の国が、和寇対策で造営した水軍基地、海中から引上げられた当時の船や陶磁器の展示を見て、藤の花のトンネルを抜けて「蓬莱閣」を訪れ、黄海と渤海が出会う岬に到着、
 いよいよ巨大な「八仙人像」です。3連休ということで、日本ではあまり馴染みの無い蓬莱は、中国各地のナンバープレイトで溢れています。旗を掲げたガイドに連れられる観光グループが次ぎから次へと寄せてきます。中国5級の観光地だけありますね。五つ星というわけです。
 八仙人の話は、小林文人先生に教えていただいたのです。「八仙人」が昔、蓬莱(日本)に渡る時、伊藤長さんのような酔っ払いが、海に落ちてしまい、日本についたのが七人だったので、日本では「七福神になった」ということです。
 そこで、酔っ払いの長さんの仙人にお会いして御挨拶をしようと考えたのです。でも、八仙人像の誰が海に落ちた仙人なのかは分りませんでした。帰路は、豪華な海鮮料理と烟台ビール(朝日麦酒との合弁)と、張裕の赤ワインで乾杯、満足、満足。一人旅では味わうことのできない小旅行でした。感謝、感謝。(「南の風」2211号、5月4日)

■ 烟台の風・9−烟台と日本との関係史(Fri, 1 May 2009 21:47)
 (1)烟台市の中に蓬莱市があります。市の中に市とは不可解ですが、烟台市は、日本でいう都道府県並みの自治体なのです。烟台市の中心街(芝罘区)から高速バスで1時間半ぐらいの距離です。蓬莱は秦の始皇帝の徐福伝説で有名な土地です。徐福が不老不死の薬を求めて蓬莱(日本)に渡った(紀元前219年)といわれています。徐福は山東省でBC278年に生まれています。始皇帝は、全5回の巡幸のうち烟台の芝罘島を3回訪れています。泰山での封禅の儀式にあわせて訪れたのでしょう。漢の武帝も一度芝罘島を訪れています。
 (2)蓬莱は八仙人がその昔、蓬莱に(日本)に渡った土地ということで名付けられました。そのうちの一人が海中におちて、日本では七福神になったそうです。烟台市教育科学研究院の編集した小学校3年〜5年用の社会科教科書副読本には、八仙人の名が記述されていますが、私のPCには無い漢字でした。
 (3)遣隋使(600年〜614年)と遣唐使(630年〜894年)の初期は難波の港から瀬戸内海を抜けて、百済・新羅領の朝鮮半島西海岸沿いに高句麗領を避けて、遼東半島の南海岸から山東半島の登州(烟台市)に上陸したそうです。白村江の戦い(663年)で朝鮮半島情勢が不穏になるまでは、日本から長安に向かう表玄関だったのです。
 (4)烟台の地名の語源は、狼烟(烽火)台からきています。烟台山頂には、明の時代(1398年)に築かれた烽火台が史跡として保存されています。この烽火台は、南北朝から室町の初期にかけてが最盛期だった「和寇」の襲撃防備のための施設だったのです。
 (5)烟台市の隣接する威海市は、清の北洋海軍の基地でした。日清戦争(1894年)で日本海軍はこの北洋艦隊を殲滅したのです。その隣の青島市は、青島ビールで日本でも有名ですが、第一次世界大戦でドイツに宣戦布告をした日本軍は、この地を占領(1914年)しています。日本軍は1941年に烟台を占領しています。
 (6)烟台山公園は入園料30元でした。戦前は、ここに日本軍兵舎と日本領事館がありました。今でもイギリス、アメリカ、デンマークの領事館址、とともに保存されています。残念ながら、庭の石灯篭はみんな壊れていました。
 (7)烟台市は、漁港であり、貿易港であり、経済技術開発区でもあり、韓国系、日本系の企業が多く進出しています。また郊外の農村の野菜の多くは日本に送られます。烟台のワインは国際的にも高い評価を得ています。現在、烟台空港からの直行便は関西空港だけです。首都圏からの直行便が望まれますね。(「南の風」2210号、5月2日)

■ 烟台の風−伊藤長和の一日の生活 A(Sun, 26 Apr 2009 22:57)
 …前号に続く… 午後の授業は、1時30分からですので、寮生活の先生は自分の部屋に戻り、休息しています。私は、教員室で午後の資料の確認をした後、ソファーで仮眠をしています。女性特有の甲高い声の会話も気にならず、10分程度睡魔に襲われるのです。
 1コマ45分で10分間の休憩をはさみ、午後の5限・6限の終了は、3時10分です。4時5分には授業は終了ですが、私は食券を持って学生食堂で夕食です。4時にですぞ!
 ここでも、特別料理が出されます。先日は日本人が魚好きだと思ってか、見たことも無い白身の魚の煮付けが出されました。魚の味は良いのですが、味付けが濃過ぎるのが残念です。素材の味をころしてしまっているのです。食堂の外では、運転手の王君(ワン・ジュン)さんが4時30分発の送りのために車を停めて首を長くして待っててくれます。私のマンションの近くは、この時間、青空市場の露天に群がる人々で大混雑ですから、車も渋滞をしますが、それでも4時50分には部屋に戻ります。
 それから、テレビのニュースを見たり、洗濯をしたり、銭湯(部屋にはシャワーが有りますが、たまには湯船につかりたいので)に出かけたり、資料づくりをして、11時には床につきます。そうそう、パソコンのスカイプで妻に無料の国際電話をこの時間にしています。私は愛妻家だと今気づきました。
 土・日曜日は、出来るだけ付近を散歩していますが、まだ遠くには出かけていません。烟台山、南山公園、毓?頂公園だけです。夕食は、マンションの前の「金秋餐庁」という名の小さな海鮮料理店でビールと一品の料理を注文します。約20元(300円)といったところです。最初に二品頼んで大失敗しました。大皿に山盛りの料理。いくら胃が小さいと説明しても量はかわりません。ここでも私は女性の老板(支配人)に気に入られ、小皿に別料理が運ばれます。揚げピーナツ(烟台は落花生の名産地)やら、蓬莱麺などを贈られました。
 山の幸、海の幸を楽しみに通っています。アサリの酒蒸し、鰈の煮付け、シャコの塩茹で、扇貝の塩茹で、といったような料理が日本人の口に合います。どうやら、今がシャコが旬の季節のようで、青空市場でも大型の生きたシャコが山盛りになり、あちらこちらの露天で商われています。美味いですぞ。再見。(「南の風」2208号、4月28日)

■ 烟台の風7−伊藤長和の一日の生活 @(Sun, 26 Apr 2009 22:43)
 皆さんにご心配をおかけしている日常生活についてご紹介いたします。
朝6時に起床します(実はそれ以前に目が覚めています)。7時に朝食に出かけます。私のマンションの直ぐそばにあるチェーン食堂の「藍白(ランパイ)」です。共稼ぎが多いのか、家族連れや、サラリーマンの朝食ではやっています。
 中国のレストランは、どこでも大皿にたくさんの料理がのるので、一人では一品でも食べ切れません。前もって少量とお願いしても駄目です。その点この店は、ビュッフェ方式で、プラスチックの盆を持って並び、ウインドーの中の小皿に盛られた様々な料理を指差し、係りの若い女性に取ってもらいます。少量でいろいろ食べられるので、私には、ありがたいシステムです。たいてい、南瓜粥、目玉焼き、包子、と野菜。包子のかわりに油条にする時もあります。これで、6元(90円)ぐらいで10元(150円)を超えることは、ありません。味も日本人にあいます。食事時間は15分です。
 部屋に帰り、掃除と講義資料の確認をして、9時きっかりに学校の車が迎えにくるのです。毎日送り迎えをしてくれる、運転手の王君(ワン・ジュン)さんは、毎朝私と会話をするため、特訓してきてあいさつをしてくれる、とても気の優しい青年です。中国の運転マナー、人々の交通マナーはそれはひどいものですが、王君さんの運転はとても上手です。
 9時15分には学校に到着します。それから、昨晩作成した、資料のコピーです。私は、午前中2コマ、午後2コマを月曜日から金曜日にかけて2クラス担当します。午前中は、9時50分から10時35分までの3限と、10分の休憩の後、10時45分から11時30分までの4限です。
 11時30分から直ぐに学生食堂で昼食です。学校からいただいた食券で定食が出されますが、中国人の先生は自分でその都度支払っています。私は特別扱いで席も別に用意され、料理も特別料理で、しかも大皿にたっぷり2皿出されます。
 当初孤独な食事でしたが、中国人の先生(全員若き女性)方と一緒に同席させていただきました。とても食べきれないので、彼女たちに手伝っていただいております。全て美味しいのですが、味が濃く、脂っこいのがこちらの味付けの特徴です。食堂のおばさんに気に入られ、時々饅頭を持ってきてくれます。(続く) (「南の風」2207号、4月27日)

■ 烟台の風6−中国・烟台の結婚式 (Tue, 21 Apr 2009 18:28)
 土曜日や日曜日の早朝、打上げ花火の音にびっくりします。それもまだ夜が明けきらない午前4時や5時にです。最初は何事かと思いました。大砲の音にそっくりでまるで戦争でも始まったかのようなのです。これは結婚式を祝う祝賀の花火だったのです。花嫁は朝3時に美容院に行きます。4時に花嫁の家に花婿が新婦を迎えにやって来ます。そこで花火が打ち上げられます。7時に新郎新婦がそろって花婿の家に到着します。
 ここで、食事会となります。この時も花火が打ち上げられるのだそうです。11時28 分(縁起の良い数字)に披露宴が行われます。また花火です。昨年秋に初めて烟台を訪問した時に海岸で二組のカップルがウエディングドレスに身を包んだ花嫁を抱きかかえて記念写真を撮っていましたが、先日、4月5日は日曜日だったこともあって、二組のカップルが記念写真を撮る場面に出会いました。烽火(狼煙)台を見に烟台山に登った帰りに、海岸を散策していたところ、廣仁路歩行街という1900年に建てられた養正小学校址をはじめとする貴重な文化財の住居址が街並み保存されている一角で出会ったのです。閑静な場所で、周りに見物人もいない所でしたから、私はしばしその場にたたずんだのです。
 写真屋の若い青年は、ポーズをとったり、目線を空に向けさせたりと、舞台監督のようです。写真屋の指示どおり煉瓦の壁を背景に真っ白なウエディングドレスのカップルがポーズをとっていました。待たされている二組目のカップルは、一生懸命 それを見て学習をしています。恥かしがりの私は、不自然なポーズに顔を赤らめたのです。そういえば韓国の景福宮でも同じような光景を目にした事を思い出しました。
 ところで、いつから中国の花嫁は西洋のウエディングドレスを着るようになったのでしょうか。中国の伝統的な花嫁衣裳は着ないのでしょうか。日本では、文金高島田のかつらに錦織の打ち掛けの和服に身を包んだ花嫁が、披露宴の途中でお色直しと言ってウエディングドレスに衣装替えをするのが一般的ですね。
 実は、嬉しい報告があります。5月9日に私は結婚式に招待されたのです。学校の総務担当の呉雪(ウー・シュエ)さんの結婚式にです。呉雪さんはすてきな女性。民俗文化に早くも触れることが出来るのです。打上げ花火の競演は今日、19日(日)も大音響を轟かせています。お幸せに! (「南の風」2205号、4月24日)

■烟台の風5−私の住む街は骨董の街 (Thu, 16 Apr 2009 18:01)
 私が暮らすマンションの下の歩道では、毎週日曜日の午前中に青空骨董市がたちます。歩道は幅6m、長さ100m程ですが、そこがフリーマーケットのような賑わいとなります。歩いていても肩が触れ合うような混雑です。ほとんどがお年寄りのようです。
 切手、古銭、古本、陶磁器、書画の掛け軸、筆、硯、墨、工芸品、伝統家具、仏像、貴石銘石、木の根細工、大工道具、農具、時計、携帯電話、テレホンカードなどがシートに所狭しと並べられています。ガラクタ市と呼んでもいいような機械や電気の小部品もあります。
 多いのは、和田(ホータン)の玉や翡翠といった宝石の装飾類の出店です。人気があるのは、切手や古銭。こんなにもコレクターがいるのかと驚きます。みんな熱心に手に取り眺め、値段の交渉をしています。なかには客同士が知り合いで自慢話や交換などをしている様子も見受けられます。全てが薄汚れていて、よく売れるもんだなと感心させられます。ゴミのように雑然とした紙屑同然の本を売っている者もいます。今盗掘してきたかのように見せかける黄土のついた文化財らしき青銅器なども並べられていて、時間を忘れてしまい、いつまでたっても飽きることはありません。
 私も文具類を入れるために、木製、竹製、陶器製、真鍮製の「筆立て」をひやかし半分に何ヶ所か見て歩き、値段の交渉をしましたが、発音が山東省訛りでなかなか数字が聞き取れないのです。何回か聞きなおした時、あきれたお兄さんがやおら自分のポケットからお札を取り出し値段を教えてくれたのです。やっぱり会話能力のなさを私は痛感しました。
 文化大革命時代の象徴で大宅壮宗一にジャリタレ革命と言わしめた紅衛兵の赤い腕章も売られていました。さらに驚くのは毛沢東の書籍や大きな肖像写真の脇に、中国女性のヌード写真集が置かれていたことです。まさに文化大革命です。
 私は骨董を眺めるのが好きで、毎月第3日曜日に鎌倉の龍口寺の境内で開かれる骨董市を時々訪れましたが、全く規模が違います。なぜここで開催されるのでしょうか。実はこの通りにはいろいろな骨董店を収容した常設のプラザがあるのです。こちらは青空ではなく大きな建物の中に多く店がひしめきあっています。「斉魯古玩文化城」という名の建物です。中では実際に古老が大きな画仙紙に細長い穂先の筆で書をかいていました。茶をすすりながら品の良い客人が見物している姿は、喧騒な青空市で日焼けして、逞しく生きる露天商の人たちとは対象的です。
 皆さんも日曜日に烟台市にいらっしゃいませんか。私の住む街、烟台市芝罘区辛庄街は骨董の街です。本年5月16日〜18日には、烟台国際博覧中心で「中国国際芸術品収蔵博覧会」が開かれます。今から楽しみにしている私です。(「南の風」2201号、4月18日)

■ 烟台の風4−住民登録 (Tue, 14 Apr 2009 20:17)
 今、烟台はいろいろなか花木が咲き乱れとても美しく、まさに桃源郷です。私は、今朝の授業を取り止めて「公安局」に居住申請に行ってきました。
 先日、保健所の身体検査を受けて滞在許可が出たからです。入国30日以内に地元の公安局に居住申請をする必要があります。日本の公立病院で身体検査を受けた証明書を持参しても、さらに同様に検査を受けるのです。
 公安局に申請するためには、外国人専家証を発行してもらわなければなりません。來山区という美しい街に烟台市人民政府があります。外事弁公室を1階で尋ねたところ、4階だそうです。4階に行くと7階だというのです。7階では8階だと指摘されました。8階で尋ねると、なんと事務所は移転したというのです。
 そこでまた車を飛ばします。着いたのは、烟台市人材市場です。外国人専家証の担当は実に親切に対応してくれましたが、たらい回しされたことから思うに、インフォメーションサービスという考え方がまだ身に付いていないのだろうと考えました。やっと専家証の発行を得て公安局に出向きました。
 ここでは長蛇の列で結局8時から12時まで半日がかかりで午後の授業の13時半にようやく間に合ったのです。明日、最後の一仕事が残っております。それは、市の公安局の許可証を持って居住地区の公安局に出向き居住登録をするのです。そこでようやく晴れて外国人住民となるのです。 (「南の風」2200号、4月17日)

■ 烟台の風・3−徐井校長の誕生日(Sun, 12 Apr 2009 22:15)
 早いもので1週間が過ぎました。青島に着いた時は、「なんと寒い所に来てしまったのか」と思いましたが、数日前から烟台は毎日24度の温かい日が続いています。山東省の州都・済南(チーナン)は、28度と夏日です。
 1週間がたっても、生活のリズムが落ち着きません。毎朝4時か5時には目が覚めてしまい、あれやこれやと頭をよぎりなかなか眠ることが出来ず、睡眠不足がちです。その昔、夏目漱石がロンドン留学をした折、神経衰弱気味のノイローゼになったそうですが、もしかしたらこんな状態が長く続いたのかなと思ってしまいます。
 さて、昨日の土曜日は5時に起きて資料作り、そして洗濯とフローリングの拭き掃除をしていると、急に学校からの電話です。直ぐ車で迎えに行くとのことで、用件も告げず切ってしまいました。連れて行かれたのはレストランでした。
 徐井校長の誕生日(中国は旧暦で祝う)なので、あらかじめ本人には内緒にして学校の若い教師や事務職の関係者が祝賀パーティ準備をしてきたとのこと。大きな丸テーブルに大勢が集まり、徐井校長の到着を待ちました。何も知らされていない徐井校長は入室と同時にクラッカーの音と紙吹雪に驚き、ハッピーバースデーの合唱に満面の笑顔を浮かべられたのです。
 全員が一人一人立ち上がりお祝いのご挨拶をして、その都度乾杯をします。何十回と乾杯のグラスを乾すうちに深酒となりました。楽しい時間はあっという間に過ぎ去りました。ところで、張林新さんは徐井校長の誕生日を覚えていないそうです。そこで日本にいる張林新さんに国際電話をして、誕生パーティの様子をお知らせたのです。若い人たち囲まれた徐井校長先生は幸せ者です。明るい人柄が皆に愛されているのでしょう。これで私も睡眠不足が解消できそうです。
(「南の風」2198号、4月14日)

■ 烟台の風・2−パソコン (Wed, 8 Apr 2009 22:02)
 夜分遅くメールを差し上げ申し訳ございません。異例中の異例ですが、時系列の報告ではありません。お許しを!
 昨晩PCを打ち込んでいましたら、トラブルが起きました。一生懸命に修復を試みましたが直りませんでした。その理由は、日本で張り切って作成した教材のFDが学校では使用できない、全てメモリーステイックだけだというのです。しかも、PCは総務室にあるだけで、教務室にはありません。総務のPCは仕事で空くことがないのです。そこで日本から持っていったPCで、FDからメモリーに複写していたところ、突然インターネットが遮断したのです。
 今朝は、中国で働く人は必ず保健所で健康診断を受けねばならず、保健所に行って来ました。午後、張林新さんの会社の若い王斌さんに SOSを出しましたら、私の自室まで来てくれて即座にトラブルを解消してくれました。それだけではなく、PCプリンターも安く手に入れて接続してくれたのです。全部漢字の中国語ですから、私には手におえませんでした。そこでお礼に、夕食とカラオケを一緒に来た通訳の女性と今日一日中運転してくれた運転手さんと4人で楽しんだのです。
 PCプリンターは烟台の秋葉原のような電気街で買いました。カラオケで伊藤が最初に歌ったのは、ハングルで「愛よ」という歌です。中国の「大海」ではありません。烟台の赤ワインを飲みすぎました。若い人に元気をもらった一日でした。明日は日本語スピーチコンテストがあります。とても楽しみにしている寂しがりの長さんです。 (「南の風」2196号、4月10日)

■ 烟台の風・1ー到着 (Mon, 6 Apr 2009 22:16)
 4月3日、予定通り烟台に到着しました。
 青島まで学校の車が出迎えてくれました。出国に際しては、いろいろご心配いただきありがとうございました。さて、土・日と部屋の整理をして、本日(4月6日)から授業だと思っていたところ、4日の土曜日が祝日の「清明節」と重なり、本日の月曜日は振替休日でした。とてもラッキーです。そこで、授業の講義資料を作成した後、昨日は、煙台山公園に行ってきました。今日は、南山公園に出かけました。どちらもすごい人出でした。
 次にご心配おかけしている「宿舎」のことをご報告申し上げます。小林先生のお口添えのお陰をもちまして、学校とは離れて、煙台市街の中心地の12階建てマンションの6階のワンルームです。部屋は、リニューアルされてとても綺麗です。デスクもソファーベットも全自動洗濯機、薄型壁付けテレビ、も完備しています。洗面台は常時お湯が出ます。心配したトイレは洋式便器でした。
 無いのは、掃除機、冷蔵庫、アイロンだけです。マンションの裏には、銭湯がありますので、自室のシャワーに飽きたら利用できます。明日は授業の初日なので、行ってきました。6元(90円)でした。マンションの地下は大きなスーパーマーケットで、何でもそろっています。
 近くに2元店(日本の100円ショップ)と超市(コンビ二)があり、それはとても便利です。それと、豊富な海産物、農産物を売る青空市場があります。今の季節にスイカやマンゴー、ドリアン、等の南国から運ばれた果物が高く野積みにされています。さすが広い国ですね。
 本当にありがとうございました。奥様の富美さまにも感謝の言葉をお伝え下さい。
 ところで、中華料理は一人で食べるものではありませんね。初日の夜は徐井校長先生が歓迎の小宴を開いてくださいましたが、4日からは一人食事となりました。.. (「南の風」2195号、4月8日)