上勢頭芳徳さん(竹富島)追悼ぺ―ジ       



2013年3月 八重山・平久保にて(20130318)


■竹富島・上勢頭芳徳さん逝く-「南の風」3814号(2017年3月29日)小林ぶんじん
 今年(2017年)の「やんばる対談」、那覇に着いて、ホテルで受信したメールのなか、目に飛び込んできた悲報! 竹富島・阿佐伊拓さんから(Wed, 22 Mar 2017 17:15)。「病気療養中の上勢頭芳徳さんが本日(3月22日)、お昼頃逝去されました。享年75歳でした。告別式は、3月24日(金)11時30分~12時30分、喜宝院(竹富町字竹富108)にて執り行います。芳徳さんとの縁のある皆様方へ、取り急ぎお知らせいたします。」
 実は、芳徳(よしのり)さんの体調がよくないこと、経過が思わしくない(脳腫瘍、石垣・八重山病院に入院中)という辛い便りは、前本多美子さんから1年前に聞いていました。あぁ、ついに来るべきときが来てしまった! 天を仰ぎ、はるか南へ合掌しました。
 私には今年の対談・予定スケジュールあり、沖縄にいながら竹富島への弔問に行くことかなわず、北のやんばるへ。芳徳さんはきっと許してくれるだろうと心の中でお詫びしたのでした。 
 最後に会ったのは、2013年「やんばる対談」のあと。竹富島に足をのばした旅でした。竹富島のあと、芳徳さんは石垣にも同行していただき平久保「ぶんじん歌碑」へ。一緒に撮った写真(上掲)が残っています。2014年以降は、ぶんじん自身の入院があり、妻・富美の介助も多くなって、名護(やんばる対談)に出かけるのが精一杯。その後は竹富島に行く機会なく、また芳徳さんが上京して「風の部屋」に泊まることもありませんでした。
 「白内障の手術を早くなさい、私はよく見える目に治して、南米マチュ・ピチュまで行ってきましたよ!」と白い歯で笑った顔が最後となりました。芳徳さんと対談した「竹富島憲章と竹富公民館」(2007年、年報12号所収)が貴重な記録。「南の風」に寄せられた便りや、八重山毎日新聞の記事などホームページに載せた芳徳さんの文章・写真がたくさんありますので、鎮魂の「追悼ぺ―ジ」をにつくり、芳徳さんを偲びつつ、ときに話しかけることができるようにしましょう。

■上勢頭芳徳さんとの出会い-「南の風」3828号(2017年4月27日)小林ぶんじん
 私たちの沖縄研究のなかで、初めて八重山(石垣島)に入ったのは1980年代初頭、竹富島に渡ったのは1991年秋でした。小林ゼミ一行(東京学芸大学)は当時の竹富小中学校教頭・渡慶次賢康さん(元沖縄県社会教育主事)のご案内で種子取祭へ、泊まったのは高那旅館。このときまだ芳徳さんとの出会いは定かではありません。その後、与那国研究を始めた1998年。その往路、前本多美子さん(東京学芸大学卒、当時・竹富島在住)を訪ねて竹富島に寄った折、喜宝院蒐集館で初めて芳徳さんとお話した記憶があります。
 本格的なお付き合いが始まるのは2002年から。私たちの誘いにのって、芳徳さんは名護で開かれた社会教育研究全国集会(第42回)に参加されました(写真)。その後、とくに2006年から数年は積極的に竹富島へ通うようになりました。沖縄本島に行けば必ず竹富島へ足をのばし、島に着けば、まず喜宝院蒐集館(日本最南・最西端の地域博物館)へ。沈む夕日を見ながら、コンドイ浜でビールを飲みあった想い出など忘れられません。
 芳徳さんと小林の対談記録「竹富島憲章と竹富公民館」(『東アジア社会教育研究』12号、2007年)が遺されました(本追悼ぺ―ジに収録)。芳徳さんからたくさんのことを学びました。芳徳さんは「南の風」メンバー、上京の折、なんどか「風の部屋」に泊まっていただき、私たちの研究会に出席されたこともあります。在りし日のご活躍を偲び、心からご冥福を祈ります。


2002年夏、社会教育研究全国集会にて(第42回、名護、20020831)


■上勢頭芳徳・略年譜 *遺族提供
  (1943年~2017年)
経歴:
昭和18年(1943)10月24日  長崎県諫早市生まれ
昭和42年(1967)03月     福岡大学商学部卒業
昭和49年(1974)05月     竹富島移住
昭和55年(1980)05月     喜宝院蒐集館勤務
昭和57年(1982)      全国町並み保存連盟幹事就任(竹富島を守る会代表として)
昭和57年(1982)10月28日 八重山毎日新聞社竹富島特派員初投稿
昭和59年(1984)08月     喜宝院蒐集館館長就任
昭和63年(1988)01月     博物館学芸員資格取得
平成04年(1991)04月01日  竹富公民館主事選出
平成04年(1992)04月     竹富島集落景観保存調整委員会事務局長選出
平成15年(2003)01月24日  特定非営利活動法人たきどぅん理事就任
平成15年(2003)06月02日  特定非営利活動法人全国町並み保存連盟理事就任
平成16年(2004)05月22日  特定非営利活動法人全国町並み保存連盟理事退任
平成17年(2005)03月31日  竹富島集落景観保存調整委員会事務局長退任
平成20年(2008)05月08日  沖縄県博物館協会賞受賞(喜宝院蒐集館として)
平成22年(2010)04月01日  地縁団体法人竹富公民館長選出
平成23年(2011)04月01日  地縁団体法人竹富公民館長再任
平成24年(2012)03月31日  地縁団体法人竹富公民館長退任
平成24年(2012)04月      竹富島集落景観保存調整委員会会長選出
平成25年(2013)03月31日  竹富島集落景観保存調整委員会長退任
平成26年(2014)01月21日  竹富島の聖域・文教地区を守る住民の会会長選出
平成28年(2016)03月11日  八重山毎日新聞社竹富島特派員退任
平成29年(2017)3月22日(水)午前11時52分逝去  享年75歳(満73歳)

著作・論文・記事など
・解説:「竹富島種子取祭」 大塚勝久写真集『うつぐみの心竹富島』葦書房/1992年
・『竹富島に何が可能か』 宮澤智士 共著 東京ソルボンヌ塾/2001年
・論文:「竹富島の信仰会と御嶽」 『東アジアの周縁部の土着の聖なる空間に関する研究』
     東京藝術大学大学院美術研究科 文化財保存修復建造物研究室/2004年
・「今、なぜ町並み保存か」 『沖縄文化研究所報57号』 法政大学/2005年
・「竹富島の行き方、竹富人の生き方」 『月刊 情報やいま4月号』南山舎/2007年
・「久高島と竹富島」 『今こそ琉球の自治を』藤原書店/2007年
・対談「竹富島憲章と竹富公民館」TOAFAEC年報『東アジア社会教育研究』12号・2007年 ほか
・「外村先生来島五十年」(『民芸』675号、2009年3月)



喜宝院蒐集館にて(2006年11月21日)


         


■対談(上勢頭芳徳・小林文人
「竹富島憲章と竹富公民館」■
 
(別ぺ―ジ)

   TOAFAEC年報「東アジア社会教育研究」第12号(2007年)所収


左・上勢頭芳徳さん(竹富島喜宝院蒐集館長)との対談、床の間には「うつぐみ」の額(上勢頭家、2007年4月18日)



上勢頭芳徳:竹富島の五つの地域力 八重山毎日新聞 2003年1月1日(水)
*小林「公民館の風」382号(2003年新年号・1月3日)【おきなわ短信】(40)

 毎日毎日よくもまぁと思えるほどの事件・事故が報道されている。新聞もテレビも見ていないのだろうか、人の話もラジオも聞いていないのだろうかと思わざるを得ない。個性はもちろん尊重されるべきだが、そもそも恥ということさえ教えない中に、知らさない中に自分に正直に生きなさいなんて、わがままを助長するような風潮がはびこっているのでは…なんて聖人君子みたいな物言いではなく、自分の周囲は皆が美しくする、観光業者は公民館に観光税を納めている、ゴミの有料化なんて25年前からやっている。公民館という自治組織がしっかりしていれば、良い地域づくりができる。そういった竹富島の生き方を住民の一人として紹介してみたい。このところマスコミの取材だけでなく、大学生が卒業論文の対象としてまじめに研究に来るケースがとみに増えている。地方の時代と言われながら、なりふり構わないような市町村合併の嵐は、小さくてもがんばっている所さえも切り捨てていくことにならないか。町よりもまだ小さい字単位でも、健全な生き方ができるという地域力の視点から自慢話をしてもいいのではと思った次第。キーワードは“うつぐみ”(一致協力)です。(上勢頭芳徳竹富通信員) 
 町並み保存と観光
 一昨年9・11のあの不幸な事件以来一時落ち込んだかにみえた観光客も、官民挙げての誘客行動で前年を上回る勢いのようだ。世の中不況だといいながらも沖縄は、八重山は恵まれているといえる。しかし12月に泳いでいた修学旅行の高校生がいたとしても、八重山観光は青い空と青い海だけではないことはもう周知の事実だ。
 美しい海も含めて各島々がそれぞれの特徴を生かすことで、八重山全体のイメージアップに連なっている。竹富島はもちろん町並み保存が資源となっている、ということに異議はないだろう。
 近代化とか観光の為にとかいう時代の流れに抗して、先人たちは沖縄の現風景ともいえる集落景観を保存してくれた。風土に根差した建築、集落は優れて伝統文化といえる。建築物は個人のものでも集落景観や自然は皆のもの、というのは今では常識の域に達している。
 観光の語源は中国の科挙試験の必須科目である四書五経の中、易経に出てくる「国の光を観るは以て王に賓たるによろし」だという。
 その国、地域が美しく民生も安定していると他国、侵略者に脅かされる事はない、という意味にも取れよう。自律無ければ自立無しということか。昨年9月に広島県福山市鞆ノ浦で開催された第25回全国町並みゼミで、基調講演した法政大学の五十嵐教授が「戦後、自由とわがままをはきちがえた日本人は、ついに美しい町を造ることはなかった」と話していたことは、保存運動を続けてきた竹富島などを勇気づけてくれた。
 島では観光キャラバンなどの積極的な誘客活動はしていないが、手をこまねいているわけではない。歴史的環境、自然環境という資源を誇りとして必死になって守っている。そういったことが観光資源となって雇用の場を生み、Uターン・Iターンを促進し、この10年間少しづつだが人口も増加している。昨年11月の調査では314人まで回復していることが確認された。
 民宿の稼働率も向上している。文化は経済を救い、地域を穏やかに活性化している。Uターンしてきた若者たちも、当初は規制が厳しいと言っていても町並み保存の意義を理解して、伝統的な家を建てるようになってきた。だが理想の理を求め続けて来たのに、利益の利のみ追求する人が出てくると混乱を巻き起こすことになる。
 文化と観光のせっかくの良い関係を持続させるためにと、国の施策に先駆けて住民が提起し現在工事中の集落環状線がもうすぐ完成する。老人、幼児などの弱者に配慮するよう島の交通体系を見直して、観光の在り方も検討しないと持続していかない。せっかくよそにはない沖縄集落の原風景というオンリーワンの資質を持っているのに、短時間で走り回ってはあまりにも軽すぎる。
 選択肢を増やそうとこれまで試みてきた集落内のガイドツアーも、旅行エージェントとの提携で実施できるところまできた。いずれNPOが発足する時には、それなりの位置を占めるだろう。(写真・集落全景・略)
 竹富小中学校
 小学校1年から中学校3年までの全校児童生徒数が22人の竹富小中学校(山盛淳子校長)が、またまた快挙を成し遂げた。ソニー教育財団の「子ども科学教育プログラム」を受賞した。この人数で、これがなんと4年連続となるのだから快挙といってよい。同財団では科学が好きな子どもが育ったかどうかを調査するようにとのことだが、今年は新田耕作君が八重山高校から1浪して、目標通りに広島大学化学科にAO入試で合格した。実証されているので、ご心配にはおよばない。
 こういったことは一義的には先生たちの取り組みが評価されることだが、子どもたちの理解力と、その間を結ぶのが地域の力といっていいだろう。先生は普通3-4年で異動していく(5年在勤の先生もいるが)。そんな中で一貫して地域に根差した“ふるさと教育”をと20年にわたって主張し、協力してきた地域の愚直なまでのこだわりがあったことも称賛されよう。
 復帰後の学習発表会をみても、あたかも本土化に抵抗するように見事に島文化にこだわり続けている。創立90周年には“勤労生産学習”として裸足で畑に入ることを位置付けて、その延長線上に今の“島の子集会”などがある。その間には“竹富島探検隊”を部活動として、初年度に環境教育活動でいきなり文部大臣賞を受賞。以後ほとんど毎年のように全国レベルの受賞が続いている。
 なにも受賞のための活動ではなくても、これだけ続くと調べてみたくもなる。大きい賞だけ校門の内側にパネルではめ込んでいるが、昨年8月に当時の沖縄開発庁長官はこれをみて、こんなところに教育の原点があるとうなづいていた。
 この4年間の主なものを挙げてみても、99年には身近な食住。00年はサバニを漕いで由布島へ。01年は伝統的な儀式にのっとってその船を造った。また養蚕の復活を期待して布まで織り上げた。そして昨年の目玉は島での稲作。水田のない竹富島での米づくりは井戸から水を汲み上げるのが大仕事だった。
 教師は生徒を教育するのだが、良い教育をしてもらうために地域が教師の力を引き出しているとみることもできる。そのためにも多くの住民は学校の人材バンクに登録して、要請があれば即対応することをいとわない。(写真・ソニー賞・略)
 祭  り
 島で生まれ、よちよち歩けるようになったら親たち祖父母たちは、種子取祭のミルクのファーマー(子孫)として舞台にあげる。郷友会の子どもたちも参加するので、昨年は30人ほどもいて舞台いっぱいになった。
 舞踊の練習場にも子どもを連れて行く。うるさい、面倒と叱らずに、皆であやしたり、しつけたりするので、その場の雰囲気を感じ取って島習いしていく。つまりこれは文化の刷り込みなのだ。後継者がいないと嘆く前に、こんな風に育ててきたかが問われている。
 昨年も種子取祭には、那覇からも含めて多くの高校生が参加した。重要無形民俗文化財祭りへの参加だからと、公民館長は欠席扱いをしないようにとの要請書を校長宛に出す。
 島を離れた生徒たちも、祭りの時期には居ても立ってもおれないのだ。東京に行ってる大学生も帰ってきて、踊りを奉納した。もちろん夏休みには特訓を受けて、東京ではビデオで練習を繰り返したという。それほどまでして帰って来たいふるさとをもっている人は幸せだ。
 これは小さいころからの刷り込みが祭りへの愛着心となっている。これが愛郷心に進化していくのにそう時間はかからないだろう。
 放流された鮭の稚魚は4年後には生まれた川に帰るという。文化を刷り込まれた子どもたちも一時都会に出て行っても、懐かしい美しい故郷ならいつかは帰りたいと思っている。そんな人たちが種子取祭には観光の儲け仕事もすべて休んで、金銭負担し、1人で2役も3役もこなし、36時間通しての祭りに参加するような島人に育っていく。人寄せのフェスティバルや“まつり”でなく、神仏への敬愛の“祭”は人の心を動かすものだから。(写真・種子取祭ミルク・略)
 1次、1.5次産業
 種子取祭の2日間は全島いっせいに金儲けも止めて、祭りに専念するくらいの気概をもっているので観光ボケしている訳ではない。文化と観光の良い関係を持続させる努力もしている。だがやはり土地にしっかりと足を付けていないと、観光も上滑りの底の薄いものになってしまう。畑作や養蚕が無くなったのは残念だが牧畜が伸びてきているし、クルマエビの養殖も順調に推移している。彼らが島の文化を担い、観光の下支えをしている。
 なによりも竹富島の観光は復帰前から、集落景観とともに染め織りなどの手仕事が日本民藝協会の人達によって高く評価されて、民芸の島として紹介されていったことに始まる。1.5次産業というのだろうか。これがなかったら今の竹富島は在り得なかっただろう。島で生まれ育って生活している人は、一通り講習は済んでいる。島全体をみても生計のかなりの部分を観光に頼るようになったが、粗雑な観光地にはしたくないという自制心が働いているのも、民芸民俗の研究者による観光から始まったからである。
 一昨年に竹富民芸館は新築移転しミンサー、上布の後継者育成事業が継続されている。若い大和嫁が多いが、夫のUターンで島に移住することになった大山満里子さんは、講習作品として夫の祭り用の着物を織り上げた。小学生たちが養蚕から染め織りまで一貫生産したことが刺激となって、いずれ養蚕の復活が待たれる。(写真・民芸館・略)
 島外からの移住者
 民芸館での後継者育成のほとんどが、島外からの移住者で占められている。そもそも竹富島は民芸の島として評価され紹介されていったのだから、せっかく居場所を定めた人たちが健康な手仕事に励む姿は心強い。日本民藝館の柳宗理館長も「健全な文化は健全な地域に育つ」と言っているように、島習いした人たちが健全な地域を維持していってくれるだろう。
 それにしても人口314人の中で、竹富島のDNAをもっていない人が104人いる。実に3分の1の島外者をかかえていても島の景観が守られ、観光が隆盛しているのだから、これは奇跡に近いと言わざるを得ない。島の在り方に協調できる人が住むことができる。
 先ず第一に、借りている家の周囲をいつも美しく保てること。共同作業に参加すること。それでいて割り当てられた賦課金を納入すること。まるで人頭税時代のようだが、共同体を維持していくのに必要なことで、都市化とはこういったことが失われることをいうのだろう。こういった島の生き方を移住者に理解してもらうためにもレクチャーがある。毎年の成人学級だったり青年学級だったりするのだが、最近はかえってIターン者よりもUターン者の出席が悪いのが気になる。(写真・青年学級・略)
 昨年気になることがあった。港から上がってきて集落の入り口にある、スンマーシャのガジュマルが枯れてしまった。直接の原因は二車線拡幅で島状に取り残され、アスファルト舗装で保水力がなくなったことだろう。しかしスンマーセは集落の入り口で曲がることによって、悪い者などが入って来るのを防ぐ意味があるという。拡幅のために真っすぐになったために、良いのも悪いのもストレートに入って来るようになった。防ぎきれずに立ち往生したかに見える。車社会に過剰に反応して、車の便利さを優先させた結果だろう。
 ことほどさように南海の小島も、世の流れとは無縁では有り得ない。しかしつい100年前までの先人たちは、人頭税の重圧に耐えてきたのだし、またその後も時流に流されることなく、賢明にも人の本来的な生き方を見いだしてきた。昨年11月の人頭税シンポでも、どうして八重山で廃止運動が起こらなかったか、ということが提起されたが城間正安が、中村十作がもし竹富島に来ていたらどうだっただろうかと思わずにはおれない。アララガマ精神にも似たイシガンパラ精神は必ずや事を起こしていただろうと。
 沖縄に移住してきた作家の池澤夏樹氏は、伝えられてきたものをきちんと次の世代へ伝えていくのも優れて創造的な仕事といっている。今地域に住んでいる人が、地域にかかわることにどれだけ誇りを持ち得るかどうかが分岐点となる。

竹富島からの風 星野リゾートとの調印
  
竹富島・上勢頭芳徳(公民館長, 16 Jul 2012) 南の風2919号
 …長野県飯田は第7回全国町並みゼミ大会が開催された所。今年35回目を迎える同ゼミに25回参加している私が初めて参加して”町並み”の洗礼を受けた思い出深い町です。「風」にもよく登場する公民館活動の活発な所と聞いています。飯田に負けないくらい「風」に取り上げられている竹富島から一向に風が吹かないのを、特にこの3年間は星野リゾートのことがあるのに、不思議がっておられた方もいらっしゃると思います。… 
 これまで竹富島憲章を高く評価され、星野リゾートとも憲章を楯にして渡り合ってきました。この3年間は人口350人の小さな島があの星野から 15年後には80ヘクタールの土地を住民が関わって管理運営するという協定も勝ち取りました。空証文にならないよう公民館長として決意の程を示すために正装をして調印式に臨み、血判を押しました。
 「星野」(竹富島)は5年の歳月をかけてこの6月1日に開業しました。これまで外部企業を拒否してきた竹富島が、あの星野をどうして受け容れたのかと、今年は沖縄復帰(といっていいものかどうか)40年ということもあって、マスコミの取材が殺到しています。「風」のみなさまへもきちんと説明する責任があります。
 本日は八重山毎日新聞にありましたように、豊年祭の道をレクチュアーしながら歩いてきた所です。明日はその星野がらみの観光客30人に竹富島についての講話をすることになっています。初めて「風」を送りましたが、これから時々仲間に入れてください。





後列左・上勢頭芳徳さん、後列右・阿佐伊孫良さん(竹富島、20080225)



東京竹富島郷友会総会(第85回):2010年5月5日 会場:東京品川 
上勢頭芳徳・竹富公民館長の挨拶、八重山から届いた月桃の花
         



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