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 北京・烟台・広州・上海(2006〜2007)
 −2006年12月9日〜16日、2007年12月7日〜12日−
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*中国研究交流一覧→■

 <目次>
T、2006年訪問(12月9日〜16日)
1, 12月の中国訪問計画
2, 北京の空から
3, 青島(Qingdao)から広州へ
4, 上海からの風
5, 中国より帰国
6, 上海の街から聞こえてくるもの
7, 広州の民工学校
8, 朝日新聞【週間アジア】記事−北京・広州
9, 広州市僑光成人学校・民工学校−広州レポート(張林新)

U、2007年訪問(12月7日〜12日)
1,北京よりソウルの動きを
2,北京から烟台へ
3,1年ぶりの上海
4,上海の公民館
5,上海との交流史(1)
6,上海閘北区との出会い・交流史(2) −TOAFAEC第135回定例研究会12月21日)
7,







T、2006年訪問

1,<12月の中国訪問 >(南の風1749号 2006年11月17日)
 8月の内モンゴル訪問の際は、北京にも烟台にも寄る余裕がなく、失礼しました。のびのびになっていた烟台日本語学校の訪問を中心に、次のような日程で中国行きのスケジュールが確定いたしました。12月9日→北京、10日〜11日(烟台)、12日〜13日(広州)、14日〜15日(上海)、16日帰国。
 目的は、「東アジア社会教育研究」11号の配達、12号に向けての取材と協力依頼、上海の呉遵民さんへの(新上海本・原稿がおくれたことの)お詫び、同閘北区学院の訪問、何よりも旧友との再会。当初は、北京−烟台だけのスケジュールでしたが、久しぶりの訪中なので(寒い華北だけでなく)温かい華南・広州に足をのばそうと、李偉成さんに問い合わせメールを出したところ、歓迎!とのこと(上記)。となると当然のこと上海へ、という次第です。
 まさに師走の南船北馬の旅。もし同行希望の方があれば、ご一報ください(旅費各自負担)。今のところ、案内役は張林新さん。前半は和光大学・伊藤武彦さんがご一緒の予定。航空券の予約を張さんを通してお願いします。
 北京の韓民さん(この記事を読んでくれるかな?)、9日夜のご都合いかがでしょうか。食事をしましょう。上海の呉遵民さん、14〜15日は上海にいますか。羅李争さん、「風」読んでいますか?袁允偉さんと連絡をとってください。久しぶりに閘北区学院を訪問しましょう。
 張林新(20061213,広州にて)



2,<北京の空から > (南の風1759号 2006年12月11日)
 9日午後、予定通り北京に着きました。気温2度。やはり冷気しんしん。張林新の迎えを受け、1時間後到着の伊藤武彦さん(和光大学)を待ち受けて市内へ。2008五輪のメイン会場となる「鳥の巣」スタディアム(建設中)を見学。今年になって取り壊された張家の旧「四合院」跡にも佇ちました。王府井の一角。国家的な都市再開発(国家的地上げ)にまきこまれて、古い家並みも路地も跡形もなくサラ地になっていました。庭の老木のみ悄然と1本残っていました。
 ホテル京廣中心(北京でもっとも高いビル)で食事。合流予定の韓民は急な会議のため来れなくなりました。「東アジア社会教育研究」第11号は張くんのお父さんに託すことに。私たちは北京1泊のみ、烟台へ移動しなければならないからです。つもる話はいずれ次の機会。
 伊藤武彦さんによれば、和光大学人間関係学部は8日夜にかけての教授会で教育基本法改正問題を取り上げ、長時間の論議の末、反対を表明することになったそうです。
 部屋に帰ってパソコンを開いてみたら、関本保孝さん(東京・三宿中学校=夜間中学校)より「教育基本法案徹底審議を求る緊急賛同署名お願い」が着信していました。

烟台日本語学校の歓迎幕、中央は伊藤武彦さん(20061211) 写真移動→こちら■



3,<青島(Qingdao)から広州へ> (南の風1760号 2006年12月13日)
 12月11日の日誌。週末には迷惑メールが氾濫し、その削除にたいへん。とくに旅先のホテルでの落ち着かない作業、大事なメールを一つ二つ、一緒に消してしまった?ようです。気になっています。
 それでもホテルからのメール送受信がずいぶんと楽になりました。この十年来、ホテルに入ると、メールができるかどうか、まず電話回線を点検する習癖がついて四苦八苦したものです。今は部屋から簡単にインターネットへ。そんなホテルを選んでくれた張林新に感謝!
 実はちょっとしたトラブルもあって本号送信は1日遅れとなりましたが、それも些細なこと、李偉成(広州)の助言で簡単に回復しました。
 さて、久しぶりの烟台・日本語学校は、新しい校舎へ向けて、仮住まいでした。10日夜は学校関係者に迎えられ歓迎の夕食会。日本からの若い教師(竹田武司−函館出身、伊波葉月−沖縄出身、万徳智子−福岡出身)の皆さんも元気、安心しました。まさに異郷の地できっといろんな課題もあるでしょうが、頑張ってほしいと願って乾杯!
 11日午後は、日本語を学んでいる学生たちとしばし歓談しました。みんな笑顔でVサインを出しながら記念の撮影。ちょうど3年前、烟台で合流した故黄宗建先生とこんなかたちで写真を撮ったことを思い出していました。人は去り、時はめぐり、そしてまた、新しい出会いの1日。
 11日の訪問先。午前は烟台職業学院(烟台市立)、午後に山東城市服務技術学院(山東省立)。いずれも大規模な職業大学(3年制専門学校)です。溌剌とした技術実務系学院の雰囲気にふれ、日本の学校体系と比較して、あらためてその柔軟性と意気込みを実感しました。
 12月12日の日誌。広州行きのフライトが早朝便のため、前夜に烟台より青島へ移動。早起きして空港へかけつけたのに、霧のため飛行機は3時間遅れ、広州へ着いたのは午後2時半でした。迎えてくれた李偉成の懐かしい笑顔。投宿した広州迎賓館は思い出深いホテルでした。たしか1992年、広州教育局(成人教育)に招かれ「日本の社会教育」についてはじめて講演した折に泊ったところ。
 広州の街もずいぶんと変わりました。「盲流」(内陸からの出稼ぎ労働者の群れ)の姿は表面的には消えていました。しかし市の現住人口の半分近くは外来の「新市民」(いま盲流といわない、「民工」等と呼ぶ)とのこと。大きなビルが増え目抜き通りは一段と賑やかに。美しい珠江のほとりをみんなで散策しました。
 夜は李力氏(広東省放送大学教授)も参加されて、東京学芸大学(院)と和光大学ゼミ卒業生の饗宴となりました。一足先に帰国する伊藤武彦さん(和光大学)とは今晩でお別れ。深センから駆けつけてくれた張文科・張淑珍夫妻、有り難う! 和光小林ゼミやともに旅した沖縄のことなどを語りあいました。(広州、12月12日23:05)
烟台日本語学校にて(20061211)



4,<上海からの風 >(南の風1761号 2006年12月16日)
 いま(15日)上海です。3年前『現代社区教育の展望』(上海教育出版社)を刊行しましたが、その企画が始まった思い出のホテル「南鷹飯店」に投宿。上海教育出版社編集長・袁正守さんの手配によるもの。
 広州・白雲空港で李偉成さんに送られ、上海・虹橋空港で呉遵民さんと袁さんに迎えらました。先に帰国した伊藤武彦さんと別れて小林・張の二人。今回の旅の最後の上海日程です。
 12月13日〜14日の広州日誌(「民工学校」訪問等)は、李偉成を取り上げた朝日新聞記事(11月21日「東アジア−広州」)等も紹介したいので、いずれ後日に詳しく載せることにして、上海到着後の記録を書いておきましょう。
 12月14日の日誌(2)。上海は曇天・モヤの中、こんな天気が続いているそうです。呉遵民さんの賑やかさは相変わらず。早速、今年6月に刊行された新著(主編)『基礎教育決策論』(華東師範大学出版社)を頂きました。「決策」とは政策決定のこと。450頁の大作。夜の夕食会では、教授昇進と活発な出版活動に敬意を表して乾杯。
 あわせて、次に予定されている上海本(呉・末本・小林共編『生涯教育の架け橋』上海教育出版社)への日本側原稿の遅れを深くお詫びしました。もちろん編集長・袁正守さんにも。いま呉さんによって最終編集(リライト)が進められているところ。その作業が終わって入稿でき次第、直ちに印刷に入るとのこと。前著『現代社区教育の展望』に続く日中三世代の編者、韓国を含む執筆者による意欲的な挑戦、中国教育界に新たな反響を呼ぶことになるだろうと期待が話されました。執筆の遅れもあり、はたして内容的にその期待に応えられる本が完成するかどうか、お楽しみ!
 歓迎夕食会は華東師範大学(杜教育学部長など)と上海教育出版社(袁編集長など)両者の好意によるもの。すっかりご馳走になってしまいました。袁編集長は来年2月に東京に来られるとのこと。呉さんも同じ時期に来日が予想され、別の話題とも重なって、楽しい歓迎会(TOAFAEC 主催?)を東京で開きたいと思います。
 夕食会後、ホテルに帰ったところ、羅李争さん(東京学芸大学・院卒)と袁允偉さん(同・研究生、閘北区行健職業学院・副校長)が待っていました。こもごも積もる話。共通の友人である北京の韓民さん(中国教育部)へ電話。夜の10時をまわった時間というのに韓民氏はまだ会議中。たいへんな激務のようです(頑張れ!)。かねて依頼中の朝倉書店「社会教育・生涯学習辞典」の執筆を急いでほしいこともとくにお願いしておきました。
 左・袁允偉、中・羅李争、右・小林文人(20061214)



5,<中国より帰国 >
(南の風1762号 2006年12月17日)
 前号に続く上海日誌−12日15日〜16日。
 15日午前は、閘北区行健職業学院(前身は閘北区業余大学・社区大学)へ。上海には毎年行っているのに、学院訪問は3年ぶり。ご無沙汰していたのです。この間、2年前に訪日された学院幹部(徐熾強書記など)一行の東京滞在記録(CD)が出来ていました。歓迎するぶんじんの写真が大きく写し出され、一同で思い出話の花が咲きました。ぶんじんはなぜか飲む画像ばかり。
 日本語を学ぶ学生たちともしばし交歓しました。「小林国際交流閲覧室」はいま補修中。この1年間に刊行した『公民館・コミュニテイ施設ハンドブック』『韓国の社会教育・生涯学習』『東アジア社会教育研究』第11号を書棚に飾ってきました。
 学院招待の中食を頂き、そのまま無錫に体休め?に行く学院関係者と挨拶をかわし、また全日程に同行してくれた張林新とも別れ(ありがとう!)、「案内しましょう」という羅李争の厚意も断って、15日の午後は(この旅はじめて)一人旅。
 タクシーに乗らず、地下鉄で、それからかなり歩いて・・・運動不足の体には快適。上海の街を散策しながら、この20年間の大都市の激動を考えていました。街並みに聞こえてくる新しい脈動、しかい激しい喧噪、なにかきしむような亀裂音、悲鳴のようにきこえる警笛、物乞いの老人が吹く笛の哀しさ、などなど、書きたいことあり、次の機会に。
 16日朝、見送りの羅李争と一緒に、はじめて浦東空港までリニヤーモーターに乗りました。中国語では「磁懸浮」というらしい。世界初の営業線。地下鉄2号線「龍陽路」駅にリンクし、最高時速なんと430キロ、空港までわずか8分前後か、驚きました。
 予定通りの便で成田へ。今回の旅もまた各都市で歓迎いただき、いろいろとお世話になりました。有り難うございました。ホームページにいつくか写真を載せはじめています。ご覧下さい。
 閘北区行健職業学院関係者と、右から3人目・王鴻業学院長(20061215)



6,<上海の街から聞こえてくるもの>(南の風1763号 2006年12月19日)
 前号に続く:12月15日の日誌(2)
 中国訪問最終日。上海の夜の街を一人歩きしました。目抜き通りの一つ、淮海中路のある小綺麗なレストランで夕食。金曜日夜とあって、若者たちの賑やかな集い、カップルの楽しげな笑いなど、さんざめくひととき。やや疲れた老人が一人でビールと一椀で食事をするのは、すこし不似合いな若者たちの店でした。
 クリスマスを前にして赤白のキャップをかぶったウエイトレスのお姐さんたちが、口をそろえて「歓迎光臨!」と言ってくれます。素朴な顔つき、田舎から来た少女たちのようです。注文をとりにきた一人に(旅の恥はかきすてて)不充分な中国語で聞いてみました。
「どこから来たの?あなたの出身はどこ?」
「ナンホイ」(と聞こえた)
「仕事はたいへんだね」
「・・・・」(答えず)
 こんどは逆に質問されました。
「お客さんはどこから来たの?」
「日本だよ」
「日本はいい国ですか?」
「・・・・」(答えられず)
 中国の大都市では(上海だけでなく)いま豊かな生活を謳歌する若者たちと、それに奉仕させられる内陸・農村出身の貧しい若者たちの、二重構造が見えるように思いました。都市の若者たちがぜいたくに食べちらかした席を、もくもくと片づける農村出の少女たち、そんな風景をみながら・・・。こちらの視線をうけて、さきほどのウエイトレスが、にこっと笑ってくれたのが救い。
 街に出ると、喧噪のなか、どこからか笛の音が流れてきます。街角の物乞いの老人でした。おそらく田舎出身、貧相ながらしっかりした顔で、寒風の暗がりの道端に座って、ひたすら笛を吹いていました。その横には“中国の調和社会を建設しよう”という趣旨の大きな看板。


7,<風の積み残し−広州の民工学校>(南の風1769号 2006年12月30日)
 新しい年を前にして、年賀状の作業が遅れています。今年中の「風」になんとか載せておきたかった話題も幾つかありますが、やはり積み残しに。一つは11月の沖縄訪問の機会に渡った竹富島のこと。それから12月の中国訪問の際に見聞した広州「民工学校」のことなど。「民工」とは出稼ぎ労働者のこと。広州では「外来工学校」と呼んでいるようです。
 竹富島については・・・(中略)・・・。
 広州については、同・小林ゼミ最後の卒業生(閉門弟子)の李偉成さん(広州市教育局研究所)が朝日新聞に取りあげられた経過もあります(2006年11月21日、週間アジア−広州)。この日ちょうど、私たちが竹富島を訪問し、名護にたどりついた日。実は11月21日はぶんじんの誕生日でした。名護「大国林道」の集いでお祝いの乾杯をしていただき、泡盛の席にケーキが並んで、大感激の一幕(HPに写真)。
 というわけで、楽しく浮かれて、この朝日記事に気づきませんでした。広州で李偉成くんに再会し、コピーを頂いて、はじめて読んだような始末。申しわけない。社会格差の増大、教育の商業主義化、公教育の不均等への悩みが切々と吐露されています。これと同じ線上に「民工学校」の問題もあるのです。広州市は公立学校数2200校、民工学校数はなんと1200校もあると聞きました。詳しい報告は、いずれ別の機会に。
 今年もいよいよ大晦日。騒々しい「風」に辛抱強くお付き合いくださって有り難うございました。皆さま、良いお年を。

左端・李偉成さんと家族(20061213、広州)


8,朝日新聞【週間アジア】記事
<出稼ぎ支える無認可校−北京−教育(5)>

          朝日 2006年11月07日
 08年の北京五輪に向け、首都では急速に都市整備が進む。だが北京市西郊には、取り残されたような風景が広がる地区がある。水たまりができる道路に、れんが造りの長屋と露天の廃品集積場が並ぶ。中部・河南省出身の出稼ぎ者が多く住んでいる。
「国の振興は教育による」。こう標語が掲げられた校門をくぐると、校庭に子どもたちの歓声が響いていた。出稼ぎ労働者(民工)たちの子どもが通う「北京社会学校」。93年に北京で最も早くできた民工学校だ。
 校長の張保貴さん(49)の案内で、国語の授業を見た。
 「小犬、小犬、ゆっくり走る」。大きな声で朗読する子どもたち。ただ約50平方メートルの教室には、80人を超える子どもたちが詰め込まれ、机の間を先生が歩くのも難しい。
 90年代初め、経済発展に伴い、民工が急増し始めた。河南省の農村で小学校教師をしていた張さんは、北京の友人を訪ねたとき「民工の子どもたちは昼も夜も親の手伝いをするだけで、字も書けないことを知った」。
 都市の戸籍がない子どもたちは公立学校では高い学費を課せられる。「子どもたちに学校を」との張さんの呼びかけに多くの同郷の出稼ぎ労働者が賛同、協力し、廃品市場の空き部屋で2クラス計18人の無認可小学校をつくった。
 その後、北京では無認可校が続々生まれた。現在200を超える学校で約9万人の子どもたちが学んでいる。北京社会学校も小中あわせ600人に達するまでになった。
 同校の学費は、半年で460元(約6900円)。公立学校だと3倍ほどかかる。息子を通わせる胡志順さん(35)は月収約700元。「生活はぎりぎりで、とても公立学校には通わせられない」と話す。
■五輪対策? 市は閉鎖命令
 北京では、今年夏から民工学校の取り締まりが強化された。これまでに50校以上が閉鎖されたとみられる。当局は「学校の設備が基準を満たさず、教育の質を保証できないため」と説明する。
 これに対し、教育問題に取り組むNGO「健康環境」の漢涛代表は「当局の基準は、200メートル以上のトラックや100万元の準備金など、民工学校にとっては非現実的。取り締まりの口実に過ぎない」と反論する。
 国際人権団体ヒューマン・ライツ・ウオッチは、「五輪への環境整備」のため、約100万人の出稼ぎ者を排除しようとする措置の一環だとする声明を発表した。「五輪準備に50億ドル以上を使いながら、出稼ぎ者の子どもの基本的権利さえ認めない」と非難する。 北京社会学校にも市教育委員会から8月、閉鎖命令が伝えられた。子どもたちは、付近の公立学校に転校するよう求められた。市教委から担当者が訪れることになった9月上旬、張さんは全校集会を開いて、子どもたちに事情を説明した。
 多くの子どもたちが泣き出した。「この学校にいたい」と言って先生に抱きつく子どももいた。
 ところが、担当者はいくら待ってもやって来ない。張さんが市教委に電話すると「閉鎖の執行を一時延期する」との答えだった。閉鎖命令を受けた他の学校も多くが執行延期になったという。
■中央は格差懸念、存続促す
 民工学校の閉鎖をめぐっては、中央と北京、北京と他地域の間で、思惑の違いが表面化する異例の事態となった。
 国営新華社通信は8月、「民工を受け入れる地元の教育行政部門は、かろうじて運営している学校を支援する方法を考えるべきで、簡単に消失させるべきではない」とする論評を発表した。「調和社会の建設」をスローガンに、貧富の格差是正を最重視する胡錦涛(フー・チンタオ)指導部の意向を受けたものとみられる。
 また、北京への出稼ぎ者の多い河南省政府は9月、北京に調査チームを派遣。同省出身の民工学校長たちを集めて事情を聴き、激励した。
 民工学校の問題に詳しい李方平弁護士は「北京市は、外部からの批判が強まったとみるや、五輪にも悪影響を与えかねないと判断し、閉鎖を延期した。だが、外部の関心が薄まればすぐにでも執行しかねない」とみる。
 張校長は「子どもたちの教育の場を奪う権利は誰にもないはずだ。もし学校がなくなったら、天安門広場で授業をしてもいい」と訴える。
 4年生の柴苗苗さん(12)は、生後3カ月で河南省を離れ、「北京は私の故郷」と話す。「ここで勉強して美術大学に入り、見た人の心が楽しくなるような絵を描く画家になるのが夢です」。北京と河南、両地方のアクセントが混じった言葉でそう語った。(山根祐作)
写真:「民工学校」の子どもたち。国語の授業では力いっぱいの発声が教室中からあがった=中国・北京の西郊で、越田省吾撮影(略)

<名門入学にヤミ賛助金−広州−教育(7)>
            朝日新聞 2006年11月21日
 朝7時半、小学校の正門前に日本や欧州の高級車が次々と横付けされた。一台ずつ児童を降ろすので、2車線の道は大渋滞だ。公務員や人民解放軍幹部の公用車も目立つ。私物化は禁止のはずだが、軍ナンバーの車の運転手は、上官の子弟らしい児童をうやうやしく見送っていた。
授業を終えた小学生は、迎えにきた家族と一緒に下校する=中国・広州の培正小学校で、水野義則撮影
 中国第三の都市、広州。屈指の名門といわれる公立の培正小は1889年、バプテスト派教会によって創立された。「先生の質が高い」と、市中心部の文教地域・旧東山区(現越秀区)でも特に人気がある。
 有名大学を目指し、有利な就職を勝ち取ろうとする競争は、小学校選びから始まっている。
 培正小の児童は約1700人。校区外からの越境入学も多い。越境組は入学の際、5万〜7万元(約75万〜105万円)といわれる非合法の賛助金(寄付)を求められる。学校を選ぶのに必要だからと「択校費」と呼ばれ、「でたらめな費用徴収」として問題になっている。
 広州の都市部に住むサラリーマンの平均賃金は05年で3万5368元(約53万円)。ヤミ賛助金は、その1.4〜2年分だから、共働きでも負担は重い。
 3年生の孫を送ってきた祖母は「スタート地点から、よその子供に負けるのはいや。だから無理をしても払う」と話す。広州の家庭に共通する行動原理、といっていい。
 地方新聞社の女性管理職、王霞さん(42)は7月、市東部の天河区から旧東山区に引っ越してきた。一人息子を名門の一つの重点校、東山実験小に入れるためだ。校区に住めば入学は無条件。だが、そのために買った築約18年、約100平方メートルのアパートは47万元(約700万円)。約15万元は親類に借りた。
 「旧東山区に住んでいれば中学進学時も賛助金は不要。良い中学も多くて安心」と話した。
■競争激化「金で済むなら」
 ヤミ賛助金は全国的に横行している。中学、高校にもある。政府が何度、禁止を叫んでもなくならない。広州市教育局の研究員、李偉成さん(51)は、次のような要因を挙げる。
 まず、学校間の質の格差。「政府は長年、財政難を理由に一部の重点校を偏重してきた。その結果、先進国より質の高い学校もあるが、後発の発展途上国より低い学校もあるという二極分解を招いた。私立に名門はほぼなく、数少ない公立の名門に希望者が殺到している」
 次に父母の競争意識。「名門校進学は親にとっても名誉。逆に、他の子供に負ければメンツがつぶれると考える」。一人っ子政策が過保護と過剰な期待を助長している。
 父母の足元を見た学校の態度に反発は強い。だが、李さんはあえて肯定的に見る。「ヤミ賛助金がなければ、有力なコネがないと名門に入れなくなる。そんな『絶対的な不公平』より、金を払えば済む『相対的な不公平』の方がいい」。もちろん、この意見には批判も多い。
 学校間の格差は教員の待遇にも及ぶ。給与だけをとっても、培正小のような広東省直轄の学校は、広州市直轄よりかなり高い。下級の行政単位・区管轄の教員は、区の財政状況によって月給に1000〜2000元(約1万5000〜3万円)の差がある。大卒初任給の約1月分に相当する。
 「本来同じ待遇のはずの教員の給与体系が、広州だけで10通りある」と李さん。全国で見れば、格差はさらに広がる。
 待遇が良く、質の高い教員が集まる学校にヤミ賛助金も集まる構造は、簡単になくなりそうにない。
■子育て費用は家計の半分
 今の中国では子育てに、いくらかかるのか。大都市部では0〜16歳までに25万元(約375万円)、大学卒業までだと48万元(約720万円)――そう、はじき出したのは上海社会科学院の研究員、徐安キさん(59)だ。
 上海市徐匯区の746戸を調べ、03年の物価水準で推計した。子育て費用は世帯支出の39〜52%に達し、家計の中で最も重い負担になっていた。
 「教育負担は計画経済時代、ほぼゼロだったが、市場経済導入で個人負担にどんどん切り替わっている」
 北京の調査機関「零点」の調査(対象4128人)によると、「自分は貧困」だと考える住民の42〜47%が「原因は学齢期の子がいるため」と答えた。「病人がいるから」(19〜25%)を上回り、教育支出は収入の23〜33%を占めていた。
 徐さんは「負担増の要因は、学校のでたらめな費用徴収や半強制的な販売。売るものは制服、補助教材、文房具からミネラルウオーターにまで及んでいる」と訴える。
 李さんも「教育の商業主義化が問題。政府が十分な予算を組まないから、学校は自分で稼ごうとする。学校予算の3分の1をヤミ賛助金に頼る地域もある」と指摘する。重い負担は、当面続きそうだ。(鈴木暁彦)


広州市「外来工学校」(民工学校)、せまい教室にぎっしりの子どもたち(鉱泉中学に併設、20061214)



9,広州市僑光成人学校・民工学校−広州レポート(張林新)
               (南の風1776号 2007年1月14日)
 昨年12月、先生と一緒に中国を旅をして、本当にいろいろ勉強になりました。特に教育にたずさわる人間として、何をするべきか、あらためて、心の底から感じるところがありました。
 勿論、まず盛大に先生を歓迎して頂きました広州、上海の皆様に感謝を申し上げたい。特に広州の李偉成先生は二泊三日の間、時間をとって頂き、さまざまな現場を体現させて頂きました。その中に、広州市放送大学・僑光分校(設立1989年),広州市僑光成人学校(設立1985年),広州市僑光財経専修学院(93年設立)への訪問は、たいへん印象的なひとときでした。
 広州市の中心部、珠江の近く、この三つの学校・大学は、実際には一つの学院なのです。看板は三つ。主な役割・特徴は、学生が卒業と同時に職業につくこと、つまり職業教育に力点をおいていること。
 この学院は中国共産党以外の党派―中国「民主促進会」の投資で設立されました。中国においても、とても珍しい施設です。中等教育、職業教育、放送大学教育、短大教育等を複合的に連結し、学生に国立・公立の学校以外の選択を与えている。現在の中国ではいわゆる“社会力量弁学”の先進学校として、広州市でも注目すべき学校になっているらしい。目標として、5年以内に四年制大学への道に挑戦して、在学人数1万人以上の教育集団をめざしている。現在の資産は1.5億人民元(約22.5 億日本円)です。
 1985年から2001年まで、いろんな学校の教室を借りて教育をやってきた。2001年に中国民主促進会広州分会は 600万元を投資して、ある工場(現施設)を買い取り、初めて自校(自分の学校)を手に入れた。
 現在の教職員体制は、230人の専任教師、170人の非常勤教師、60人の職員。話によると、西安には中国民主促進会会員が投資した“西安外事学院”があり、学生人数は6万人とのこと。
 この僑光学校とは鮮明に違う学校が広州市にはあります。出稼ぎ労働者(民工)の子どもたちが通う民工学校(外来工学校)です。
 広州市の人口は約800万人、そこに民工350万人(推定)が流入していると見られます。その1割ちかくが学齢児(約32万人)、民工学校の総数は1200校。政府からの補助金は基本的になく、経費はすべて民工の負担となる(学費2400元/年)。他方で教育条件は劣悪、民工学校で働く教員(約3万人)の給料は公立学校教員の半分とのこと。
 民工は重い学費負担に喘いでいるが、当然、未就学の子どもたちもいる。2006年9月、義務教育法の改正があり、必要経費を補充し、教員給与を全額負担する方向が出された。今後どのような展開になるかが注目されるところです。
 ちなみに広州市の公立学校は小学校1800校、中学校400校、計2200校(民工学校は80校が認可?をうけているかたち)。李偉成先生は、公立学校の全体を指導する「教育督導員」、たいへんな信望を集めている指導者です。
 これからのことは未知数ですが、現在、民工人口は350万人にも達し、さらに今後、華南の珠江デルタ全域ではさらに労働力が必要であり、200万〜250万人の民工が不足しているというのが専門家の判断です。したがって、彼らの子どもたちの民工学校はさらに増大する方向にあり、この人たちは10年〜20年後には広州市の発展の柱になるといえるかもしれません。こんごの学校教育、成人教育の問題をどう克服していくか、大きな課題です。
 中国の教育は、まだまだ道が遠く、しかも険しい道です。険しい道でも、だれかが歩みを続けていかなければならない。通う人がいなかったら道になりません。







U,2007年訪問(12月7日〜12日)
   −北京・烟台・上海(南の風記事より)

(1)1954号【2007年12月8日】
■<北京よりソウルの動きを>
 7日夜、北京空港には張林新さん(烟台日本語学校理事長)が迎えてくれました。ご苦労さま。気温は零下2度、さすがにシンシンと冷えます。高いビルの「京広新世界飯店」に投宿。昨年の今頃、和光大学・伊藤武彦さんと一緒に泊まった現代的?なホテル。インターネットが自由に使えますが、1日の使用料80元とのこと。
 ソウル留学中の肥後耕生さん(鹿児島大学卒、韓国・中央大学校・院)より、韓国「第2次平生学習振興5ヶ年計画」が送られてきました。有り難う!興味深し。金信一さん(教育人的資源部長官、文科省大臣にあたる)の張り切った表情が目に浮かびます。肥後さんの添付ファイルは、よく読めましたが、こちらのホームページに載せようとしたら図表が壊れてしまった。当方もとより素人の技術、残念です! 
 添付ファイル(5ヶ年計画)は、ご希望の方に別途(そのまま添付で)お送りすることにします。関心ある方はご一報ください。韓国生涯学習研究フオーラムの皆さんには一括してお送りするよう、事務局の金侖貞さんにお願いしました。どうぞよろしく。肥後さんにあらためて感謝! 韓国のその後の動きがあれば、また送信して下さい。
 風・連日の配信になりますが、ソウルのニュースを北京から日本に送るのも一興かと。たまたまパソコンに滞留中の信州「妻籠宿を守る住民憲章」(ホームページ用に入力したもの)資料あり、合わせて1本として「風」配信します。今から韓民さん(中国教育部)と会う予定。
 そして今日、12月8日は太平洋戦争勃発(真珠湾攻撃、1941年)の日。軍国日本が破滅の道に突入していった忘れがたい日です。あのとき、国民学校(小学校)4年生でした。

(2)1955号【2007年12月9日】
■<北京から烟台へ>

 フフホトのボヤンバートルさんはじめ、皆さんからのメール、有り難うございます。広州の李偉成さんからは(出迎え役の)張林新さん宛に「よろしく伝えてほしい」と電話が入ったそうです。恐縮!
 ボヤンバートル宅にこちらから電話したいと思って、手もとの手帳等を探したけれど番号が出てこない。北京の韓民さんとは別れて、すでに8日夜の飛行機で烟台へ移動しました。いまホテルに着いて、パソコンにつないだとところです。10日午前までは烟台・張林新さんと一緒のときが多く、彼の携帯(1339182−9220)できっとつながると思います。電話いただければ幸い。
 やはり広大な中国、南の広州や北のフフホトまで足をのばすことができません。北京もわずか24時間の滞在でした。でも濃縮した1日。昼は韓民さんと、夜は張さんのご両親と、食事を楽しみました。北京の白酒(ぱいちゅ−56度)をちびりちびちとやりながら、だんだん料理が美味しくすすむ酒の効用。
 韓民さん(中国教育部・教育発展研究中心・副主任)と話すのは2年ぶりか。すっかり要人の風格を漂わせて?国の課題(調和社会の建設)と結んで新しく生涯教育・学習の施策化が必要となる状況を聞きました。
 当方から、韓国向け『日本の社会教育・生涯学習』出版の取り組みのこと→関連して中国向け本づくりの可能性はないか。あと一つは研究年報「東アジア社会教育研究」第13号の特集テーマに(昨年12号の韓国特集を念頭において)、「中国・特集」を組む構想について、話しました。第12号の韓国特集はよく目を通しているらしい。
 二つの課題ともに積極的な姿勢で対応していただくことになりました。こんご具体的に協議していく必要がありますが、「1年ぐらいかかる話が1時間で済みましたね…」とは同席した張林新の感想。第13号特集については、上海の呉遵民さんにも協力をお願いしたいところ。いずれ上海でお会いした折の楽しみに。
 北京のこと(そして上海のこと)、年末12月22日夜予定の第13号編集会議で報告いたします。特集テーマ案に「中国の生涯学習」(特集担当の編集長は韓民氏・予定)が加わる可能性が出てきて、賑やかな会議となりそうです。

烟台日本語学校のスタッフと(20071209)
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(3)1956号【2007年12月11日】
■<1年ぶりの上海>

 12月10日の昼、烟台を発って、上海に来ています。両飛行場ともに初冬の雨が降っていました。烟台のことは、また別に書くことにして、まずはお世話になった張林新さんにお礼を申しあげます。短い時間でしたが、日本語学校にも訪問できて、新しく感じるところ少なからず。
 上海は(烟台も)ちょうど1年ぶり。虹橋空港には呉遵民さん(華東師範大学)と羅李争さんが出迎え。なんと!豪勢な高級車(運転手つき)が待っていました。呉さんの車です。20年近くの上海訪問で、もちろん初めてのこと。時代は激しく変わっていることを改めて実感!
 夕食まで、しばしの時間あり。北京の韓民さんと話したこと(風・前号)の報告をかねて、呉さんに「東アジア社会教育研究」第13号特集テーマ(中国特集が組めるかどうか)のことと、韓国向け出版企画の動きについて、大急ぎの話をしておきました。これが済まないと、せっかくの上海料理と美酒をゆっくり楽しめないからです。中国滞在4日目で胃袋はすでに満杯、かなり疲れているというのに、困ったものです。
 旧知の華東師範大学の杜・周・呉の先生方、上海教育出版社の(2月に東京で歓迎会をした)前編集長・袁さんと若い編集者・袁さん、それに羅さんに囲まれて久しぶりの上海の夜。私たちの近刊本(呉・末本・小林共編)は、春節あたりには刊行の見込みとのこと。あらためて日本側の原稿の遅れをお詫びしておきました。会食が終わった頃に雨も止んで、さすがに(華北と比べて)上海の夜気は暖かい。
 明日(11日)は、葉忠海さん(上海市成人教育協会)もお出でいただいて、閘北区など社区活動の現場をいくつか訪問し、どこかで(詳細は聞き漏らした)社区教育関係者の集いに参加する予定。突然に講演をするよう依頼され、陶然たる酔いもさめてしまった。ままょ、きっと通訳の呉さんが熱演してくれるだろう…と楽観して、寝ることにします。(12月10日夜)

上海の夜、“老朋友”の皆さんと−華東師範大学・上海教育出版社 (20071210)



(4)1957号【2007年12月13日】
■<上海の公民館>

 短かい日程ですが、中国を旅して、いろいろと新しい発見があります。中国は広大な大地、巨象のような存在、その一部に触れても全体はなかなか見えてこない、ギシギシと音をたてて動いていく変化の激しさ。それだけ逆に、いつも新しい発見があるわけでしょうか。
 今回とくに実感したのは、(格差をはらみながら)豊かな人たちが増えていること、行政とくに地方政府(区、街道を含めて)にもお金がまわっているらしい、特に教育施設が拡充中、料理店も客でいっぱい、ビールは格段に質があがった、明らかに車社会に突入した、などなど。
 上海の二つの区(閔行<みんはん>区、閘北<ざーぺい>区)で依頼されたスピーチ・講演では、いずれも謝金(中国元)を頂きました。今までにはなかったこと。有り難く頂戴して、帰路に記念の土産を買いました。いつも土産を持って帰らない主義なのに・・・。
 閔行区(人口210万)は、新しく開設された同区「社区学院」オープンの式典。閘北区(人口90万)では「社区教育」についての研修会。いずれも日本の公民館について話を聞きたいとの期待があり、張り切って話に熱が入り、呉遵民さんの通訳もまた高揚し、好評だったようです。
 閘北区の会場は、数年前に設立された臨汾路街道(人口7万)「社区文化活動中心(センター)」でした。文化館(コーラス、越劇、二胡、英語教室、体育・娯楽施設、図書室など多彩)の様相もあって、「上海の公民館」と言う人もあり。面積約4千uの大型施設。
 同会場に集まった上海の社区教育関係者。講演の後に「中華人民共和国国家標準」としての「社区服務指南 第3部分:文化、教育、体育服務」(2007年6月1日実施)について研修が行われていました、講師は葉忠海氏。こんなかたちで国家「基準」が出されていることも新しい発見。現物を入手してきましので、次回研究会(12月21日)で、黄丹青さんから紹介していただきましょう。

▼「日本公民館の建設と発展」講演−臨汾社区文化活動センターにて(20071211)
  左より葉忠海氏(進行)、小林、呉遵民氏(通訳)




(5)1958号【2007年12月14日】
■<上海との交流史>
 私たちの中国との研究交流では、いろんな都市の中でも、上海とのお付き合いがもっとも長い。そのなかでも閘北区が一つの拠点となってきました。はじめて閘北区(業余大学・当時)に行ったのは、忘れもしない1989年5月(天安門事件の1ヶ月前)、若き上野景三さんが一緒だった記憶があります。東京学芸大学の研究室に羅李争さんや友人の袁允偉さん(業余大学・副学長)が留学していたご縁からでした。TOAFAEC との間で「合作学院」づくりの協議が重ねられた経過もあります。結果的には実現しませんでしたが・・・。(資料をHPに掲載→
 その過程で、たしか1998年2月、滞在中の閘北区業余大学前のホテル「北国飯店」に葉忠海(当時、華東師範大学成人教育学院教授)と呉遵民(当時まだ神戸大学・院)のお二人がお出でになって、上海成人教育とTOAFAEC「東亜社会教育研究会」との間の相互交流について相談したことがあります。その後は、こちらから上海に出かけたり、上海から訪問団が来日したり・・・。
 今回の旅でも上海滞在の最後の夜、ぶんじん滞在のホテルで、葉さんから今後の研究交流についてさらに積極的な意欲が吐露されました(呉さんが通訳)。約10年前、同じ3人の顔ぶれで話し合った日のことが想い出されたのでした。上海の皆さんは、いま日本の公民館に大きな関心があり、また日本訪問の資力もないわけではなく、今後は(両当事者間だけでなく)社全協の全国集会や日本公民館学会等にもご案内を出すようにしてはどうかと思いました。
 まず当面は、来年3月(下旬)に華東師範大学教育学系の主要メンバー8人の教授たちが「第1回・東アジア教師教育研究国際シンポジウム」(3月20日〜23日、法政大学)に来日予定。もちろん呉遵民さんが引率役。その後の日程(25日〜28日)で沖縄訪問を実現することとなりました。沖縄行きはかねがねお誘いしていたプラン。その準備のため年末に訪沖し、受け入れについて沖縄の皆さん方と相談したいと思っています。

閘北区・臨汾路街道・社区文化活動センター(20071211)
     写真撤収


(6)TOAFAEC第135回定例研究会(東京)【2007年12月21日】
■<上海閘北区との出会い・交流史(メモ)> 報告:小林文人
                           
 <略年表> 敬称略
1,上海訪問(1984年5月)、(1989年5月)→ 閘北区業余大学の訪問 *,同行・上野景三
                            *羅李争と友人・袁允偉(同・副校長)
2,1991年−袁允偉(閘北区業余大学・副校長)東京学芸大学へ留学(研究生) 
               *1992年11月 広州市訪問(同・成人教育協会の招聘)
                学校開設の検討 *李偉成
3,1994年11月 上海訪問(上海市第二教育学院の招聘)、業余大学へ、合作学院構想
               *郭拍農(党書記)、呉遵民(神戸大学に留学中)
               *華東師範大学との研究交流の提案(葉忠海など)
4,1996年3〜4月 閘北区業余大学へ 
  「中日文人学院」構想・双方の理事構成など
5,1997年3月 閘北区業余大学・TOAFAEC 「合作弁学意向書」作成
6,1998年2月 合作学校づくり協議  *華東師範大学との研究交流の意向書(11月)
                          TOAFAECと「協議書」調印(2000年12月)
7,2000年3月 「中日合作学校に関する契約」→「上海宏文進修学院・定款」作成
8,2001年5月 合作構想−実らず *「南の風」676号(2001年5月1日)

 <関連>
 ・閘北区業余大学→新「社区大学」へ(構想1999年)*TOAFAEC第4号・王鴻業論文
 ・2001年−新キャンパスへ移転・工事、新(「行健」)職業学院へ 第6号・袁允偉論文

9,2001年夏、新学院「中日文人図書室」構想、学院内「社区教育研究中心」オープン
  2001年10月 新図書館1階に「小林国際交流閲覧室」開設 
         *小林は同学院名誉教授、名誉図書館館長  
         *この間の記録「公民館の風」226号〜228号(2001年11月)など
10、閘北区「社区」行政と「社区大学」の展開(2003年〜2007年)
   小林「国際交流図書室」その後の課題
  
 
<参考記録−「公民館の風」より>
  *TOAFAECホームページ別掲
●上海の風4:新社区大学の図書室構想へ
          *「公民館の風」226号(2001年11月3日)
 …話をもとに戻そう。
 今年5月以降、上海からの連絡はもう途絶えてしまった感じだった。当初の合作学院構想に準備した拠出予定の基金をどう使うか。なんとか社会的に活用したい。さてどうしたものか。上海からは連絡がないし・・・。
 今年、私の研究室にはモンゴル族の研究生が4名もいる。彼らは故郷(内モンゴル)の経済的苦境に煩悶し子どもたちの教育資金を積み立て始めていた。物価高の東京でバイトに追われながら、そのわずかの収入のなかから各自毎月1000円ずつを積み立てて、手渡しするかたちでモンゴル族子弟の奨学金制度を創設したいと頑張っている。
 まさに少数民族の切なる思い。「そうだ、これに役立てよう」と心が動いた。今年7月末、東京・板橋で彼らが開いたモンゴル祭の夜の集い、彼らのひたむきな想いに動かされて、彼らにも私の気持ちを伝えた。「先生、ぜひ! どうぞよろしく!」などという話を交わした。そんな経過のあと9月も終わりに近くなって、上海(羅李争)から次のメールが届いたのだ。(Thu, 27 Sep 2001 17:01)

 「小林先生:
 先月、袁さんがメールで論文を送ってきたとき、もう一通の“上海行健職業学院・中日文人図書室の創立に関する建議書”がありましたが、私はそれを見逃しました。大変申し訳ありませんが、今この建議書の原稿と訳文をお送りします。…略…」
 先月とは8月のこと、袁さんとは袁允偉・副学長、論文とは『東アジア社会教育研究』第6号への寄稿。それにあと1通の“建議書”があったという。のんびりして、なんとも愉快!
 訳文は「中国側の上海行健職業学院と日本側の小林文人教授等学者が共同に上海行健職業学院・中日文人図書室を創立することを建議します」という趣旨で、
1.図書室は主に社会教育、日本語教育、コンピュータ等に関する図書、教科書、辞典、 
  CD、マルチメディア資料等を収蔵する。
2.図書室に5台の日本語コンピュータ(ノート型コンピュータ)、1台のプリンタを配置する。
3.文人読書奨学金ファンドを創る。
4.図書館を基地にして中日交流活動と短期訓練クラスを行なう。
5.中国側は行健職業学院新校舎図書館中に面積50uの図書室を提供する。
6.中日双方が上海行健職業学院・中日文人図書室管理委員会を組織し、図書室の運営
  規則と計画を作成する。中国側は図書室の日常管理と維持に責任を持つ。
  …以下、略…

 私は、ようやく来信したメールを繰りかえし確かめて「10月初旬、社区教育調査で上海訪問の機会あり、その際に“中日文人図書室”構想について協議しよう」と返信を出した。ここからまた、新しい展開が始まったのである。
 10月の上海行き。滞在中の出来事については、同行した黄丹青(埼玉大学兼任講師、紹興出身)が、「南の風」761号(10月26日)に報じてくれた。
 それを次に紹介させていただこう。(公民館の風226号)

●上海の風5:通称・中日文人図書室の開幕
          *「公民館の風」228号(2001年11月8日)
 @上海より紹興へ(黄丹青、Thu, 25 Oct 2001 14:00)*「南の風」761号(10月26日)
 葉忠海先生、呉遵民さん、そして上海訪問団の諸先生、このたび大変お世話になりました。本当にたくさん食べ、たくさんの人と会い、たくさん学んだ旅でした。
 …略…
 A中日文人図書室開幕のいきさつ
 次は上海閘北区の新社区大学・行健職業学院に実現した「小林国際交流閲覧室」のいきさつを簡単に紹介しましょう。
 ご存知のように、小林先生と閘北区業余大学(9月から上海行健職業学院に変身)との5年越しの合作学院の話が流れてしまい(南の風 第676号「合作学院の構想実らず」参照)、その後、9月には中国側から図書室をつくりましょうといった内容のメールが送られてきた(南の風 750号)のはご承知のことを思います。
 これについても話し合おうというつもりで訪中した小林先生ですが、到着した9日夜の歓迎会で、翌日に図書室の除幕式があると聞かされ、さすがに驚いた様子(もう何が起こっても驚かないと言っていましたが)。
 どうも学院側は、小林先生の好意がなかなか実らないことに心を痛めて今回の訪中で長年の懸案を解決しようと前の晩に急遽決めたとのこと。前日9日に看板を注文し、それをかけ、図書室・室内を整え、と大忙しいの一日だったようでした。
 10日に閘北区教育局の「社区教育」報告を聞いた後、院長や党書記、関係者の立会いのもと、会議室で「小林国際交流閲覧室」の除幕式が行われました。また小林先生が新社区大学・行健職業学院客員教授と図書館名誉館長として迎えられ、その招聘状の授与式も同時にありました。
 同行の先生方から「よかった、よかった」と言われながらも、あまりにも急なことで、小林先生はまだ少し腑に落ちない様子、なんどもびっくりしました、と訴えていました。が、「生米作成熟飯」(米がすでにご飯になってしまった)。話は徐々にどのような閲覧室にするかへ移り、先生からは、社会教育、法制関連の本を送るとか、羅さんからはノートパソコンを購入し、そこで学生が世界とくに日本の最新情報を手に入れられるようにするとか、さまざまな案が面白く出されました。その中で、日本の音楽をバックに、川崎や東京・大阪、沖縄など自治体の社会教育関連の資料を置いてはどうか、という話も出ました。
 蘇州から上海へ帰る途中、行健学院は社区の学校として会議室や図書館を地域に開放するのだから、この「国際交流閲覧室」も社会に開放し、そこへいけば日本の最新情報が閲覧し交流できるようなところにしようと構想はさらにふくらんでいきました。それを中国側の受け入れ責任者、葉先生にも伝えました。
 13日の上海最後の夜、行健学院が歓送会をしてくださいました。席上、図書室の話に及び、日本語や日本語ワープロを教える学校は上海にもたくさんあるし、一般の日本語の書籍なら、有名大学にはかなわない。しかし社会教育の資料室構想なら、中国のどこにもない図書室、きっと反響が大きい、中国の社区建設の参考にもなると話が弾みました。小林先生もよい図書室にするためには、できるだけの協力をしたいと意思を表明。
 「没有弁法的弁法」(方法のない中からの方法)として図書室を思いついたが、それがかえって展望を開き、比較的に具体化された構想まで行き着くとは、と双方ともやや興奮気味で、もう一度新しいスタートに乾杯!
 さらに、図書館長から来年はぜひ社区教育祭りの一環として、図書館で講演をしてほしいと言われました。どうも10日の学生たちへのスピーチが大変好評で、学生記者による報道により教師たちからも「知っていれば聴きに行きたかった」と言われたそうです。
 帰りのタクシーの中で小林先生は「いや、困りましたね。こんなに話が広がっては・・」と笑顔で話していました。
*蛇足。今までの経緯を振り返り、小林先生に二つの中国熟語を紹介しました。
  因禍得福:禍があってこそ、福となる。
  好事多磨:よいことは簡単には成就しない。多くの摩擦、トラブルを経て、やっと成功に
  つながる。 


上海・行建職業学院(新社区大学)図書館前、訪問団(20011010)