日本公民館学会編『公民館・コミュニテイ施設ハンドブック』(2006)
第U部第1章3節

 4 集落(自治)公民館



 公立公民館と自治公民館・集落公民館
 公民館の制度は、言うまでもなく「市町村が設置する」(社会教育法第21条)公立公民館の体制を基本としている。同時に並行して、地域住民組織を基盤とする集落公民館の歩みについても注目しておく必要がある。広義の公民館の概念としては、集落公民館を含むものとして理解しておく視点もありえよう。
 公民館の初期構想には、集落を基盤として公民館の組織や活動を展開していこうとする方向が含まれていた。たとえば、公民館設置に関する文部次官通牒(1946年)は「公民館は町村に各1ヶ所設ける外、出来うれば各部落に適当な建物を見付けて分館を設けること」と指摘している。もともと公民館初期構想自体が農村地域を背景としていたこと、集落の住民組織(部落、ムラ、字など)が現実的に機能していたこと、他方で当時の市町村行財政水準が低く公立施設を設置していく条件が乏しかったこと、などの事情によるものと考えられる。いわゆる「部落公民館」体制が自治体公民館制度の主要部分として位置づいていた事例もあり、長野県などでは集落に組織された「分館」が自治体の公民館条例に記載されている場合も多かった(水谷正「自治公民館・集落公民館の可能性」月刊社会教育1996年4月号)。
 このような集落公民館の流れは、1960年代以降の広汎な地域変貌と都市化の過程において、全般的には衰微し退潮していく傾向がみられる。同時にこの時期は、公立公民館の整備と近代化過程に重なるところがあった。首都圏等の人口急増地帯では地域住民組織自体が成立せず、自治体の公民館体制は行政セクターにより設置され、集落公民館とは無縁の展開であった(例、東京・三多摩地区など)。
 しかし人々が生活する場としての地域、その基礎単位となる集落は、変容しつつ、また格差をはらみつつ、時代の状況に対応しながら、新しく再編され再生されていく側面がある。集落の変容解体の問題が、逆に地域住民組織を新しく再編し、集落活動を再生していこうという動きを惹起することにもなっていく。1960年前後から胎動する鳥取県倉吉市「自治公民館」の施策はその典型的な事例といえよう。宇佐川満等による自治公民館の紹介(同『現代の公民館』1964)やそれをめぐる論議(小川利夫等)を通じて、「自治公民館」は多くの注目をあつめることになった。
 1972年に本土復帰する沖縄では、それ以前のアメリカ占領下において、ほとんど公立公民館は設置されず、多くの住民活動は集落(字=あざ)に設置奨励されてきた「字公民館」を拠点とする場合が多かった。あるいは、松本市では都市部でも周辺の農村部でも、集落ごとの公民館は「町内公民館」と呼ばれ多様な活動を営んできた。このように全国各地それぞれの地域独自の展開のなかで、行政との関わりを複雑にもちつつ、たとえば部落公民館、分館、類似公民館、町内公民館、そして自治公民館、字公民館などの名称により、地域住民組織としての集落の公民館活動が定着してきた。これらを総称するかたちで、公立公民館に対応して「集落公民館」という概念があてられてきた。

類似施設・集落公民館の統計
 集落公民館については、「類似公民館」という呼称が広くつかわれてきた経過がある。
社会教育法第42条「公民館に類似する施設は、何人もこれを設置することができる」の規定に由来するものであった。現在の公式統計(文部科学省「社会教育調査報告書」平成14年度)では、社会教育会館等「市町村が条例で設置する施設」をもって公民館類似施設としているため、集落公民館等はこれに含められない。しかし、もともとは集落公民館がその主要な「類似」形態であった。あわせて、自治会事務所、集落センター、区公会堂、町会会館、地域センター、コミュニテイセンターなど、集落におかれた類似の地域施設が多様に機能してきたことにも関連して留意しておく必要があろう。
 全国の集落公民館について、文部科学省による正式統計はない。いったい集落公民館はどのような実態をもって普及してきたのか。各府県等の教育行政当局や公民館連絡協議会による実態調査あるいは公民館名簿等によって類推するほかはないが、少なくとも5万以上と推定されてきた(小林文人『これからの公民館』国土社、1999年)。さらに全国公民館連合会は、平成14(2002)年11月調査によって、その総数は76,883館という規模に達することを明らかにした。「地域住民によって建設・運営されている小さな公民館のことを自治公民館、集落公民館等」と呼び、これら「住民の生活と密接につながっている施設」が、「地域を住みやすくするために住民が連帯し、自らが運営や事業」を行い、「公立公民館とも連携をとって活動」している広汎な動きを指摘している。自治公民館、集落公民館は、Autonomous Kominkan、Village Kominkanと英訳されている。(全国公民館連合会発行「The Kominkan」2004年)
 
 「自治公民館」をめぐる論議
全国各地の集落公民館の実態は、地域によって実にさまざまである。なかにはまったく形式化し有名無実のものも含まれ、他方で躍動的な活動に取り組んでいる事例も見られる。
集落の住民自治組織を基盤にするという意味で「集落」「自治」公民館という名称が定着してきたが、その実態は、下からの住民自治運動としてよりも、行政側の施策として奨励・普及されてきた流れが多かったと見るべきであろう。それは戦後初期は言うまでもなく、とくに1960年代の都道府県・市町村の社会教育行政あるいは公民館施策によって影響されるところが少なくなかった。しかしその行政施策のなかには、上意下達の意図というより、自治公民館構想を通しての住民自治や地域民主主義への希求があったことも見逃してはならない。
 「自治公民館」の構想を打ち出した鳥取県倉吉市においても、その具体化の流れは、市長・教育委員会による行政主導によって推進されたものであった。「部落会・町内会と部落公民館と一体化」し、「部落・町内の事業と、住民の学習活動とを直結し、民主的な住民自治」を推進しようという意図をもって始まった。しかし「自治公民館」名称は「市役所の総務課と教育委員会の協議」によるものであり、あわせて従来の区を「自治公民館」と改称し、自治連合会は自治公民館連合会へ、行政関係者によって自治公民館規約「参考案」が作成された(1959年)。宇佐川満は、この「自治公方式」の先進性を評価したが(前記『現代の公民館』)、小川利夫は「むしろ逆である」「古い組織の再編強化の動き」と批判した(同「自治公民館の自治性」月刊社会教育1963年3月号、「自治公民館方式の発想」同1965年7月号)。宇佐川満だけでなく、倉吉市側からは朝倉秋富(同市教育委員会社会教育課長)や友松賢(京都府久美浜町社会教育主事)がこれに反論(朝倉「自治公民館のねらいと可能性」月刊社会教育1963年10月号、友松「自治公方式と地域民主化運動」同1965年9月号、前記『現代の公民館』等)する経過があり、自治公民館問題は関係者の多くの関心を集めることになったのである。
 自治公民館論争については、本章2節(松田)でも触れられるが、主要な論点は、集落・地域住民組織のもつ二つの側面、つまり行政との連携・従属性(政治支配の末端としての地域)の問題と、住民の自治・共同の可能性(住民の連帯組織としての地域)に関わっていたとみることができよう。そのいずれの側面に力点をおいて集落・公民館をとらえるかによって、評価は複雑に異なってくる。それらの両面を複眼的に捉えつつ、自治公民館の可能性を考えていく必要があろう。 
 「自治公民館」をめぐる論議は、あと一つ、1970年代後半から顕在化してくる自治体「合理化」路線と公立公民館の職員削減等の動きをめぐってであった。たとえば、この時期の福岡市校区(公立)公民館の職員嘱託化問題の背景には「自治公民館への移行」論が提起されてきたのはその一例である。公立公民館の条件整備水準の低下、その独立性や専門性の後退が憂慮される状況のなかで、「自治公民館とは何か」が厳しく問われた。

 集落公民館の展開と可能性
 20世紀から21世紀に向けて、その後の集落公民館の展開は、地域状況が大きく変容するなかで退潮の方向にある一面、全国的にはむしろ多様な活動や新しい実践が現れている事実にも注目しておく必要がある。地域・小地域はさまざまの様相を見せながら、時代状況を反映しつつ動いているのである。
 自治公民館論争後の集落公民館研究についても、実証的調査を含めて、最近とくに興味深い成果が生まれてきている。たとえば、大前哲彦の自治公民館論究、神田嘉延の鹿児島研究、水谷正や佐藤一子等の信州研究、小林平造の与論島研究(いずれも日本社会教育学会特別年報『現代公民館の創造』国土社、1999年、ほか)、星山幸男や新妻二男等の東北研究(小林文人・佐藤一子編『世界の社会教育施設と公民館』エイデル研究所、2001年)、小林文人・末本誠、松田武雄・中村誠司、山城千秋等による沖縄研究(小林他編『民衆と社会教育』『おきなわの社会教育』エイデル研究所、2002年)などがあげられる
本論に取りあげる余裕はなかったが、京都府「ろばた懇談会」(通称ろばこん)は、地方自治・地域民主主義を担う住民の主体形成をめざす事業として注目された時期があった(1967年〜1978年)。その具体的な地域活動の範域は「区・自治会・町内会を原則」(同・実施要項、1967年)とし、久美浜町の事例に見られるように、これらの活動が「自治公民館」として展開されていた(津高正文編『地域づくりと社会教育』総合労働、1980年、同『戦後社会教育史の研究』昭和出版、1981年)。
 前述した戦後沖縄「字公民館」の歩みは、集落公民館の最も典型的な展開事例ということが出来よう。琉球政府「公民館設置奨励について」(中央教育委員会決議、1953年)により公民館の普及が始まるが、その歴史は主要には集落公民館としての歩みであった。山城千秋の調査集計(2002年)によれば、条例に基づく公立公民館85館(一部に条例化された集落公民館を含む)に対して、集落公民館は総数976館にのぼっている。それぞれに、集落の自治、祭祀、文化、生活相扶等を含む活発な字公民館活動を営んでいる。沖縄については第12章2節に別稿(中村誠司)が用意されているので、ここでは詳述しない。
 集落公民館について、最近の注目すべき自治体の事例は長野県松本市であろう。松本市は一方で公立公民館(中央公民館、地区公民館、28館、2004年現在)の整備を進めながら、他方で集落・町内レベルの「町内公民館」の積極的な育成・奨励策をとってきた。2004年(合併前)現在、町内公民館は385館を数える。市教育委員会として「町内公民館のてびき」を出したのは1976年であったが、その後改訂を重ね、2005年に新版「てびき」が刊行された。集落公民館の現代的な展望を含む水準の高い内容となっている。あわせて町内公民館活動実践事例集として「自治の力ここにあり−学びとずくのまちづくり」(11領域、108事例)がまとめられた。個々の具体的な事例のなかに、集落公民館の活動の状況や課題が記述され、それらを通して、集落公民館がどのような可能性をもっているのかを読みとることが出来る。(小林文人)
参考文献 宇佐川満編『現代の公民館』生活科学調査会、1964年



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