上海市閘北区社区大学との合作構想の経過
             −合作学院構想実らず

    −「小林国際交流閲覧室」への道(「上海の風」1〜7、2001)


    *関連資料−合作構想の経過資料(1997〜2000)
    中国・上海・研究交流一覧→■



<目次(1) −経過>
(1)1998年2月・上海からの報告    「南の風」第8号(1998年3月2日)
<目次(2) −上海の風1〜7>
(1)中日合作学校づくりの模索       「公民館の風」224号(2001年10月30日)
(2)合作学院の構想実らず         「公民館の風」225号(2001年11月1日)
(3)上海市閘北区―業余大学から社区大学へ 「公民館の風」226号(2001年11月3日)
(4)新社区大学の図書室構想へ     「公民館の風」226号(2001年11月3日)
(5)通称・中日文人図書室の開幕     「公民館の風」228号(2001年11月8日)
(6)中日文人図書室、これからの“夢”  「公民館の風」231号(2001年11月15日)
(7)東京・首都圏にも「東アジア」空間を   「公民館の風」232号(2001年11月19日)

(8)続・上海の風8−2002上海訪問記録→■




<目次(1)>

<1998年2月・上海からの報告−経過記事>
             *(「南の風」第8号 1998年3月2日)
 予定のスケジュール(1998年2月25日〜3月2日)で、上海・北京とかけまわってきました。上海の羅・袁、北京の韓民など皆さん元気でした。
 今回の旅の目的は三つ。一つは『東アジア社会教育研究』第2号の直接手渡し、二つは同第3号の小編集会議(上海と北京)開催、それ加えて、三つは、例の上海の中日合作(社会教育)学院創設の打ち合わせ、でした。いずれも(疲れたけれど)結果的に「行ってよかった」。副産物として(四つめに)、上海で華東師範大学との研究交流・姉妹提携、の正式の申し出を受けました。和光大学で出来なければ、橋渡しをしてほしいとのこと。さてどう受けとめるか。細かなことはいろいろありますが、それはまたの機会にして、以下要点のみ記します。
 …(中略)…
 (3)この間あまり報告しなかった上海・日中合作(社会教育)学院について。
 その後、緩やかに進行しています。速やかに実現するのであれば、しかるべき筋に人脈を通して頼んだ方がよい、という助言もありましたが、小生も、上海・閘北区業余大学関係者も人脈に頼らない道を選びました。しかし双方もちろん始めてのことですから、時間がこの間、ゆっくりと経過してきたわけです。1997年3月「合意」文書の作成のあと、その後、手続きについて形式上の書類揃えを求められました。たとえば次の一文は、昨年10月の上海から(羅李争氏を通して)の連絡です。

 「(前略) 2、合作学院のことについて、夏休みに上海市教育局の外事処の張処長と相談しました。張処長の話により、基本的に問題がないです。しかし、張処長は幾つかの意見を出しました。
1)教育内容に関して、日本語など語学は、あっちこっちの学校にも多すぎて、何か科学技術の内容を添加して欲しいとのこと。
2)正式の申請書類は、弁護士の手により、作られたほうがいいとのこと。そして彼の知り合いの弁護士を紹介した。
 学校は、この紹介に従って、今当弁護士と相談しているところです。弁護士の話により申請書類にまず日本側から二つのドキュメントが必要です。
 一つは、草案によって日本出資者として、個人でなく、「東京・沖縄・東亜社会教育研究会」ですから、研究会の法人登録証書或は法人証書の謄本或はコピーです。あと一つは、銀行からこの法人の口座に出資する金額があることの証明書です。
 形式・手続きのことで、面倒になりますが、まず先生にお聞きするのは、このような書類に関して、可能かどうかということです。(以下、略)」

 これについては、TOAFAECは日本の法律上「法人」ではないこと(ただし、NPO法案、が通れば可能になるだろう)を返答し、したがって「合作者」としては小林個人とし、手続きをすすめるのであれば可能ということになりました。内容には変更がないということもあり、現在は先方の業余大学と小林の双方により、学院創設の書類が作成されている、という段階です。
 今回、弁護士が作成した文書をみました。しかし弁護士の書類となると「契約」的となり、面白くない。私たちが当初に業余大学側と作成・合意した「意向書」(1997年3月)のような理念(学習の自由、教育の革新、学習権保障、教育機会の均等等 ―昨年4月に関係者に配布したもの―)とは別の次元の“手続き”文書です。
 いわば最終のこの段階で、一定の文書作成が手続き上、止むを得ないとすれば、一応は「学院」を立ち上がらせるためにこれを認めて、しかし実質的な両者の「確認書」(日中双方の研究交流、実験学校的な性格、日本側の有限責任など)のようなものを作ってみてはどうかか、と意見を言ったところで今回は時間切れ。
 これからまた少し、協議を重ねる必要があります。そんな経過です。急いでもいけない。ただ一つ残念なのは、この間に日本円がずいぶん安くなったことですね。
 以上、東京農工大学・磯先生にも関心をもっていただき、お尋ねのメールをいただきましたので、経過報告といたします。
*磯さんへお願い。3月に上海へ行かれるとのこと。弁護士が作成した文書の正確な日本語訳を作って東京にも送るようにとお伝えください。また小林がメモとして残した「確認書」ないし「意向書」についてその後の業余大学側の検討経過があれば聞いてきてください。  

 (4)華東師範大学との研究交流・姉妹提携について。
 今回の中国の出発前に、神戸の末本誠氏より、いま上海に帰省中の呉くんへの伝言を頼まれました。「上海からいいお茶を買ってきてほしい」旨の依頼。いただいた電話(別の電話でした)からようやくコンタクトでき、お茶のこと、たしかに伝えました。
 呉くんは、小林が上海に滞在中であることを華東師範大学の葉忠海教授に連絡したらしい。翌日、ぜひ会いたいということになり、以下のこと、くれぐれもよろしく、と橋渡しを頼まれたわけです。
 葉教授の紹介=1939年生まれ。華東師範大学・成人及継続教育研所々長。上海市社区教育センター長。全国成人高等教育会副会長・秘書長、など(学内、学外ともに)要職にある。最近の著書:「成人教育学通論」「大学後継続教育論」(いずれも1997年)。
 華東師範大学はいうまでもなく北京師範大学と肩を並べる教育系有名大学。その「成人
教育学院」は、上海市第二教育学院を最近吸収し、成人教育研究・実践・指導者養成上で影響力の大きな大学・研究機関であり、葉忠海教授はその中心的な人物と目される。
 華東師範大学「教育科学与技術学院」は、このたび神戸大学発達科学部と研究交流の協定を結ぶことになったようです。これとは別に同大学ながら「成人教育学院」として、日本のしかるべき社会教育関係大学と研究交流・姉妹提携を結びたい、という“熱烈”な意向を吐露されました。
 まず和光大学ではどうか、引き受けていただけるか、という話でしたが、小生はこう答えておきました。「社会教育研究者は一人であること、大学院がないこと、国立大学と比べて相対的に研究体制が整っていないこと、他にもっと適当な大学があると思います。」
 *和光大学は「人間発達学科」をおき、「人間」「生涯発達」の研究に深く関心があ り、また学内に「総合文化研究所」などもあるのですが−−、しかし、やはり−−。
 華東師範大学が求めていることは、ほぼ次のようなことと思われます。  
@教師・研究者の相互交流、A両者の協力による共同研究、B学生あるいは院生の交流・交換、C講座、講演会、シンポジウムなどの開催、D学術研究資料の交換
 必要経費は基本的にそれぞれ自らの負担により、相手に財政負担はかけないという原則でいきたい。(つまり経費の点で相互の研究交流・提携の障害とならないようにする、ということ)
 日本の大学は「成人教育」「社会教育」研究者は一人か多くて二人、したがって大学間の相互協力のネットワークをもって研究をすすめる必要があること、たとえば、九州大学・佐賀大学あるいは鹿児島大学のいずれかが研究交流・提携の窓口になり、形をととのえて、必要に応じてTOAFAEC的な研究組織や、学会のグループが実質的にこれに参加し、バックアップしていく、そんなかたちだと面白い、などと話しました。
 葉教授も、「まったくその通り、私たちも成人・継続教育の全国研究組織をもっており、すこし広い相互研究・交流が始まれば有り難い」と話に花が咲きました。小生としては今後は学会相互の研究交流も視野に入れて検討を深めたい思いでした。なお、大学院については華東師範大学「成人教育学院」も修士課程とのこと、こちらがドクター課程でなくてよさそうです。九州大学、佐賀大学、鹿児島大学、など関係の皆様で名のりがあげられましょうや?
 公的な機関相互の正式な話にする必要がありますから、学内事情も関係しましょう。そのあたりもご勘案の上、取り急ぎ、可能性の有無について、検討していただけませんか。
 その上で、無理であれば、広島大学へ、あるいは東京のどこかの大学へ、話を拡げてみることにします。だが、とりあえずはまず上海に近い大学で、また中国への関心をもっているTOAFAECメンバーの大学で、受け止めの可能性を考えていただければ、と思います。
 …以下略… (南の風第8号、Tue, 03 Mar 1998 03:18)





<目次(2)>


●上海の風1<中日合作学校づくりの模索>●
           (「公民館の風」224号 2001年10月30日)
 私たちが「東京・沖縄・東アジア社会教育研究会」(TOAFAEC)という、ちょっと長ったらしい名称の活動を始めたのは、1995年6月のこと。それからもう6年余が経過している。
 今年2001年10月、上海訪問(「社区教育」調査)の際、TOAFAEC にとって一つの新しい展開があった。上海の中心部・閘北区に「小林国際交流閲覧室」(通称・中日文人図書室)がお目見えした。まず、当事者「ぶんじん」自身が驚いている。
 この小さな図書室が、これからどんな歩みを始めるか。上海のど真ん中の新・社区大学(コミュニティ・カレッジ)に誕生した中国と日本の、社会教育・社区活動をキィワードとする交流空間。おそらく中日双方にとって初めての試み、他の都市にも類似のものはないだろう。それだけに実りある歴史をきざんでほしいと願わずにはいられない。中国側関係者の期待も並々ならぬものがあるようだ。
 ここに至る経過と、今後に向けての“夢”のようなものを、「上海の風」と名付けて、「公民館の風」に何回かに分けて記しておくことにする。

 TOAFAEC の歩みや活動については、ホームページ→■に掲載しているので省略する。
振りかえってみると、私たちが「東アジア」各地へ出かけたなかで、もっとも頻繁に通った都市は上海だ。閘北区業余大学(当時)と初めて出会ったのは、TOAFAEC 発足以前の1989年。東京学芸大学に留学した羅李争(もと華東師範大学教師、敬称略・以下同じ)、袁允偉(閘北区業余大学・副学長)、そしてもちろん、王鴻業(同・学長)、徐熾強(同・党書記)等との友情を基に中日合作(同業余大学とTOAFAEC)の学校づくりの作業が始まったのが1994年のこと。通称・中日文人学院の設立に向けて、双方の意向書、契約書、学院の定款が作成され、最終的な調印も行われた(2000年秋)。その本文は記録としてTOAFAEC ホームページに収録→■しておいた。(この間の顛末については、そのうちに詳しく書きたいと思っている。)
 しかし合作学院は実現しなかった。2001年5月、内田純一(TOAFAEC 事務局長)等と上海を訪問した折、業余大学関係者による歓迎夕食会の席上、王学長より「遺憾ながら・・・」と不首尾に終わったことの報告があった。5年がかりの双方のさまざまの努力が、いとも簡単に白紙に返ったわけで、正直のところ、がっかりした。何気ない風をよそおっていたが、失望落胆、その夜ホテルではあまり眠れなかった。(公民館の風224号)


●上海の風2<合作学院の構想実らず>●
          * 「公民館の風」225号(2001年11月1日)
 上海閘北区業余大学との合作学院づくりが不首尾に終わったことは、末本誠(神戸大学)等の合作学院理事予定者にことの顛末を知らせる必要もあり、「南の風」に「上海の合作学院学構想、学院づくりへの思い実らず」という一文を寄せている。少し長いが、これをそのまま再録しておくことにしよう。
 <南の風676号(2001年5月10日)>
「ながく教育の仕事にたずさわってきたものとして、いい学校を創りたいという思いは誰しも一度はもつものだろう。しかし日本では(土地問題もあり、個人では)とうてい実現の見込みはない。ところが中国では、改革開放政策の進展があり、また1990年代「社会力量弁学」の動きもあって、可能性があるのではないか、というのが、この間の「合作学院づくり」の夢を抱く背景であった。事実、広州市の関係者と学校づくりについて具体的な協議をしたこともあった。1993年から94年にかけてのことである。
 1994年11月、上海第二教育学院(当時)で「日中大都市社会教育研究集会」が開かれ、招聘されて上海に渡り、その夜の語らいの席で羅李争(東京学芸大学大学院卒)や上海市閘北区業余大学関係者との間で合作学院づくりの話が始まった。小林は東京学芸大学の退職金を一部拠出する、日本・中国の社会教育関係者相互の自由な研究交流の場をつくる、TOAFAEC 活動のネットワーク拠点とする、そんな夢がその後にもしだいに膨らんでいった。当時、合作学院の構想として、上海に次のような構想を書き送った記録が残っている。
(1995年12月27日)
1,活発な精神と、学習・研究の自由を尊重する。(自由の精神)
2,社会的不利益者を含め、すべての民衆に開かれた学校。(万人の学習権保障)
3,緑あふれ、花咲きほこる美しい学校。(恵まれた環境)
4,利潤を求めず、しかし経営的に持続する。(非営利の経営)
5,社会教育・成人教育に関して中国と日本の研究交流と親善に寄与する。
  (日中友好、東アジア社会教育研究ネットワークの形成)
 初期の学院名称案は「上海市中日文人学院」。その後、紆余曲折を経て、意向書、契約書、定款案などが作成され、その都度の調印も行われてきた経過は、「南の風」で折りにふれて報告し、またTOAFAEC ホームページに記載している通り。合作学院の名称は個人的ニュアンスを脱する方向で、「宏文」学院と修正された。
 この6年間の経過をここに詳述する必要もないだろう。最終的に「すべて問題はない」として、正式文書の調印と交換(2000年11月)が行われたことも「南の風」で報告してきた(第579・580号)。
 「やれやれ、やっとこれで一段落か、といった感じです。中国とのお付き合いは少々時間がかかりますね。」(同・579号)と書いたことが想い出される。
 しかし今回5月の上海訪問のなかで、この合作学院の構想は、今後進展が見込めないことが分かった。上海市閘北区業余大学関係者による私たちの歓迎会の席で、王鴻業学長より「まことに申しわけない、合作学院の成立は見送らざるを得ない」という判断が報告された。
 これまで学院づくりにかけてきた双方のエネルギー、とくにその間にあって連絡・調整・翻訳などの労をとってきた羅李争や袁允偉のことを考えても、まことに残念至極!
 その理由や経過はいくつかあろうが、いまは触れない。認可をする上海市外事弁公室の担当者が異動(駐日・中国大使館へ)するという事情があり、人が変われば方針も変わる、という典型的な例のようにも思われる。
 この間、業余大学側は実現に向けてさまざま腐心してきたのだが、いわゆる「裏わざ」は使わなかった。もともと当方が拠出する資金額が少ないということもあり、結果として、いろいろな事情がいい方向には作用しなかった、ということだろう。
 今後のことは、上部機関の認可を受けるかたちでなく、閘北区業余大学(いま槌音高く新「社区大学」キャンパス建設中)内で決定できる方式で、合作と交流の具体的なあり方を考えていきたい、5月末までに大学側としてなんらかの提案をしたい、どうぞよろしく、ということであった。
 当方としては、これまでの経過を無にしないで、お互いに暖め合ってきた合作への思いと相互の友情を大切にしたい、5月中に送られてくる上海側の提案については、6月中に返答したい、と応じた。
 羅李争には個別に、合作学院のために用意している拠金額については、何か社会・公共的な方向に役立てていきたいという意向を漏らしておいた。ただし今は円安(合作学院構想の当初は円高で1ドル90円前後だったと記憶している)、たいした基金にもならないが・・・。
 翌日、上海を離れる朝、ホテルには学長はじめ大学首脳部あげての見送りを受け恐縮しつつ、広州へ向かったという次第。
 あまり景気のいい土産話にはならなかったが、取り急ぎ関係の皆様へのご報告。6月予定のTOAFAEC 総会」あたりでまたご意見をいただければ幸い。」(公民館の風225号)


●上海の風3<上海市閘北区―業余大学から社区大学へ>●
           * 「公民館の風」226号(2001年11月3日)
 その後、「5月末までに大学側としてなんらかの提案をしたい」という話について、上海側からはまったく音沙汰がない。忘れていたわけではないだろうが、お互い失意のなかで、双方合作の構想は消えてしまったも同然、「没法子!」、そんな感じで数ヶ月が過ぎた。
 連絡がないのも当然、この時期、閘北区業余大学は、新しく社区大学へ脱皮し、新キャンパスでは9月の開校に向けて急ピッチで校舎建築中、大学首脳部はその準備に大童だったのだ。

 ところで、いったい業余大学とはどんな大学なのか。どうして新しく社区大学なのか。ここで閘北区の場合について、私の知る範囲での概略を紹介しておこう。
 閘北区業余大学は1978年の創立、上海市当局が認可し閘北区が設置した公立の成人高等教育機関である。文化大革命10年の厳しい教育荒廃を克服し教育復興をめざしつつ、改革開放政策に向けての人材養成と「業余」の労働者再教育の場としてスタートし、多様な役割を果たしてきた。
 手元の資料によれば学歴上では短大レベルの職業実務教育(学生数約800人)、上海放送大学や科技大学通信教育等の学習ブランチ(同・約1500人)、中等専門教育コース(約1600人)、職業準備高校(約400人)、同教養クラス(約300人)、労働者・市民向けの職業訓練クラス(約2000人)、そして、地域に開かれた訓練コース、太極拳クラス等もある。多様・多元の職業技術訓練を主とする(日本には見られない)中国独自の成人教育大学と言えよう。学生数は、単純に合計して約7000人、在学平均2年とみて総計1万5千ちかくの若者や労働者が学んできた。
 敷地面積5500u、建物面積11000u、教職員は222人、うち専任教師は118人、副教授以上の高級職12人、スタッフ数も建物もむしろこじんまりとした学校だが、社会的に大きな期待を担ってきた。
 閘北区は上海の中心部、なかでも業余大学は上海駅にも近く、ゴミゴミした庶民の街の真ん中に位置していた。私が初めて訪問したのは、天安門事件の1989年5月のこと。同行の上野景三(佐賀大学)と狭い路地を人をかき分けかき分け進むと、6階建?ての校舎が見えてきた。「業余大学とはこんなところにあるのか」という印象。しかし夜遅くまであかあかと灯がともり、その活気が印象的だった。
 都市により状況は異なるが、上海と同じく北京や広州等の大都市にはこうした「業余大学」が多様に設置されてきたのである。
 そして最近の業余大学から社区大学への転換。新しい動きは、上海ですでに1994年頃から始まっている。その背景はなんだろう。おそらく、社会主義市場経済の進展と大都市の国際化の大きな潮流、それにともなう企業(公司)単位の職業訓練の状況変化、その高度化・多様化の要請、短期訓練コースから高学歴コースへの志向、企業単位の仕組みから地域(社区)への開放の動き、などであろうか。
 そして1995年以降、業余大学から社区大学への改革には、とくにアメリカのコミュニティ・カレッジ制度が一つのモデルとして注目されてきた。
 閘北区では1999年に旧来の業余大学を基礎として、社区大学の設立が確定されている。2000年以降、大学の管理運営機構を改革すると同時に、広大な新キャンパスに移動して、講義棟、実験棟、会議棟、図書館、学生施設等を新営する工事が進められてきた。今年5月に上海を訪問したときに、初めてその工事現場を案内していただいたが、昼夜にわたる突貫工事の雰囲気に圧倒される思いであった。
 教学上では、従来の課程が「主に在職成人」の職業訓練・短大コースであったのにたいし、「社区大学では、在職成人の業余コースの他に、就職前の非在職・全日制短大コース」を開設する。さらに地域に開かれた施設(会議棟、図書館等)運営と、「街道」(末端行政組織)の社区教育活動のセンター的機能も担っていくことが期待されている。(学長・王鴻業「業余大学から社区大学への転換」、TOAFAEC『東アジア社会教育研究』第4号、1999年、所収)
 そして、新社区大学は「上海行健職業学院」と称することが決定した。(公民館の風226号)


●上海の風4<新社区大学の図書室構想へ
          *「公民館の風」226号(2001年11月3日)
 話をもとに戻そう。
 今年5月以降、上海からの連絡はもう途絶えてしまった感じだった。当初の合作学院構想に準備した拠出予定の基金をどう使うか。なんとか社会的に活用したい。さてどうしたものか。上海からは連絡がないし・・・。
 今年、私の研究室にはモンゴル族の研究生が4名もいる。彼らは故郷(内モンゴル)の経済的苦境に煩悶し子どもたちの教育資金を積み立て始めていた。物価高の東京でバイトに追われながら、そのわずかの収入のなかから各自毎月1000円ずつを積み立てて、手渡しするかたちでモンゴル族子弟の奨学金制度を創設したいと頑張っている。
 まさに少数民族の切なる思い。「そうだ、これに役立てよう」と心が動いた。今年7月末、東京・板橋で彼らが開いたモンゴル祭の夜の集い、彼らのひたむきな想いに動かされて、彼らにも私の気持ちを伝えた。「先生、ぜひ! どうぞよろしく!」などという話を交わした。そんな経過のあと9月も終わりに近くなって、上海(羅李争)から次のメールが届いたのだ。(Thu, 27 Sep 2001 17:01)
「小林先生:
 先月、袁さんがメールで論文を送ってきたとき、もう一通の“上海行健職業学院・中日文人図書室の創立に関する建議書”がありましたが、私はそれを見逃しました。大変申し訳ありませんが、今この建議書の原稿と訳文をお送りします。…略…」
 先月とは8月のこと、袁さんとは袁允偉・副学長、論文とは『東アジア社会教育研究』第6号への寄稿。それにあと1通の“建議書”があったという。のんびりして、なんとも愉快!
 訳文は「中国側の上海行健職業学院と日本側の小林文人教授等学者が共同に上海行健職業学院・中日文人図書室を創立することを建議します」という趣旨で、
1.図書室は主に社会教育、日本語教育、コンピュータ等に関する図書、教科書、辞典、CD、マルチメディア資料等を収蔵する。
2.図書室に5台の日本語コンピュータ(ノートブックコンピュータ)、1台のプリンタを配置する。
3.文人読書奨学金ファンドを創る。
4.図書館を基地にして中日交流活動と短期訓練クラスを行なう。
5.中国側は行健職業学院新校舎図書館中に面積50uの図書室を提供する。
6.中日双方が上海行健職業学院・中日文人図書室管理委員会を組織し、図書室の運営規則と計画を作成する。中国側は図書室の日常管理と維持に責任を持つ。
  …以下、略…
 私は、ようやく来信したメールを繰りかえし確かめて「10月初旬、社区教育調査で上海訪問の機会あり、その際に“中日文人図書室”構想について協議しよう」と返信を出した。ここからまた、新しい展開が始まったのである。
 10月の上海行き。滞在中の出来事については、同行した黄丹青(埼玉大学兼任講師、紹興出身)が、「南の風」761号(10月26日)に報じてくれた。
 それを次に紹介させていただこう。   (公民館の風226号)


●上海の風5<通称・中日文人図書室の開幕>●
          *「公民館の風」228号(2001年11月8日)
 @上海より紹興に帰る(黄丹青、Thu, 25 Oct 2001 14:00)
 葉忠海先生、呉遵民さん、そして上海訪問団の諸先生、このたび大変お世話になりました。本当にたくさん食べ、たくさんの人と会い、たくさん学んだ旅でした。
 …略…
 A中日文人図書室開幕のいきさつ
 次は上海閘北区の新社区大学・行健職業学院に実現した「小林国際交流閲覧室」のいきさつを簡単に紹介しましょう。
 ご存知のように、小林先生と閘北区業余大学(9月から上海行健職業学院に変身)との5年越しの合作学院の話が流れてしまい(南の風 第676号「合作学院の構想実らず」参照)、その後、9月には中国側から図書室をつくりましょうといった内容のメールが送られてきた(南の風 750号)のはご承知のことを思います。
 これについても話し合おうというつもりで訪中した小林先生ですが、到着した9日夜の歓迎会で、翌日に図書室の除幕式があると聞かされ、さすがに驚いた様子(もう 何が起こっても驚かないと言っていましたが)。
 どうも学院側は、小林先生の好意がなかなか実らないことに心を痛めて今回の訪中で長年の懸案を解決しようと前の晩に急遽決めたとのこと。前日9日に看板を注文し、それをかけ、図書室・室内を整え、と大忙しいの一日だったようでした。
 10日に閘北区教育局の「社区教育」報告を聞いた後、院長や党書記、関係者の立会いのもと、会議室で「小林国際交流閲覧室」の除幕式が行われました。また小林先生が新社区大学・行健職業学院客員教授と図書館名誉館長として迎えられ、その招聘状の授与式も同時にありました。
 同行の先生方から「よかった、よかった」と言われながらも、あまりにも急なことで、小林先生はまだ少し腑に落ちない様子、なんどもびっくりしました、と訴えていました。が、「生米作成熟飯」(米がすでにご飯になってしまった)。話は徐々にどのような閲覧室にするかへ移り、先生からは、社会教育、法制関連の本を送るとか、羅さんからはノートパソコンを購入し、そこで学生が世界とくに日本の最新情報を手に入れられるようにするとか、さまざまな案が面白く出されました。その中で、日本の音楽をバックに、川崎や東京・大阪、沖縄など自治体の社会教育関連の資料を置いてはどうか、という話も出ました。
 蘇州から上海へ帰る途中、行健学院は社区の学校として会議室や図書館を地域に開放するのだから、この「国際交流閲覧室」も社会に開放し、そこへいけば日本の最新情報が閲覧し交流できるようなところにしようと構想はさらにふくらんでいきました。それを中国側の受け入れ責任者、葉先生にも伝えました。
 13日の上海最後の夜、行健学院が歓送会をしてくださいました。席上、図書室の話に及び、日本語や日本語ワープロを教える学校は上海にもたくさんあるし、一般の日本語の書籍なら、有名大学にはかなわない。しかし社会教育の資料室構想なら、中国のどこにもない図書室、きっと反響が大きい、中国の社区建設の参考にもなると話が弾みました。小林先生もよい図書室にするためには、できるだけの協力をしたいと意思を表明。
 「没有弁法的弁法」(方法のない中からの方法)として図書室を思いついたが、それがかえって展望を開き、比較的に具体化された構想まで行き着くとは、と双方ともやや興奮気味で、もう一度新しいスタートに乾杯!
 さらに、図書館長から来年はぜひ社区教育祭りの一環として、図書館で講演をしてほしいと言われました。どうも10日の学生たちへのスピーチが大変好評で、学生記者による報道により教師たちからも「知っていれば聴きに行きたかった」と言われたそうです。
 帰りのタクシーの中で小林先生は「いや、困りましたね。こんなに話が広がっては・・」と笑顔で話していました。
*蛇足。今までの経緯を振り返り、小林先生に二つの中国熟語を紹介しました。
  因禍得福:禍があってこそ、福となる。
  好事多磨:よいことは簡単には成就しない。多くの摩擦、トラブルを経て、やっと成功につながる。
<歌の工房(ぶ)>
  ―上海閘北区社区大学図書館、「小林国際交流閲覧室」除幕式、10月10日―
◇友情を確かめあいて歩みきし五年を想い幕開かんとす
◇海を越え友ら集いて語りあう「文人図書室」花咲かせたし
  ―学生記者と記念撮影、10月10日― 
◇上海の若き娘ら老人の腕に手を添えさやけく笑う  (公民館の風228号)




●上海の風6<中日文人図書室、これからの“夢”、どう実現していくか>●
           *「公民館の風」231号(2001年11月15日)
 1994年秋に話が始まって足かけ8年目、業余大学との合作学校づくりの計画は実らなかったが、このプロセスがあればこそ、2001年10月の上海滞在のわずか4日間に、急転直下、小さくはあれ画期的な図書室がオープンしたのである。双方の信頼感と友情が創り出した社会教育・社区教育をキィワードとする国際交流のささやかな空間。
 さて、これから「国際」「交流」の実質をどのように具体化していくか。日本にとっても中国にとってもはじめての試みだ。夢はふくらむ。
 あらためて閘北区社区大学(業余大学)の王鴻業・学長はじめ、徐熾強(同大学・党書記)、そしてもちろん袁允偉・副学長と羅李争ほか関係の皆さんの配意と努力、その積み重ねの歳月をしみじみと噛みしめている。
 今年9月にオープンした社区大学(上海行健職業学院)の新キャンパスは、閘北区の地域に開かれた「社区」教育センターとしての役割も担っているようだ。正門横の図書館も、ホールや会議・集会室の建物も地域に積極的に開放していく方針という。業余大学時代の成人高等教育機関としての性格だけでなく、コミュニティ・カレッジの役割も新たに付加して、これまでにない社会教育・社区活動・職業技術教育に関する実験的な地域大学としてスタートした。
 “中日文人図書室”(正式には「小林国際交流閲覧室」)は新図書館の1階、入ってすぐの一角に看板を掲げた。図書館としてはまだ移転が始まったばかり、ダンボールの山が運びこまれているところ。文人図書室だけが関係者の配慮で、除幕式当日、書棚に日本書籍や雑誌が並べられ、壁には日本地図も。恐縮して入口で記念写真に収まった。(TOAFAECホームページ、10月10日)
 日本と中国の、どんな“国際交流閲覧室”にしていくか。すべて今からの課題である。“上海の風3”(「公民館の風」226号 所収)に記したように、上海側からは今後に協議すべき点がいくつか提示されている。(しかし黄丹青が先号で書いている通り、協議の前に図書室はオープンしてしまった。)
 そこには、1.日本語教育、辞典、CD、マルチメディア資料、2.ノートブックコンピュータ、プリンタ配置、3.文人読書奨学金ファンド、などが提案されている。さすがに教育の現代化を志向する姿勢がうかがわれる。
 小さな奨学金ファンド構想については、合作学校づくりの段階から話し合ってきた経過があり、ささやかな金額だが、こちら側からの若干の拠出金はすでに用意している。
 基本の方向や実際の運営は先方に任せるとして、こちらからの構想も出してみたいものだ。関心ある方々からの意見、提案、さらには(可能な範囲での)具体的な参加と協力をお願いしたいところである。
 上記の提案に加えて、さしあたり次のような視点からの可能性を追求できないものかと考えている。
1.日本の自治体のなかで意欲的な社会教育・生涯学習の計画・事業・実践に取り組んでいる事例資料、各種文献等の収集・展示。とくに「大都市社会教育の研究と交流の集い」にも呼びかけて、まず各自治体でこれまで作成された資料類を(たとえば)ダンボール1箱程度送っていただく。また、大都市だけでなく、中小都市・小自治体の公民館や図書館等の諸資料も送付し、「国際交流」的な“対話”の場を創っていく。
 すでにこの数週間に出会った自治体関係者(東京、川崎、飯田、名護なの皆さんに個別にお願いを始めている。
2.日本の社会教育研究がこれまで生み出してきた基本文献を、こんご刊行されるであろう諸研究成果を含めて、整備していく。大学の研究紀要や 研究室の調査報告なども加える。日本ではあまり読まれないこれらの研究印刷物も案外と多彩多様な拡がりをもっていて、中国側研究者にとっては刺激的な意味をもっているのではないか、と助言する人がいる。 まずは小林所蔵の社会教育基本文献は上海に送ることを考えてみる。「月刊社会教育」「社会教育」「月刊公民館」「教育」等の雑誌バックナンバーについても、中国側の意見を聞きながら必要であれば送付する。それをベースにして、関係諸氏の協力をお願いしていく。日本の社会教育研究の最先端の研究資料が常時揃っているような「交流閲覧」室を目指す。同時に日本側にとっても、中国の成人教育・社区教育の研究交流を恒常的に進めていく拠点として活用していく。
3.あとひとつは、住民活動、市民運動、NPO、ボランティア活動、あるいは集落自治(公民館)の取り組み、地域づくりなどの住民レベルの資料を交流していくことである。政治的な体制が違い、住民運動の性格も相互に異なるわけだから短絡的な発想は慎むべきだが、この視点、長期的には忘れてはならない重要な課題ではないかと考えている。
 最近、日本各地では市民運動やNPO活動など、さまざまの事例がみられ、多くの資料や報告がまとめられてきた。たとえば子どもをめぐる地域活動、青年団運動、障害者、環境問題、あるいは女性・ジェンダーの運動など、興味深い展開が見られる。
 これらの資料がどのように国際的に活用され、対話を可能にしていくか。図書室がそのような中日交流の接点として機能していくことが出来るかどうか。
 しかし、日本語文献は多くの人に読まれるわけではない。「閲覧室」としては、さまざまな工夫をこらしていく必要があろう。図、統計、地図、展示的モデル、音楽、ビデオ映像、スライド、インターネット・ホームページの活用など、閲覧・交流の多彩なチャンネルを提供していけないものか。いまそんなことを“夢”みている。(公民館の風231号)


●上海の風7<東京・首都圏にも「東アジア」交流空間をつくりたい>●
           *「公民館の風」232号(2001年11月19日)
 私たちが合作学校づくりをすすめてきて、実現しなかった相手の業余大学(閘北区)は、中国独自の、なかなか面白い(私の表現をもってすれば)夜間「社会教育大学」だ。
 一面では、中国文化大革命後の教育復興という対症療法的な側面をもちつつ、社会教育と職業訓練制度(そして学校教育)が分離している日本では見られない、多様柔軟な教育機会提供の役割を果たしてきた。主要には在職労働者の「業余」再訓練、同時に就職前の中卒青年にたいする多彩な実業コース、また、放送大学や通信教育の学習センターの機能(上述<3>参照)等の機能も併せもって、そこに毎年1万5千の人たちがさまざま学び、多元的な教育コースのなかでいろいろと資格等も取得して巣立っていった。
 それに今年からは、新しく地域(社区)の視点を加え、広大なキャンパスに施設も新営し、コミュニティカレッジとして大きく羽ばたこうとしている。これからどんな展開をとげていくか、注目していきたいし、期待も大きいのである。
 この間の経過については、一部前にも紹介したように、すでにTOAFAEC 年報『東アジア社会教育研究』のなかで、学長・王鴻業「上海業余大学の社区学院への転換」(研究4、1999)、副学長・袁允偉「中国の地域成人高等教育の新しい動向」(6、2001)の報告(いずれも日本語訳は羅李争)があるので、関心ある方はご覧いただければ幸い。
 私たちの“中日文人図書室”は、この新しい社区大学・新図書館の一角に産声をあげた。
海をこえて、ある意味では願ってもない機会が与えられたわけで、「国際交流」のユニークな接点・拠点として、積極的に活用し発展の方向を追求していきたいと願っている。
 10月の上海訪問から帰って、すでに1ヶ月あまり、以上に記してきた話とビデオ記録をTOAFAEC定例研究会でも報告した。また関心をもってくれそうな友人たちに紹介してきた。みな一様に「ほんと?」「その図書室は実際にオープンしたの?」と聞き返す。
 「ほんとだ!」「これからまずは5ヵ年計画ぐらいで充実したものにしていきたい」と協力を求めてきた1ヶ月であった。
 そんな経過のなかで、あらためて日本側の類似の東アジア「国際交流」資料室のようなもの、同時にTOAFAEC 資料室にもなるような空間、をどこかに作れないものかと考えざるをえなくなってきた。思案投首!
  現在まで和光大学・小林研究室(1995年以前は東京学芸大学・研究室)がその機能を果たしてきた。1980年以降に収集してきた沖縄奄美研究資料、「沖縄社会教育史料」全7冊、「東アジア社会教育法制」の資料、識字調査関連資料、そして『東アジア社会教育研究』保存分等のダンボールが山づみになっている(約20箱)。
 また沖縄・韓国や、台湾を含む中国各地から贈られた資料、収集してきた文献などのコレクションもある。これらをどこかに展示できないか、退蔵資料を公開し活用できないか。来年3月、和光大学を退職するにあたって、いま研究室に置いているこれら資料はどこかに動かさなければならない。そういう個人的な事情も重なって、頭の痛い毎日だ。なにかいい智恵はないだろうか。
 韓国の畏友・黄宗建さんは、明知大学を退職するにあたって、韓国平生(生涯)教育研究所を設立し、誰かの援助を得て、ソウル市江南のある1室で研究活動を継続された。親友の金済泰牧師が同室で机を並べておられた。ここ2年会わないが、その後はどうされているだろう。
 日本ではどうか。とくに東京・川崎など首都圏ではどうだろう? そんな可能性はないだろうか、ないだろうな、などとビールを飲みながら、考えこんでいる。
 実は、1995年春・東京学芸大学退職時に、諸経費がたかい東京はあきらめ、福岡の隠れ家(油山)に書庫を建てて、蔵書の主要部分は運びこんである。その際、沖縄研究資料も大部分は移してしまった。今回も、東京・首都圏でいい案がなければ、やはり福岡に移動するほかないかもしれないな、と考えている。
 しかし、本・資料は保存できるにしても、実際の研究活動に常時利用するというわけにはいかぬ。なかには面白い文献資料もあり、これを退蔵させないで、いつも関心ある人たちの目にふれる地点で活用していきたいのである。そんな拠点があれば、また新たな資料が集まり、横のネットワークも結ばれ、文字通り東アジア社会教育の研究交流“ひろば”となる可能性も拡がっていくだろう。
 上海の風に加えて東京・川崎など首都圏にも、風を吹かせていきたいものである。
                           (公民館の風232号)

           
(8)続・上海の風8−2002上海訪問記録→■

「小林国際交流閲覧室」の前で (大学図書館1階、20031121)
 左より矢久保・小松(日本・松本市).王鴻業(院長)、伊藤(川崎)、小林、徐熾強(党書記)、袁允偉(副院長)、










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