小林文人・島袋正敏 編
 
『おきなわの社会教育−自治・文化・地域おこし』
 (エイデル研究所、A5版、304頁、3200円)

 *沖縄・研究・交流(1) →■



■<「おきなわの社会教育」刊行へ向けて>           
 このたび10年来の思いがかなって、ようやく『おきなわの社会教育』の本が出来上が
ることになりました。かって『民衆と社会教育−戦後沖縄社会教育史研究』(エイデル研究所、1988年、平良研一と共編)をつくりましたが、アメリカ占領下の社会教育政策・行政の歴史研究が中心、しかもすでに絶版で手に入りません。
 この仕事をベースにしつつ、その後、現実にいま動いている沖縄の社会教育の実践・運動に焦点をあてて、その独自性と活力を画きだしてみたい、という思い。この間には、島袋正敏・中村誠司をはじめとする名護の皆さんとの深い交流があり、1995年前後にも(東京学芸大学の退職記念として)、ともに本をつくろうという試みがありました。名護の方では,実際に原稿を書き始めた経過もあったようです。このときは、それ以上具体化しませんでした。
 そして今年夏の社会教育研究全国集会(社会教育推進全国協議会、名護・実行委員会主催、第42回)が名護で開かれることになりました。沖縄で全国集会を、というのも積年の課題。この10年来の経過については、また別に書くことにして、会場を引き受けることを(那覇ではなく)名護が決断して確定。これを好機に、エイデル研究所の理解を得て、これまでにない沖縄社会教育の本づくりが具体化していったのです。
 ちょうど1年の作業でした。ほとんど毎月、名護の地で編集会議を開いてきました。8月の全国集会に間に合うように刊行するのでなく、集会の準備過程で活用してもらえるよう、5月刊行が最初の目標。およそ2ヶ月の遅れではありますが、依頼した執筆者約70人が一人の脱落者もなく脱稿し(版元・エイデルも驚いている)、校正・索引づくりの作業を終えて、7月10日、めでたく刊行の運びとなりました。
 以下に、その目次総覧を掲げさせていただきます。執筆者はもちろん、ご協力いただいた多くの皆さま、有り難うございました。(小林文人、2002年7月「南の風」記事)

【目次・執筆者一覧】

まえがき  編者
第1章 沖縄戦後史と社会教育実践―その独自性と活力―  小林文人
第2章 琉球政府社会教育行政の歩みと沖縄県生涯学習施策の展開  大嶺自吉
第3章 集落(字)公民館
《はじめに・解題》沖縄の集落(字)公民館  松田武雄
・字公民館がとりくむ社会教育と地域おこし―金武町並里区公民館の事例から― 嘉数義光
・都市の中の地域おこし―那覇市石嶺公民館の経験から―  山下 恒
・ユイマールでできた手づくり公民館  源河朝徳
第4章 公立公民館
《はじめに・解題》公立公民館の展開―集落民館との関係をふまえて―  小林平造
・読谷村中央公民館と地域づくり  池原栄順
・公立公民館の地域に果たす役割―地域で学び、地域の文化を創造する― 下地達男
第5章 祭り・芸能の継承
《はじめに・解題》祭りと芸能  島袋正敏
・地域で祭りを継承すること社会教育と地域おこし―「屋部の八月踊り」 比嘉 久
・多良間の八月踊り――場がもつ意味  小橋川共男
第6章 地域史・字誌づくり
《はじめに・解題》沖縄の地域史・字誌づくり  中村誠司
・平良市における市史づくり  仲宗根將二
・読谷村楚辺の字誌づくり  村山友江
・字誌―その普遍性を求めて  末本 誠
第7章 青年団活動
《はじめに・解題》沖縄の青年団運動と地域的・民族的アイデンティティの獲得 小林平造
・浦添市内間青年会における伝統の創造  山城千秋
・地域に生きる名護市青年団やんばる船  照屋秀裕
・石青協の地域青年文化づくり  宮良 操
・奄美・戦後初期  上野景三
第8章 環境問題への取り組み―海・川・山とくらし―
《はじめに・解題》沖縄県における環境問題への取り組み  寺田麗子
・リュウキュウアユの住む川の住民運動―源河川にアユを呼び戻す会の活動 島福善弘
・多様なやんばるの自然  平良克之
第9章 図書館・文庫活動
《はじめに・解題》沖縄の図書館と文庫活動  中村誠司
・日本最南端の赤瓦の情報センター石垣市立図書館  内原節子
・みんなの図書館、めぐりあって膨らむ夢  上江洲ハツ子
・名護市大中ひまわり文庫の活動  幸地清子
・与那国おはなし館文庫活動について  田頭恵子
第10章 地域博物館の動き
《はじめに・解題》 地域博物館・資料館活動  島袋正敏
・名護の博物館づくり  島袋正敏
・今帰仁村歴史文化センターの動き  仲原弘哲
・新沖縄県平和祈念資料館  保坂廣志
・南風原文化センター・「場」をつくり「場」がつくられる  平良次子
・石垣市立八重山博物館  石堂徳一
第11章 文化と地域交流
《はじめに・解題》シマ・島の文化的ひろがりろがり  山城千秋
・与論高校美術部の活動―与論から沖縄やんばるへ、そして世界へ― 赤崎隆三郎
・我がまちを描く高校生たちの取り組み  島袋正敏
・人形劇団「かじまやぁ」は元気だ  桑江純子
・石垣市の地域間文化交流  宮良 操
第12章 文化ホールの展開
《はじめに・解題》文化ホールの新たな展開  小林平造
・新たな学びの場づくりをめざして―勝連発!新世代人づくりの法則―  平田大一
・創造する地域文化空間の最前線にて ―佐敷町シュガーホールの活動― 渡名喜元久
第13章 沖縄の女性たち
《はじめに・解題》沖縄戦後史と女性たちの取り組み  名城ふじ子
・ライフスタイルの変化とジェンダー  宮城晴美
・沖縄の女性運動の流れを変えた「うないフェスティバル」  源 啓美
・「沖縄女性史を考える会」のこと  比屋根美代子
第14章 長寿社会の活力
《はじめに・解題》沖縄の長寿社会の活力  島袋正敏
・やんばるのお年寄りと老人クラブ活動   長浜宗夫
・底仁屋区・天仁屋区の福祉推進員会活動  具志堅均
第15章 教育隣組・子ども会の活動
《はじめに・解題》教育隣組・子ども会の誕生と展開  嘉納英明・平川留美
・教育隣組・子ども会活動の歩みと地域教育文化活動の新たな創造  嘉納英明
・読谷村座喜味の子供文庫と子供会活動  喜友名昇
・宮古島の学童クラブ実践 ―島の子どもと東京の若者の交流―  立柳 聡
第16章 戦争・基地と平和学習
《はじめに・解題》沖縄社会教育における平和学習とその課題  平良研一
・復帰後も変わらない政府の米追従政策 ―1フィート運動を通して― 福地曠昭
・沖縄平和ネットワークと平和修学旅行  村上有慶
・「沖縄戦の図」と佐喜眞美術館について  佐喜眞道夫
・高校生とともに考えるやんばるの沖縄戦  岸本一健
・平和教育から「平和を創る学び」の創造へ―北海道から沖縄への思い― 内田和浩
第17章 地域おこしと学校
《はじめに・解題》沖縄の学校づくりと地域おこし  太田政男
・学校からの「地域づくり」  新崎和治
・東京からみた沖縄の地域と学校  内田純一
第18章 地域の保健と福祉、NPO活動
《はじめに・解題》沖縄の地域保健と地域福祉  上地武昭
・読谷村の地域福祉活動  上地武昭
・自立と納得のいく社会参加への挑戦 ―「ふれあいセンター」の活動―  永山盛秀
・ピア・サポート活動と実践 ―沖縄脊髄損傷者連合会の取り組みから―  上里一之
・那覇市におけるNPO活動支援について  具志真孝
・NPO活動の新しい可能性 ―NPO法人沖縄児童文化福祉協会の活動から―比嘉佑典
第19章 地域と大学
《はじめに・解題》「大学拡張・開放」の歴史と展望  平良研一
・沖縄大学「市民大学」の足跡と課題  平良研一
・名桜大学の公開講座活動  中村誠司
・琉球大学生涯学習教育研究センターを中心とする開放の試み  背戸博史
《付論》沖縄の生涯学習・社会教育、その課題と展望  堂本彰夫
第20章 明日へのメッセージ
沖縄から社会教育を考える ―まとめにかえて  平良研一
資料編
(1)琉球政府とUSCAR  鳥山淳
(2)戦後沖縄社会教育年表
(3)関連文献一覧
(4)本書収録レポートの団体・施設連絡先一覧
(5)沖縄の社会教育実践――本書収録事例マップ
索引 あとがき 執筆者一覧




◆小林文人・島袋正敏・共編『おきなわの社会教育』

  【まえがき】
 沖縄の社会教育は、戦争から戦後への厳しい戦後史を背景に、日本の他のどの地域も経験したことがない地域史を刻んできた。その道程で「おきなわの社会教育」としての独自の特徴を形づくってきた。
 これまで、かっての琉球政府や復帰後の沖縄県によって行政記録等が多く出され、また最近では社会教育の関係分野について自治体レベルでも興味深い資料や報告類がまとめられている。しかし、「おきなわの社会教育」全体を俯瞰し、その豊かな拡がりと独自の展開を一望できるような刊行物はまだ世に出ていない。
日本の社会教育のなかに位置づけるとどうだろう。「おきなわの社会教育」はその“沖縄らしさ”の故に、日本各地の社会教育との質的な交流や相互評価はこれまであまり深まりをみせなかったように思われる。たとえば、本土に統計上一万八〇〇〇館あまり存在する公民館の関係者も、沖縄の八〇〇をこえる字公民館(文科省統計に含まれていない)については充分の認識をもちえていない。これを「遅れた形態だ」と一蹴してしまう場合もないではなかった。字公民館のかけがえのない歴史と、そこを拠点とする人々の協同(ゆいまーる)のエネルギーを知るものにとっては、なんとも残念なことであった。

 私たちは、この十数年来、沖縄各地からの事例を収集し、相互のジンブン(智恵)を寄せ合って、「自治・文化・地域づくり」の視点を基本とする、これまでにない『おきなわの社会教育』の一冊をまとめることはできないかと夢みてきた。折しも二〇〇二年夏には、第四二回社会教育研究全国集会が名護で開かれることになった。それに向けて具体的な編集作業を開始し、約一年の格闘を重ねて、今日ようやく本の刊行を迎えることができたのである。こんなに嬉しいことはない。
 私たちの願いに応えて、それぞれの執筆を担当していただいた七〇名ちかくの方々、資料作成や編集実務等に参加していただいたすべての方々に、まずは深く感謝したい。
 私たちといっても、編者二人だけではない。実質的な編集委員会は、平良研一(沖縄大学)、中村誠司(名桜大学)、小林平造(鹿児島大学)、それに編者二人を加えて五人であった。昨年夏の新潟の全国集会の夜から始まって、その後ほとんど毎月、主として名護の地で編集委員会を開いてきた。

 編集の過程で、私たちが話し合ってきたことは、主として次のようなことであった。
一、内発的発展論の視点をもって、沖縄独自の実践に着目する。
二、地域・草の根からの取り組みを重視する。
三、固有の社会教育実践レポートを中心とするが、広く文化、環境、福祉、集落、基地問 題等にかかわる動きも視野にいれる。
四、沖縄本島だけでなく、宮古・八重山、さらに奄美(与論)からの報告も求める。
五、実践者や地域の活動家を主な執筆者とし、研究者がこれに協力する。
六、日本や世界の社会教育へ向けての沖縄からのメッセージを試みる。
七、二〇〇二年夏・社会教育研究全国集会(名護)に合わせて刊行する。 

 本書執筆の過程では、報告に関連する写真を紙数の許す範囲で、たくさん盛り込もうということになった。文章と画像を通して、サンシンや太鼓の音、祭りのさんざめき、オバァの笑い声、風のそよぎ、潮の響き、などが聞こえてくるような本づくりを目指した。私たちの思いが、どの程度まで実現できたのだろうか。
 もちろん、多くの課題を残していることは言うまでもない。なによりも名護を拠点に編集作業をすすめた関係で、収録できた報告・写真については、やんばるの比重が大きくなっている。この地域的偏りだけでなく、体育・スポーツ、多文化共生への取り組み、障害者問題についての報告など、充分な収録が出来なかった課題も残されている。一冊の限られたスペースのなかに凝縮して、やや欲張りに多くの項目を盛り込もうとしたために、個々の報告が充分に展開されなかった部分もないわけではない。
 それにしても、おきなわ社会教育の戦後史には、なんと多くの実践・運動が蓄積されてきたことか。その地域的な拡がり、それぞれの個性的な取り組み、せまい社会教育の枠をこえる多彩な展開、にあらためて圧倒される思いであった。

 編集・執筆依頼にあたっては、高嶺朝勇、渡慶次賢康、又吉英仁ほかの方々にお世話になった。また、写真については、故平良孝七、小橋川友男、比嘉春光各氏および島袋正敏の作品を多く収録させていただいた。いちいち特記していないが、御礼を申しあげる。
 本書の刊行については、エイデル研究所の理解と援助がなければ実現しなかった。とくに新開英二氏と実務にあたられた長谷吉洋氏に謝意を表したい。
         二〇〇二年七月           編者 小林 文人
                                   島袋 正敏



 第一章 沖縄の社会教育実践 ーその独自性と活力


 一、戦後沖縄社会教育の地域史
 一九四五年・沖縄戦が終結し「戦後」が始まってすでに六〇年ちかく、一九七二年の日本復帰から数えて、今年はちょうど三〇年の記念すべき年にあたる。
この間、戦後沖縄の社会教育はどのような歩みをたどってきたのだろうか。またその過程でどんな特質をかたちづくってきたのだろうか。
 日本各地の社会教育にはもちろそれぞれ固有の歴史があり、どの地域もその地域なりの特徴をもっているだろう。しかし、沖縄ほど悲惨な戦争と戦後史を経験し、その渦中で独自の社会教育の展開をとげてきた地域は他に例をみない。平均的な戦後日本社会教育史とはまったく異なる地域史を刻んできた。沖縄の戦争体験の厳しさ、そして戦後史の道程もまことに痛苦にみちたものであった。しかし、それらの激動の歩みのなかから、沖縄独自の社会教育実践も胎動してきたといえる。
 沖縄は、まず琉球王朝以来の独特の社会組織と豊かな文化の伝統をもっている。一八七九(明治十二)年いわゆる「琉球処分」以降の「大和世」の政治的統制と差別と貧困の歴史がそれに重ねられてきた。そして何よりも一九四五(昭和二十)年の悲惨をきわめた沖縄戦が壊滅的な打撃を与えた。
 戦後沖縄は、過酷な戦争体験と灰燼と絶望からの出発であった。しかも戦後が始まった時点から、日本領土から政治的に分断され、アメリカによる軍事的占領と二七年間にわたる異民族による植民地統治の歴史を強いられてきた。東西対立とアメリカ極東戦略のもとでの広大な基地の拡張、軍用地の強権的接収、基地の恒常化と効率化を優先する政治と経済、激発する基地犯罪や人権無視の司法や行政、といった苦難の歩みが続いた。しかも日本復帰後においても基地の比重は持続し、国家的な日米安保・基地保持政策のもと沖縄経済の脆弱な体質は現在も変わっていない。
 しかし他方、このような過酷な戦後史の局面において、それに呻吟しつつ、それを克服しあるいは抵抗していこうとするさまざまの活動がみられた。住民自らの生への格闘があり、異民族統治に対抗する民衆の諸運動があった。そこにはまさに戦後沖縄の地域史というにふさわしい展開がみられた。たとえば、戦後困窮のなかからの集落復興(シマおこし)、島ぐるみ土地闘争、教育四法(社会教育法を含む)民立法運動、祖国復帰運動、それに連動する青年会活動、あるいは自由・人権・平和に関する学習運動、地域史をつづる(字誌づくり)運動など。これらこそ他の地域にみられない沖縄独自の戦後史の断面というべきであろう。そして、そのような民衆レベルの諸運動とかかわって、沖縄の社会教育の展開があり、実践・運動の躍動があったのである。
 その意味で、沖縄の社会教育は、単に行政社会教育の枠組に限定してみるのでなく、広く戦後史の展開のなかに位置づけ、集落の自治や祭祀や文化芸能の諸活動あるいは民衆諸運動の展開にも視野を拡げて捉えていく必要がある。
 
二、戦後史に展開する社会教育、その特徴
 まず概括的に、戦後沖縄社会教育の特徴的な歩みを考えてみよう。日本各地の社会教育の歩みと対比して、とくに沖縄ではどのような展開がみられたのか。重要と考えられる特徴を五点ほどあげてみる。
一、それはすべてゼロからの出発であった。戦前的遺産のすべてを消失し、瓦礫と荒廃のなかからの取り組みであった。その道程はきわめて厳しく、他面それだけに、住民自身の自立への志向、地域からの創出、運動的な拡がり、といった努力が必然的に求められてきた。
二、生産・生活の復興、占領下特有の防衛と抵抗、そして自治や祭祀等の基礎単位として、集落(シマ、字、部落など)の役割が重要であった。集落は伝統的な古い共同体的な側面をもちながら、同時に、人々の暮らしの協同や相互扶助の網の目であり、自治と地域文化(芸能)の基盤であり、子ども・青年をはじめとする年序活動の母体であり、現代的課題に立ち向かう新しい結合や連帯の組織として機能してきた。他面、行政の末端機構としての側面ももっていた。
 沖縄の集落について、共同体的な古さやその「残存」形態が指摘される場合がある。しかし同時に住民の自治・連帯の組織として再生され現代的に蘇生してきた側面が見落されてはならない。そのよう集落活動の中心に「公民館」(旧「村屋」)がつねに存在し活動してきた。
三、戦後混乱期では行政の公的サービスはきわめて弱く、またアメリカ占領下においては自治体(琉球政府、各教育区)による公的社会教育の条件整備水準はこれまた低位におかれてきた。地域社会教育財政・経費の分析によると、日本本土と比較して沖縄の「住民一人当り社会教育費」は、48%(一九六〇年)ないし27%(一九七一年)にとどまっている(巻末文献、小林・平良編『民衆と社会教育』参照)。占領下においては沖縄側の公民館、図書館等の公的施設の建設は大きく遅れ、その本格的な整備は一九七二年の日本復帰以降のことであった。
四、アメリカ統治下において社会教育行政の系統は、一つに琉球政府による施策・事業の流れがあったが、他方で、アメリカ民政府(USCAR、実質的には軍政府、巻末資料参照)による占領政策としての文化政策、さらに琉米文化会館・親善センター等の施設、あるいは高等弁務官資金による宣撫工作的な援助(たとえば公民館建設等)など、占領者による直接的な施策の流れがあった。この琉球政府とUSCARの二つの流れは、日本の他の地域に見られない沖縄社会教育の構造的な特徴となってきた。同時に、占領権力・行政側からの上からの社会教育・文化政策と、それに対抗する下からの民衆諸運動という二重構造とも複雑に関連していた。
五、教育四法民立法運動や教公二法阻止闘争だけでなく、沖縄子どもを守る会の活動、さまざまの地域青年運動、婦人会やPTAの活動など、社会教育にかかわる諸運動は、戦後沖縄民衆運動の潮流の一角を占めてきた。同時に、政治、基地、環境、女性、福祉等をめぐ諸運動のなかで取り組まれた教育・学習・文化運動は、「大衆運動の教育的側面」(枚方テーゼ、一九六三年)としての社会教育の性格を含んでいた。たとえば、東西の冷戦構造、アメリカの極東戦略、ヴェトナム戦争など世界史のなかの沖縄についての自己認識、戦争と基地をめぐる論議による「命こそ宝」意識の形成など、さまざまの課題を契機とする質の高い学習・文化活動と意識変革が、沖縄の青年運動や労働運動のなかで取り組まれてきた事実はそのことを物語っている。そして、これらと拮抗し矛盾しあう関係で社会教育行政の体質もまた形づくられてきた側面がある。

 三、琉球政府時代の社会教育
 戦後沖縄の社会教育行政は、歴史的に大きく二つの段階に分かれる。言うまでもなく一九七二年日本復帰を画期として、それ以前のアメリカ占領下・琉球政府の時代と、復帰後の沖縄県・各市町村による社会教育行政の時代である(巻末年表参照)。制度・法制上では、両者の間には大きな断絶があった。しかし復帰前の琉球政府時代に形成されてきた社会教育の体質や特徴は、復帰後において変容しつつ継承され、その後の沖縄社会教育の展開に影響を与えてきている。
 復帰前といっても、さらにいくつかの時期に分かれる。戦後直後から琉球政府にいたる行政機構の変遷は複雑な経過をたどった。沖縄諮詢委員会(一九四五年)、沖縄(宮古、八重山、奄美)民政府(一九四六年)、沖縄(同じく各島)群島政府(一九五〇年)、琉球臨時中央政府(一九五一年)を経て、琉球政府の成立(一九五二年)にいたる。この間の行政機構の詳細は次章に詳しい。
 戦争直後の社会教育は、圧倒的なアメリカ軍政支配の統制下で始まった。社会教育に関する最初の記述は占領下収容所の記録のなかに出てくる。一九四五年、まだ南部では戦争が終結していない時期の石川収容所において「米軍政府ノ諮詢ニ応エテ委員制ヲ設ケ委員長ノ下ニ十部ノ部門ヲ置キ部落民ノ治安維持」に当たったが、初等教育部や配給部、治安部等とならんで「社会教育部」が組織されていた(琉球政府文教局『琉球史料』第三集)。沖縄社会教育の戦後史は鉄条網のなかから始まったといってもよい。
 占領支配下では社会教育・成人教育は政策的に重視された。沖縄民政府文教部機構のなかで「成人教育課」のみははアメリカ軍政府直属となっている(一九四八年)。同成人教育課は「成人学校規定」(一九四九年)を発しているが、すべて軍政府の指令と認可に基づく施策であった(戦後沖縄社会教育研究会『沖縄社会教育史料』第一集)。占領政策としての成人学校は一定の普及をみたが、沖縄の土壌に定着することなく次第に衰退していく。それと対照的にその後の沖縄社会教育の主要な柱として展開していくのが、日本本土から海を渡って導入された公民館の構想であった。
 一九五二年・琉球政府(文教局社会教育課)の出発によって、全琉球(一九五三年までは奄美を含む)規模の社会教育施策が開始されることになる。その主要施策として中央教育委員会決議「公民館設置奨励について」(一九五三年)が示され、これが沖縄における公民館制度の起点となった。日本の公民館設置に関する次官通牒(一九四六年)から七年の歳月が経過していた。内容的には本土の次官通牒・寺中構想を基本とし、これを圧縮したかたちになっている。占領下において、日本国憲法はもちろん教育基本法制(社会教育法を含む)も適用されない状況において、初期公民館構想がどのように沖縄に伝播し普及していったのか。
 いくつかの証言からそのドラマを復元すると、戦後初期、同じ占領下にあった奄美(現職教員の密航を含む本土教育改革資料の導入、奄美社会教育条例に公民館を規定)を経由し、一九五〇年以降は直接に本土からの資料も加わり、琉球政府の初期施策として公民館構想が奨励されていく(前掲『沖縄社会教育史料』第三集、第四集)という経過であった。
 同「公民館設置奨励について」によれば、「公民館は区(市町村)教育委員会が設置する」と規定している。つまり制度上は公立公民館設置を基本型としていたが、当時の財政事情や地域の実態から、実際に普及定着していったのは(法律的には類似施設としての)集落公民館の形態であった。その後の琉球政府・社会教育行政施策もその方向で推進された。本格的な公立公民館の登場は、ようやく復帰間近かの一九七〇年(読谷村中央公民館設置)になってからのことである。
 他方、占領下ではアメリカ民政府直轄の琉米文化会館(那覇、石川、名護、平良、石垣、名瀬は五三年まで)が、図書館機能を併置した大型(都市型)公民館的施設として活発に機能した。また「沖縄の帝王」(大田昌秀)のポケットマネーといわれた米高等弁務官資金によって、多くの集落で字公民館の建設がすすめられてきた。占領下宣撫工作の意図をもつ場合が少なくなかった(前掲『沖縄社会教育史料』第五集)。
        *「高等弁務官資金による公民館建設」の写真挿入
 ところで社会教育をめぐる法制はどのような経過であったのか。概略だけ述べれば(詳細は次章)、初期の民政府・群島政府時代に教育基本法(社会教育に関する一条を含む)が制定された時期があったが、社会教育についての具体的な下位法はなかった。占領下においては、アメリカ側の布告・布令・指令等と、沖縄側の立法院等による法令(いわゆる民立法)の二つの系統が拮抗するが、前者が後者の上位法規の地位を有していた。教育法令としては、布令六六号・琉球教育法(一九五二年)、布令一六五号・教育法(一九五七年)があり、社会教育についての初めての具体的条項は、皮肉なことに、布令一六五号(同第十四章)に規定された。しかし、その翌年には、紆余曲折をたどった教育四法民立法運動によって、本土法を基本とする社会教育法が成立している。運動的な社会教育立法の貴重な事例である。しかし法の理念と社会教育の現実との間には(公立公民館の未設置にみられるように)矛盾があり、虚像としての法理念と地域実像との乖離を含んでいた。
 社会教育職員制度についてはどうか。戦後初期から民政府等に文化主事あるいは社会教育主事が置かれた経緯があるが、法制的基礎をもって社会教育主事の整備が進められるのは琉球政府社会教育行政によってである(一九五九年「社会教育主事の職務及び免許に関する規則」等)。その実態は、社会教育独自の専門職制度というより、学校教員からの登用、すなわち派遣主事としての各教育区への配置(一九七〇年当時で五五人)であった。そして日本復帰が近づくと「ほとんどが学校復帰」(沖縄県教育委員会『沖縄の戦後教育史』)していった。市町村・自治体それぞれの社会教育主事の配置ならびに社会教育職員集団の形成は、復帰後をまたなければならない。

 四、復帰後の沖縄社会教育の展開
 沖縄型ともいうべき社会教育実践の主要な基盤となってきた集落(字、部落)公民館の推移をみると、復帰後はさらに数を増している。沖縄県資料(前掲『沖縄の戦後教育史』)によれば、一九五五年一〇九館であったものが復帰直前一九七一年には六四五館(公立公民館はこの年実質一館のみ)と増加している。さらに復帰後四半世紀余を経過して、現在、約八〇〇館といわれているが、県「公民館関係職員研修資料」(一九九七年度)巻末リストを集計してみると、八九五館(集落センター等も含む)を数える。本書の公民館の章に報告されている大添公民館(読谷村)のように、近年さらに新しい公民館づくりの動きもみられるのである。
 ちなみに公立公民館の設置状況は、二〇〇〇年度「要覧」(沖縄県教育庁生涯学習振興課)によれば、五三自治体で、本館(中央公民館)四〇、地区館五七、計九七館、である。しかし地区館といっても実質は集落公民館の場合が多く、公立公民館は上記・本館(中央公民館)に限定しておいた方が事実に近いと思われる。中央公民館をまだもたない自治体は一三(二五%)、したがって全体の四分の三は公立公民館を設置してきたことになる。
 復帰時点で沖縄の社会教育は、晴れて教育基本法・社会教育法さらに図書館法・博物館法が適用され、占領下に堆積した社会教育の格差を是正し、公的施設の遅れを取り戻し、「本土並み」をめざすことが課題として強調された。その後は、公立公民館もある程度の設置がすすみ(しかし設置率は全国最下位グループ)、とくにこの一〇年来、都市部においては公立図書館の建設が大きく前進した。近年では「本土並み」に生涯学習政策が導入され、たとえばモデル市町村、長寿学園、生涯学習フェスティバルなど、新しい施策が取り入れられてきている。
 ところで、本土並み、本土化とはいったい何を意味するのだろうか。たしかに、社会教育の公的条件整備の遅れを「本土並み」に是正していく課題はあるだろう。しかし「本土」水準が高いかどうか検討を要するところであり、また本土自体にも著しい地域格差が介在している。もともと地域を舞台に展開する社会教育実践は、本来的に地域的であり、その地域差はむしろ当然であって、それと表裏の関係で地域の個性も胚胎する。そこに内発的な発展の方向も秘められている。その意味で、埋められるべき格差と、発展させるべき地域個性が混同されてはならず、腑分けをしながら沖縄社会教育の独自性に着目していく必要があろう。 
 占領下沖縄の社会教育行政の特徴として、相対的に「中央集権的であって、地域分権的自治的な社会教育は未発」であったことが指摘されている(前掲『民衆と社会教育』)。占領権力と対峙していく上で琉球政府の役割は重要であったし、そのブランチとしての連合教育区(社会教育主事を配置)を通しての行政の流れが、上から下への社会教育の体質をつくってきた側面もある。他面、それに対応し対抗して、集落・公民館の自治と文化の歩みも刻まれてきた。
 復帰後にそのような状況は当然大きく変化した。市町村の自治分権の力量は相対的に拡大した。社会教育に関わっても、自治体としての計画編成、専門職(社会教育主事ならびに公民館主事、図書館司書、博物館学芸員等)の配置、施設設置と職員集団の形成などが、不充分さを含みつつ徐々に進行してきた。復帰後三〇年、自治体それぞれの社会教育と実践の力量が静かに胎動し蓄積されてきている。そして、那覇市など都市部では状況は異なるにしても、多くの自治体において社会教育体制の地域基盤として集落公民館が大きな役割を果たしてきた。
 しかし復帰後の三〇年は、「本土並み」への格差是正に止まらず、「本土」からの沖縄振興特別政策が大きな勢いで流れ込み、社会教育・生涯学習の施策も(一定の近代的条件整備を伴ないつつ)上から下への流れを増強してきた歳月でもあったのではないか。
そのような上からの施策と地域自治的な住民活動とが、いま新たな矛盾に直面している。たとえば各自治体の公立中央公民館と集落公民館活動との不協和な関係などはその一面であろう。沖縄の社会教育ほど独自な歴史を歩み、個性的かつ自治的な特質を内在してきた地域は他にない。これからどのような道を歩んでいくのか。いまあらためて、そのかけがえのない歴史を掘り起こし、固有の地域と文化に立脚して、下からの住民自治的な社会教育の新しい潮流を生みだす視点を忘れてはならないだろう。

 五、沖縄からのメッセージ

 沖縄の社会教育について、たしかに独自性はあるが、全体的に遅れている、その前近代的な性格、集落公民館はムラ共同体の古いかたちの残存、などという評価がないわけではない。近代化過程のなかで必然的に「旧ムラ秩序は衰退」といった仮説を前提にすれば、ムラの集落公民館はそのうち姿を消すことにもなってしまう。
 しかし、そのような捉え方で果たしていいのであろうか。日本各地の一般的状況として集落の解体がすすみ、自治公民館や住民自治組織が形骸化していく傾向があるのに対し、なぜ沖縄では集落公民館がその数を増し、活発な地域活動が展開しているのだろう。
 そこでは、戦争や占領や基地等をめぐる歴史体験をもち、さらに現代的に生起するさまざまな課題を契機として、同じ地域でともに生きていくために、集落の自治と文化を再生し社会協同(ユイマール)の関係を新しく蘇生させていこうとする営みが重ねられてきた。その背景にはたしかにムラの古い共同的社会組織や地域の伝統的文化・芸能に支えられるところがある。しかしそれをもって直ちに古い組織の残存とする見方は当たない。伝統的なものを媒介としつつ、むしろ新しい協同と文化の再生、その地域的創造と社会的挑戦、と捉えておく必要があるだろう。
 戦後占領下の集落公民館の歴史は、過酷な体験と厳しい環境のなかから集落を復興し自治を再生し暮らしを豊かにしていこうとする歩みであった。そのような集落公民館を基盤とする社会教育は、上から与えられるものとしてではなく、住民自らの活動としての性格を歴史的に獲得してきたとみることができる。もちろん、集落によって実態は多様であって、なかには停滞や空洞化の事例も否定できないが、総体として、日本各地の行政下達的な「自治」公民館等とは様相を異にする、沖縄独自の地域活動と集落の活力が生みだされてきているところに注目しておきたい。
 戦争・占領下の苦難の歩みから復帰後三〇年を経た今日、沖縄の社会教育はいまようやく沖縄型ともいうべき独自なイメージを形づくってきているのではないか。それは沖縄固有の特質をもちつつ、日本の社会教育に向けて、静かなメッセージを発しているようにも思われる。これからの沖縄社会教育の展望を画いていくために、歴史的に蓄積されてきた沖縄型のイメージを吟味し評価し、さらに発展させていく必要があろう。
 本書各章の実践報告には、それぞれのテーマに即して、興味深い事例があり、個別のメッセージが含まれている。それは各章の課題にゆずるとして、ここでは全体的な観点から、沖縄型の社会教育に内包されるメッセージを、問題提起として七点ほど取りあげておく。
一 社会教育・生涯学習の本質は住民の生きる意欲と結びついた自主活動であり、住民こそが社会教育実践の主体である。
二 集落(字、シマ、部落)は住民の暮らしの地域単位であり、その自治と文化を再生し発展することと結びついて、集落公民館の重要な役割がある。
三 生産・生活・政治・文化などの諸課題に取り組むさまざまの住民活動、民衆諸運動のなかに、社会教育的(教育・学習・文化等)実践が胎動してきた。
四 地域の社会教育実践は、、住民個々の期待に応えると同時に、地域おこし運動と結合し発展していく側面をもっている。
五 公的な社会教育行政や公立公民館等の施設は、住民の取り組む学習や実践に奉仕(サービス)し、その豊かな発展に寄与し、それに必要な諸条件を整備していく責務がある。
六 社会教育関連の職員は、公的機関だけでなく、住民の自治組織・集落にも配置される経過があった。そのなかで職員たちは専門的力量をみがき、住民に寄り添い、住民活動の充実のための“接点”“触媒”となり、“いぶし銀”のような役割を果たしてきた。
七 地域の社会教育にはそれぞれの地域史があり、その蓄積のなかから地域社会教育の特質が形成されてきた。その歩みを記録し吟味し、発展と展望の方向を模索する上で地域史(字誌)づくりが独自の意義を担ってきている。
 
 六、沖縄社会教育に関する研究交流史
 沖縄社会教育についての研究はまだ充分の蓄積がない。とくに復帰前にはほとんど見るべき成果はなかった。アメリカ占領下という特異な時代の社会教育であり、重要な研究課題が少なくないにもかかわらず、当時の琉球政府・アメリカ民政府(UACAR)関係の第一次資料は歳月の経過のなかで風化し、散逸しつつあるというのが現状である。
 そのなかで、沖縄市町村長会編『地方自治七周年記念誌』(一九五五年)や占領初期の原資料を復刻刊行した琉球政府文教局『琉球史料』第一〜十集、一九五八〜六四年)は貴重な記録となっている。復帰後になると、沖縄県教育委員会『沖縄県史』(全二四巻、一九七七年完結)、『沖縄県史料』(第一巻、一九八六年刊行開始)、『沖縄の戦後教育史』同『資料編』(一九七七〜八年)、石垣市教育委員会等『戦後八重山教育の歩み』(一九八二年)、さらに沖縄県公文書館所蔵(巻末参照)の社会教育関係資料等が、それまでの空白部分を埋めてきた。
 戦後沖縄・社会教育史についてのはじめての研究的記述は『現代社会教育事典』(平沢・三井編、進々堂、一九六八年)所収「沖縄」の項(平良研一執筆)であろう。一九七〇年代に入ると、玉城嗣久による占領下「沖縄の社会教育の変遷」についての研究(のちに同『沖縄占領教育政策とアメリカの公教育』東信堂、一九八七年、刊行)がはじまっていたが、東京グループとの交流はまだなかった。
 国立教育研究所編『日本近代教育百年史』(社会教育編、第7・8巻、一九七四年)に沖縄についての記述が欠落したことへの自己批判から、戦後沖縄社会教育についての資料発掘と研究・実践の交流を意図して、筆者たちが「戦後沖縄社会教育研究会」(東京学芸大学社会教育研究室)を組織したのは一九七六年のことであった。翌年には、東京に呼応するかたちで、沖縄側で上述の玉城、平良、そして上原文一、喜納勝代、佐久本全、名城(当間)ふじ子、組原(比嘉)洋子、新城かつ也、上原美智子、上原好美等による「おきなわ社会教育研究会」が発足し、今日まで四半世紀にわたる研究・実践の交流が続いてきた。この間に両者は協力して文献資料・証言の収集にあたり、資料集『沖縄社会教育史料』(全七集、東京学芸大学、一九七七〜八七年)、『民衆と社会教育ー戦後沖縄社会教育史研究』(小林・平良編、エイデル研究所、一九八八年)を刊行してきた。また共同シンポジウムの開催、字公民館の調査企画、文部省科学研究費助成による地域調査等をすすめてきた。
 東京の研究会は、一九九五年、東アジア研究にも視野をひろげ、名称を「東京・沖縄・東アジア社会教育研究会」(TOAFAEC)とあらためた。その後毎年、年報『東アジア社会教育研究』(二〇〇一年、第六号まで刊行)を編集し、そのなかに沖縄に関する研究調査報告を収録してきた。一九九八〜二〇〇〇年にかけて(本書執筆の)末本誠、松田武雄、小林平造、上野景三、平良研一、中村誠司、比嘉佑典、内田純一等の協力を得て、文部省科学研究費による「戦後沖縄社会教育における地域史研究」調査を実施し、二〇〇一年には同タイトルによる研究報告書(代表・小林文人、和光大学)を刊行した。
              *東京・沖縄・研究会 in 名護、の写真(略)
 東京では、一九七六年の研究会発足以降、二〇〇二年現在までほとんど毎月定例の研究会が開催されてきている。今日にいたるまで東京と沖縄(那覇、名護)の研究交流はさまざまなかたちで継続され、両者が紡ぐ糸を経由して、若い世代を中心に大勢のヤマトンチュが訪沖し、沖縄社会教育に出会ってきた。今後もさらに息長く持続するだろうと思われる。両者の協力が契機となって本書の刊行が実現し、また二〇〇二年八月には、名護の地で、第四二回社会教育研究全国集会(主催・社会教育推進全国協議会、沖縄名護集会実行委員会)が開催されることになった。(小林文人)

東京・沖縄・東アジア社会教育研究会(TOAFAEC)ー名護、1998年1月ー前列に島袋・小林、


「おきなわの社会教育」出版記念パーティー(2002年7月13日、名護市)・全国プレ集会
左より小林平造、松田武雄、新開英二、小林文人、平良研一、島袋正敏、赤崎隆三郎の各氏




書評:宮崎隆志(北海道大学) 日本社会教育学会・2003

書評:渡慶次賢康氏
  (沖縄タイムス 2002年8月17日朝刊)

 小林文人・島袋正敏編『おきなわの社会教育−自治・文化・地域 おこし』
                           (エイデル研究所・3,048円) 
 沖縄社会の特異性を直視
 第42回社会教育研究全国集会が名護市で開かれるのを契機に、小林文人・島袋正敏氏編の「おきなわの社会教育-自治・文化・地域おこし」が刊行され、社会教育をはじめ各分野の関係者から注目されている。
 本書は二十章から成り、各章とも「はじめに・解題」が研究者によって執筆され、その章の成立、論点、課題等を解説し、そのあとに現在県内の社会教育の第一線で活躍している実践家の活動事例や関連リポートを取り上げ、理論と実践の一体化を図っている。
 その内容は、沖縄戦後史と社会教育実践、琉球政府社会教育行政の歩み、公民館、祭り・芸能、地域史・字誌づくり、青年団活動、環境問題、図書館・文庫活動、地域博物館の動き、文化と地域交流、文化ホールの展開、沖縄の女性たち、長寿社会の活力、教育隣組・子ども会の活動、戦争・基地と平和学習、地域おこしと学校、地域の保健と福祉、地域と大学、明日へのメッセージと、実に幅広い分野から論述されている。そして各章とも執筆者の筆力が高く、その行間から沖縄の社会教育に対する熱い思いが読み取れる。
 本書は、副題で示すように「自治・文化・地域おこし」を基本的視点におき内発的発展論として、基地問題等沖縄社会の特異性を臆することなく直視し、各地域のもつエネルギーを社会教育の活性化に結びつけ、沖縄の社会教育全体を俯瞰し、その特質を浮きぼりにしている。更に言葉が先行し、学級中心的で社会教育を学校化した既存の行政主導型の社会教育に一石を投じた著書ともいえる。
 1976年、東京学芸大学社会教育研究室で、小林文人教授を中心に「戦後沖縄社会教育研究会」が組織され、会員の20数年にわたる丹念なフィールドワークと研究の蓄積が本書の随所で発揮されており、その研究成果は県内外から高く評価されるであろう。
(渡慶次賢康氏、石垣市小・中学校校長、前石垣市社会教育委員会議々長, 元沖縄県社会教育主事)



論壇:岸本直也氏
  (沖縄タイムス 2002年9月19日)

○岸本直也:沖縄の社会教育−ネットワークづくりを活動に
 今年は沖縄が日本に復帰して30年の節目の年。この記念年に、第42回社会教育研究全国集会沖縄・名護集会が8月30日−9月1日の3日間、台風の余韻の中開催されました。
 「沖縄へスリサーサー、ジンブンをよせあって21世紀の自治・文化・地域社会を創ろう」をスローガンに全国各地から1000人を超えるさまざまな分野の社会教育に携わる方々、市民が手弁当でこの集会に参加されました。
 1945年に沖縄戦が終結してすでに60年近くが経過しました。沖縄は72年の施政権返還後の27年間、米軍の支配下におかれ日本国憲法、教育基本法、社会教育法などの外に置かれていました。しかし、さまざまな厳しい制約の中で多くの人々の努力によって新しい国民社会・文化を創造する社会教育活動が粘り強く展開し、発展してきたのだと思います。日本社会と比べると沖縄は特異な戦後を歩んできたのであり、社会教育においてもそうです。
 沖縄・名護集会においては、課題別学習会6つ、(1)地域の人材や社会教育施設を生かした平和教育の充実、(2)集落の自治と文化、(3)社会教育に何が求められているか−社会教育法「再改正」の動きを見すえて、などが行われました。また22の分科会、(1)「字」の伝統と現代の子どもの育ち、(2)若者の学びと文化、(3)あすをひらく女性の学習・活動・政策、などが開かれました。
 集会日程では、30日に与論との交流会や、名護市青年団やんばる船主催による市街地でのエイサー道ジュネーが市内6つの青年団250人の出演により生のエイサーが披露されました。31日は課題別集会、分科会、イチャリバチョーデー交流会、そして第13回・名護市青年エイサー祭りがドッキングし3000人の観客で埋め尽くされました。沖縄青年のエネルギーと地域社会とが密着した郷土伝統芸能が若者の手によって見事に観客を魅了、名護ニーセーターの存在感をアピールいたしました。
 また、沖縄名護集会に合わせ、実行委員会事務局長を務める名護市教育次長の島袋正敏、東京学芸大学名誉教授の小林文人の両氏によって、実践を踏まえた書『おきなわの社会教育−自治・文化・地域おこし』が刊行されました。
 本書は内発的発展論の視点で、沖縄独自の社会教育実践リポートを取り入れたもので、内容は環境、福祉、青少年活動、集落、基地問題にわたっています。また本島だけでなく宮古、八重山、奄美の実践者や地域の活動家と研究家が協力して視野も広く、各分野は奥深い内容です。
 社会教育、生涯学習は私たちの日常の場での学習・人づくり・地域づくりの活動であります。本集会で、それぞれ取り組んでいる活動を発表し合い、またジンブンを寄せ合って考え、議論と交流を深めました。集会を終えて、共に学び各自の力をお互いに育て合う人的ネットワークをつくっていくことにより、これからの活動につなげていければと思います。         (名護市東江5−4−6、名護市社会教育委員会議議長)



小林文人・いまから新しい歩みが始まる
     −名護全国集会の成功を祝って−
      (社会教育推進全国協議会「通信」)
               *南の風940号、2002年9月27日

 “沖縄で全国集会を”の願いが、名護の地で、今年ようやく達成された。集会開催を引き受け、その準備にあたり、集会を成功に導いた名護の皆さんに、まずは心からの感謝と敬意を表したい。
 いろんな思い出が心によぎる。沖縄と社会教育研究全国集会の出会いは、1977年夏、第17回集会(福岡)である。その前年に私たちの沖縄研究がスタートし、新しい出会いがあって、喜納勝代さん(久茂地文庫)はじめ5名の方が初めて全国集会に参加した。その後はほぼ毎年、沖縄から誰かが全国集会に顔を見せてくれた。
 名護からの初参加は、私の記憶では、1982年(第22回)富士見集会の稲嶺進さん(当時社会教育主事、現収入役)たち。全国集会開催に向けての忘れがたい思い出は、1994年(第34回)の雲仙集会。この集会に島袋正敏さんたち名護グループは豚の足1本をもって参加した。夜の「この指とまれ(沖縄を囲む)」では豚を肴に泡盛を飲み、豪勢な夜となった。三日間の大会スケジュールが終わり、九州の現地実行委員会とともに「ご苦労さん!」の乾杯をした席で、島袋正敏さんは、「機が熟せば、沖縄でも全国集会を開きたい」という趣旨の挨拶をした。この時期、私は社全協委員長、この挨拶は印象的に覚えている。当の正敏さんはあまり覚えていないというのだが・・。
 “沖縄で全国集会を”の経過(略史)は、別に書いたことがあるので、(「公民館の風」319号・320号、本年7月)詳述はさけるが、集会開催の具体的な検討が始まるのは1998年うりずんの頃。2000年開催か、会場地をどこにするか、などをめぐって検討が続き、最終的にめでたく2002年・名護開催が確定。この間にいくつもの曲折があったが、話が始まって20年、具体的論議から4年、名護での準備開始から2年の助走があったことになる。名護の地での開催が、第42回全国集会の性格をはっきりと方向づけることになった。
 ところで私たち「沖縄社会教育研究会」(現在「沖縄・東アジア社会教育研究会」TOAFAEC、代表・小林、事務局長・内田純一)は結成以来すでに四半世紀余、戦後のアメリカ統治下から今日まで、長年、沖縄社会教育の歩みを見続けてきた。その立場から全国集会に関わって、どのような役割を果たしうるか、何が期待されているか、と考えてきた。折りにふれて名護の皆さんとも語りあってきた。
 一つは『おきなわの社会教育』(もともと書名案は「沖縄の社会教育実践」)の刊行、二つは(全国集会の期日までに本をつくるのでなく)集会の準備過程に刊行を実現し、八重山・宮古を含め沖縄全域への集会参加呼びかけ“琉球列島キャラバン”を試みること、三つには、編集・執筆・キャラバン活動を通して沖縄社会教育関係者の横のネットワークを再構築していくこと、四つには、日本各地の社会教育関係者と沖縄との実践・運動レベルの“対話と交流”を拡げていくこと、などである。振り返ってみて、出来たことと出来なかったことがある。
 本づくりは、昨年の新潟県聖籠町全国集会の夜から始まった。ほぼ毎月1回、主に名護で編集会議を開いてきた。約70人の執筆者の協力を得て、今年7月ようやく本が完成、その翌日から那覇・名護・石垣・平良での出版記念会・全国集会キャラバンが、台風をぬって敢行された。嵐の夜、キャラバン開催を案じたことなど、思い出せばきりがない。

 全国集会は成功裡にめでたく終了した。しかし、むしろこれから新しい課題がまっている。今次の全国集会開催が沖縄の社会教育の歩みにどのような意味をもったのか、そのことを検証しつつ、沖縄(やんばるだけでなく)各地をつなぐ研究・交流活動をどう活性化していくか。同時にまた、全国集会開催を契機として、全国各地の社会教育と沖縄との出会い(対話と交流)がこれから息ながく幅ひろい潮流として、どのように動いていくか。
 沖縄の社会教育の実践・運動は、その厳しい戦後史のなかに胎動して本土の社会教育には見られない地域史、個性とエネルギーをもっている。たとえば東京三多摩中心の視点からは沖縄の社会教育は“特殊”なものとしか見えてこない。しかし沖縄から何を学んでいくかという姿勢をもてば別の風景が見えてくる。社全協が文字通り“全国”組織であるためには、単に沖縄で集会を開催できたというだけでなく、沖縄のアイデンティティを主張する独自の社会教育の歩みを視野にいれて、いま一つの拡がりと迫力をもった社会教育運動論を組み立てていく必要があるだろう。


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