【南の風2004】発行リスト・末尾記事(ぶんじん日誌) 

   *1151号・前ページ     *1251号〜1300号・次ページ
 


1201号〜1250号・発行一覧 


1201号【1月18日】第94回定例研究会案内、四万十川は教える、美しい夏キリシマ
1202号【1月20日】やんばるへの旅・今帰仁日程、戦後沖縄社会福祉事業史『生命輝け』
1203号【1月22日】第16回生涯学習研究セミナー、福岡は大雪・名護は桜満開、お詫び
1204号【1月23日】第19回松本市公民館研究集会、やんばる29日行程、春節の日中学院

1205号【1月25日】かわさき市民アカデミー、金武町伊芸区の基地阻止闘争、公民館図書室
1206号【1月26日】寒い沖縄(伊江島から帰って)、天皇訪沖(石垣島から)、第五福竜丸
1207号【1月27日】「赤い花、白い花」いよいよ判決、大石洋子さんの退職、天皇訪沖2
1208号【1月29日】「赤い花、白い花」裁判速報、横浜市磯子区・異動希望せず、名護にて
1209号【1月30日】裁判ニュース・川越市への要請書、名護から那覇への道、空港にて
1210号【2月 1日】沖縄訪問を終えて、横浜市磯子区・異動希望せず(2),東京の寒い風
1211号【2月 2日】第94回定例研究会の報告、障害児保育を求める裁判・傍聴記録、辺野古
1212号【2月 4日】風届かず・上海本の注文、1月研究会の余韻、配信ミスのお詫び
1213号【2月 5日】やんばるから八重山へ、さいたま地裁判決・川越市控訴せず、声援の拍手
1214号【2月 6日】風の誕生日、モンゴル学国際シンポ、渋谷区から、1月研究会について
1215号【2月 9日】 愛知川だより、今帰仁村、米軍ハンセン山火事、鈴木敏治さん能登へ
1216号【2月11日】宇部市ボラ・カレ、沖縄の字公民館、金武町の山肌無惨、メール・マナビン
1217号【2月13日】松本・公民館研究集会など、沖縄・伊芸区長切々の訴え、遊ぶ年寄り
1218号【2月16日】第95回研究会ご案内、竹富島へ妻籠宿から交流団、足立さんの追悼集
1219号【2月18日】安立さん・大石さんを囲む会、韓国本の編集、日中教育研究交流会議
1220号【2月20日】「東アジア社会教育研究」第9号編集会議・原稿募集、風1200号を祝う!
1221号【2月23日】佐賀より、「研究」第9号編集関係、戦争体験を紡ぐ、「じゃな誌」
1222号【2月24日】ソウルより、公民館のあり方イメージ試案、南風原の青年、上田を歩く
1223号【2月26日】多文化共生社会・シンポ(法政大学、川崎市)、日中交流担い手を、無言館
1224号【2月27日】さいたま市公民館をめぐる最近の動き、松本の夜、村田正幸さん
1225号【2月29日】那覇の公民館、モンゴルの旅メンバー再会を、ニューヨークへの電話
1226号【3月 1日】第95回TOAFAEC 研究会報告、韓国本の取り組み、3月1日
1227号【3月 3日】中国の国際学校など、静岡・ビキニ被爆50年、竹富島より
1228号【3月 5日】「韓国の社会教育」編集委員会、リュウキュウアユ復元へ、書庫の整理
1229号【3月 8日】内田純一さんお祝いの会、古宇利島・ポットホール、1フィート運動の会
1230号【3月10日】川崎・青少年フェスタ、竹富島の日本軍、福建省・生涯教育条例の動き
1231号【3月12日】 沖縄の字公民館研究2集、モンゴルの会、南風原陸軍病院壕、星砂の島
1232号【3月13日】韓国本の打ち合わせ(ソウル)、日中学院について、「研究」第9号編集
1233号【3月15日】大都市「つどい」HPアップ、阿波根昌鴻さんしのぶ集い、百年の孤独
1234号【3月17日】19日研究会へ、伊平屋の沖縄戦フィルム、夜間中学映画「こんばんは」
1235号【3月19日】信州の動き、字公民館研究第2集、19日の編集会議、ソウルの写真
1236号【3月21日】カイロ大学と沖縄国際大学、沖縄の島クトゥバ、内田純一さんの会
1237号【3月22日】第96回定例研究会報告、中国・搾取階級の字句削除、1フィート運動
1238号【3月23日】祝う会の御礼(内田)、東アジア社会教育研究第9号編集、毎日の風
1239号【3月25日】上海より、福建省生涯教育条例案、名護・幸喜区が育英会、旧プロゼミ
1240号【3月27日】鹿嶋市の公民館、海勢頭豊コンサート、普天間代替の下地島案、ざわわ
1241号【3月29日】春の職場異動、「こんばんは」お祝い会、徳田球一獄中書簡、お詫び
1242号【3月31日】町田市公民館の異動、モンゴル料理店、高知へ、TOAFAEC ダンボール
1243号【4月 1日】名護市史「教育」編、祝勝会、教科書に沖縄の記述減少、島袋正敏さん
1244号【4月 3日】上海からの賓客、「異文化間ソーシャルワーク」紹介、旧アドレスの廃棄を!
1245号【4月 5日】奈良市生涯学習財団、松本の春雪・なんなんひろば、海勢頭コンサート
1246号【4月 7日】ハンブルク「アルトナーレ」祭(第7回)へのお誘い特集、ドイツへの旅
1247号【4月 9日】土佐の風吹く、コンサート案内、首相の靖国参拝違憲、沖縄と靖国
1248号【4月10日】5月韓国訪問計画、字公民館で組織するNPO(竹富)、ソウル編集会議
1249号【4月12日】上海からの来客歓迎、沖縄の近海離島、うたのぼり、アドレス帳整理
1250号【4月14日】閘北区関係者の歓迎会、第97回定例研究会案内、ベトナムの公民館


*1251号〜1300号



南の風・末尾記事(ぶんじん日誌)
 

1250号(2004年4月14日)
★<ベトナム教育法に「KOMINKAN」>
 ご存知の方も多い津久井純さん(学大→都立大院→ベトナム研究)から、昨夜、久しぶりのメールが来ました。
 NGO の仕事で、6月より「ベトナム版・公民館設置プロジェクト」に関わることになったそうです。JICAからの資金援助により、ベトナムでは国境の省ですでに50ほどがつくられている、現在、第二フェーズが始まり、ベトナム北部8省の村々で建設が進められている、伝えられるところでは新しいベトナム教育法の改正にあたり、「KOMINKAN」がその条文にも登場する、とのことです。驚きました。
 そういえば、カイロ近郊の農村で、やはりJICAの援助と記憶していますが、村の診療所と公民館的施設(職業指導、識字学習)が建てられているのを見学したことがあります(2000年9月)。案内役は、もちろんアーデルさん(学大→一橋大学→カイロ大学)。この村はアーデル博士の出身地。長老が出迎え、私たちのまわりに子どもたちが群れ集って、アーデルはまさに故郷に帰った英雄でした。ナイル川沿いの、あの「公民館」は、その後どのように動いているのだろう?
 そんなことを思い出しながら、津久井さんに4月23日・定例研究会の案内状を転送しておきました。そのうち、ベトナムの公民館の話を聞く会を企画しましょう。

1249号(2004年4月12日)
★<アドレス帳の整理とウイルス対策>
 「風」は次号で1250号。1000号到達が1年2ヶ月前、それから250回の風、あらためて皆様のご愛読?に感謝!
 1250号で恒例のアドレス帳整理を行います。風は双方向に吹きあいたい、という思いをご理解いただき、ときに返信を頂ければ幸いです。1251号よりは新しいアドレス帳で配信する予定。新名簿が確定した段階で(ずいぶん前に)お約束していた風メンバー一覧をお送りする予定でいます。
 こちらの「風」が迷惑メールになることはもちろん本意ではありません。送信不要の場合は、ぜひご一報いただくようお願いします。
 ところでこの3週間あまり、Cウイルスが猖獗を極めています。台湾や大陸からも飛んでくる。ウイルス名:W32.Netsky.P@mm、あるいはPのかわりにDのウイルス。もちろんすべてガードしているのですが。
 1週間ほど前、自分の(別の)アドレスから、出してもいないメールが舞ってきて、少々驚きました。このときは急いでマイコンすべてスキャンにかけました。回答はもちろん「感染なし」。このとき以来、Netsky駆除のファイルを常備、メールすべてAntivirusチェックして発信。
 一段落するまで「風」も休止した方がいいのでは、と思わないでもありませんが、今とくに問題なく、韓国行きやアルトナーレのお誘いなど、お届けしたい案内等もあり、吹き続けています。風はつねに無添付。もし妙なものがくっついて来たら(開かず)直ちに削除の上、ご一報を。

1248号(2004年4月10日)
★<韓国本・編集会議 in ソウル>
 8日朝、留守中に中国在住の黄宗建先生から電話を頂いた模様。昨夜、当方から返電、久しぶりにお話ししました。中国ではメーデー(国際労働節、5月1日)などで約1週間の連休、それを利用して4月29日にはソウルに帰国されるとのこと。まだ魯在化さんとは連絡がとれていない様子でした。
 3月に魯在化さんが来日したときの打ち合わせ(5月7日にソウルで編集会議を設定できないか)をお伝えしたところ「承知した、その日までソウルに滞在する」という返事でした。これで7日の韓国本・編集会議の日程は確定したことになります。
 早速、その旨を魯在化さんにも伝えました。魯さんとは、ここ数日なかなか連絡がつきませんでした。聞けば、いま金済泰さんと「平生教育研究所」の安養市への移転をすすめているとのこと。アメリカから帰国直後でもあり、きっと大学の方も多忙のことでしょう。
 黄・魯ご両人からは「南の風」を送るように依頼がありました。黄さんへの風は(電話で聞き取りしたアドレスが不正確?か)戻ってきました。魯さんへの風は文字化けで読めないらしい。もう少し時間がかかるようです。

 <第2伸・韓国行きのお誘い>
 韓国本・ソウル編集会議5月7日に合わせて、小田切督剛さんがさっそく安いチケットを手配し、5日〜8日のスケジュール案を送っていただきました。有り難うございました。往復3万円。5日到着・富川市へ、6日・光明市訪問、7日編集会議、8日帰国という案。成田・仁川でなく、羽田⇔金浦というのも助かります。宿泊は魯在化さんにお願いする案もありますが、富川・光明両市訪問のこともあり、もし可能ならば一緒に手配していただけないでしょうか。
 なお風メンバーで、この韓国訪問に関心をおもちの方、同行希望の方があれば、どうぞご遠慮なくご連絡下さい。チケットの手配など考えれば、早めの方がいいかと思います。ご希望の方には、小田切さんにチケットを予約していただきます。九州などからご参加の場合は、打ち合わせの上、現地集合というかたちになりましょうか。

1247号(2004年4月9日)
★<沖縄と靖国>
 沖縄を歩いていて、集落の素朴な御嶽(うたき)にトリイが建っているのを見ると、複雑な思いにかられます。どうしてもかっての国家神道の影響を考えるからです。
 「靖国」はまた沖縄にとって特別の問題をかかえています。靖国神社には「ひめゆり学徒隊」「鉄血勤皇隊」、それに「対馬丸」で犠牲になった疎開児童たちも祀られているそうです。「ひめゆり学徒隊」が祀られることになった経緯は、犠牲者の名簿を作成し厚生省に遺族年金を申請したところ、名簿が靖国神社に渡され、「陸軍軍属」として合祀されたようです。
 靖国には日本の植民地支配下にあった朝鮮・台湾出身の軍人・軍属約5万人も合祀されていて、多くは遺族にも知らされず、合祀取り止めを求める訴訟が起こされています。他方で、今次大戦下のアジアの犠牲者はもちろん、日本各地の空襲で亡くなったり原爆の犠牲になったりした戦争犠牲者の大多数は祀られているわけではありません。靖国神社に合祀される人とされない人の選別基準はあいまいで説明されていません。(HP「社会問題リンク集」→「靖国神社関連資料」を参照)
 靖国神社にA級戦犯が合祀され、小泉首相の靖国参拝にアジア諸国が反発しているのはご存知の通り。そして今回の違憲判決。
 あらためて“祀る”“祈る”ことの本来の意味と,「合祀」や「参拝」とかの政治性を考えさせられます。歌や旗のことも。
 いまテレビでは、イラクで、ジャーナリストなど3人の日本人が拘束されたことを報じています。ソフトターゲット?心配です。

1246号(2004年4月7日)
★<ドイツへの旅>
 社会文化学会では、すでに1998年頃より谷和明さん(東京外国語大学)を中心にドイツとの研究交流がすすめられたようです。小生も谷さんのご案内により、2000年夏、ドイツを歩き、ハンブルクも訪問したことがあります。代表的な社会文化センター「モッテ」、日本の公民館のこれからを考える上できわめて示唆的な施設だと思いました。モッテ館長ヴェント(Wendt)さんが来日された折に、東京で講演会を開いたり、ハンブルクのスラム開発等に取り組んでいる建築家トールマンさんの希望をいれて、沖縄へともに旅し、水納島の浜で一緒に泳いだり。このとき海水浴の案内役は島袋正敏さん。
 ハンブルクの市民運動による「アルトナーレ」祭には2001年に出かけました。これも印象的な旅。伊藤長和、山口真理子、石倉祐志などの皆さん、それに社会文化学会の若いメンバーとご一緒でした。今年また第6回「アルトナーレ」へのお誘い、谷さんともども関心ある方々のご参加をお待ちいたします。
 モッテやアルトナーレについての手頃な文献としては、谷和明「ドイツの社会文化センター」(小林・佐藤編『世界の社会教育施設と公民館』エイデル研究所、2001年、所収)が参考になります。

1245号(2004年4月5日)
★<海勢頭豊「椎の川」>
 4月4日、東京も寒い雨の日でした。海勢頭豊「第2回美ら海・美ら山コンサート」(府中・グリーンプラザ)へ。長谷川栄子さん、石倉祐志さんが一緒でした。ホールは八分ぐらいの入りか。
 木訥な語り口のようで、内容的にはほとばしるような平和への思い、ホールはしんとして“ウミセド節”に聞き入りました。
 海勢頭豊の歌と出会ってもう30年近く、今日の歌もなかなか聞かせました。代表的なもの10曲あまり、もちろん「喜瀬武原」も。彼の歌はほとんど私の沖縄との出会いに重なりますが、一つだけ「椎の川」は初めてでした。やんばるの故郷を静かにうたって切ないものあり。
1,椎の実の 落ちて 流れる 川の
 流れ 清き あの山原
 流れ 清き ふるさと
2,椎の川 流れて どこへ 行った
 海を見ていた あの島影
 海を見ていた 幼い日
3,椎の実を 集めて 誰に あげた
 日暮れ 寂しい あの山原
 日暮れ 寂しい ふるさと
4,イジュの花 咲いて 夏風 吹けば
 緑 深き あの山原
 緑 深き 里の家 

1244号(2004年4月3日)
★<ぶんじんJustnetアドレスの廃棄を>
 上記の飯田市・木下巨一さんのメール、日付をご覧下さい。昨年6月6日に送られたものです。31日夜、もう死んでしまったはずのJustnetのメールと旧ホームページを(念のため)開いたところ、旧アドレスで送られた他のメールとともに、木下メールを発見しました。Justnet は3月31日にすべてのサービスを終了するというのを思い出して、確認してみたのです。
 Justnet は昨年3月、ソネットに統合してしまいました。ソネットの現アドレスに切り替え、ホームページも旧HPを棄てて、新しく作りかええたり、一苦労、少々うらみもあります。古いアドレスなどもうすっかり忘れ果てていました。しかし、せっかく頂いたメールを結果的には見過ごしていたわけで、失礼してしまいました。
 木下メールと一緒に出てきたメール(古いJustnet アドレス宛に送信された方)は、渡部幹雄さん、奥田泰弘さん、それに中国から李偉成さん 呉遵民さんなどです。ぶんじんの古いアドレスを廃棄して頂くよう、重ねてお願いします。
 ところが昨日の情報では、ソネットは旧Justnet によるサービスを6月末まで継続(延期)するらしい。そうなると旧アドレス宛メールをまた受け付けますから、かえって始末が悪い。どうせ死に体なのだから早く往生してほしいもの。

1243号(2004年4月1日)

★<島袋正敏さんの退職>
 この3月で名護市の島袋正敏さんが定年退職を迎えられました。実は3月のどこかで沖縄を訪問し、正敏さんの退職を祝って、一杯の古酒を酌み交わしたかったのですが、行けませんでした。
 島袋正敏さんは、私だけでなく、沖縄研究グループの面々も、一緒に旅をした学生や市民の皆さんも、たいへんお世話になりました。
 この四半世紀の歳月、いつも私たちを暖かく迎えていただきました。名護市立博物館の中庭で、オリオン・ビールのホールで、中央公民館の工作室で、図書館のスタッフルームで、あるいは「大国林道」で・・・などなど、数えきれません。あらためて御礼を申しあげます。名護での社会教育研究全国集会を実現できたのも、正敏さんや上記の中村誠司さんのお力によるもの。その過程で『おきなわの社会教育』を上梓できたこともいい想い出です。
 独自の名護の社会教育を担い、個性的な博物館を創り、中央図書館を建設し、最後は教育行政を束ねられて、健康も維持しつつ、見事に定年を迎えられたこと、心からのお祝いを申しあげます。
 実は、昨年12月の東京の研究会で、比嘉佑典さんや中村保さんたちと3月に開かれるであろう正敏さんの会に行きたいという話題になりました。しかし、3月はきっと慌ただしいから、5月の連休あたりに「毛遊び」を計画してはどうかと。お二人は憶えているだろうか? 
 ぜひ「モウアシビ」を実現して下さい。この種の企画をするとき、今までは正敏さんにお願いしてきましたが、今回は、どなたに頼んだらいいでしょうかね・・・。
 正敏さんを直接知らない人を含めて、連休前後、ぜひ一緒に沖縄に行きましょう。この話、エイプリル・フールにあらず!

1242号(2004年3月31日)
★<TOAFAEC のダンボール>
 3月31日、年度の終わり。新しい季節がまた始まりますね。
2年前のこの時期、和光大の研究室を岩本陽児さんと交代するとき、それまでの沖縄研究会の「史料」やTOAFAEC 「研究」バックナンバーのダンボールなど、たくさん引きうけていただきました。
 今年は高知大学に新しく内田研究室が誕生です。在庫を少し移すことも可能だとのこと。私たちの研究会としては、待望の分室が出来るような気分です。次回の事務局会議で相談しましょう。
 ところで事務局会議は何日だっけ?4月13日夜「研究」第9号編集会議に合わせて開けないか? 岩本さんの都合は如何でしょうか?
 岩本研究室には、東アジア関連の文献資料も預かってもらっています。台湾から送って頂いたり、上海から頂戴したり、モンゴルで入手したり、やや雑多なコレクションですが、これからも少しづつ増えていくことになりましょう。ハングル文献(たとえば黄宗建さんの本)は韓国留学生の手元にあるのかな?
 こんな資料をどのように所蔵していくか、今後のことを含めて、4月年度はじめ、みんなで検討できれば有り難い。
 新事務局長・石倉さん、ご苦労さまですが、よろしくお願いします。

1241号(2004年3月29日)
★<前号・記事の訂正とお詫び>
 ときどきやるポカ、明らかに老化現象!
 前号の鹿嶋市記事「松下」氏は、正しくは「森下松寿」さんです。お名前が印象的な「松寿」ですから、つい上の姓の「森」が「松」に引っぱられてしまったようです。ご本人からご指摘いただくまで、気がつきませんでした。たいへん失礼いたしました。
 また書き出しの部分は「市の方針」がよく変わること、本文中のボイラー暖房の記事は、まだ交渉中のことなので、削除するようにとのメールをいただきましたが、時すでに遅し、前号・風は発信したあとでした。重ねてお詫びいたします。
 なお公民館長とご紹介しましたが、この4月から鹿嶋市文化スポーツ振興事業団への担当副参事として派遣されるそうです(人事異動内示)。 
 ちょっと話題が変わりますが、本号の映画「こんばんは」は、二日前の新聞報道では、第1回の文化庁映画賞(対象を文化記録映画に絞り新設)初の大賞に選ばれたとのこと。今年の映画ドキュメンタリー部門の最優秀賞を総なめという快挙(風1234号記事、3月17日)にまた一つ新しい大賞が加わったことになります。

1240号(2004年3月27日)
★<「さとうきび畑」>
 寺島尚彦さんが亡くなられました。名曲「さとうきび畑」は1967年の作品だそうです。私たちが沖縄に出会うのが1976年ですから、それよりも10年も前の歌だったのですね。
 ♪ざわわ〜ざわわ〜ざわわ〜♪ と、ほんとによく歌ってきました。いろんな想い出がよぎります。小平のある小さなサークルで、学大の研究室で、宮城島のさとうきび畑で、和光大学のゼミで・・・歌いました。
 先号のこの頁に書いた和光大学の最後のプロゼミ。沖縄を一緒に歩いた学生たち、彼らとのゼミもそろそろ終わりだ、大学の教師としての仕事からもようやく解放される、みんなで一緒に歌おう、そんな気分で思わず口をついてでた歌が♪ざわわ〜ざわわ〜ざわわ〜♪ でした。
 あまり上手でもないのに・・・よく歌ったものです。やはり、いい歌だったのです。

1239号(2004年3月25日)
★<和光大学・旧プロゼミ>
 和光大学を辞めて、早いものでもう2年が経過しました。通算40年余りも大学の仕事をしてきましたが、その最後が和光大学。昨夜24日夕刻から、旧プロゼミの文字通り“最後”の学生たちが「風の部屋」にやってきて、ぶんじん・なんでもゼミ・・・をしました。皆さん、4年を迎える年になり、卒論や進路のことなど、いろいろ相談したい、昔のプロゼミ有志で再びゼミを開こう、という提案に応えたものです。
 プロゼミというのは和光大学独特の1年生ゼミ。学生・教員双方にとって忘れ難い出会い。うまくいく年もあれば、つまずくゼミもあり。最後のプロゼミでは「地域を歩く、地域を調べる」をテーマにして、沖縄も歩きました。それから3年経って、あのゼミを再開しようと言ってくれるのは、まあまあ、うまくいったゼミだったのでしょうか。
 やってきたのは6人ほど、久しぶりの乾杯、秘蔵の古酒瓶の蓋を開けてクースーもちょっぴり口に含んでもらいました。“高校4年生”と揶揄した当時の新入生たちも、いま確かに大学4年生の風格?それなりの悩みあり覚悟もあるようでした。
 和光大学が元オウム教祖の娘の入学を拒否した事件、「先生だったらどうする?」「独学でみごと合格したのに・・・」「入れてあげればいいのに・・・」などの意見あり。 

1238号(2004年3月23日)
★<毎日の風、申しわけなし>
 風は吹き過ぎてはいけない、過ぎたるは及ばざるが如し。毎日は吹かないように、と心しているのですが、これで3日連続となりました。申しわけありません。内田さんを祝う会や「東アジア社会教育研究」第9号編集会議の報告などのメールがあふれているのです。せっかく頂いたメールが“気の抜けたビール”になっては申しわけない、ある程度の速報性も持ち続けたいし・・・というわけです。
 それでも同じ日に2度発信することだけは、どんなことがあっても控えています。風がまだ若いころ、吹き過ぎて、これでは暴風だ、迷惑だとご批判を受けたことがありました。
 ・・・それでも、パソコンのなかに、メールが残っていると、寝酒も美味しくないし、よく眠れないのですよ。

1237号(2004年3月22日)
★<沖縄戦フィルム・1フィート運動>
 横浜(磯子区)の伊東秀明さん、「風」でも紹介したことがあるように、いまメールマナビンという通信を精力的に発信中。19日研究会・内田さんお祝いの会にもご参加いただきました。お互いあまり頑張り過ぎないようにと激励?しあって、隣同志に座って、さかんにビールを飲みあいました。その伊東さんより、こんなメールが。
 「南の風1234号の『伊平屋の沖縄戦フィルム』をお借りすることはできないでしょうか。5月29日の横浜大空襲の日に“むかし磯子に戦争があった”という学習会で上映したいと思うのですが。(以下略)」その返事。伊平屋の沖縄戦フィルムはまずは無理ではないか。沖縄には20年ほど前から、「1フイート運動」(子どもたちに沖縄戦を伝える運動、今年の吉川英治文化賞を受賞)があること、米国・ペンタゴンから買い戻した沖縄戦フイルムを編集し、音や効果をつけて、いくつもいい作品があること、たとえば「未来への証言」「戦場の童」それから「ドキュメント沖縄戦」など。また、NHKなどが編集して放映したいい番組記録もある。私のところにもすこしビデオ・コレクションがあり、いつでもご利用くださいと。さしあたり(「未来への証言」はいま手元にないので)「ドキュメント沖縄戦」など2本をお貸ししました。 
 「未来への証言」や「戦場の童」は16ミリ・フィルム版があります。和光研究室の引っ越しのいきさつで、現在、福岡の油山文庫に眠っていることを思い出しました。もしご希望があれば、東京に移動させようか・・・と考えたけれど、16ミリだとあまり利用がないかな。

1236号(2004年3月21日)
★<内田純一さんの会>
 19日、三つのプログラム。まず4時からの「東アジア社会教育研究」編集委員会、これは予想していた?ように少ない人数でしたが、二つめの3月定例研究会は、内田純一さんの本格的?な報告、さすがに各世代の・・・懐かしい・・・いろんな・・・人たちが各地から集まってきましたね。
 そして圧巻は三つ目の「お祝いの会」。研究会の話などパスして、お酒の会だけに駆けつけた美童(みやらび)も数人あり、いつもの「イースト・ビレッジ」は超満員でした。この店としては、おそらく新記録?だったのではないでしょうか。みんなで、ありったけの歌をうたいました。HPに写真を10枚ほどアップ。どの顔も楽しそうです。
 内田さんの「これまでとこれから」についての話は、永いつきあいなのに、初めて聞くことも少なからず。あまり大げさなことを言わない人だから、もっといろんなこともあったのでしょうが、厳しい職場でよく耐えて、今日まで歩いてきたものです。
 教育研究所から研修センターへの変転、組合分会長としての奮闘、月刊や社全協の仕事、脱落しても決しておかしくない環境の中で、何よりも研究者としての努力を維持してきたことに敬意を表したい。当日、私は例によって、辛口の言葉を贈りましたが、直接に褒め言葉は言えないので、いまここで書いておきます。
 これまでの苦しみはこれからの財産です。

1235号(2004年3月19日)
★<ソウルの写真>
 12日の韓国国会で弾劾訴追を可決された韓国大統領、その日、慶尚南道の企業を視察中だったそうで、テレビにきわめて平静な表情で「一つの試練、憲法裁判所の法的な判断は政治的判断とは違うはずだ」と語っていました。
 その落ち着きと対照的に、当日、韓国国会の床に座り込んで「弾劾訴追案の可決を阻止できなかったことを国民に泣いてわびる実質与党・開かれたウリ党議員たち」(13日・朝日)の写真がきわめて衝撃的でした。議員たちが、手をついて、頭を垂れ、泣きじゃくっているのです。女性議員の泣き顔も。皆さん、ほんとに泣いている。
 いま私たちは、あまり泣かない。心から悲しむこと、悲嘆にくれることを忘れているように思いました。それほどに・・・真剣に、真正面から対峙するような状況を忘れて(見失って)しまっているのかも知れない。
 上記・金子メールにもあるように、ソウルでは連夜、大統領の弾劾に反対する市民の「ろうそく集会」が開かれているそうです。2年前の米軍車両に轢かれた女子中学生を追悼するため、手に手にろうそくをもって集会が開かれた。そして再び「ろうそく集会」の写真。週末の光化門には数万人が集まり、フォークソングをうたい、コメディアンも登場、当局の規制方針にもかかわらず「これは文化行事だ」と連日続けているとのこと(朝日3月18日記事)。
ろうそくを手に叫んでいる若者たちの写真をみながら、この渦の中に入っていきたい思い。

1234号(2004年3月17日)
★<夜間中学の映画「こんばんは」>
 東京は墨田区、文花中学校夜間学級の生徒たちと教師をドキュメントとして画いた映画「こんばんは」は、昨年2003年度の日本の各映画賞・ドキュメンタリー部門を総なめ、すべての最優秀賞を獲得するという快挙を達成したそうです。監督は森康行さん、ご存知の見城慶和先生はじめ夜間中学に織りなす人たちの表情がとても印象的でした。足かけ3年にわたる記録。
 獲得した映画賞(すべて2003年度)とは、
・毎日映画コンクール記録文化映画賞・長編部門
・キネマ旬報ベストテン・文化映画第1位
・日本映画ペンクラブ賞・日本映画ノン・シアトリカル部門第1位
・平和・協同ジャーナリズム基金・奨励賞、の四つ。
 各地で「こんばんわ」上映運動が広がり、そこから夜間中学をつくる運動が芽生える契機にもなっているようです。映画としての評価だけでなく、夜間中学の教育実践と運動への支持と共感がひろがっているとも言えましょう。
 来る4月11日には、東京・曳舟文化センターで、「映画『こんばんわ』の受賞をみんなで喜ぶ会」(映画「こんばんは」を応援する会・主催)が開かれるとのこと。

1233号(2004年3月15日)
★<麦焼酎の古酒「百年の孤独」>
 かねて噂に聞いていた幻の「百年の孤独」。13日の韓国本編集会議(川崎)で1瓶を頂きました。宮崎は高鍋町の本格焼酎。手作りの麹と選りすぐった大麦のみを原料とし、原酒を永い間、静かにひっそりと眠り続けさせることによって、まろやかで豊かな風味を熟成。「余分の色素を風味を損なわない濾過で取り除くことにより」(説明書)さわやかな透明感をもった琥珀色をしています。アルコール分40%。
 絶妙の逸品というべきもの。さてこの瓶をどのように開けるか、と悩んでいたところ、14日の日曜日午後、40年ぶりの来訪者あり。九大で助手をしていた当時の学生。北九州市・局長を退職し、他用で上京した機会に訪ねてくれたのです。まったく突然のことでした。短い時間ながら、「百年の孤独」で1960年前後の青春を懐かしみ合いました。当時の学生たち、そして若い助手も、いかに議論好きで生意気?だったか、などなど。
 たまたまこの夜は、1970年前後に学芸大学を卒業した人たちの飲み会の案内。信州・上田や九州・大牟田から来た人もあり、ヘルメットかぶってデモをしていた頃の話に花が咲きました。「百年の孤独」は持参せず(勿体ない?)。
 歳月の経過をかみしめつつ、しかし、まだみんな若いぞ、だが、これから日本はどうなる?などとつぶやきながら、日曜日は終わり。

1232号(2004年3月13日)
★<韓国本の編集(ぶ)>
 本の編集・刊行は、普通はあまり外部に拡げず、関係者だけで秘めやか?にすすめられる場合が多いのですが、本来はもっと課題を社会的に共有して、わいわいした雰囲気で創られるべきではないか、と思ってきました。業績主義で本を出すのでなく、世の中のために本を創る・・・という姿勢をもてば、関心ある人たちの共同の力を集めていく必要があるのです。韓国本づくりは、文字通り初めてのチャレンジですから、共編者の伊藤長和さんの了解も得て、「南の風」として少し内部的な情報の類も、風に乗せはじめた次第。ご声援下さい。
 金子満さん(九大・院)とは、ちょうど1週間前(訪韓前)、博多駅ビルの魚の店で飲みながら、打ち合わせをしました。上記メールのように、韓国では精力的に動いてくれている!感謝です。 
 アメリカから韓国へ帰ったばかりの魯在化さんも、13日川崎での編集会議に来日してくれるとのこと(電話)。これで企画編集の作業もようやく最終段階に入りました。きっといい本になることでしょう。

1231号(2004年3月12日)
★<賢さや うつぐみど まさる>
 南の風1227号でご紹介した映画、竹富島が舞台の「星砂の島、私の島」(喜多一郎・監督)は楽しい作品(渋谷・文化村シネ・アミューズで上映中)でした。確かに上勢頭芳徳さんが2回ほど登場されました。多数の住民が協力したというので、前本多美子さん(旧姓・鈴木、学芸大学卒)の顔も出てくるのでは・・と探しましたが、これは期待はずれ。
 喜多監督には映画と同名の本があります(2003年刊)。その中の一節。
 「…遊び疲れて浜辺に寝ころぶと、水平線の向こうに静かに太陽が落ちていった。
 “賢さや うつぐみど まさる”
 ヨネちゃんが、寝ころんだまま唐突に言った。
 “うつぐみはなあ、みんなで助け合って協力し合うっちゅう、竹富の者ならみぃんなもっとる心さぁ。うつぐみの心があれば、別に賢うなくてもええ、偉くなくてもええ、そういうことさあ、なあ、みんな”
 ヨネちゃんの言葉を聞いて、しばらくみんな無言だった。
 うつぐみ…かあ、私もそれに助けられたんだ。早苗の胸に何かあたた
かいものがこみ上げ、次第にじんわり広がっていった。」(160頁)

1230号(2004年3月10日)
★<福建省・生涯教育条例づくりの動き>
 最近は上海からの「風」が吹いてこない、いつも賑やか?な呉遵民さん(華東師範大学)からも音沙汰無し。妙に静かだ・・・。彼も働きざかり、きっと忙しくしているのだろう、などと推測していたところ、2月中旬に突然、呉さんの書状を同封した福建省師範大学・継続教育学院(陳宜安・院長)からの速達(小包)便が舞い込みました。
 開いてみると、福建省の「生涯<終身>教育条例」策定の動きと関連資料、あわせて(まだお会いしたことがない)陳院長からの丁重な懇請状でした。「福建省終身教育条例」草案を作成中であること、ぜひ智恵を拝借したいとの趣旨。つないだのは、もちろん呉さん。
 中国では、1997年前後に「成人教育法」ないし「生涯教育法」立法化の動きがありました(「東アジア社会教育研究」第2号に関連記事)。その後は具体的な展開はなし。もし福建省の地方「条例」が成立すれば、大陸ではじめての生涯教育関係の立法となります。
 送られた資料・雑誌には、海を越えて、台湾からの専門研究者(黄富順氏)がすでに参画し寄稿していることにとくに興味をそそられました。ご承知のように、台湾政府は本格的な「終身学習法」を成立(2002年)させています(「東アジア社会教育研究」第7号に収録)。
 数日前には、また追っかけるように「福建省終身教育条例」草案の第一次案のようなものが急送されてきました。さて、どのような関わりが可能なのか。

1229号(2004年3月8日)
★<2004年の三醜>
 今週の「週間金曜日」はなかなか秀逸です。表紙が与那国の旧知の顔(椎名誠・写真)だったこともあり、開いてみたところ、読み応え(見応え)がありました。3月5日号(通巻508号)。
 「危機迫る沖縄・辺野古」(新基地計画に市民から環境アセス、大浦湾に巨大なサンゴの群落)の記事もさることながら、「砂漠化する中国黄土高原」「原生林(オーストラリヤ・タスマニア)を食い尽くす日本の製紙企業」の写真がなんとも痛々しい。
 本多勝一氏「貧困なる精神」(202)は「イラク派兵と『売国奴の靖国参拝』」がテーマ。その中に原真氏発行の月刊ミニコミ誌「アナヴァン」2月号の一文が紹介されていますが、ここにも再引用させていただきましょう。
 「近ごろ最も醜い顔は、捕まったサダム・フセインと捕らえた息子ブッシュであろう。それに小泉の馬鹿面を加えて2004年の三醜とする。この三人に共通する汚い心理は臆病なる低能ぶりだ。戦争をしない方がするより勇気のいることを証明した三人だ。自衛隊員にイラク派遣を拒否する者のいないことは心外。」

1228号(2004年3月5日)
★<書庫の整理>
 福岡・油山の寓居に書庫を造ったのが1995年。ちょうど阪神大地震の年(東京学芸大学を辞めた年)、どんな地震にも耐える?堅牢な設計にしてもらいました。そこに所蔵の文献・資料やビデオ・テープ類を運びこんでいます。
 1年半前のギックリ腰以降、書庫整理作業が頓挫していました。このたび必要があって(1970年代の東京社会教育史について)調べものもあり、すこし作業に励みました。暖房のない書庫、3月とはいえ毎日寒い福岡、体が冷えます。しかし懐かしい古い資料を再発見したり、思わず時間を忘れて熱中、それなりに充足感もあり、夜は行きつけの店で旨い魚と酒を楽しむ、という数日でした。
 ところで、あらためて資料保存の難しさを実感してもいます。全般的な資料劣化だけでなく(紙質にもよりますが)、1970年代の会議記録などは当時の青刷りコピー、そろそろ読めなくなりつつあります。東京都社会教育委員時代の会議録など、いつかは役に立つだろうと保存してきたのですが、近い将来にあきらめて廃棄するときが来るようです。古いガリ版印刷や、80年代から始まるワープロ、そして90年代のパソコンによる印刷諸資料などはまだ?大丈夫。
 あと一つは、古いBeta(ソニー)ビデオテープの白カビ被害。環境状態には留意してきたつもりながら、いま10本に2本ぐらいはダメ。写らないだけでなく、かけるとビデオデッキのヘッドが駄目になる。なかには貴重な映像もあり、残念ですが、これもあきらめるしかなさそう?
 4日朝の福岡、なごりの雪がちらちら舞っています。

1227号(2004年3月3日)
★<竹富島を愛する人へ>
 竹富島・上勢頭芳徳さんからの便り。
 「竹富島を愛してくださる皆様へ(2月24日付)
昨年、竹富島で映画“星砂の島 私の島”のロケがあり、住民も全面的に協力して良い作品ができました。現在、東京渋谷シネ・アミューズで上映中です。3月10日ころまでは上映するようです。昨日は監督・制作者から下記のように嬉しいFAXが入りました。
 癒しとかスローライフとかもっともらしいコピーすら要らない島、と森まゆみさんが言うような、竹富島の現状そのままでドラマが進行していきます。
 しばし都会の喧噪を忘れて、こんど島へいらっしゃるまでのつなぎとして、竹富島を味わってください。島の人も半数ほど、私もいつもの作務衣姿で10秒×2回出ています。
 今年の種子取祭のクライマックスは11月7日、8日です。6日の夕方には島に入れるよう宿の予約を早めにお願いします。」とのこと。

 ぶんじんはいま福岡滞在中です。ホームページの表紙更新(2日に1回)に不手際がありました。一度下ろした旧写真(富士)が再アップされています。福岡のパソコンに、東京で更新した写真(古宇利島)が入ってなかったのです。旧表紙に日付のみは更新しているかたち。新表紙は、東京に戻って再アップすることにしましょう。
 また、先号の本欄記事(ぶんじん日誌)は推敲不十分のまま送信しましたので、読み返して、語句に多少の混乱あり。ホームページへの再録の際、少し補正しました。お許し下さい。

1226号(2004年3月1日)
★<3月1日・ビキニ被爆50年>
 少し「風」の吹きすぎ?でしょうが、いよいよ3月、とくに「3月1日」の声を聞けば、つい書きたくなることがいくつかあります。
 一つは、言うまでもなく三・一独立運動記念日のこと。東京学芸大学から和光大学へかけての研究室メンバーでは、この日をはさんで韓国を訪問することが年中行事となった一時期があり、4〜5年続きました。毎年15人前後の旅。1日の朝、ソウルのパゴダ(塔洞)公園での緊張(今でも日本人をつかまえては難じ続ける老人たち)。またプサン郊外「広場図書院」の文解(識字)実践の話を聞いたのも3月1日でした。この日のことは、呉泰敏と江頭晃子のお二人による記録が残されています(「東アジア社会教育研究」第2号、1997年)。韓国研究への関心、持ち続けたいものです。
 あと一つは、50年前のビキニ水爆実験で第5福竜丸が被爆した日が3月1日。この悲劇は、読売新聞のスクープで全世界に伝えられたそうですが、この数日、読売はもちろん各新聞やテレビが「ビキニ被爆50年」を報じています。
 当時、杉並公民館は開館してようやく4ヶ月が経ったばかりでした。安井郁・公民館長や母親たちの読書会「杉の子会」の取組みが杉並を動かし、原水爆反対署名運動となって東京さらに日本各地に波及し、遠く世界各地に拡がるきっかけとなりました。
 杉並の公民館が、平和・反核運動の胎動に大きな役割を果たしたこと、それは歴史のほんの一こまですが、日本公民館史の貴重な一頁というべきでしょう。それから50年。

1225号(2004年2月29日)
★<魯在化さんへの電話>
 風1219号(韓国からの便り)の伊藤長和さんメールに紹介されたように、滞米中の魯在化さんが韓国へ帰る途中に成田に寄って、懸案の韓国本編集の最終的な相談をしようということになっていました。
 その後、音沙汰がないので、今日午後、当方よりニューヨークに電話。ところが大失敗。時差を読み違え、先方は真夜中(午前3時?)、まったく申しわけない迷惑コール!
 それでも、すぐに起きてくれました。予定通り3月5日に帰国するとのこと。しかし、予約できた大韓航空の便がまっすぐにソウルへ、成田には寄らない。いま別の便をとるか・・・など迷っている、連絡ができなくて申しわけない、そんな話でした。
 韓国では3月から新学期。彼は、帰国してその翌日から大学の仕事が待っているようです。チケットの変更も一人だけではないので、5日は一緒にソウルに帰りたい様子。できれば次の(あるいはその次の)土曜日から日曜日にかけて、あらためて来日する案ではどうだろう、という意見でした。
 もともと慌ただしい約束でしたから、やはり無理があったのかもしれない。少々、反省。当方からもそのうち韓国訪問の意向があること、など話しました。近日中にお互いに連絡をとりあうことにして、さしあたり3月13日(土)午後、東京(あるいは川崎)で、という約束にしました。関係の皆さんのご都合如何でしょう?
 取り急ぎの経過報告まで。

1224号(2004年2月27日)
★<村田正幸さん>
 松本の一夜、村田さんのご案内、お世話になりました。梅干と卵黄の「うめたま」、なかなかの発見ですね。銘酒がことさらに味わいふかく、ゆっくりと酒がすすみました。(ホームページに「うめたま」1葉)
 最初の出会い(おそらく1995年)当時は松本市中央公民館・副館長の肩書き。その後は福祉行政へ、いま再び公民館(同市・安原地区公民館)の“職人”みたいな仕事ぶり。日本報道写真連盟・松本支部長でもあり、毎年の村田正幸フォトカレンダー「わが街・松本」、今年も催促して頂きました。有り難うございました。
 ・・・というより私にとっては、なにより料理人としてのムラタ。和光大学の学生たちが何度お世話になったことか!
 とくに忘れられない思い出は、本郷公民館での手づくり料理の歓迎会。壁に「村田レシピ」が張り出され、仕事場は料理実習室、次から次へと、すべて手づくりの料理(多くは酒の肴)が運びこまれた、あの驚き!
 地域の皆さん(たしか「本郷公民館を語る会」)と松本市公民館関係者など大勢の方々に歓迎されて、学生たちも幸せな一夜でした。

1223号(2004年2月26日)
★<無言館へ>
 2月24日朝、別所温泉から無言館(戦没画学生慰霊美術館、上田市郊外の丘の上)へ。展示された絵や作品の、それぞれに秘められた挿話が重く胸を打つ。以下、窪島誠一郎(無言館々主)著『無言館・戦没画学生「祈りの絵」』(1997年、講談社)より。
 「…古びたキャンバスから絵の具のかけらがパラパラと落ちてくる。でも、今ならまだ大丈夫、まだ間に合う、すぐに東京の修復屋さんに出しましょう、と私。まるでジグソーパズルみたいにひびわれた絵だったけれど、その絵はまだかすかに呼吸しているようだった。五十年間の長い地中生活から、まだ息のあるうち武さんの絵は生還したのだ。…」
 「あと五分、あと十分、この絵を描きつづけていたい。外では出生兵士を送る日の丸の小旗がふられていた。生きて帰ってきたら必ずこの続きを描くから・・・安典はモデルをつとめてくれた恋人にそう言いのこして戦地に発った。しかし、安典は帰ってこれなかった。…」
 
 24日夜は松本へ。村田正幸さんや小峯みずきさんとゆっくりお酒を楽しみました。25日朝、中央線で帰京。この3日間、思いもかけず東信から篠ノ井を経て松本平、そして八ヶ岳南へ、ぐるっと信州の雪山を遠望しつつ、旅らしい旅をしました。皆さん、お世話になりました。

1222号(2004年2月24日)
★<上田・別所温泉にて>
 所用あり、2月23日午後、久しぶりに信州・上田の町を歩きました。旅先で正確な年度を確かめるすべがありませんが、40年近く前、おそらく1968年か、別所温泉に泊まり、上田の自由大学運動等の歴史を調べる調査旅行で歩き回ったことがあります。国立教育研究所(当時)の『日本近代教育百年史』の調査グループ。小川利夫さんがまだ若く40歳代前半、私は30歳代後半か。国立教育研究所の久原甫さん(その後お元気かしら?)などの皆さんとご一緒でした。これをもとに小川さんは『百年史』第7巻に大正デモクラシー期の社会教育・自由大学等の項を執筆されます。当時の上田の風景を回想しながらの半日。この日、佐久平には雪が舞っていました。
 上田市立図書館での聞き取りが印象に残っています。自由大学運動と信濃黎明会を記録・証言した『枯れた二枝』(猪坂直一著)が刊行されていて、図書館では,100円で頒布していました。図書館の横には、点字図書館、自由画教育・農民美術運動の「山本鼎記念館」があり、そのすぐ隣には市立博物館も。当時の市立図書館の古い大正建築は、いまは石井鶴三(彫刻家)美術館となっていました。
 上田市は公民館活動も活発でした。それに図書館・博物館あり山本鼎記念館あり、「上田は面白い町だ」と故伊藤寿朗に話したことを記憶しています。彼はまだ法政大学々生、大学紛争真っ只中の東京学芸大学に訪ねてきて、学生たちがカリキュラム反対のデモをしている横で「上田市調査に挑戦してみては・・・」などと語りあいました。それが博物館問題研究会(博問研)初期・上田調査のきっかけとなったようです。
 この夜、久しぶりの別所温泉。

1221号(2004年2月23日)
★<今帰仁村『じゃな誌』>
 数日前、今帰仁村(企画振興課・小那覇さん)から書籍小包が届きました。1月末の講演会の写真や新聞記事と一緒に、謝名区の字誌『じゃな誌』が同封されていました。講演会で話を聞いていただいた松本区長さんが役場まで届けられたとのこと、有り難いことです。
 実は、以前に『じゃな誌』(1987年)は一度入手した経過があります。当時の東京学芸大学研究室の図書として受け入れました。字誌など一般の出版流通ルートで購入できないものは、沖縄調査の途次に立ち寄って直接入手し、あえて公的所蔵資料の手続きをとってきました。しかしその後、研究室ではどの程度利用されているのかな?と思ったり、かくいう当人も、研究室から離れると、実際にほとんど利用できなくなってしまいました。
 1月28日、今帰仁村中央公民館での講演会・交流会の席上、そんな事情をお話ししたところ、与那嶺の区長さんからは、早速『与那嶺誌』(1995年)をご恵贈いただき、今回はまた『じゃな誌』を送っていただいたという次第。ご好意しみじみと有り難く、御礼申しあげます。
 この数日、暇をみては、頂いた字誌をめくっています。写真や地図がしっかりと添付され、それぞれに個性的な編集。『与那嶺誌』には区出身の仲宗根政善先生や霜多正次氏(作家)の記述等もある豪勢なもの。『じゃな誌』は戦後公民館の定着過程資料としても興味深い。あらためて“地域史”の豊かな世界を実感させられています。

1220号(2004年2月20日)
★<「東アジア社会教育研究」第9号に向けて>
 1996年に創刊した私たちの「研究」、今年で第9号を迎えます。創刊当時は、文字通り無からの出発でした。書き手も読み手も、お金も技術も、何もないなかで、あるのは“テーマ意識”と“心意気”だけ。
 第1号の「創刊の辞」には、こんな風に書いています。
 「…私たちの思いを満載して『研究』は船出する。まずは3年、いや5年から7年、持続できればと考えている。ご支援をお願いする」と。
 まずは3年・・・というのは正直な気持でした。ところが思いのほかの継続、おかげさまで今年は第9号を出すことになったのです。これから半年、例年の格闘が始まります。何もないなかから何かを創り出す−虚像を実像化する−苦しみと喜び、苦労のし甲斐いもあるというもの。編集委員の皆さん、「南の風」の皆さん、ぜひとも積極的なご参加とご支援をお願いいたします。
 これまでの歩みは、言うまでもなく内田純一さんの奮闘あってのこと。内田さんはこの4月に東京から高知へ異動します。高知大学への栄転です。3月18日の第9号編集会議のあとは、3月定例研究会(内田報告)、それに続く「内田さんを囲む会」、もちろん、お祝いの会です。今から予定に入れていただき、ふるってご参加下さい。
 これからの「研究」編集事務局の重責は、上記呼びかけのように、石倉祐志さんが担っていただきます。北海道から沖縄まで、そして中国・韓国・台湾の関係者も含めて、盛大なご声援をお願いいたします。

1219号(2004年2月18日)
★<「留学生との出会い」日中教育研究交流会議への報告>
 日中教育研究交流会議をご存知ですか?
 代表は大田堯先生にはじまり、故横山宏さん、そのあとをうけて現在は中野光さん。事務局長は新保敦子さん。昨年の大会では「留学生の出会いと交流」をテーマに、東京学芸大学時代の回想を楽しく報告させていただきました。それを文章化するかたちで、先日ようやく(おくれにおくれて)日中教育研究交流会議・事務局へ送稿。新保さんはじめ、関係の皆さんにご迷惑かけました。
 同事務局より「原稿、拝受いたしました」とのメールを頂戴しました。事務局の日暮トモ子さん(早稲田大学・院、Sat, 14 Feb 2004 01:04)。
 そのあとに「私事で恐縮ですが・・・」と、次のような一文を頂きました。小生が1995年4月に和光大学へ移ったのと入れ違いに 「・・・私は東京学芸大学修士課程・学校教育専攻(教育学講座)に入学しました。今回原稿を拝読させていただきながら、小林先生の研究室で行われていた留学生との交流のご様子を実際拝見できなかったこと、非常に残念に思いました。…」
 そうとは知らず、失礼しました。大学を離れると、そのあとの研究室とはやはり疎遠になるものですね。一度ぜひTOAFAEC 研究会にお出かけ下さい。参加メンバーは小金井時代の人たちが少なくありません。

1218号(2004年2月16日)
★<足立邦彦さんを偲ぶ会>
 昨年11月10日に急逝した足立邦彦さんを偲ぶ会(上福岡市、14日午後)。心を通わせた旧知の人たちが大勢集まりました。こんな集いがあるとき、必ず中心にいるはずの・・・彼の姿は見えず・・・「足立くん、いまどこにいるの?」とつぶやいていた3時間でした。
 遺稿・追悼集(仮称)出版についての「お願い」から。
 「足立邦彦さんがこんなに急いで逝ってしまうなんて、一体誰が想像したでしょう。社会教育が好き、沖縄が好き、モンゴルが好き、そして何よりも人が大好きだった足立さんは、多くの思い出を私たちに残して逝かれました。そんな足立さんの生い立ちを辿り、遺稿・追悼集を1周忌までに出版することになりました。
 そこで賛助金のお願いです。足立さんと一緒に学んだり、仕事をしたり、旅をしたり、さまざまな活動をした多くの皆さんにご協力をお願いします。1口1000円以上(なるべく3口以上でお願いします。3口以上の方には1冊贈呈します。)
 編集委員会委員長:太田政男(委員会メンバー・略)
 連絡先:阿部美根子(上福岡市滝3−1−42 電話049-263-7851)」  

1217号(2004年2月13日)
★<老女4人、八重山への旅>
 80歳代2人、70歳代2人、計4人の老女?たちが八重山に旅をしました。代表はもうすぐ90歳の叔母、幹事は小林富美(コンダクターと自称)。平久保の「ぶんじん歌碑」へ。
 八重山では、迎え・案内・送りなど、渡慶次賢康さんにずいぶんとお世話になったそうです。80歳代のお一人がまったく初めての沖縄なので、帰路にはみんなで那覇に1泊。ここでは上原文一さんに案内していただいて南部戦跡巡り。お二人には、もう、頭が上がらなくなりました。
 寒い沖縄、しかも連日の雨模様だったとか。しかし桜もまだ少し残っていたそうです。実は少々心配しましたが、4人とも元気に帰ってきました。いま、子どもたちより、たしかに、年寄りの方が元気ですね。 
 思わず「梁塵秘抄」の1句を思い出しました。替え歌。
 「遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけむ、遊ぶ老女の声聞けば、我が身さえこそ動(ゆる)がるれ。」

1216号(2004年2月11日)
★<E-メールが市民をつなぐ>
 8日の日曜日午後、かねて約束のH市・中央公民館・学習会に出かけました。公民館の当面する課題がいろいろ出され、とくに公民館のホームページがまだ出来ていない問題が市民の側から指摘されました。帰宅したら、当日の参加者から3通ものメールが舞い込んでいる! 感想や新たな問題提起など、なかなか面白い。昔では考えられないこと。こういうかたちで論議が拡がる時代になったのですね。
 「風」はいま6回目の誕生日を祝ったところですが、発足当時、つまり6年前は配信先を探すのに一苦労したもの。大学や自治体関係者のなかにもE-メールのやりとりが出来ない人が多かった。その状況はこの5年で大きく一変したという実感です。韓国ほどではないけれど・・・。
 学習や運動の実践技法として、IT技術がいま大きな役割を果たす時代が到来したと言えましょう。この点で、最近めざましい動きをみせているのが、横浜市磯子区の「メール・マナビン」(「学ばんとほっす」人たちのためのメールマガジン、伊東秀明さん発行)。
 横浜には公民館が設置されていないけれど、1通のメルマガと発信者の情熱が(もしかすると)停滞的な公民館よりもはるかに活発な市民ネットワークづくりに寄与しているのかもしれない、と思うときがありますね。しかし他方で、新しい情報格差も亀裂を広げている。
 伊東さんの「メール・マナビン」を紹介しておきました。希望があれば、他市にも配信していただけますか?

1215号(2004年2月9日)
★<茅ヶ崎の鈴木敏治さん、能登へ(ぶ)>
 2月7日、社会教育推進全国協議会40周年の集い(HPに写真2葉アップ)。各地から参集の方々に会いましたが、とくに茅ヶ崎の西山正子さんから『息吹き』(茅ヶ崎の社会教育を考える会・発行)263号(隔月刊、2月号)を手渡しで頂いたことが印象的。この号は「茅ヶ崎を去って石川県へ居を移す鈴木敏治さん」特集でした。
 彼との出会いは1975年前後か。ちょうど茅ヶ崎で公民館をつくる運動が動き始めた頃。あの若々しい熱情的なまなざしが忘れられません。どうして茅ヶ崎を離れて北陸へ移るのだろう。
 「茅ヶ崎が故郷になる日」によると、和光大学(当時)の経済学者・大塚勝夫氏や八重山の平田大一の生き方などに感じるところがあり、畑を耕し、版画を彫る第二の人生を志したとのこと。能登半島の冬の日本海をみた時、モノトーンの中に無限の色が秘められているのを感じ、版画は基本的に白黒でいこう、能登に身をおくことで深みのある作品を生み出せるかもしれない、と考えたそうです。
 「…茅ヶ崎で生れ育ち、職場も茅ヶ崎、人とのつながりも多くは茅ヶ崎ですから、去りがたい気持ちで一杯です。ですが、やってみたいという気持ちがあるのなら、やらなかった後悔よりやってみた上での後悔の方がはるかにいいとのことからの決断です。 … 二月九日、夜行急行に乗ります。翌十日は、能登の生活がはじまって茅ヶ崎が故郷になる日です。春からは、潮風かおる能登の大地を耕しているかと思います。」

1214号(2004年2月6日)
★<「南の風」誕生日、ご挨拶>
 2月6日は風の誕生日です。1998年のこの日に送信を開始し、5年後の昨年2月6日に1000号を達成、新【南の風2003】となりました。風の同人はいまちょうど80人。この1年に新しい参加が増えました。古くからの方々ともども、この間のご愛顧、ご愛読?に感謝しています。
 計算しますと、この1年間に214回の配信、平均1.7日に1回の風、やはり少し吹き過ぎですね。せめて隔日の発行にとどめたいと思いながら、話題があると、つい連日の風となってしまいます。恐縮しています。それだけ動きがあり、皆さんからの交信があるからだ・・・とご容赦願います。
 2週間前の1203号にも書いたように、風は“双方向に吹く原則”、この機会に一方的な送信となっている方への配信を控えさせていただきます。その方々には、あらかじめ別便で確認のメールを差し上げ、ご返報がない場合、送信帳からアドレスをはずさせていただきます。前もってご来信あれば、助かります。
 何よりも「風」が迷惑メールとなることを恐れています。もし風が不用の場合、ぜひご一報下さい。ご辞退、大歓迎!
 風メンバーが確定した段階で、あらためて名簿一覧を掲載しようと思っています。
 皆さんのまわりの風を、ご遠慮なく、こちらの風にお寄せください。
甘口、辛口、どんな味でも結構です。自由で気軽な“ひろば”づくりを心がけていくつもり。

1213号(2004年2月5日)
★<平井さん一家の闘い、拍手なりやまず!>
 平井さん一家の裁判闘争については、これまで「赤い花、白い花」や山口真理子さんの傍聴記録等で、ご存知の方が多いと思いますが、あらためて概要を知りたいとの声あり、1週間おくれですが、埼玉新聞の記事(判決報道)を紹介しました。風1211号の山口さん「判決傍聴」記録とあわせてご覧下さい。
 と書いたところで、上記・平井教子メール「川越市が控訴せず」のニュースが届きました。よかった! 平井夫妻の「ほっとしている」「うれしい」の感想が、ますます実感として伝わってきます。
 たまたま教子さんと里沙ちゃんの写真が、TOAFAEC ホームページ1月スケジュール・新年会(1月11日)のところに出ています。ちなみに教子さん(旧姓・園田)は東京学芸大学・院卒、現在は鶴ヶ島市教育委員会・社会教育主事。     →写真・こちら
 思い起こせば、教子さんから裁判のこと、支援者の皆さんと「赤い花、白い花」を発行すること、などのニュースが「南の風」に載ったのは、2000年末(風601号、同年12月26日)のこと。あれから3年あまり。よくぞこの日まで頑張ってこられました。拍手なりやまず!
 これからも新たな課題への挑戦が続くことでしょう。さらなる声援の拍手、聞こえますか?

1212号(2004年2月4日)
★<「南の風」の配信ミス(ぶ)>
 この1ヶ月あまり、黄丹青さんに「風」が届いていないとの連絡を受けて、最初は気楽に「黄さんのパソコンの問題だ」と。しかし、次第に「いや、もしかすると・・・」という疑念、そして驚愕!
 調べてみて、明らかに当方のミス(削除すべきアドレスの隣の黄アドレスをうっかり消してしまっていた!)ということが分かりました。ほんとに申しわけない。他にも同じような錯誤があるのではないか、と気になっています。お気づきのことがあれば、ぜひ早めに教えて下さい。
 ときどき全く知らない人から(おそらくホームページを見て・・・)配信希望が寄せられますが、顔が見える関係を基本にして、送っていません。他方では、よく知っている学生から「先生、送ってよ!」と声がかかります。しかし学生には送らない原則。風は“おとな”の世界で吹いていきたい。
ただ一人だけ、その熱意に負けて、送信してきた例がありますが、その人はいま一人前になっている、さて誰でしょう?

1211号(2004年2月2日)
★<辺野古の浜に800人>
 30日の朝、やんばる巡りの旅最終日、私たちは辺野古の浜に立ち寄りました。何ごともない浜、闘争小屋に誰もいないひととき、静かなムラのたたずまい、さんさんと朝の陽光がふりそそいでいました。この浜が、これからどう激変するのか、と思いを馳せたのでした。
 私たちが離沖した翌日(31日)、辺野古には約800人が集まったそうです。平和団体や労働団体などで組織する日本平和大会実行委員会による市民交流集会。北海道から奄美大島までの全国からの参加。市内の高校生や基地建設に反対する市民たちも。「海上基地建設阻止」の連帯を呼び掛け、会場には拍手が鳴り響いたと報じられています。
 地元の平和団体「命を守る会」の金城祐治代表は「地元に帰ったら日本の大変な問題が、ここ辺野古にあると報告してほしい。そして国民が声をそろえ、政府の横暴なやり方を止めさせよう」と訴えたそうです。(沖縄タイムス 2月1日朝刊)
 ジュゴンも泳ぐという安らかな海を守りたいもの。思い出しました!
私たちの『おきなわの社会教育−自治・文化・地域づくり』(エイデル研究所)の扉の地図には、辺野古の沖にジュゴンが、慶良間の海にはクジラが泳いでいますよ。中村誠司さんが画きました。

1210号(2004年2月1日)
★<ホームページ更新>
 30日夕刻、羽田に着いて、その足で1月定例研究会へ。比嘉佑典さん(東洋大学)の久しぶりのお話。独特の佑典節はますます冴えて、面白い研究会となりました。さきほど石倉祐志さんからの「報告」が届きましたが、次号にまわします。ご了承を。
 31日朝、寒い東京のスケジュールが始まりました。風はさすがに厳冬の冷たさ。亡兄の49日法事で富美さんは九州に出かけて留守。冷え冷えした我が家。溜まった郵便物、聞くだけでうんざりする留守電。やはり沖縄訪問の疲れも。
 午後は別用をさぼって和光大学へ。お世話になった鈴木勁介さん(言語社会学・教授)の最終講義でした(一緒に岸田秀・教授も)。和光の大きな講義室は満杯。懐かしい顔も少なくありませんでしたが、パーティはパスして「のむぎ」へ。和光・旧プロゼミ有志との久しぶりのコンパでした。
 沖縄から毎日続くお酒。美ら酔い?の気分でホームページ更新。写真もいくつか入れました。ご覧ください。

1209号(2004年1月30日)
★<那覇空港にて>
 29日(木)の行動記録。
 朝9時過ぎ屋部公民館へ、岸本区長と比嘉久さん。その後、源河のアユセンターで聞き取り。ここで伊東秀明さんと別れる(上記)。北上して大宜味村・喜如嘉公民館へ。平良宏・教育長(もと社会教育主事)と同区長さん。奥間・道の駅で昼食中、山城千秋さんが合流。
 午後は(予定の1時間遅れで)国頭村奥公民館へ。島田館長ほか。同区の民具資料館・共同店の見学。甘いタンカンをたくさんいただく。その後、東回りに南下。雨のやんばる路。各集落に残っている共同売店に興味をそそられながら、底仁屋へ。島袋区長は正敏さんの弟。その後、名護への道。予定の辺野古・ヘリ基地建設予定海岸は翌日まわし。
 名護では名護市史「民俗編」の沖縄タイムス出版文化特別賞受賞の祝賀会に同席させていただく。ビールうまし。中村誠司さんも交えて、再び大国林道(1号店)で遅い夕食。山城千秋さんは車を捨て「菊の露」。旅の終わりの語らい。松岡さん元気。中村愛子さんの顔も。
 30日(最終日)。前日の積み残しの辺野古を経て、宜野座より高速に上り一路那覇へ。皆さんと別れて、いま空港でビール飲みつつ、この記録を書いています。寒かった沖縄も、少し歩けば汗ばむほどの暖かさ。那覇公設市場へお土産のサーターアンダーギーを買いに寄ったときなど上着をぬいで春の気分でした。
 那覇、南風原、宜野湾、読谷、とくに名護・今帰仁・やんばるの各位、いろいろと有り難うございました。美若忠生さんはじめ同行の方々、お世話になりました。夏の全国集会・分科会の準備の議論もあり、有意義でした。再会を楽しみにしています。

大国林道にて。右側に山城秀夫(赤シャツ)、隣に松岡伸也、下に(顔だけの)美若忠生の皆さん(040127)


1208号(2004年1月29日)
★<名護にて>
 27日朝、空港に横浜の伊東秀明さんを迎えて一路北上。一行6名。宜野湾・佐喜真美術館を経て読谷・波平区へ。「経済門・文化門」に迎えられるかたちで知花治雄さん(もと区長、村議)よりの聞き取り。ぶんじん以外は、沖縄字公民館の実像にふれるのは初めて、興味しんしんの様子
でした。沖縄の寒気はかなり和らいだものの、残念ながら雨模様の1日。
 夕刻に名護着。すぐに大国林道1号店での大歓迎会となりました。2002年・社会教育研究全国集会の沖縄側事務局は総揃いの感。懐かしい限り。とくに岸本チカラのサンシンが格段に上達していて感激でした。島酒之会・副会長でもある大国林道オーナー・山城秀夫さんからの古酒もまた格別。収入役・稲嶺進さんは弾き語りで「二見情話」。
 28日は、今帰仁村湧川区公民館、上運天公民館を経て、上記・古宇利島へ。取れたてのシマダコで昼食。午後、久しぶり赤い柱の今帰仁村中央公民館。同村区長会と古宇利島しまづくり実行委員会の共催による「沖縄・やんばる・今帰仁の字公民館と地域づくり」研修会、1時間あまり話をする機会をいただきました。そして区長(字公民館長)さんたちと交流会。日も落ちて崎山の「あしゃぎ」見学(昨年の葺きかえ)。
 中村誠司・愛子ご夫妻には、終日ご案内いただき、お疲れさまでした。有り難うございました。この日、今帰仁村中央公民館初期の職員・仲尾次吉澄さん(玉城勝雄さんと同僚)との27年ぶりの再会があと一つの収穫でした。現在は今帰仁村収入役。名護市も今帰仁村も、かって社会教育で活躍した人が収入役をつとめていることになります。
 山城千秋さん(九州大学)からのメール(Wed, 28 Jan 2004 13:52)。「…略…今晩の便で沖縄に帰り、明日は名護で小林先生をはじめ、正敏さん・誠司さんとお会いする予定です。名護のさくら祭りがちょうど30日から始まるようで、一足先に花見が楽しめるかもしれません。 …略… 私は沖縄で、凍えた心と体を溶かしてきます。」

★<赤い花、白い花・裁判速報(28日午前、平井メールに関連して)>
 この日10時過ぎの船で、中村誠司・愛子夫妻のご案内により、沖縄・やんばるの古宇利島へ。島に着き、迎えの小浜美千子さん(区長)の車に乗ったその時、ケイタイの着信メロディ「島歌」が鳴りました。
 裁判を傍聴していた山口真理子さんから、「判決が出ました!」と。全面勝訴ではないけれど、被告(川越市役所)の責任を厳しく追求し、賠償支払いを求める内容とのこと。なんとも感動的な電話でした。原告の平井教子さんや傍聴席の皆さんたちも、胸にこみあげるものがあった由。情景が目に浮かぶよう。こういう判決が、海を越え南の風にのって、美しい古宇利島に伝えられる! あらためてケイタイの威力を実感した次第でした。いいニュースを有り難う!

1207号(2004年1月27日)
★<寒気和らぐ沖縄・那覇にて>
 26日午後、沖縄に着きました。美若さん(岡山)、松岡さん(貝塚)、竹沢さん(松本)、鷲尾さん(石垣)など。横浜の伊東さんは27日早朝の到着。夜は上記メンバーと那覇・宜野湾の皆さん8人ほど、久しぶりに「あんつく」に集まりました。総勢十数人、賑やかな夕食会でした。そのあと久茂地「苗」でまた1杯。明日からやんばる・今帰仁へ行く話をしていたら、「苗」のご夫婦が、象グループや故大竹康市氏の想い出を語り始め、ちょっと感傷的になって、お開きとなりました。少々の酔いもあり、本日の「ぶんんじん日誌」はこれにておしまい。

1206号(2004年1月26日)
★<原水爆禁止署名運動から50年>
 昨年は、杉並公民館創設から50年でしたが、今年は第五福竜丸がビキニ環礁で被爆し、公民館を拠点として杉並の女性たちが原水爆禁止署名運動に立ち上がって50年の年にあたります。ということは、日本の原水禁運動も50年、半世紀の歳月をたどったことになります。
 今日(25日)の朝日新聞は、創刊125周年の特集として、「第五福竜丸は死なず」という記事を掲載しています。「死の灰」を浴びて十数年、東京湾のごみ埋め立て地で係留されていた第五福竜丸を「原爆ドームを守った私たちの力で」保存しようと訴えたのは、朝日「声」欄に載った1通の投書でした(武藤宏一「沈めてよいか、第五福竜丸」1968年3月10日)。
 その3日後、同じ「声」欄に当時54歳の主婦だった東京都杉並区の安井田鶴子さんの投書「福竜丸生かす道を」が掲載されました。「半分かたむいたまま波に打たれていた船の、寂しそうな姿がいまも忘れられません」と印象をつづり、「船を生かす道を考えましょう」と呼びかけたのです。安井さんはビキニ事件が起こったとき、全国へ広がる原水爆禁止署名運動を杉並で始めた母親たちの一人(杉並公民館長・安井郁氏夫人)でした。
 その後も、保存に賛同する投書が相次ぎ、間もなく、美濃部亮吉・東京都知事は陳情を受け、第五福竜丸の保存を決定。夢の島公園に展示館が開館したのはようやく1976年のこと。
 当時、原水爆禁止運動の政党間不信・分裂が続くなか、市民の「声」と運動がこのような展示館を実現させたことになります。そのことの意義をしみじみと考えさせられた朝でした。

1205号(2004年1月25日)
★<米軍演習地に反対する集落の闘い>
 ここ数日の沖縄のニュースは、金武町伊芸区住民たちの激しい怒りの動きを伝えました。高速道路をはさんで隣接する演習地、そこに建設されようとするゲリラ戦訓練施設に反対する集落の闘いです。
 今から25年前にも似たよう状況がありました。基地被害に対して地域ぐるみの抗議集会が開かれていたのです。1978年には、キャンプ・ハンセンの廃弾処理場から砲弾の破片が13個もとんできた、1980年には米軍演習による山火事が4日間も燃え続けた。そういう中で、演習即時中止、演習場全面撤去、被害完全保障、美しい緑と爆音のない平和な教育環境を取りもどそう、などのスローガンを掲げて、区民総決起集会が開かれていました。
 伊芸区の旧公民館(木造)の2階には、字運営の図書室がありました。1973年秋、701冊の蔵書でスタート。わずか99平方メートルのささやかな空間ながら、そこには、演習地に隣接した集落の「子どもたちに緑と本を」(安富祖リエ子、「月刊社会教育」1981年7月号)という大きな夢が託されてました。伊芸区の戸数は148戸(当時)。
 原稿を依頼したとき、安富祖さんは「伊芸区公民館図書室司書」の肩書きで書いてくれました。平良研一さんや当間ふじ子さんと車をとばして公民館図書室を訪問した日をまざまざと思い出します。
 ところで、1月23日午後、天皇・皇后は5年ぶりの沖縄入り。この日の沖縄タイムス・夕刊は次のような記事を載せています。「戦闘機飛ばず/米軍嘉手納基地では23日、戦闘機の離着陸が確認されず、通常より静かな一日となっている。平日の金曜日に戦闘機が飛行しないのは異例。同基地報道部は“通常の訓練スケジュールで、天皇、皇后両陛下の来県とは関係がない”としている」

1204号(2004年1月23日)
★<春節、日中学院へ>
 22日午後、来日中の張林新(山東省・烟台日本語学校長)と日中学院へ。飯田橋の駅からすぐ、小石川後楽園のそば、いい場所です。昨年6月にはTOAFAEC 総会々場として部屋を拝借しましたが、その折りご挨拶した吉田隆司・副学院長と久しぶりにお会いしました。
 「先生はいつも“突然”現れる方ですね」と言われてしまいました。実は、その前夜、小林夫妻と張林新、それに春節で帰省中の工藤千佳良(同校教師)と一緒に夕食中、日中学院・胡興智を訪ねて、烟台日本語学校との連携・協力関係について、お知恵拝借に参上しようということになったのです。まさに突然の朝の電話で連絡がとれ、幸いに副院長にも半年ぶりに再会できたという次第。
 烟台日本語学校は生まれたばかりの新生児、日中学院は評価の定まった経験豊かな学校(1951年創立)、吉田・副院長からもいい話を伺うことができました。
 日中学院は、財団法人日中友好会館の一機関。短い時間でしたが、戦前からの旧満州国留学生施設の系譜をひく歴史の話も聞きました。残余の財産(土地と建物)を引き継ぐかたちで財団法人善隣学生会館の経営があり、とくに日中国交回復前は困難な時代もあったのではないかと推察しました。いまや学校だけではなく、美術館・大ホール・(ホテル)後楽賓館・貸室からなる本館をもち、日中友好会館は堂々たる風格。
 「いい学校をつくりたい」「日中にとって大事な仕事だ」と言う私に副院長は大きくうなづいてくれました。
 この日は春節、胡興智とも改めて“新年好!” お互いにこの一年の“満事如意!”を期待しあって別れました。

1203号(2004年1月22日)
★<“対話”しながら風は吹きたい・・・(ぶ)>
 近藤恵美子さんからご指摘をいただきましたが、風・前号はうっかり2度送信してしまいました。どうも失礼しました。
 来週の沖縄行きに関連して、同行の(風メンバー以外の)方に「ご参考まで」として風を送ることになり、1通だけ出せばいいものを、習い性となって、いつもの風アドレス帳で発信してしまいました。発信直後に気がついたのですが、ときすでに遅し。ボケとはこのことか。お詫びします。
 ところで【南の風】について。昨年2月上旬、風1000号となった機会に「公民館の風」を休刊、「南の風」は2003年版として新しいサイクルへ。アドレス帳も更新。風のマンネリを脱するためでした。
 メンバー数は1001号当時で約50。その後(返信のない方に送信を控え、他方で)留学生など配信希望が増えて、現在は約80人の方にお送りしています。
 “対話しながら風は吹く”“風双方向性の原則”は、皆さんご承知のことだから、その後のアドレス帳チェックはゆるやかに推移してきました。しかし、なかには迷惑メールに化けている「風」もないわけではない? 読まれていないのに吹いていくのは「風」としても不本意。
 来る2月6日に、風・新2003−4年版はちょうど1年を迎えます。その機会に・・・何らかの方法で・・・あらためてご意向を確認させていただこうと考えています。
 風はどんなメンバーに出ているのか、顔も見えないのに風は送れない、との声も聞こえてきそうなので、ときに名簿一覧をお送りしてきました(前回は1053号)。その後、送信先も増えましたので、そろそろ現メンバー一覧をお送りすべき時機か、2月のメンバー確定後に・・・と思っています。

1202号(2004年1月20日)
★<古宇利島へ、沖縄訪問スケジュール>
 風1192号・1197号等に1月沖縄訪問をご案内しました。年末年始をはさんでやや慌ただしい準備ですが、上記・中村誠司さんや島袋正敏さん(名護市)、上地武昭氏(読谷村)のご協力を得て、1月26〜30日の充実したスケジュールとなりました(ホームページ掲載)。同行は美若忠生(岡山)、伊東秀明(横浜)、松岡伸也(貝塚)ほかの皆さん。
 日程的に無理かも知れないという古宇利島への渡りも、実現しそうです(18日の中村誠司さんの電話)。昨年夏の全国集会(岡山)第21分科会で小浜美千子さん(同区長)の報告を聞いたメンバーにとっては、ぜひ訪ねたいシマです。予定当日(1月28日)運天港からの航路の平安を祈りましょう。古宇利島の「渡海(とけ)や池の水心、心安々と渡てぃ」(与那国すんかに節)の思い。ちょっと大げさか?
 那覇・南部から中部をへて「やんばる」への道を駆け抜ける旅。あわただしい行程ですが、どんな新しい出会いがまっているか、といつも期待するところがあります。かっての「おきなわ社会教育研究会」が実質的に姿を消したいま、若い世代を含めた新しい研究運動・ネットワークの可能性を模索したいもの。私たちの研究活動が、沖縄側のそういう新たな胎動に何らかのかたちで役に
立つことになれば嬉しいのですが・・。
 参加ご希望の鷲尾真由美さん、26日夜の合流は小生のケイタイへ(貴ケイタイがあれば教えて下さい)。名護の宿・山田荘は一緒に予約しました。 もし不要の場合ご一報を(那覇の宿は予約していません)。
 同じく山城千秋さん、29日午前、やんばるで合流しましょう。当日は車で来ますか? 宿の予約はどうしますか?

1201号(2004年1月18日)
★<美しい夏キリシマ>
 昨日(16日)は日本公民館学会の今年最初の理事会。終わっていつものようにビールと遅い晩食へ。放心亭(三省堂地下)が満席、やむなく店を移して入ったのが揚子江菜館(神保町)、楽しいひとときでした。
 たまたま岩波ホールの近くだったこともあり、いま上映中の「美しい夏キリシマ」の話題に及びました。手打明敏さん(筑波大学)がすぐに応じてくれました。そういえば、この人もともと九州人。
 黒木和雄・監督は、1930年生まれ。かって原爆投下前日の長崎をテーマにした「TOMORROW 明日」が印象に残っていますが、今回は故郷・宮崎が舞台。自ら体験した1945年8月の“戦争”を美しい霧島を背景に痛切に画いています。私も九州、ほぼ同じ世代の、同時代人としての情景が随所に出てきて、やりきれなくなりました。秀作。
 冒頭に出てくる米戦闘機グラマンの編隊、竹槍訓練、軍人勅諭、憲兵の横暴、勤労学徒動員、などなど。少年ぶんじんも、また同じ時期に、日本陸軍の需品廠基地に動員され、強制連行の朝鮮人と一緒に働きました。
 映画では、沖縄の少女が屋根に上って、手作りのシーサーを抱え、南の方をじっと見つめている場面が出てきます。宮崎に疎開してきているのです。
 「…あん子も沖縄で両親を亡くしたでなぁ…」
 「…霧島は好かんげな、沖縄を隠しちょっち言うて…」
 屋根の南方には、雄大な霧島連峰が連なって、沖縄が見えないのです。勤労動員先の工場では米爆撃で兄も死んでしまった。彼女は一人ぼっち。
 その兄の最後、「助けてくれ…」という仕草に、後ずさりして夢中で逃げてしまった友人が映画の主人公。黒木和雄・監督の自分史にも重なるのです。その心的ストレスに打ちのめされて8月15日を、そして戦後を迎えることになります。 


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