第19回入間地区公民館研究集会・基調講演(2005年2月18日) 
入間地区公民館研究集会実行委員会 基調講演 

   いま公民館に求められること
     −新しい時代のなかで− 
     
講師 日本公民館学会会長・東京学芸大学名誉教授 
     小林 文人 氏



1,はじめに−新しい学会の発足

 皆様、おはようございます。大変ご丁重な紹介をいただきまして、ありがとうございました。私は今の紹介のように、一時期は本当によく入間にお伺いしたことがございました。こういう大きな会場じゃありませんで、むしろ小さな会場で、あるいは合宿とか、夜一杯飲もうなんていう雰囲気のときなんかが多くて、時には激論をしたり、いろんな思い出が今突然私の方でもよみがえってまいりました。今日はこういう形でお招きをいただきまして、12時まで短い時間ではございますが、少し今の公民館の問題、公民館に求められていること、これからの公民館の可能性をどう考えるか、というようなことについて少し話をさせていただきます。いろいろ率直に言い過ぎるところがございますが、失礼なことがありましたらお許しをいただき、午後の分科会もございますので、公民館の今後をみんなで考える手がかりにしていただければと、そんなつもりで話をさせていただきます。
 きょうのプログラムに、私の肩書に日本公民館学会というのを書いていただいております。どうもありがとうございます。「公民館学会」とは、初めてお聞きになった方もいらっしゃるかと思いますが、結成されてまだ2年ぐらいです。驚かれる方もいるかと思いますね、こういう学会がまだ日本になかったのかと。そうですね、公民館数1万8,000と普通言いますが、これだけの公民館数があるのに専門学会はなかった。というよりも、日本社会教育学会という学会がございまして、そこで公民館研究をカバーしてきた。みんな、まあ、それでいいだろうということで戦後50数年来たんでありますが、建築工学の専門家の中にも公民館研究をやっている人がいますし、あるいは社会文化学会や行政学の方でも公民館に関心を持っている人がいる。一方では図書館学会もあれば、博物館学会もあるわけでありまして、この機会に公民館学会をつくろうという機運があり、四年ほど前から、準備が始まったのです。
 その背景には、先ほどの基調提案の中にもございましたけれども、戦後の公民館の蓄積が半世紀を超えた段階で、とりまく状況はなかなか厳しいと。合併問題や行政改革問題が背景に動いておりますが、そういう「自治体改革」の中で、公民館が一歩躍進するという方向というより、むしろ公民館が一般行政のなかに吸収されたり、福祉施設のなかに併呑されたり、姿を消すような自治体もございまして、一体、公民館というものをみんなでどう考えるか、そういう緊急の課題がうまれている。
 学校教育の機関として小・中学校、あるいは高等学校等の教育機関がありますね。日本の場合、社会教育の中心機関は公民館、それから図書館や博物館などという施設になりますが、そのななで特に公民館が中核的な機関であり制度であるにもかかわらず、どうもそういうような教育制度上の認識が少なく、実際の財政問題のなかでの位置づけが弱くなっている。今まで営々とつくり上げてきたものが、とくにここ四、五年で、がらがらと壊れていくような状況があらわれてきておりまして、そういう危機感とでもいいましょうか、現実の実態をふまえて、公民館の理論をもう少ししっかり専門的に組み立てていく必要を我々は痛感してきました。
 そういう課題を、学会といえば今まで大学の関係者だけでしたが、研究者だけではなく、現場の方々、あるいは公民館に集う意欲的な市民、また最近のNPOの活動の中にも公民館等にしっかり取り組んでおられる団体もいろいろありまして、そういう方々と一緒に新しい学会をつくっていこうという動きになったのです。2003年5月の創設、もう一昨年になりますけれども、いま少しずつ広がっているというような段階です。ここにも関係者がいらっしゃいますが、新しい学会の肩書を紹介していただきましたので、つい私も学会のことから話を始めさせていただきました。
 いま、いかに公民館が厳しい時代にあるか。たしかに施設はふえた、全国1万8,000を超える拡がり、それも、かなりデラックスな建物、箱物はできた。しかし、それを住民にとっての真の魅力的な学習・文化活動の拠点として育てあげてきているか。それに魂を入れていく職員体制の問題はどうか。戦後50年、公民館の職員制度については、日本は必ずしも成功してこなかったという問題があるように思います。
 図書館には図書館司書、博物館には博物館学芸員、学校にはそれぞれの教員、こういう教育施設に、あるいは福祉施設でも同じことだと思いますが、施設機能の専門性が求められるところには、専門的な力量をもった職員体制がしっかり制度的にも位置づいていくという方向、それが必ずしも拡大していない。日本では社会教育主事という専門職がありますが、この制度を生かしながら、公民館の専門的な職員集団を形成していくという方策がめざされながら、しかし現実はどうか。戦後の半世紀にわたる歳月のなかで少しずつ拡充してきたのだろうか。入間というところはそういう努力をしてきた典型的な地域の一つだと思うんですけれども、その点が果たして前進しているかどうか。入間だけではありません、例えば私が住んでいた東京三多摩の公民館についても、非常に活発な歴史を持っておりますけれども、その歴史がこういう難しい時代において、さらに一歩前進しているかと問い直せば、必ずしもそういう方向ではないようです。
 しかし、難しい時代だからこそ、これまでの蓄積に思いをはせながら、これからの展望を語りあっていく、そこが一つ大事なポイントだと思うんです。厳しい状況、難しい現実をうんとみんなで考え合いながら、しかし、どこに新しい可能性があるか、どんな展望をみんなで描きだしていくか。何がいま求められているか、そのあたりを今日は少し申し上げてみたいと思っているわけです。


2,入間との出会い(1970年代〜)

 お手元に、A4版のレジメ1枚を用意させていただきました。本当はこれは前もって事務局の方に提出して、一緒に資料集の中に綴じこんでもらうべきですが、いつも悪い癖で、話の流れを前の夜に考えるのが関の山、お許しをいただきます。今日の話の筋道を項目だけそこに書いておりますので、それを見ながら話を聞いていただきたいと思います。
 最初にも申したように、私がこの入間地区の公民館によく来ていた時期、私は国立に住んでおりました。比較的に近いということもあって、ひんぱんな交流がありました。最初の打合わせは国立の駅前だったことを憶えています。当時、東京三多摩の公民館関係者ともいろんな議論をやっておりまして、たとえば、東京「新しい公民館像をめざして」という資料を作成した時期がありました。この資料は全国でもよく読まれたものですが、1970年代の初め、その過程で入間の公民館の皆さんとの出会いがあったわけです。
 1970年代というのは今から30年前でありますから、私も30歳若かった。ここにも旧知の方がいらっしゃいますが、みんな30若くて・・・。地域も若くて、公民館の新しい動きというか、潮流のようなものが動き始めていた時期でした。入間でも狭山でも、あるいは所沢でも、もちろん富士見や上福岡や、そして坂戸や鶴ヶ島というように、それぞれの自治体で公民館の若々しい動きがありました。70年代というのは胎動期そして躍動期なんですね。
 同時にまた、入間地区というのは古い公民館の歴史を持った、例えば川越などという自治体もある。川越は日本の戦後の公民館史に残る自治体、古くから公民館の歩みを始めたところで、全国の公民館連合会・全公連の仕事をされた方々もいらっしゃるわけです。そういう点で戦後初期の源流をもち、同時に東京都近郊・人口急増の都市化の流れのなかで公民館が胎動してきた。今のいわゆる少子超高齢社会へ向けての時代ではなくて、当時は人口急増の若い世代が多く、地域に住み始めて子どもをつくって、東京に通いながら、どう子育てするか。たくさん団地ができて、地域の中で格闘しつつ、そういう人たちがさまざまな地域づくりを考える、そういう時代に、公民館がそれぞれ動き始めるわけです。時代を反映して、公民館も若く躍動的なところがありましたね。
 特に印象的なことは、入間の公民館の皆さんは「あすをめざして」という研究紀要を創刊されました。創刊号以降、入間に来ては「あすをめざして」を頂きました。私の研究室のファイルの中では入間コーナーがございまして、そこに並んでいます。全国各地のいろんな資料が並んでいますが、最近は私もちょっと南の沖縄などに動く機会が多く、それを象徴して最近の「あすをめざして」がございませんで、今日のために3冊送っていただきました。昨夜、徹夜して、いや徹夜はしておりませんけれど(笑い)、一生懸命読んでまいりました。
 この「あすをめざして」のような研究紀要を地区公連で出しているところは、全国で他にないのではないか。似たようなものを出している例はあっても、これだけ継続しているところはない。研究紀要というのは大体、大学や研究機関がつくるんでありますが、公民館関係者の力で、実践的かつ現実的な姿勢をもって、ときに理論的なものがあり、なかなかのものなんですね。
 こういうところでは大体お世辞を言うんですけれども(笑い)、決してお世辞ではあいません。日本の公民館の全体史の中でも、入間という地域がつくってきた独特の活力のようなものがありますね。何もないところから公民館をつくり出してきた活力です。お互いにいい議論をしましたね。ある夜、入間公連じゃないけれど、上福岡の人たちと合宿で行ったとき、本当に激論をいたしましたね。上福岡のなかには騒々しく方もいてね、しかし、そこはお互いに公民館をどうするかという情熱のほとばしりがあったのですね。そういう中で今の公民館の歴史がつくられてきたと思うのです。
 入間公連発行の「あすをめざして」は皆さん方お持ちですね。もちろん公民館に備えてあるはずですが、ぜひお帰りになってお読みいただきたい。ここには13集、14集、15集を持ってきました。この3冊、重いんですね。今日はどうしようかなと悩んだのですが、持ってきましたのは、やはりどうしてもご一緒に目を通したかったのです。これが15集、昨年の発行、これが14集でその2年前の刊行、特にその前の第13集、厚いんですね。重量感あふれるところがある。入間公連の皆さんで研究委員会をつくられて、ここに関係者がいらっしゃるはずですけれども、「21世紀の公民館像にむけて」という研究レポートが作成され第13集に収録されています。私の今日のテーマとぴったり、入間の公民館の歴史を振り返りつつ、これからどういうような公民館像を描くかというまとめです。たいへんな力作だと思います。
 私はこれを昨日、初めて読んだのではなくて、その前に実は知っておりましたが、あらためて読んでみて、入間の公民館のもつ水準を実感いたしました。あと一度、皆さんで読んでみては如何でしょう。入間といってもそれぞれの地域がありますから、地域の実情はさまざまですから、同じような形の公民館をつくるというようなことにはならないでしょう。しかしこれからの共通の歩みを考える上でたいへん示唆的です。私の町ではこういう公民館をつくるんだ、私のところではこういう課題に取り組むのだと、そういう重要な手がかりがたくさん含まれている。論議を一つひとつ重ねて、自分たちの町の公民館の、例えば来年度の事業計画などに反映させていく。そういう重要な課題提起の作業を、ちょうど2000年、つまり前世紀のミレニアムに、そして新しい世紀を目指して、「21世紀の公民館像」が描かれたわけであります。


3,東京「新しい公民館像をめざして」(三多摩、1973〜74年)との関連

 入間との対比で少し東京の話をします。30年ほど前に東京で「新しい公民館像をめざして」がつくられた経過についてです。東京はご承知のようにばかでかい都市で、特に都心部23区は人口約800万、しかしここに公民館は1館もないと言っていいような状況です。実は練馬区に公民館は1館あります。その前に杉並にも北区にも1館ありました。北区はとっくに結婚式場か何かに転用されてなくなりました。杉並もいまは公民館そのものとしては存在しません。
 杉並の公民館については・・・こういう話を始めますと、あとの時間がなくなりますけれども、ついでに申し上げますと、1953年の開館でした。翌年1954年にビキニ環礁での水爆実験で第五福竜丸が被曝しましたが、これを契機として杉並の母親たちが原水爆禁止の署名運動を始めました。そこから日本各地へ原水爆反対の署名運動が拡がっていって、全国で約3千5百万の署名、それが世界に拡がって、全世界で約6億人の人が原水爆反対の署名をした。世界的に大きな反核平和運動ですね。その出発は杉並、その運動の担い手は女性たち、活動の拠点は出来たばかりの杉並公民館でした。当時の杉並公民館の館長さんは、安井郁という国際法学者ですけれども、法政大学の教授、同時に杉並公民館と杉並図書館の館長をしておられました。
 安井先生のまわりに母親の読書会が生まれていました。「杉の子」会といって、毎月の第1土曜日だかに例会をもってE,H,カー「新しい社会」などを読み始めた。そこにビキニ環礁での被爆問題が降ってわいたように出てきた。何とか自分たちでできることはないかというわけで署名簿をつくり原水禁署名運動を始められるわけです。当時、杉並区議会も全会一致で反対決議、他の団体も動き始める。当時の国鉄の、たとえば阿佐ヶ谷とか荻窪とかの駅にみんなで出て、署名運動が始まるのです。それから半世紀が経過しています。ビキニ被爆が昨年でちょうど50年、広島で第1回原水禁世界大会が行われ、日本原水協が結成されるのが今年でちょうど50年。その後、原水禁運動の分裂等もありますが、半世紀の歴史をくぐってきたわけです。この運動は草の根からの動き、まさに杉並の公民館から始まったといっても過言ではありません。
 私はいま杉並に住んでおりますから、今そのあたりのところを若い人と調べ始めているんです。安井先生のお宅に行って、貴重な資料のデータベース化などに取りかかっているところですが、NHKが突然電話をかけてきて、この取り組みに関心を示したり、ある新聞記者が取材に同行したいなどの動きもあります。
 そういう歴史をもっている公民館ですが、しかし杉並区は廃止したんですね。私たちは1980年代に公民館を「存続させる」運動をしてきましたけれども、東京23区では公民館が定着してきませんでした。その重要性がわからないんですね。あれは田舎のものだ、農村の施設だというようなイメージで、ついに1989年に杉並公民館は閉館してしまいました。忘れもしない3月中旬の閉館式、杉並の公民館は立派な歴史をもっている・・・などの挨拶があって、閉館したんです。
 しかし住民の側は、公民館的なものを残そうというわけで、新しい施設建設の委員会をつくらせて論議が拡がります。確かに木造施設も老朽化しておりましたから、新しくセシオンという杉並区社会教育センターが誕生する。公民館という名称は使われないけれど、これは歴史的にも機能的にも公民館だと位置づけて、去年、私たち住民の側では杉並公民館50周年のシンポジウムをしたり、資料をつくったりしてきました。つい話が杉並のことに脱線してしまいました。
 東京の公民館に話をもどします。以上のような経過を含めて東京23区には公民館が定着してこなかった。日本の首都・東京には公民館がない。他方、三多摩の方には公民館がいろいろできてきた。ちょうど入間と似ているんです。急速な都市化、人口急増、地域に公民館がない、小平なんか古い公民館が一部あるけれども、新しい自治体にはない。そういうところで公民館をどうつくるか、が課題になってきました。三多摩に新しい公民館をというわけで、最初は職員の立場でのさかんな挑戦が続けられました。
 革新都政の誕生と注目された美濃部都政では、1970年代に図書館については一定の施策があって、補助金など出したりしたんですけれども、公民館については余り熱心ではなかった、ほとんど助成策もなかったのですね。そこで都公連・東京都公民館関係者で、公民館の可能性をどう画くか、「新しい公民館像をめざして」が作成されたのです。みんなで論議し作りあげました。その関係者で、助言者の佐藤進さんが会場のどこかにいらっしゃると思いますが、一緒に書きました。1973年から74年にかけての作業です。そこに例えば「四つの役割と七つの原則」などを打ち出したのです。その内容にはここではふれる時間がありません。
 これは多くの人たちに読まれました。当時は自治体の公民館の躍動期、公民館をどうつくるか、共通の認識にたって公民館として何をめざしていくか、そういう論議が拡がっていきました。あるいは公民館づくり住民運動のテキストにもなりました。創造期というのはやはり大事ですね。みんなで真剣に立ち向かって、それぞれの公民館づくりをすすめていこうと。東京の「新しい公民館像をめざして」という資料づくりは大きな役割を果たしました。
 全国的に読まれていくうちに、いつの間にか学会などで「三多摩テーゼ」と呼ばれるようになりました。枚方市教育委員会が「社会教育をすべての市民へ」という、重要な方向を出した文書を「枚方テーゼ」と呼び、信州下伊那の公民館主事会が「公民館主事の性格と役割」を書いて「下伊那テーゼ」と呼ばれ、それらと並んで「三多摩テーゼ」と愛称されるようになったのです。あわせて「三つのテーゼ」と言う場合もあります。テーゼという言い方は労働組合的ですから、最近の学生なんかに話をいたしますと、かたいイメージで、分かってくれないところもありますが、内容的には、公民館はこんなに面白い可能性をもっているんだという、そういうものが世に出たわけです。
 それから30年が経過したことになります。時代はかわり、当然、公民館をめぐる状況も新しく変わり、あらたに取り組むべき課題も新しく生まれてきています。


4,公民館をめぐる行政・職員と住民の関係

 「三多摩テーゼ」は多くの人に読まれて、評価も定まっているところがあります。しかし、時代が生んだこのような文書は、時代とともに、つねに新しく点検していく必要があります。幾つもの課題がありましょう。30年前に書けたことと書けなかったことがあります。いま30年たって「三多摩テーゼにかえれ」という言い方もありますけれども、むしろ、これからの新たな発展というものを求めていきたい。三多摩の方々にもそういう期待をしています。時代とともに、つねに新しく再創造していく、新しく創っていく視点が必要だろうと思います。
 三多摩テーゼでは、当時、何が意欲的に書かれたのか。いろいろありますけれども、今日の話に即して一言でいえば、やっぱり公民館というのは、行政がいかにいいものをつくるか、行政の条件整備として、きちんと職員を配置し、施設内容を整備し、住民のために、新しい公民館を地域につくっていくべきだと。そこには東京三多摩の公民館をめぐる行政側の条件整備の貧弱な実態が背景にあったのです。だから行政的にどのような方向で努力すべきかが問われた。そして住民の側は、そういう公民館に積極的に参加していこうと。 いわば行政主導の住民参加論です。職員の立場から住民の参加が説かれた傾向がある。住民はそれを学び、新しい公民館像を共有していこうと。あえて厳しい言い方をしますと、住民は読まされる側にあったのではないか。真に住民の立場で書くところまでいっていなかった、と思います。これから住民の目をもって公民館像を画くとすれば、どんな方向をめざしていくのかが課題だろうと思います。
 つまり公民館は行政がつくっていくんだと。もちろん住民の側も運動的にそれに関わる、住民の公民館づくり運動の例もあるけれども、基本は行政につくらせるのだと。そういう一つの筋がありました。
 しかし、行政がいい公民館をつくってほしいけれども、その内実は基本的に住民がつくるんだ、住民自治活動の重要な拠点なんだと、そういう住民の視点があと一つ重要になってくる。行政はそういう住民の学習を援助していく、支援していく、その方向で必要な条件をつくる、そういう関係性をもって公民館づくりを進めていく必要がある。住民の視点からの公民館像とそれを受け止める行政の役割という関係については「三多摩テーゼ」はまだ未発なところがあったのではないでしょうか。
 行政がつくって住民が受けるという関係で公民館像が定着していってはならないと思います。行政が方向を転換して、条件整備が不十分になっていきますと、公民館がだめになっていくおそれもあるわけです。国も自治体も、政治の流れによって、行政が左右されていく、信用なりませんね、何をするかわかりませんね(笑い)。特にここ4,5年など、東京都の社会教育行政も施設も大きく壊れてきました。驚くほど激しい勢いで。戦後50年ちかく蓄積されてきたものが音をたてて解体されているようなところがある。例えば、青年の家なんかなくなりましたし、私たちが大きな期待をかけてきた都立の多摩社会教育会館、またそのなかに置かれてきた市民活動サービスコーナーなどというセクションも、ここ4年、5年の間に全部なくなりました。つまり、それだけ、今の都政は社会教育を大事にしないわけです。ある政治的な方針で行政というのは冷徹に動くところがある。
 行政主体ではなく住民こそが主体となって、公民館を基本的に自分たちの施設として、その活動・内容を自分たちで創り出していく、そのために行政に何を求めていくか、そういう問いかけをしていく必要があります。住民の側の主体性やエネルギーがしっかりしていれば、たとえ行政が力をなくしても公民館の基本はしっかりしているはずです。東京の公民館の歴史では、住民こそ公民館活動の主体だという基本型を充分につくり得ないままに、公民館が元気をなくしている状況があるのではないでしょうか。こういう言い方をしますと、ここにも東京・三多摩の方がいらっしゃいますから、きっと反論もあるかもしれない。たしかにそこには、実にさまざまの取り組みがあり格闘があった、というべきかもしれません。
 しかし繰り返して申しますと、公民館は施設として行政が設置するかたちだけれども、その基本の活動は住民がつくる、その意味で公民館は住民主体の活動拠点だと。行政が学習をつくるのではない、住民自らが学習し活動していく主体なのです。そこに住民が出会い、集い、交流し、そして学び合い、いろんな文化活動を創り出していく、その拠点としての公民館だと。そのための必要な条件整備を行政に求めていく。そういう住民の主体性と行政の役割の関係性を求めていく必要があります。
 職員は行政の中にいるわけですけれども、住民との関わりをもちながら仕事をしていくという点で、職務上その中間に位置するところがある。行政の中にいて住民と関わりをもつ、その点で矛盾の立場にあり、いろんな場面で苦しむこともありましょう。両者の間で苦しむ職員のあり方が普通なのでしょう。あえていえば職員はときに苦しまなければならないんです。そういう立場にいるんですね(笑い)。実はそこが社会教育や公民館の大変おもしろいところなのではないかと思います。そういう視点から、一体どういう公民館像をつくっていくか、が課題となってまいります。


5,入間「21世紀の公民館像にむけて」(2000年)の挑戦

 そういう問題意識のなかで、さきほど申しあげた入間「あすをめざして」13号の「21世紀の公民館像にむけて」を読んだわけです。三多摩テーゼと対比して、注目すべき新しい視点が出されている。かつての30年前の東京都「新しい公民館像をめざして」に重ねてみると、公民館のこの間の蓄積、その新しい展開が見えてくるように思います。これからの日本の公民館をどう考えていくか、その方向や課題をどう見定めるか。20世紀の最後の年に書かれたものですが、21世紀に向けての重要な方向が出されたな、という感想です。その割には、案外と話題になってこなかった。日本の公民館論の一つの到達点として各地でもっと注目されていいのではないでしょうか。
 入間ではその後この文書は話題になっておりますか? 入間公連の皆さんでこれを共有の財産にし、ひとつの出発点にしてみよう、もし足りない点があれば、さらに新しく補って発展させて頂きたい。それに値するいいステップができたと思います。お手もとのレジメに「21世紀の公民館像にむけて」のなかから重要なキーワードを幾つか抜き書きしてみました。
 (1)住民の主体的な「参画」による公民館運営
 (2)「共生」の地域社会をめざす公民館事業
 (3)市民活動(NPO等)を「支援」する公民館   
(4)「住民ネットワーク」による事業展開
(5)「ボランティア」の新しい位置づけ
 (6)施設・職員に求められる「新しい役割」、など。
 もちろんこれだけではありませんが、これらは三多摩テーゼでは出てこないキーワードです。まず、(1)「住民の主体的な参画による公民館運営」。この「主体的な参画」というところに重要な意味がありますね。単なる「参加」というのではない。行政がいろんな事業を開設し、住民がそれに参加していく、これまでその積極的な参加が求められてきました。しかし、その場合でも、住民は主体ではない。客体としての参加でしかない。受け手としての参加ではなくて、みずから学習と活動をつくり出す主体的な「参画」という言葉に力点がおかれている。この括弧「 」は私がつけたんじゃなくて、「21世紀の公民館像にむけて」の中での強調点なんです。
 (2)「共生」、ともに生きる、そういう方向が求められる時代の公民館の視点。私たちの地域にはいろんな人が暮らしている、異なった立場の人とともに生きていく。同じ人たちだけで地域をつくっているのではない。異質な人たちへのまなざし、それぞれの違いの理解。そのアイデンティティを尊重しつつ、たとえば障害をもつ人たち、あるいは外国籍の人たちもふえてきている、そういう人たちを含めて、どういう地域をつくっていくのか。まさに共生の地域をめざしていこう、その方向で公民館をどうつくり出していくかという提起ですね。
 これらは30年前の三多摩テーゼでは書かれていないことです。当時、例にあげた障害者の問題については、まだ具体的は胎動していませんでした。在日の外国籍の人たちも社会教育の中にはまだ登場しておりませんでした。日本語教室などが取り組まれる流れは1980年代後半になってからです。言葉だけの問題ではなく、実際の地域のなかにそういう実態がなく、実践的な拡がりもなかったのです。
 やはり30年経ちますと、新しい地域の動きがあり、そして公民館の取り組みが生まれてきているのです。マイノリティの人たちを含めて、共生の地域をどうつくるか。そのために公民館事業はどうあるべきか。そういう課題への取り組みが生まれてきている。
 ここには公民館の新しい展開があります。形どおりのことを30年間同じように定着していけばいいというものではない。時代がかわり地域が動き、それを見つめながら、公民館の事業論を新しく発展させていく必要がある。条件に恵まれ知的に関心がある人たちだけの高度な講座をつくっていこうという発想だけではなく、社会的に不利な立場にある人や差別の問題を抱えている人たちにとって公民館に求められることはなにか。公民館がそれに寄り添うような事業論を立てていく、そこに「共生の地域社会をめざす公民館事業」のあり方が問われることになるわけでしょう。
 (3)ご承知のように、この間1998年にNPO法が施行されました。市民活動が法的な位置づけを与えられ、そのなかに社会教育はもちろん環境や文化や人権などの活動に取り組む市民団体が新しい動きを始めています。それが地域の普通の風景となりました。特別の事例ではない、どの地域にもさまざまの課題に取り組む非営利の市民団体の姿があり、これから大きな潮流となっていくでしょう。この市民活動に公民館はどのような関わりで支援していくのか。市民活動を「支援」する公民館のあり方が問われるのです。
 それと関連して、(4)住民ネットワークによる活動の拡がりがある。NPOの認定をうけている団体に限らず、さまざまの住民相互の横のつながりが生まれている。もちろん住民個々の一人ひとりによる学習も大事なんだけれども、またひとりぼっちの若者もいるんだけれども、それだけに、市民相互の、あるいは世代間の仲間的なネットワークがこれまでにない拡がりをもちはじめている。とくに入間など都市化が急激にすすんだ地域の中にある横のネットワークづくりは大事な課題であって、それと関わって公民館がどのような事業に取り組んでいくか。
  (5)ボランティアの役割については、1995年の阪神大震災等を契機として新しい展開がみられるようになりました。ボランティア元年などと言いますけれども、実は公民館では基本的にボランテイアの活動によって支えられてきた歴史がある。しかし、実際にはあまりボランティアについての理論が成熟してきたとは言えないように思います。その背景には、公民館の職員体制を充実していこうという方向とボランティアの役割論とがぶつかってきたところがあるのです。公民館事業の下請け的な立場でボランティアが位置づけられてきた側面もある。公民館の体制を充実していきたいけれども、具体的な定数や人件費の対応がなく、ボランティアに任せていくというような安易なボランティア論、行政安上がりのボランティアの実態があったのです。理論的に専任・専門職の職員体制を確立する、その課題が堅持されてきたなかで、ボランティアの本来の位置づけと役割の追求は深められてこなかったのではないか。安易なボランティア活用についての批判もあり、総じてボランティア論が弱いんです。
 公民館の本来的なあり方と結びついて「ボランティアの新しい位置づけ」をどう考えていくかが課題となってきます。専門職の職員体制を充実する論議と、ボランティア論がスクラムを組みながら、展開される必要があるのです。
 同時に職員と住民、あるいは行政とボランティアという単純な二分論ではなく、もっと多様に公民館を支える人的体制の理論を構築していく必要もあるように思います。地域にはいろんなサークル活動があり、いろんなNPOあり、あるいは専門部活動や各種実行委員や公民館運営審議会委員の方もいらっしゃる、それぞれの立場からの参画を拡げながら、公民館活動をどのように担い発展させていくか。そういう共同ないし協同の体制を、私は公民館活動を担う「スタッフ」論という言葉で考えてみてはどうかとかねがね思っているんですけれども、そこに正規の専任職員が、また嘱託や非常勤の職員を含めて、公民館側の職員のあり方が新しく求められることになる。たとえば公民館の講座学級やいろんな事業を、一人の専任職員が担当するという場合、どういうスタッフ論で支えていくか。一人の職員だけでいい事業になるはずはない。また単なるボランティアの活用論だけでは質的な深まりをもちえない。講座や学級であれば、テーマに即して講師の役割も重要になってくる。そしてこれに関わるいろんな市民の参画や協力が求められてくる。それぞれの人的な体制の「スタッフ」的な編成によって公民館事業をすすめていく、そんな新しい構図を画いてみたいと思うのです。
 そういう課題をもって、(6)あらためて公民館の施設のあり方や正規の職員の「新しい役割」を考えていく必要があるのでしょう。それは30年前の三多摩テーゼが画いたものと同じものではないだろう、あらためて新しい視点にたって公民館施設と職員論を考えていくことになるのだろうと思います。


6,公民館をめぐる状況の厳しさと住民エネルギーの豊かさ

 三多摩テーゼから30年。そこで書かれなかったこと、そしていま「21世紀の公民館像にむけて」によって提起されていること、それらについて、住民の主体的な参画、共生の地域社会づくり、市民活動支援、住民ネットワークの形成、ボランティアの位置づけ、そして新しい施設・職員の役割、などの課題を申しました。公民館の新しいキーワードが出されていると思います。もちろんこれにとどまるわけではありません。
 今日は、私はこの点だけを申しあげて、私の話を終わってもいいと思っています。あとは「21世紀の公民館像にむけて」をお読みください、と申しあげて帰ってもいいのですけれど(笑い)、せっかく来ましたので、そういう方向を押さえながら、これからの公民館が独自の施設として何ができるのか、今、公民館に求められることは何か、について後半の話にさせていただきたいと思います。といっても、残りの時間がもう気になってまいりましたが。
レジメに書いているように、あらためて日本の公民館をめぐる状況を整理しておきたいと思います。いま公民館をめぐる状況は厳しいものがありますが、同時に、それだけに公民館が果たすべき役割、その可能性への期待は大きなものがあることをあらためて確信させられます。ご一緒に確認しておきたいことは次のようなことです。
 第一には、この間、日本の公民館制度が定着し蓄積されてきている事実です。そこには半世紀にわたる歳月があります。公民館という名称の施設だけではなく、類似の社会教育施設、またコミュニテイ施設も広く設置されるようになりました。
 東京二三区では、練馬を除いて他に公民館はありませんけれども、葛飾の社会教育会館や品川の文化センターとか、さきほどの杉並の社会教育センターというような名称で社会教育施設が機能している。また各地のコミュニティセンター的なものも、公民館的施設として同種の機能をもっている。そういう広がりがこの50年、60年の間に日本各地に蓄積されてきた。
 国際的評価もなみなみならぬものがあります。日本に公民館ありと。台湾でも韓国でもまた上海などでも日本の公民館に対する注目があります。欧米の市民大学−たとえばドイツのフォルクスフォッホフシューレなど−とは違う、大学開放や労働組合の講座や職業訓練とも違う、日本独自の公民館の制度がつくられてきているわけです。
 いまベトナムで、ユネスコ関連のNGOなんですが、私の大学を出て地域開発の仕事をしている人がいます。ベトナム北部の山岳農村、そこでは「公民館」という言葉を使うそうです。地域学習センターのことです。ベトナム政府はそれに対して予算を出し、法律的な位置づけもして、みんなで通称「公民館」と呼んでいる。私にメールが来て、公民館を英語で書いたものがありませんか、みんなで勉強してみたい、日本語が分からないので、英語で書かかれたもので理解してみたいと。しかしいいものがないんですね。識字教育と関連して「寺子屋」という言葉も普及いたしましたけれども、ベトナムの山の中でも公民館という言葉が使われる、そういう時代になったのです。
 第二に、ところが先ほどの基調提案の中にありますように、公民館をめぐって厳しい状況が現れてきている。基調提案では、私はう〜んとうなって聞いていたんですけど、4ページの3に「自治体改革というものが公民館にとってどんなショックを与えているか」「公民館が公民館でなくなる危機」という表現で書かれています。「公民館でなくなる危機」、この言葉は非常に強烈ですが、みんなで論議しあうべき状況であることは明らかです。気がついたら「公民館はなくなっていた」というところは、もう幾つもの自治体で現れています。かって旧八幡市の公民館は日本一といわれていた、その北九州市で公民館は姿を消しました。福祉の施設と一緒になっちゃった。あるいは地域センターのようなところに吸収されてしまった。職員はどうなったの?公民館の職員はもう姿を消している。特に今次の市町村合併がどんな影響をもたらすか、大いに気になるわけです。合併の中で「水は低きに流れる」という傾向が公民館についても現れかねません。
 確かに今の政治の方向は、こういう自治体改革あるいは行政の民営化路線という方向で、
市場経済の原理を適用しようとする、民間でやれるものは民間に移していこう、民間的手法で経営をしていこうと。そして、午後の分科会で話題になるのでしょうが、指定管理者制度が法律的に出てきて、気がついたら、ある株式会社が指定管理者に位置づいて、公民館が丸ごと株式会社的経営に移されかねない、それを合法化する法改正なのですね。気がついてみたら、公民館は公民館でなくなる危機の中に今あるわけです。
 第三には、しかし同時に公民館は住民の視点にたつという原則も、公民館半世紀の歴史のなかで、はっきりと定着してきたと思います。行政のために公民館があるのでなく、住民のために公民館は存在するということ。行政や財政の観点だけでなく、いま住民の立場から公民館は改革されていかなければならないときでもありましょう。
 住民の視点からの公民館の改革とはどういうことでしょう。これまでつねに行政的な条件整備が求められてきた、その行政的視点だけでなく、住民の視点にたって公民館の運営や事業を新しく脱皮させていく、そのいい転機なのかもしれませんね。施設設備のあり方についても、住民にとっての公民館的施設論を新しく追求していく時期ともいえる。もともとそれは公民館がめざしてきた基本的な方向であり、行政でなく住民と地域の発展こそが公民館構想のたえざる課題でありました。
 一方で施策や行政のそういう厳しさをしっかり認識しつつ、いま一体何が公民館の基本的なステップなのか、何がこれからの公民館の展望を考えていくポイントなのか、という本質を追究していく必要がある。それは、現在の施策や行政のあり方を憂え公民館の現状を嘆くだけではなく、住民の出会いや交流の豊かさや学習と文化の広がりを確かめていく、この間の蓄積や発展に目を向けて、公民館の実像を創りだしていくという視点をもつことですね。公民館をめぐる施策の状況は厳しいという認識とともに、住民・市民の活動の拡がりからみれば、公民館は豊かに発展してきているとみることができるのではないか。もしそういう住民エネルギーの蓄積や活力が育っていない、あるいは枯渇しているのであれば、われわれは大いに嘆かなければなりません。
 それは“見方”を変えてみるということです。見方を変えれば、新しい事実が見えてくる。それを“再発見”ということができます。これまで公民館についての行政的な条件整備の低さを嘆いてきた、いつもそのことが課題であった。しかし地域の中でこの30年の間に、また行政改革が厳しく進んでいる間に、他方で地域の中でどのような住民の活動が蓄積されているか。ボランティアがどのように動いてきているか、交流や集いがどんな面白い展開をみせているか、地域の小さな集落が住民自治の活動にいかに取り組んできたか、あるいは子どもの集いなどをどのように拡げてきたか、そういう事実に目を注いでみますと、入間の各地で、そして日本各地で、地域の新たな展開が発見できるのではないでしょうか。そういう意味での市民的な交流、学習、文化の拡がりや豊かさへ着目し、公民館そのものがその豊かさのどう出会っているかがポイントだと思います。
 地域によっていろいろ違いがありましょう。しかし、嘆くだけではだめだ、批判だけから創造は生まれない、重要な事実を再発見する姿勢をもとう、ということを申し上げたいわけです。


7,新しい視点にたって課題を“発見”する

 残りの時間がわずかになりました。入間「21世紀の公民館像をにむけて」研究委員会のレポートにも課題が提起されていますが、私なりにちょっと強調したい、あるいは書いておられないかもしれないな、というような課題を幾つか申しあげて、終わりの話にしたいと思います。

1,住民の出会いと交流
 まず第一点は、あらためて住民相互の出会いと交流の重要性、その契機をどうつくっていくか、ということです。すでに申し上げてきたことですが、入間地域もかっての都市化激動の時代からさらに30〜40年をへて、いま新しい段階ともいえる。お年寄りも多くなり、かっての団塊の世代がすぐに老齢人口の仲間入り。子どもたちの少子化傾向も顕著になり、若者たちの姿も変わってきている。しかしこの地域は、年寄りにとっても子ども若者にとっても自分たちのかけがえのない“ふるさと”。そこで老後を送り、そこに暮らしをたて、子ども若者もそこから巣立っていく、そういう地域の人々の、また世代から世代への、結びつきをどのように再生していくか、は絶えざる課題です。しかも地域の状況はそれぞれ違う、同じ少子・高齢化といってもその風景は地域ごとに違うわけですね。
 かっての1960年代の都市化時代に地域の古い組織や伝統が激しく解体された時期がありました。古い地域も壊れましたが、人々のかけがえのない相互の連帯や地域の文化も失われたところがあります。それをどう新しく再生していくことができるか。その場面において公民館はどのような役割を果たしうるか、この点が、公民館の取り組むべきまず大きな課題だと思うのです。
 都市化状況をその後もひきづって、そのままだと住民みんなばらばら。出会いも交流も少なく、地域の文化も力を失ってきた状況から、どのように地域の横の広がりと縦のつながりを、そして地域的な活力を再創造していくことができるか。出会いと交流という場合、だれが一体それを創り出すのか、それはいうまでもなく住民自らです。住民が自ら取り組もうとする思いや意欲、それに公民館がどう関わることができるか。住民たちは、自分たちで何かをやろうとする可能性をもっている、だれかが持っている、しかしそれはなかなか表面に出てこない、顕在化しないかもしれません。しかし、そういう住民の内なる思いや可能性に具体化な契機をどうつくるか、というところに公民館の果たすべき役割がありましょう。公民館のそういう支援のあり方がつねに問われなければなりません。地域のなかで出会いや交流を面白く拡げていく公民館事業論を構築していく必要がある。そこから新しい地域のエネルギーを再生させていく道すじが見えてくるのではないか。

2,伴奏者としての公民館 
 公民館事業論という場合、主として学習に関わる事業論、たとえば学級講座をどう組み立てるか、といった議論が重ねられてきました。しかし、あらためて出会いや交流の事業論、あるいは学習だけではなく文化に関わる事業論を構築していくべきだろうと思っています。30年前と同じ形の学級講座だけの事業を形どうりに繰り返していくだけの公民館など、あまり魅力がありません。時代がかわるなかで公民館の事業もみずみずしく変わらなければならないと思うんですね。
住民のさまざまの地域活動や学習文化活動に関わって、公民館はどのような姿勢で動いていけばよいのか。レジメに「伴奏者」ということを書いていますが、最近のフランス研究者が紹介している言葉です。たいへん興味深いのです。
 フランスではもちろん社会教育とは言いません。社会教育という言葉は東アジアの言葉なんですよね。といっても隣の中国だって社会教育という言葉を使いません。成人教育という場合が多い。韓国や台湾などが社会教育という用語をつかい、最近では生涯学習という意味で平生学習とか終身教育といった言葉が使われています。フランスでは、地域の学習や文化の活動、つまり社会教育にあたる用語として「アニマシオン」といっている。面白いですね。アニマシオンを促進していく専門職つまり日本の公民館主事にあたる職員のことを「アニマトゥール」という。
 アニマシオンとは、英語でいえばアニメーションですね。動かない一こまの画を連続して見れば、魂が入ったように動いていく。絵が動き、人々の心が動いていく。心がどきどきわくわくする。アニマシオンとは、心が躍るような意味をもっている。早稲田大学の増山均さんは、はるか昔の「梁塵秘抄」の有名な歌「遊ぶ子どもの声聞けば、我が身さえこそゆるがるれ」を持ち出して、この「動(ゆる)ぐ」がアニマシオンの意味に近いのではないか、と説明したことがあります。外で遊んでいる子どもの声を聞くと、私の心もさわぐ、心が動く。わくわくどきどきしてくる、そういう心の動(ゆる)ぎをアニマシオンという言葉は内包していると。地域の住民の活動や文化は本来そういうアニマシオンなのだ、というわけです。
 アニマシオンの主体はいうまでもなく住民であり、青年であり子どもです。心がわくわくするような活動をどう創り出していくか。それを促進していく、それに寄り添い、ともに「伴奏」していく役割が、公民館のような施設や職員の役割だというのですね。教育的伴奏者(アコンパナトゥア)という言葉があるようです。あるいは「伴走」という言葉をあててもいいように思いますね。
 住民の学習や文化の活動は、ほんらい心が躍るようなアニマシオンの方向をもちたい、それに伴奏するようなかたちで、公民館が一緒に音楽を奏でるのだと。先に立って引っ張るんじゃない、横に付き添って、ときに励まし、ときに支えあい、一緒に心はずむ活動をすすめていく。そんな役割を果たすとすれば、具体的にはどのような公民館事業論になるのでしょうね。古いかたちの事業論から脱皮しつつ、新しい事業論をどう組み立てていけばいいのか、これからの興味深い課題だと思っています。

3,定型「学級講座」主義からの脱皮
 住民のアニマシオン的活動と伴奏者としての職員、こういう言い方には、住民に対する大きな信頼が前提になっていますね。行政が指導性をもって引っ張っていく、住民はそれに啓蒙されて成長していくという構図ではなく、住民は自らの関心や要求をもっている主体的な存在だと。住民自体のエネルギーを発展させていく、行政はその活動を伴奏するようなかたちで支援していくという関係、そういう関わりのなかで公民館の役割を考えてみようという姿勢です。住民はそれぞれが知的な主体なのです。そう位置づけると、従来までの学級講座のあり方も大きく変わってくるのではないか。
 メモにも「学級講座」主義という点を指摘していますが、全国各地で実にたくさんの学級講座が開設されてきたし、とくに最近の生涯学習関連の講座などさまざま開かれている。公的な事業としてまず学級講座が開かれている、皆さんの公民館でもそうだと思います。たいへん面白い学級講座もなかにありますね。だけれども、形ばかりの、こんなものやったってしようがないんじゃない?という学級講座も、中にはありますね。すべて型通り、適当にテーマをおいて、講師を呼んで、講師になにか話をさせて、10分か20分か質問の時間を用意して、それで1回の事業をこなしていく。終われば参加者はばらばら散っていく。市民は何かを求めているから集まって来るでしょうが、いつもね、市民は受け身で、聞かされるだけ。その次また来る。ああ、おもしろかった。何がおもしろかったのか、講師の話がおもしろかった。いや、おもしろくなかった。何がおもしろくなかったか、講師の話がおもしろくなかった、と言うだけでしかない。
 しかし講師だけとの単一の関係ではなく、また受け身の存在ではなく、住民自らの活動として、住民相互の出会い、仲間づくり、それぞれの主体的な思いや課題に関わって、どういう学級講座にしていくか。市民の活動のアニマシオンとの関係で追求していくと、どのような学級講座こそが求められているのか。市民が心おどらせ目が輝くような講座は、講師中心の受け身のプログラムからはなかなか生まれないのではないでしょうか。
 重要なポイントは、やはり学級講座の編成そのものに住民がどう参画していくか、そして住民自身のもやもやした思い、課題や要求というようなものを相互に交流しつつ学習が進められていくかどうか、という点にあるのではないでしょうか。視点を地域に拡げてみる。地域にはさまざまの課題が渦をまいています。子育てに苦労している母親もいれば、お年寄りの老後の問題もあり、あるは環境問題もある、また子どもたちの遊びや祭りなどいろいろ。地域のなかで皆で学んでいく、地域の活動をみんなで面白く楽しく取り組んでいく、みんなでどうしていこうか、などと工夫しながら、講座や事業を企画していく。みんなで企画していく、そんな視点が大事だろうと思います。
 行政や公民館側の担当者だけで企画するというこれまでの学級講座事業を脱皮していきたいものです。どんなテーマを設定するか、まわりに意見を聞いてみる、住民にも問いかける。こんなテーマでいきましょう、と方向が出てくる。たとえば、講師をどうしますか、と問いかける。講師を毎回呼ぶのはやめましょう、みんなで、わいわい語り合い、交流する時間をつくりましょう、そんな意見を大事にする。最初はみんなで自己紹介しあう、2回目もみんなでお茶を飲み語り合いましょう、課題が出てきて、3回目に講師の話を聞いてみよう、記録をとっていきましょうと。そんなリズムで、参加者が主体となって講座を運営していく、公民館側は住民側のそのような流れを尊重しながら、ともに伴奏し伴走していく、そんなイメージで考えてみたい。
 生涯学習事業や公民館プログラムが展開するなかで、いつの間にか学級講座の定型ができ上がってきました。それなりの蓄積ともいえる一面もありますが、私はありきたりの定型的な学級講座というのからどう脱皮するのかが、いま大きな課題だと思っております。
 乱暴な言い方になってしまいますが、公民館事業の全体的な構成を考え直す時期にきている。全体の事業のなかで学級講座の比重を半分にする、公民館主導による事業を全体の半分にする、半分は住民主導の事業編成に移していく、そんな思い切った発想をもってみる必要があるのではないか。公民館の事業というのは学級講座だけじゃないんですね。公民館の事業は館側だけで主催するのでもない。住民が企画したり、準備し運営したり、記録をつくったり、そういう編成がもっと考えられていい。いろいろ多様な展開を考えてみる。伴奏するというのはどういうことでしょうね。地域の活動を支援していくというのはどういうことだろう。具体的にはいろんな形態が生まれてくる。学級講座で学びあうかたちだけではなくて、たとえば、いろいろな集いを開き、あるいは交流会や文化的な行事や、小さな資料を出してみたり、ビデオを創って見る会をしてみたりなど。そういう集い、交流、文化的活動、また創作といった形態が生まれて、多様・多彩になっていく。
 同じような学級講座でも、ほんとうに住民の思いに結びつくような、その地域独自の取り組みとなるような実践としてどう創り出したいくか。そういう事例は、これまでにも実はたくさんあるんだと思うんです。まずは『あすをめざして』、よく読んでいくと、これは宝の山だと思いますね。
 この中から何を拾い出し、何を発見していくか。これだけのものを皆さんつくっておいて、飾っておくだけですか? だんだん挑戦的になってきましたけれども(笑い)、地域の実践から、入間の課題を引き出していく。入間の蓄積を基礎に、それぞれの自治体において、それから一つひとつの公民館のあり方について問い返していく。面白い可能性と活力がみえてくるのではないでしょうか。そういう視点から、時間があれば、『あすをめざして』を読みたいぐらいです。

4,地域共生の生涯学習を
 終わりの時間が迫ってまいりました。ここであらためて申しあげたいのは、メモに書いているように、日本の生涯学習の方向がおかしいことです。生涯教育・生涯学習が提唱されてすでに四半世紀。この間、何が蓄積されてきたのでしょうか。一つのパターンとなってきたのは、やはり上からの流れ、住民は受け身、ややもするとイベント式、行政や企業がおぜん立てして、太鼓をたたいて、フェスティバルというのをやる。住民を集めてなにか形は整っても、まったく魂がこもらない。一時は自治体による生涯学習計画づくりの潮流が注目されましたが、いまその活力も失せている、というのは言い過ぎでしょうか。いま金づまりで企業による生涯学習の市場づくりは一頓挫ですが、企業との関係では住民は受け手であると同時に買い手ですね。
 たとえば源氏物語をパックにして売る時代になりました。生涯学習という名で知識や文化は売られる時代、それをお金を出して買う。教育文化産業というのはそういう売り買いの関係にあるわけでしょう。買える人はいいけれども、買えない人はどうしますか? そういう契約・競争の関係ではなくて、住民相互の連帯と共生の横のネットワークをつなぎながら、地域からの生涯学習を、真の学習社会を、どう創り出していくかが課題でしょう。社会的に不利な立場にある人を含めて、ともに学ぶ仲間の輪を地域につくっていこうと。その場が公民館なんだと思うのです。
 私たちの少年時代を想い起こしますと、皆さんたちの子ども時代を考えてもわかると思いますが、子どものいろんな活動は地域の中で保障されてきた面があった。遊びも祭りも行事も周りのオジさんや青年の人たちが支えてきました。私は水泳をスイミングスクールで教わったのではないですね。隣のお兄ちゃんに教わって、近くの川で泳いで、いつの間にか泳げるようになった。遊びもそうです。いろんな体験があります。楽しいこと、面白いことは大体周りのだれかから教えてもらったような記憶があります。今はスイミングスクールに行ったりピアノ教室に行ったりというふうに、スポーツも文化も、祭りも趣味・レクリエーションも、そして受験学力もね、なんでもどこかで子どもに買って与えるというような仕組みをつくり出してきました。生涯学習は残念ながらそういう時代を拡大してきた側面があります。
 これはどこかで破綻していくのではないか。たしかに昔よりも便利な時代になりました。だけど、地域の中で、子どもたちに豊かな経験や文化を手渡しで提供していく、世代から世代へ譲り渡していく、そういう社会的な力は失ってきました。それをどう再生していくか、地域の形成力・教育力・福祉力をどう活性化していくか、そういう課題に挑戦していく必要がある。その拠点こそが公民館なのでしょう。環境問題だけでなく、こういう地域のあり方を考える点で私たちは真剣でなかったんです。そういう時代の進行は、せいぜいこの30年、私たち今の大人に責任があります。
 私のふるさとは九州、久留米というところです。子ども時代を過ごした町内で、いまは道路になってしまいましたが、小さな観音様がありました。その祭りでは子どもたちの「座」があって、子どもの組織と自治による活動がありました。お祭りのときは、もう楽しくて今でも忘れない。その祭りは戦争中でも残りました。だけど1960年代にほぼ全部つぶれました。なぜ、私たちより前の世代が戦争中でも維持してきてくれた祭りを、私たちの世代になって失ってしまったのか。そういう祭りの風景だけでなく、地域の横の関係や世代間のつながり、社会的な力が消えていったのか。そのあたりからテレビの時代になって、道路には自動車が入ってきて、子どもたちを取りまく文化が変容して、などと説明だけはしてきましたが、地域のかけがえのない社会的な関係や文化をしっかり残していく努力を怠ってきたことは否定できない。生活的な便利さを買い、社会の古い体質を振り捨てた反面、受け継ぐべき大事な社会システムを私たちは一緒に捨ててきた。
 このような時代推移の認識をもって公民館の果たすべき役割を考えると、私たちは重要な局面にたっていることに気づかされます。公民館だからこそ取り組むことができる現代的な課題の方向が見えてくる。公民館を大事な拠点にして、どんな事業・活動にこそ取り組んでいくべきかが問われているように思います。
 その意味で、たとえば鶴ヶ島市の子どもフェスティバルのような取り組みは、大きな意味をもっている。前から関心をもってきましたが、あらためて『あすをめざして』第15集の佐藤さんの文章など読んで打たれるところがありました。面白い報告ですね。地域の子どもたちのために市の教育委員会が頑張って、公民館も頑張って、もちろん地域の方も頑張って、子どもたちが生き生きとした実像で動いている。人口7万の自治体で70団体が実行委員会に加わり1万人以上が参加している、その歴史が今20年の歴史を重ねてきているというのです。

5,子どもと若者にとっての公民館
 生涯学習や公民館は、高齢社会の現実を前にして、お年寄りへの取り組みが主要な課題になってきた感がありますが、ほんらいの“生涯”という視点にたって考えれば、子どもと若者の問題にも真正面から向き合わなければならないのではないでしょうか。子どもたいは、わいわいがやがやと公民館に集まってきているでしょうか。
 レジメに公共図書館と書いておりますが、公共図書館はこの30年、大きな展開がありましたね。入間の各自治体でもいい公共図書館が設置されてきました。公共図書館の関係者と少し交流してみると教えられるところが少なくないのですが、なにより公共図書館は必ず子どもの空間と子どもへのサービスを真剣に考えているところがある。しかし公民館にはそういう理論も実践もまだ十分に構築されていません。
 小さな子どもが公民館に来るということはどういうことか。公民館がいい雰囲気でないと子どもたちは来ません。楽しいか楽しくないか、子どもたちは体でわかりますね。図書館では子どもたちに楽しい空間と、小さな読み聞かせの活動などを用意してきた。おもしろい絵本と寝っころがってもいいような自由とを組み合わせながら、公共図書館の中に子どもサービスの理論をつくってきたんです。
 統計によりますと、公共図書館の全国の利用者の半数以上が子どもたちです。公共図書館は大人の施設ですが、同時に子どもの施設としても鮮明なメッセージを出してきた。少なくとも利用者の大半が子どもであるという事実。子どもが図書館を利用することによって図書館は未来をもつことになる。しかし公民館はどうだろう。子どもには学校があるという。だって、図書館に来る子どもたちだって学校をもっている。学校に図書室もあるけれども、なぜ地域の図書館に来ているのか。児童館もありますね。しかし地域の公共図書館として、それら関連機関と連携しながら、独自の役割を果たそうとしている。
 公民館としても、同じように子どもと若者との関わりで、地域の社会教育施設としての
公民館独自の役割を考えていく必要がありますね。入間『あすをめざして』だけでなく、全国的な拡がりでいえば、さまざまの実践・運動がみられます。若者たちの“たまりば”つくりの取り組みなど興味深いものがありますし、レジメには、東京・町田市の青少年センター「ばあん」のことを記しています。

6,残された課題 −師勝町「回想法」事業のことなど
 しかしもう時間がつきてしまいました。もし時間があれば、少しでも紹介したいと思っていたのですが、できません。レジメには、さらに続けて、
○“地域”をどう考えるか−小さな地域(集落)の再発見−いわゆる自治公民館の可能性、 沖縄の字公民館、松本の町内公民館等について、また(公民館の制度としてはまったく の空白地帯の)大都市部・横浜市磯子区の小さな地域の公民館的活動、について書いて います。また、具体的実践的な課題として、
○公民館の“事業論”の構築−実践の方式化の課題について、さらに、
○行政・施設・事業の“連携”論、を記しています。

 しかし、本日はこれで終わらなければなりません。もともと少し欲張りで、せっかくの機会だ、いろんな課題や事例をお話ししてみたいという思いがあり、その上、話はつねに脱線しがちの展開となって、お分かりにくかったと思います。課題も残すかたちとなりました。お許し下さい。
 一つだけ、レジメ「行政・施設・事業の“連携”論」の項に書いている愛知県師勝町「回想法」事業についてあと数分。いま私たちが注目している自治体の取り組みとして興味深い動きです。一度、出かけていって直接にこの目で確かめてみたいと思いながら、まだその機会をもつことができませんが。
 師勝町は、名古屋市に隣接し、いま市町村合併の動きがあるようですが、社会教育関係としては今まで知らなかった自治体です。しかしホームページなど調べてみると、きわめて社会教育・生涯学習の視点からの事業が取り組まれてきている。図書館や地域博物館関係者の間では話題となってきました。師勝町の正式事業として「回想法」事業が活発に展開されているのです。
 社会教育の学習論で「回想法」といえば、たとえば歴史学習、生活史・自分史づくりなどがあげられますが、もっと広い視点から、民俗資料館や図書館も加わって、それに福祉高齢者事業や地域保健関連者も協力するかたちで取り組まれている。対象となるお年寄りについても、知的水準の高い学習というより、なかには痴呆の方なども含めた拡がりのようです。お年寄りたちは、これまで生きてきた自分たちの歩みを、当時の現物に触れながら、回想していくという方法。過去のことを思いめぐらしたりすることによる脳の活性化、痴呆のお年寄りについても、回想による脳の活性化をはかる、生き生きとした自分を取り戻そうとする療法でもあるという。ですから、学習であると同時に医療の問題でもあり、また福祉の活動でもあるんですね。「回想法」は欧米諸国より始まり、既に我が国では臨床に応用されたり、施設でも取り入れられたりしているようですが、このように町の主要事業として位置づけて、地域ケアの中に取り入れ、思い出ふれあい事業として具体的に実施していく事例は注目に値いします。回想法事業は、何よりも地域の諸機関や施設が協力し、行政が積極的に支援するかたちで動いている点が特徴的です。
 ホームページで冒頭に出てくる回想法の展開事例は、8回ぐらいの具体的な講座が方式化されています。しかし前に述べた定型化された講座ではない。第1回は自己紹介、思い出語り、会の名前を決めましょうと。2回目、小学校の思い出、教科書などを前に置いて語りあう。3回目は遊びの思い出、お手玉なんかを前に置く。4回目はおやつの思い出、おせんべいなどを置く。5回目は家事仕事、お勝手の思い出、子守とか縄ないとか。6回目、みんなでテーマを決めて、例えば縄ないとか、わらじづくりをするとか。7回目は蓄音機で昔の流行歌を聞く、8回目に思い出アルバムづくりへ。事業ではその中でビデオができていて、テキストみたいなものも用意されている。思い出の品物をいれた小さな箱が全部で15ぐらいセットになっている。標準として、この箱には洗濯板とアイロンと弁当箱とコテとそろばんと、竿ばかりとラムネと教科書とバリカンと、という具合に入っているそうで、この箱は地域だけでなく全国的に貸し出しているようです。箱当たり1週間500円、送料は別、となっています。
 師勝町には古い豪農の家を改装し「回想法センター」をつくっています。そこに昔の小学校の教室みたいなものもつくっている。単なる古い家屋の保存整備じゃない。この事業に登場する人たちはだれかといえば、保健婦や福祉のケースワーカーであったり、それから博物館学芸員や図書館職員であったり、あるいは栄養士さんであったり地域のボランティアであったり。そういう形で師勝町の高齢者向けの回想法事業が多彩な連携論で組み立てられているようです。
 最初はある図書館長から師勝町の回想法事業のことを教えられました。博物館や民俗資料館の関係者からも聞きました。一度行きたいと思いながら、私はまだ行っていないんですけれども、考えてみて、社会教育や公民館の高齢者事業がとかく単独でおこなう場合が多い。だけど、公民館だけで頑張るんじゃなくて、図書館・博物館だけにとどまらず、そこに福祉や保健婦さんや、あるいは医者や地域のボランティアの方々ともネットワークを組むかたち、そういう広がりと連携の中で、公民館とお年寄りとの出会い・付き合いを幅広いものにしていく方向がたいへん示唆的です。しかも自治体は町の第一の事業として、おそらくちゃんと経費も出しているわけでしょう。念のため、レジメに師勝町・回想法事業のホームページを書いておきました。*http://www.town.shikatsu.aichi.jp/index.html
 ただ、いままで調べた範囲では、師勝町に一言も公民館が出てこない。回想法事業などはまさに公民館事業そのものだと思いますが、実際には公民館は出てこないし、社会教育主事さんの顔も見えないようです。また学校教師も未登場です。それだけに、そのうちに実際に訪問して、いろいろ勉強させていただきたいと思っているのです。こうしてホームページなどの資料と推測でお話していることは、実際の姿とまた違いがあるかもしれません。これからの楽しみ、楽しみはまた後にとっておきましょう。

 予定の時間を4,5分過ぎてしまいました。話も駆け足、とくに終わりの方は脱兎のごとく、最後はしり切れトンボ、いつものことながらお許しいただきたいと思います。お話ししたかったことは、新しい時代のなかで公民館の可能性をみんなで考えてみたい、考えていく上での具体的な資料は、実は足元にある。とくに入間公連は、地区公民館連絡協議会として宝の山をもっておられる。それを活かして、また新しい歩みをそれぞれの地域できざんでいただきたい、そのことの期待を申し上げて、話を終わりたいと思います。
 ご清聴いただきましてありがとうございました。



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