大学と地域の出会い (和光大学 1997〜2000)   TOPページ
               *回想・エッセイ・追悼など(別ページ)
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<目次>

1,地域、社会に開かれた大学とは     
  −和光大学総合文化研究所『東西南北』  1997年
2,地域の人間発達と大学の出会い−三つのシンポジウム・解題 (2000年)       
   和光大学人間関係学部紀要・第5号 2001年
3,大学を開くことの意味ー田中征男『大学拡張運動の歴史的研究』を通して
    和光大学人間関係学部紀要・第5号 2001年
4, 大学と地域の出会い     
   東海高等教育研究所『大学と教育』第31号(2002年)小林文人

5, 沖縄との出会い、そして移動大学 (和光大学エスキス、1998)→■
6, 東京学芸大学・和光大学・ゼミ記録 →■




1,地域、社会に開かれた大学とは
   和光大学総合文化研究所・シンポジウム「二十一世紀に向けて大学のあり方を考える」
   問題提起2 −1996・5・18− (和光大学総合文化研究所『東西南北』 1997年所収)

<レジメ>
(1) 生涯学習政策の登場と大学の開放−新しい段階 *資料1
@臨時教育審議会(1984〜87)答申 −生涯学習体系への移行 *資料2
 生涯学習のための機関としての大学
A大学審議会(1987〜91)答申 −学習機会の多様化
 (コ-ス・科目登録制、昼夜開講制、大学以外機関の単位認定、社会人入学、編入学の拡大)
B中央教育審議会・答申(1990)−生涯学習の基盤整備 *資料3 
 生涯学習機関としての大学、生涯学習センタ−(関連・生涯学習振興整備法・1990)   
C中央教育審議会・答申(1991)−学習機会の多様化(大学審議会・答申) *資料4 
 公開講座、生涯学習センタ−、放送大学
D生涯学習審議会・答申(1992)−リカレント教育 *資料5 
 企業等によるリカレント教育の評価
 *この間、企業・財界側からも「生涯教育・学習の積極的推進」「社会に開かれた大学」等の提言、産学協同、大学と企業の共同研究開発等の動きが展開されてきた。 あるいは、PHP研究所・2010大学改革研究会による「大学を開くこと」の第一は「産業界との協力」であり、第2は「リカレント」と提言されている。
 *しかし、リカレント教育を実施してきたスウェ−デン(1969・パルメ)では、すでに事態は大きく転換し、リカレント教育はいま「曲がり角に立つ」という。(伊藤正純、『苦悩する先進国の生涯学習』1996、所収論文)
(2) 「開かれた大学」動向の特徴と問題点
  @これまでにない「開放」の進行と大学関係者の模索
    −社会人入学、編入学枠、聴講・科目等履修、夜間・昼夜開講制大学公開講座、
      単位互換、施設開放、生涯学習センタ−、など 
  A現実の「開放」と理念の空洞?  *イギリス・1870年代の University Extention
  B条件整備なき「開放」  *スタッフ、施設、財政、制度(1973・ILO・有給教育休暇条約)
  C大学主導による恩恵的「開放」−受け手としての市民
(3) 地域民衆大学の思想と大学を「開く」実践の系譜
  @地域のなかから大学を創る運動 
  −その歴史(大正期・自由大学運動など)
  −戦後の民衆大学運動 事例・庶民大学三島教室 *資料6
       ・鎌倉市民アカデミア *資料7
  −地域住民運動のなかで(信濃生産大学、農民大学運動、など)
  −社会教育の実践が求める大学(三多摩テ-ゼ)
  A大学改革の視点と大学を「開く」思想−三つの事例
  −岩手大学農学部(営農技術大学講座) 1975年  *資料9           
  −沖縄大学(市民大学構想、土曜教養講座、移動市民大学) 1970年代〜 *資料10
  −和光大学(市民講座、移動大学、夜間講座、ぱいでぃあ)  1980年代〜
    「少数者」とともにある大学を目指す(1978) 「学習権」保障の理念 *資料8 
 *杉山学長「大学を開くということの根本は学びたい人は誰でも何時でも大学という
         場で自由に学べるようにするということでしょう。」
(4) 大学を開くとは−いくつかの課題 
 @大学の“内なる”改革と“地域”への開放−大学改革としての開放
   −「自由な研究と学習の共同体」の創造
 A学生のキャンパス「共同体」活動と市民の学習エネルギ−との還流
   *社会人入学による効果
 B大学開放における市民自治と参加、市民協同の思想  
   −米 Community College「市民諮問委員会」  
   −庶民大学三島教室、鎌倉市民アカデミア 
 C生活・労働と科学・思想の結合−くらしを豊かに、学問・研究を鍛える
 D少数者の立場にたつ−自治体の社会教育実践との連携 
   −町田「障害者青年学級」、川崎「外国籍市民の識字学級」
    「ふれあい館」「沖縄」 −地域のなかの大学、地域はキャンパス


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○問題提起

 小林です。レジュメのほかに資料が三枚とじてすが、ごらんになりにくい小さな活字の資料になってしまって、大変恐縮ですが、お許し頂きたいと思います。梅原先生が膨大な資料を作るという情報が流れてきて、しかも一冊本である。そこで大急ぎで資料を作りました。私はいまご紹介頂きました通り、和光大学にきて間もないわけで、和光大学の歩みを改めて資料で読んでみたりしているところです。そのうち五年くらいたったら「語り合い開き合う大学開放」みたいな本が一冊できればいいなと思いながら、梅原先生のお話しを伺っておりました。

 与えられましたテーマは、地域、社会に大学を開くというのはどういうことなのか、というものです。ご承知の通り日本の大学は歴史的にきわめて閉鎖的かつ特権的な体質を持っておりまして、戦後の教育改革以降もそういう体質から抜けきれないままです。これは近代国家としての歴史を持つ他の国々の大学と比較すると、比較にならないほど閉鎖的、つまり開かれない大学であり、また現在もそうであろうと思うわけです。ところがこの十年来、日本の大学史上これまでにないほどの急激な変化が地域社会に大学を開くという事柄に関して起こってまいりました。これは先程もお話しがありましたが、文教政策の急速な動きですので、この流れを改めておさえておきたいと思います。

 大まかに申しますと、一九八○年代半ばの臨時教育審議会から始まりまして、これを起点に大学審議会ができ、それから中央教育審議会も追いかけて答申を出し、一九九○年には生涯学習振興整備法という法律ができます。それに基づいて生涯学習審議会というのが答申を出して、という風に、さまざまな大学開放の政策が次々と打ち出されてきた、めまぐるしい十年です。細かくお話しする時間はありませんし、それよりあとの方の話を聞いて頂きたいと思いますので、簡単にポイントだけ申し上げます。資料2から5をごらん下さい。

 2の臨時教育審議会のキーワードは、「生涯学習体系への移行」です。従って学校も生涯学習のための機関である、当然大学は生涯学習の機関としての役割を今後果たすべきであって、社会人の学習の場として開くべきだ、ということです。大学審議会がこれを受ける形で数年後に、学習機会の多様化を言い、コース別科目別の履修登録制、昼夜開放制とか大学以外の機関の単位を認定するとか、社会人入学や編入学の枠を拡大するなど、その後具体的な改革となって、今動いているわけであります。

 一九九○年に中央教育審議会が、生涯学習の基盤整備ということを打ち出し、大学に生涯学習センターを設置する方向を示しました。その直後に生涯学習振興整備法を作りましたが、私どもはこの法律に反対したわけであります。なぜならば生涯学習振興と言いますけれども、生涯学習関連企業の振興法みたいなところがありまして、公的なセクターの比重を見直して、民間活力導入による生涯学習のマーケットづくり、税制上の優遇措置や資金補助などをやっていくというような法律だからです。しかしこの法律は通りまして、その中に生涯学習センターも盛り込まれるはずが結果的には入りませんでした。つまりこれは民間活力論でありますから、公共的な生涯学習の条件整備はあまり歓迎されなかったのでしょう。

 しかしご承知のように国公私立大学のあちこちで、生涯学習研究センターといったものがかなり姿を現わし始めて おります。これは歴史的に新しい事態でありまして、大学の中に、都道府県が設置するような生涯学習センターとは違った、学問の自由と研究の蓄積を持った生涯学習研究センターなるものがどういうふうに機能していくか、今後注目していく必要があると思います。

 それから一九九一年に中央教育審議会の答申が出ました。これは大体大学審議会の答申を受ける形で生涯学習センターのことや公開講座、放送大学のことなどが書いてあります。資料4です。

 次に生涯学習審議会が一九九二年に、リカレント教育等について提言を致しました。リカレント教育といいますのは、OECDつまりヨーロッパ経済先進国の教育戦略の一つといっていいもので、主として高等教育機関と職場、大学教育と労働経験とをリカレント、つまり循環させながら教育のシステムを作っていくということです。これを日本でも生涯学習審議会が提起したわけですが、かなり大変なことで入試制度も変えなければならないし、大学内のいろんなシステムも変える必要があります。おそらく日本では、ヨーロッパ型のままでは成立しないと思います。しかし今リフレッシュ教育という言い方で、職場にいる人たちがリフレッシュする場としての大学、つまり在職のまま大学に入ってくるという方策を文部省は検討しています。

 こう見てきますと、急速な勢いで大学を地域に、というよりも社会に開く動きが進んできたことが分かります。しかもその社会が、企業社会の構造からいってともすれば産業界に開く方向になりがちなのが、問題といえましょう。この間企業や財界側からも「生涯教育・学習の積極的推進」とか「社会に開かれた大学」などの提言があり、産学協同とか大学と企業との共同研究の開発、それへの資金援助あるいはカンムリ講座など、さまざまな動きがありました。これが、この間の「大学を社会に開く」実像であろうと思います。

 今店頭に出ていますが、PHP研究所・二○一○年大学改革研究会の『大学改革二○一○年への戦略』という本があります。立ち読みいたしますと、大学を開くことの第一は何よりも産業界との協力であり、第二はリカレントだと書いてあります。大学を社会に開く、外に向かって開くと言うときの方向性が、この「戦略」の中にはっきりと見えているように思います。それだけに、大学を開くとは基本的にどういうことか、ということを、少しここでご一緒に考えてみたいと思っているわけです。

 リカレント教育については最近重要な報告がありました。これも二カ月くらい前に出たのですが、『苦悩する先進国の生涯学習』という本です。この中に桃山大学の伊藤正純さんがスウェーデンの報告をされています。スウェーデンでは一九六九年に当時文部大臣のパルメが、のちに首相になった人ですが、リカレント教育を提唱した。これを受けてOECDが一九七三年にヨーロッパ先進国の立場でリカレント教育を国際的に提言するという流れであります。ところがこのスウェーデンでは、すでにリカレント教育は曲がり角に立っていて、明らかに転換を迫られているという報告です。日本などではかなり楽天的に、リカレント教育つまり教育機関と企業あるいは学習と労働のリカレントを考えているわけですが、実際にはかなりたくさんの問題を持っていることの、何よりの歴史的検証だと思います。

 簡単に申しますと、スウェーデンといえども国際的な競争社会の中で一定の高度技術者を養成する必要があるわけですが、リカレント教育では初歩的なトレーニングしかできない。他方で大学の水準もリカレント教育によって向上しない、もう少し水準の高い大学教育あるいは高等教育機関といったものを作っていく必要がある。このように大学側と産業界どちらにとっても、問題が出てきました。ご承知の方もあるかと思いますが、スウェーデンでは二五歳四年ルールといって、二五歳以上で四年の労働経験をした人に対して、大学は五○%までは優先的な枠を用意するというルールがありました。現在はこれがもう五%ぐらいにダウンしてしまって、おそらくリカレント教育というのは全面的に撤回する方向なのではないか、というのが伊藤報告のポイントであります。リカレント教育をバラ色に描くだけでなく、そういう国際的な厳しい状況を見ながら、実態に即して考えていく必要があるのではないかと思います。

 資料の1に戻って見て頂きたいのですが、これは先程のお話しにもありました文部省の今年度の『教育白書』に出てくる図であります。日本の現在の「学習人口の状況」というもので、これまでにも白書に数回登場したなかなか興味深い図です。学校教育といわゆる社会教育、労働省系統の職業訓練も含めた大まかな学習人口を一覧にしたものであります。

 上の方のまん中あたりに大学公開講座の枠があって、五四万人とあります。社会人入学や生涯学習センターなども含めた数字です。人口数を見ていきますと、一番上の教育委員会などの行なう講座等の受講者数が一四七三万人、次の知事部局その他が行なう場合の数が一二三六万人、この数は最近増えています。それから民間のカルチャーセンターなどの受講者数が一九二万人、これは一時増えて今は停滞しています。こういう教育委員会などの学習人口と比べると、大学公開講座の受講者数は少ないのですが、しかしこの数は毎回の教育白書でおよそ一○ 万人規模で増えてきているのです。大学を地域社会に開くということに関して、前に申しました諸施策と重ねて見ると大きな潮流が動いている、ということをおさえておきたいと思います。

 これは前にも申しましたように、これまで日本の大学史には見られない開放の進行が、特にこの五年ほどの間に生じているということです。その過程で大学関係者のいろいろな模索や実験、あるいはさまざまの論議が行なわれてきました。具体的には、社会人入学、編入学枠の拡大、あるいは聴講制度、科目等履修制、夜間ないしは昼夜開講制、それから先程の図にありました大学公開講座、単位互換、施設開放、生涯学習センターなどについてであります

 和光大学でもこの10年ほど、市民講座や夜間講座など大学を地域に開く試みをしていますし、地方にでかける移動大学もほぼ毎年実施しています。それらは大学審議会や生涯学習審議会が打ち出してくる流れに沿って迎合的にやっていこうというわけではなく、大学を開かれたものにしようという方針は和光大学の開学の理念に内在するものだと聞いています。しかし多くの大学は、そうではない。特に国公立大学では制度的に固い構造がございまして、大学開放なんて事に今まで関心を向けた人たちも少ないと思います。そういう大学、そういった人たちを含めて、大学開放を当然の方向として考えなければいけない時代に一応なったのだと思います。

 しかしそれだけに中身が問題です。こうした大学関係者の模索を、私たちは注目していきたいと思いますけれども、なかなか状況がつかめなくて、非力を痛感いたします。例えば先程から度々出てまいります生涯学習センターは、今国立大学だけでも一五くらいできておりまして、公立私立大学にもかなり同様のものができつつある。しかし国立大学の動きを見ていますと、条件整備が伴わない中で、生涯学習のセンター作りだけが動いていくような傾向がありまして、関係者は非常に苦悩しているだろうと思います。そうした実状の調査をもう少しきちんとすることと、それに基づいて大学人として相互に問題を共有しながら良い方向を探っていくことが今求められていると思います。

 国立大学で生涯学習センターができる時に、定員削減の中、人員増はほとんど一人で、学内のやりくりで兼任者を一、二人、そして若干の経費が加わる程度です。自治体が小さな社会教育の施設を作ったとしても、四、五人は配置になるという時代にです。こういう現実的な苦悩の中で模索が続けられている、その方向をこれからも注目していきたいと思うわけでございます。

 こうした状況の中で非常に大事なことは、一言で言いますといったい何のために大学を開くのか、その理念を問うことでありましょう。理念や思想の欠落を自戒し、かつお互いに戒め合っていかなければならないということでしょう。文部省の政策による誘導の中で、ともすれば安易で空疎な「開放」が進行しつつある。公開講座をすると若干の経費がおりてくる、ならばまあ開くか、というような流れでありますとか、短期大学あたりで一八歳人口が減る中で、大学の生き残りのための生涯学習センターづくりとか、そういう成り立ちの方がむしろ実態として多いように思います。

 ここでイギリスの大学開放の歴史をちょっとお話ししたいと思います。イギリスで初めて公開講座を開いたのは一八六○年代ケンブリッジ大学で、そのあとロンドン大学やオクスフォード大学、その他の大学に波及していって、イギリスの典型的な大学が大学開放のための部局をおくようになりました。つまり大学の機能は三つあって、第一は教育、第二は研究、そして第三の機能が大学の開放(extention )ということになった。注目すべきはその最初のきっかけが大学改革の一環として大学を開くというものだったことです。

 例えば英国国教会の宗派的制限を撤廃するとか、女性の入学を認めるとか、近代大学への脱皮の中で、つまり大学改革の一つとして大学を地域に開くという初心があったわけです。その一方で地域の側でも、当時新しい労働者階級の台頭と、それを基盤とする市民運動の誕生がありました。ケンブリッジ大学の一番最初の公開講座は「北部イングランドの女性のために高等教育を促進する協議会」が、ケンブリッジ大学のある教授の講座を大学の外にイクステンドするよう運動して求めていく中で設けられました。このように地域の側の運動と大学側の改革とが出会う形で、イギリスにおける大学開放は開始されたわけです。

 そうしますと大学を開く歴史の中には、大学をどのように市民のものにするか、あるいは学ぶ側の主体の立場でどういう風に改革していくのかという理念が脈々と流れていたにちがいない。そういう点で、日本の大学史上初めてといってもいい「大学を開く」潮の流れに、改革の理念・思想は流れているか、理念の空洞といったものがあるのではないか、とそういう風に見えるわけですが、皆さんはいかがお考えでしょうか。

 次の大きな問題は、条件整備なき「開放」が進行しつつあるのではないかということです。国立大学に生涯学習センターを作るときの実態については、先程お話しした通りであります。行政改革定員枠の中でわずか一人しか認められず、それで大学開放を当面担っていかなければならない、そういう貧しい条件整備水準なのです。施設設備についても同様のことがいえます。関連した事柄で言いますと、例えば学校五日制、自治体レベルでの週休二日制に今移行しつつありますが、それらを含めて全体的な生涯学習体制への移行が、必要とする条件整備を欠落して進行しているという共通の問題があるのではないでしょうか。教育改革にはしっかりした計画と共に、教育にはお金をかけるという覚悟といいますか裏付けが必要なのです。ところが、一九八○年に国の予算の一○%だった文部省予算が、今は七・五%に低下しています。行政改革の中で文部省予算の比重が大きく後退した問題をしっかり見ていく必要があるように思います。

 あわせて国際的に見ますと、一九七三年にILOが有給教育休暇条約を採択しておりますが、日本はこれを批准しておりません。スウェーデンのリカレント教育なども有給教育休暇制度を一つの重要な手がかりとしてリカレントを進めてきたわけです。そして今苦悩の中にあるということですが、有給教育休暇制度そのものは今後生涯学習体制ないしは大学開放を推進していく上で重要な制度的拠り所であり、また財政措置を必要とすると考えられます。

 私は和光大学に来まして、私立大学の財政的な厳しさは充分承知しているつもりですが、国立大学や公的機関の固い財政機構とはちょっと違う独自の可能性もあるような期待もございます。錯覚かもしれませんが、そうした可能性があるかどうか、また可能性があるならその実現の方策をこれからも考えて行きたいと思っております。

 このように現在の日本では、政府主導の政策の下に大学開放の大きな流れが起こっているわけですが、これを受けて大学が自らを開放する段になりますと、いきおい今度は大学主導の、つまり市民に対する恩恵的な開放が主流となります。受け手としての市民あるいは広く国民は主体ではなく客体にとどまる、という問題があるように思います。そこで、日本のこれまでの近代化過程において、あるいは戦後の民衆を主体とする大学づくり、そして大学を開く運動がどんな展開であったのかを見てみたいと思います。資料6から9に、いくつかの事例をあげてみました。

 日本の大学制度が非常に固くて閉鎖的な構造であるだけに、地域の中から民衆の立場から大学を作る運動は容易ではなく、限られた事例にとどまります。戦前から言いますと、大正期の自由大学運動があります。土田杏村らを指導者として、信州の農村の青年たちが中心になって、当時の進歩的な若い学者たちを招いて学習した上田から信州に広がる自由大学運動は、昭和のファシズム期に終息してしまいます。

 戦後は例えば庶民大学三島教室の活動があります。一九四六年ですから敗戦後まもなく、衣食住にもこと欠く時代です。三島の知識人たちが「庶民大学」と名付けて「学業組合」的集団を作った。「復員学生、労働者、商店主、農民らすべて過去の学問への不信を抱き、再出発しようとしていた人々の意欲」とぴったり合って、聴講者は延べ五千人を超えたとあります。少なくとも一年は非常に燃える形でした。注目すべきことは、市民が運営委員となり、うち半数は女性だったことです。二○名近くの方々が「当時としては画期的な就学システム」を作ったわけであります。

 その少しあとに鎌倉では、鎌倉アカデミアが作られました。これは鎌倉に住む学者や文士が新しい教育を望む地元の人と一緒に作った学校で、四年ほど続きました。その精神を受けついでしばらくあとの一九七○年代に、新しく鎌倉市民アカデミアの動きが起こりました。やはり鎌倉在住の大学教師や有志グループが提唱して、地域の中で起こした学習運動です。これも関係者と市民の方々とが半数ずつ運営委員会を組んで運営と実務の両方をやる、つまり今でいえばボランティア活動でありました。

 このほかにも戦後の日本の地域住民運動の中で、いろいろな形の大学創造運動がありました。例えば一九六○年代の信濃生産大学がありますが、これはその後長野県地域住民大学と名称を変えて精神は受け継がれてきたと思います。あるいは各地の農民大学の運動や労働組合が組織する○○労働大学ですとか、また市民の住民運動の中で自立的に生まれた大学的なものや、社会教育の実践の中でも市民大学を作っていこうという実践努力が重ねられてきました。

 その一例として、私もちょっと関係しました公民館を発展させようとする「三多摩テーゼ」という取り組みがあります。一九七○年代に東京の三多摩で、公民館を地域の市民の小さな大学として位置づけようという方向を打ち出した。このような例を一つ一つ思い起こしてみますと、地域の中にはずっと自分たちの暮しのために、あるいは自分たちの農業生産のために、必要な理論とか科学思想を系統的に学ぼうとする運動がありました。地域ごとのいろいろな関係で紆余曲折をたどるわけでありますが、それぞれに具体的な特色をもった展開があったのです。

 こんどは大学の側から、大学改革の視点と結び付けて大学を「開いた」事例を三つあげたいと思います。
 一つは国立大学の事例です。資料9で岩手大学の農学部長だった石川武男氏の「農を求める」という本からの抜粋です。農民が大学の講師として教壇に立つ。学歴など問題にせず、米作りをはじめ酪農や花作りなどの農民が、大学の教壇に立って実践的経験を話すわけです。具体的な技術だけでなく、農業と農民の生きる姿を教員も学生と一緒になって生産と労働そのものから学ぶ。そして大学農学部も農民の母校になっていこうではないか、ということで農業後継者の若者を一年制の別科で育ててきた。これを四年制の「営農技術学科」にして、農業高校の推薦だけで入試を行なわないなどの構想を出しています。もう一つ、こんどは大学の先生が岩手県内のあちこちの農村に出かけて「営農技術大学講座」をやる。最新の学問や技術が農民の実践と切り結ぶわけで、この形でも大学が「農民の母校になっていく」とあります。

 石川さんは、「農民に学んでこそ教育である」と言い、農民と学者が相互に教壇に立つことを「農学部の教育と研究を考える上で、当然とるべき大学のあり方」だと書いています。大学改革の思想に基づいて「開く」例の一つと思うわけであります。

 次の事例は私立大学、沖縄大学の例です。和光大学とは学生の単位互換の近い関係を持っている大学ですが、教授の新崎盛暉さんが沖縄大学の移動大学の試みを報告しています。沖縄は琉球列島で離島の集まりであるから、それぞれの島に分校を置こうという構想です。しかし分校といい移動大学といっても、ただ本校からきた教員が講義をするだけならあまり意味はない。その地域に住む、あるいは地域に強い関心を持つ人材を発掘し活用する場と考えているのです。名護市や石垣島の移動大学で、地元の研究者や活動家がテーマの設定段階から参加し、当日は豊富な資料を駆使して多彩な講義を展開してきたのです。

 もともと沖縄大学は、「地域に根ざし、地域に学び、地域に奉仕する開かれた大学」をめざしており、市民大学というととかく啓蒙活動の面が強調されがちだが、「わたしたちが重視したのはむしろ『地域社会における市民の実践に学ぶ』という側面である」と書いています。復帰運動や基地反対などさまざまな沖縄の民衆運動に学びながら、大学の中の教育や研究を地域の人々の暮しや要求と出合わせ、相互に環流させていく、そういう考えを持った試みなのです。

 最後の一つは、和光大学でございます。先程学長の話を印象深く伺いました。いわゆる大学紛争の中で厳しく苦しい経験をしながら、最後まで誠実に学生と対応したことをわれわれは誇りに思っている、というお話しでした。その一つだと思いますが、資料8に人文学部、経済学部の両教授会合同の文書がございます。一九七八年(昭和五三年)とあります。この文書の中で、大学を地域に開く、社会に開くということが和光大学の重要な理念として苦悩の中から主張されていると思います。これは当面の課題の一つとして、障害者学生を入れること、在日朝鮮人に門戸を開くことについて、書いた部分です。教授会としては、明確な見解を持ち得る段階ではないけれど、と言った上で最後の五行で、「しかし教授会としては、在日朝鮮人学生や障害者学生を受け入れることが、和光大学の理念と教育・研究の質を積極的に問い直す契機であることを確認する。このことは、少数者と共にある大学を目指すという意味では、教学の重要な側面である」とあります。

 この「少数者と共にある大学」というのは、日本の大学のいろんな努力の中でも、和光が独自にチャレンジしてきた非常に重要な理念であろうと思います。ユネスコの学習権宣言がすべての者の学ぶ権利を保障すると述べたことは、国際的にも注目を集めています。その中で大学が一つの役割を分担するということでもありましょう。出入り自由で、学びたい人はいつでも大学にきて自由に学べる、そういう開かれた姿が理想の大学の一面だ、と梅根学長が書かれ、代々の学長もその理念を受けついでおられます。この一○年ほど、和光大学が市民講座や夜間講座、岩手大学の農学部や沖縄大学とよく似た移動大学などを積極的に行なってきたのは、そうした理念の実践化の表われであろうと思うわけです。

 時間がきてしまいました。改めて梅原さんのご報告で最初に結論を述べられたことを今学んでおりますが、私なりの結論を大急ぎで五点ほど申し上げたいと思います。

 一つは、大学の内なる改革と地域への開放が、結びついていく必要がある、ということであります。これは先程からお話ししたように、開くということは大学を変えていくということでなければならない。これを和光大学にひきつけて申しますと、「自由な学習と研究の共同体」をキーワードとして、この自由な学習と研究の共同体の創造の実践が、大学のキャンパス内だけにとどまらないで地域にまた市民にどのように開き得るのか、ということでもあるだろうと思います。

 第二は、学生がこの共同体の中で行なう学習や研究活動と、大学を開くことによって参加してくる市民の学習エネルギーとが交錯していかなければならない、ということです。和光大学の「ぱいでいあ」という公開講座施設が鶴川駅前にございますけれど「ぱいでいあ」の事を、少なくともそこで行なわれていることを学生諸君はあまり知りません。「ぱいでいあ」での市民講座や夜間講座などで学んでいる人たちと学生たちがお互いに出会っていない。学内のラーニング・コミュニティと「ぱいでいあ」でのそれとが環流していないわけです。

 私の経験で申しますと、私の授業に社会人の方が一人でも二人でも参加されていますと、授業がぐっとしまってくるんですね。社会人としてやってきた人たちが大学に帰ってきて、改めて自らの意志と自覚をもって学んでいることに教師もはげまされますし、学生も高校からまっすぐ来た同年輩の仲間にはない刺激をうけるわけです。市民の学習と学生の学習とがどういう風に交錯し環流していくべきか、ということは重要な課題だと考えます。

 三点目に、大学開放における市民参加、市民委員会の課題があります。和光大学の「ぱいでいあ」もやはり、大学側がカリキュラムを用意して、大学側がそれを市民に開く。市民はむしろそれを受け取るだけの客体としての存在です。それでいいのだろうか、そうは思いません。

 先程庶民大学三島教室や鎌倉市民アカデミアのことをお話ししました。どちらも、地域の知識人文化人といった人たちがお膳立てをして、市民はただ聴きにくるというのではありませんでした。学ぶ主体としての市民が自治的な組織、運営委員会なり諮問委員会なりを作って、カリキュラム作りにも積極的に参加していく。また、アメリカのコミュニティカレッジは全米にたくさんある大衆的な高等教育機関ですが、その平均的な状況を見ましても、地域の住民を主体とする大学への市民諮問委員会が、公共的な立場から大学の運営や教育方針などを審議し、地域の特性を生かして考えるしくみになっています。そういう市民の自治と参加をどのように実現していくかを一つの課題として考えていくべきでありましょう。地域の中に大学を拠点としてラーニング・コミュニティを作っていく、その意味で市民協同の思想と運動といっていいかもしれません。

 四点目は、岩手大学、沖縄大学が提起した課題であります。地域の生活、生産労働と学問、科学、思想との結合ということです。一方では人びとの暮らしを豊かにしたい願いを、学問や思想を活用して実現していくと同時に、もう一方ではそういう「大学を地域に開く」ことによって、地域の視点から自らの学問研究をきたえる、その結びつきであります。人間の学習と交流や協同と自治のネットワークもまた、こうした大学レベルとの新しい環流によって質的に深まっていくのではないかと思います。

 五点目は、先程申しました少数者の立場に立つということです。和光大学は一方では町田に足をおき、もう一方では川崎に足をおいておりますが、町田も川崎も私ども社会教育関係者の立場でいいますと、社会的マイノリティに向けた社会教育実践に取り組んできた、全国的に注目される地域なのです。町田には障害者の青年学級がありますし、川崎には外国籍市民のための日本語教室、いわゆる識字学級があり、また在日韓国・朝鮮人のための施設「ふれあい館」があります。そういう自治体が少数者のために行なっている学習権保障の諸施策と、同じ考えを持っている大学のやっていることとがここでも無縁のまま平行しているわけであります。この両者を出会わせ、双方の力を合わせて大きく発展することがどういう風にできるか、これも大きな課題として考えていきたい。地域のなかの大学であり、地域全体がキャンパスだということを、ほかならぬこの地域と大学で実現していけたらと思うわけです。

 実は昨年、私が和光に来ていきなり持つことになりましたプロゼミで「地域と生涯学習」というテーマを掲げまして、今申しましたような町田や川崎の施設を学生たちと一緒に訪問交流したり、また先方の方々を招いてお話しを聞くなど致しました。学生は大へん熱心に参加し活動してくれまして、一年生ですからまだまだ未熟ですけれど、大事な課題を学んだ思いです。もう時間もないので詳細は省きますが、そんなわけで私は、この第五の課題に関していささかの希望を夢みております。 以上で終わります。


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資料1 学習人口の現状(文部省 平成7年度「我が国の文教施策」 1996年) [略]
資料2 開かれた大学(臨時教育審議会第3次答申第3章第2節(3))
 大学は自主・自律の精神を堅持する一面、自らを広く社会に開放し、社会の要請を受けとめ、公共的な寄与を果たす責任を負う。
ア 大学が社会各層や地域社会の大学に対する意見や要望を徴し、また大学に対しては社会の理解と支持を求めるため、学外者の参加を得た諮問の機関ないし組織をもつことは有意義であり、その設置と活用を積極化することが望まれる。
イ 生涯学習社会において大学に期待される役割は極めて大きい。公開講座、市民講座等への協力、大学諸施設の市民への開放、大学への社会人の受け入れ等を積極化する。
ウ 情報システムの普及において大学はその重要な要素であり、それに対応する体制を整備する。
資料3 生涯学習の基盤整備について(答申)(抄)(1990.1.30 中央教育審議会)
(2)大学・短大等の生涯学習センターについて
 これからの大学・短大等は、生涯学習機関としての役割を強く期待されている。これまでにも、聴講制・研究生制度の活用、社会人特別入試の活用、通信制による教育の提供、昼夜開講制の実施、夜間等において教育を行う大学院の開設など、社会人を大学・短大等への受け入れるための取り組みが行われてきている。また、学校の機能等を社会に還元するための公開講座の開設が逐年拡充されてきているほか、図書館や体育施設の開放も推進されている。このほか、新しいタイプの単位制高等学校や社会の変化に即応した職業教育等を行う専修学校、さらには高等学校等の公開講座も、幅広い学習者を対象として新たな学習機会を提供している。
 今後、大学・短大等においては、生涯学習機関としての役割をも視野に入れて、履修形態やカリキュラムの多様化・柔軟化を進めていくことが重要である。また、放送大学の全国化との関連で、放送大学との連携・協力が図られることも必要である。
 以上のような取り組みを進めるとともに、体系的・継続的な講座の実施や大学・短大等における学習機会に関する情報の提供・学習相談など、社会人を対象とした取り組みをより積極的に行う体制として、地域の学習需要を考慮しながら、各大学・短大等の自主的な判断により生涯学習センターを開設することが期待される。
 また、生涯学習センターは、地域の実情に応じ、前記の「推進センター」等と協力して、必要な講座を開設したり、学習プログラムの研究開発を行うなど、地域社会との密接な連携を図ることが望まれる。この場合、大学・短大等の自主性が充分尊重される必要がある。
(3)「推進センター」等の名称について
 名称については、それぞれの設置者が、その実情に即したふさわしい名称を検討することが適当である。
(4)学校教育の単位へ転換する仕組み等について
 生涯学習の成果を学校教育の単位として転換する仕組み及びこれらを各種公的資格の基礎とするための方途についても検討するとされており、今後、関係審議会等との関連も考慮しつつ、更に審議を続けることとする。
資料4 新しい時代に対応する教育の諸制度の改革(答申)(抄)−第14期中央教育審議会答申− (1991.4.19 文部省) 
(2)生涯学習機関としての学校
 地域や社会の人々に対してさまざまな学習機会を提供することに関しては、前途のように特に大学・短大等において、公開講座等を拡充するとともに、学校制度の柔軟化を図り、社会人等に対して多様な学習機会を提供することが重要である。
 今後、大学・短大等が生涯学習機関としての役割を拡充するためには、次のような方策が必要である。
(大学・短期大学)
ア 大学・短期大学においては、社会人が限られた時期を有効に活用して、パートタイムの形態で教育を受けられるようにすることが必要である。このような観点から、平成三年二月の大学審議会答申において、授業科目の一部を履修して一定の単位が修得できる新たな制度として、「科目登録制」(特定の授業科目の単位修得を目的とする学生を受け入れる制度)や「コース登録制」(コースとして設定された複数の授業科目の単位修得を目的とする学生を受け入れる制度)の導入が提案されており、その実現が期待される。また、夜間大学院や学部レベルの昼夜開講制を更に拡大することも重要である。
 さらに、今後の急速な社会の変化や産業技術の高度化に伴い、社会人が大学院に入学、再入学することが増加すると予想されている。このため、既に課程の目的、入学資格、履修形態、教育方法等多岐にわたる制度の弾力化が行われたところである。今後も、これらの制度を利用し、社会人を積極的に大学院に受け入れていくことが期待される。
イ 短期大学や高等専門学校を卒業した後にも学習を続けたいとする者や、いったん社会に出た後に再び大学教育を受けることを希望する者にも、その途を開くため、社会人特別入学枠や編入学のための特別定員枠の拡大が期待される。
ウ また、大学・短期大学以外の教育施設等における学習成果のうち、一定水準以上のものを、大学・短期大学の単位として認定する途を開くことや、大学レベルのさまざまな学習成果を積み重ねることにより、最終的に大学卒業の資格を取得できる途を開くことは、生涯学習を推進する上で極めて意義が大きい。これらの方策については、第2章で述べる。
エ 大学・短期大学の公開講座については、今後、地域の学習需要の高度化に対応して、多様な教育機会を提供することが望まれる。その際、大学・短期大学以外のさまざまな教育・訓練施設と協力して学習プログラムを企画したり、新しい情報手段を利用するなどの工夫が期待される。
オ さらに、以上のような大学・短期大学の生涯学習の取り組みをより一層推進するためには、特に、平成二年一月の本審議会答申で提言した大学・短大等に設置される生涯学習センターの機能を活用することが期待される。
 この生涯学習センターは、平成二年一月の本審議会答申において、体系的・継続的な講座の実施や大学・短大等における学習機会に関する情報の提供・学習相談など、社会人を対象とした取り組みをより積極的に行う体制として、大学・短大等の自主的な判断により、開設することを提言したものである。今後、各大学・短大等が積極的に生涯学習センターを開設することが期待される。
カ 放送大学は、生涯学習機関として大きな役割を果たす開かれた大学であり、現在、関東地域に限られている対象地域を、その実績等を評価しながら全国化が望まれる。
(高等専門学校)
 高等専門学校においては、今後の産業技術の高度化に対応するとともに、地域の人々や企業の生涯学習への要請を踏まえ、その専門的職業技術や知識を地域社会に提供することが必要である。このため、科学技術の進歩、産業構造の変化に対応して教育内容の改善に努めると同時に、公開講座の充実や社会人の受け入れを一層推進していくことが望まれる。
資料5 今後の社会の動向に対応した生涯学習の振興方策について(答申)(抄)(1992.7.29 生涯学習審議会)
(1)リカレント教育の学習機会の拡充
[1]大学等におけるリカレント教育
 社会人や職業人の地域・技術のキャッチアップやリフレッシュのための教育を推進するため、大学等の教育研究機能を一層高め、リカレント教育の学習機会を積極的に拡充していくことが重要である。
 特に国際社会で活躍し得る人材の育成、高度な専門的知識・能力を持つ職業人の再教育という観点からも、大学院レベルのリカレント教育の学習機会の拡充が必要である。さらに専門的技術教育や職業教育の分野では、専門学校の機能を積極的に活用することが望ましい。なお、専門学校の卒業者に大学編入資格を認めることについて、社会人の大学における学習機会を広く確保し、産業界の技術者等の充実を図る観点からも、今後検討が進められることが望まれる。
[2]リカレント教育実施体制・方法
 リカレント教育の推進のため、公開講座の実施、出張講座の開設等、大学等が地域や産業と連携・協力しながら広く学習機会を提供することが必要である。その際、大学等でリカレント教育に当たる教員組織や事務体制等の充実が望まれる。
 また、従来の教育内容・方法では充分な対応が困難な場合も考えられるので、大学等において、社会人に対応した履修形態の多様化・弾力化、新たなリカレント教育プログラムや教育方法の開発研究等を進め、社会人の希望や意欲にこたえる教育内容を提供することが期待される。また、企業人を含めた学外の講師の活用も効果的と考えられる。
 週休二日制への移行等に伴い、社会人、職業人への学習機会の確保の観点から、大学等の教職員の勤務時間等について、十分な配慮が望まれる。
 さらに、大学等が組織的にリカレント教育に対応していくため、生涯学習教育研究センター等を計画的に整備することが望まれる。
資料6 庶民大学三島教室の活動(1946.2)
 当時東京帝大の若手グループにより青年文化会議がつくられていた。昭和二 ○年、三島市郊外の函南村柏谷に疎開していた労働法の講師木部達二氏(二三年二月二二日急性化膿性脳膜炎のため死亡、三四歳)や、地域在住の笠井章弘、河西春子氏らが構想を立て、翌二一年二月には、「庶民大学三島教室」が発足した。二二年四月に木部氏が第一回参議院選挙に立候補するまでを一つのやま場として、その間百人におよぶ講師と、延べ五千人を越える聴講者を集めたのである。
 終戦後の混乱期、まだ大学は動き出すまでに至っていない時期であった。拝司静夫、川島武宜、中村哲、丸山真男、古島敏雄、内田義彦、中野好夫、飯塚浩二、清水幾太郎、今野武雄、坂西志保、羽仁説子ら諸氏も講師として参加した。若い語り手は、研究業績を思い切って吐き出した。講師を依頼されると、「一度はいきたかった」とよろこび勇んでとび出して来たと述懐する人もいる。これは受講者の気持ちを大きくつかんだ。復員学生、労働者、商店主、農民らすべて過去の学問への不信を抱き、再出発しようとしていた人々の中へ、ほとんど手弁当で飛び込んで来た人々との意欲がぴったり合ったのである。また、プランナーとしても実行者としても能力のあった木部氏が運営を独占せず、会員組織の聴講者の中から、二○名近くの運営委員、しかも半数以上は女性という、当時としては画期的な就学システムをとったのである。
 衣食住にすらこと欠く当時、講義は週三日ないし四日間続き、二週または三週間程度でコースが完成する。講師は泊まり込みであった。夜間、六時半頃から九時近くまで、講義と討論を織りまぜた飾り気のない雰囲気であった。まちの中心部にあった勤労動員所(商業紹介所)が教室となり、夏期には、一週間程度を単位とする夏期講座がおかれるという徹底ぶりであった。聴講者には三分の一以上におよぶ婦人を含め、少ないときでも六○人から七○人、常時一○○人をこえていた。
 憲法、政治、資本論、社会主義、平等、自由にはじまり、自然科学、芸術、労働組合、婦人、農業問題に至るまで内容は多彩であった。しかし講義内容は精選されていた。庶民大学事務所では、テキストブックはもちろん、書籍に至るまで聴講者への便宜を計ったのである。機関紙「庶民大学通信」が毎月発行され、会員間の連絡を密にすることにつとめ、会員の生活資金すら援助するシステムがあった。こうして講座が進められてから、一年後頃から、三島では労働組合がつくられ始めたのである。教員組合、国鉄、自治労、全逓、印刷、東京電力、国産電機、電業社、横浜ゴム、駿豆鉄道等であった。知りたいというだけの人々にとっても有益であった講義は、知ったことを組合活動の中で行動として活かされる場を得た労働者にとってはまことに有益であり、実利的でもあった。しかし、このことは別の問題を生んでいった。まちのインテリや組織をもたぬ人々、商店主たち等との間にみぞができはじめたのである。とくに、設立者である木部氏が共産党から出馬したということにショックを感じた人々は多かったという。また、市民が出資したり、設立者たちが資金を拠出したり、カリキュラムが運営委員会によって民主的にとらえられたりする学業組合的庶民大学というのもそれほど例がなかった。風光明媚、食糧に比較的恵まれていたとはいえ、こうした小都市にそそぎこまれた学者の情熱、学問、文化の問題はジャーナリズムが見逃さなかった。これが全国的に報道され始めると、CIAが警察とも連絡をとりマークしはじめたのである。こうしたことが重なり、庶民大学も二五年頃に完全に消えていったのであった。しかし、庶民大学の花はこれからさき咲くことになった。ここで成長した意識をたずさえて多くの人はここのまちづくりに専念することになった。新しい町内会づくり、新しい市民組織づくり、新しい文化活動の組織づくり、勤労協同組合づくり等が以後数年間、三○年代の初めまで活発におこなわれていった。そしてこれらの結集が、三二年創立の伊豆市民劇場となったのである。
資料7 鎌倉・市民アカデミアの発足にあたって 運営委員会の性格(1976.4 〜 鎌倉) 「鎌倉市民アカデミア」の発足にあたって
 このたび鎌倉に在住している大学教師有志グループ(鎌倉・大学人の会)が中心となって、「鎌倉市民アカデミア」と名付けた学習組織をつくることになりました。担当講師グループと学習参加者の協力、そしてまた住民の学習権を保障すべき立場にある鎌倉市の後援をえて、春期ゼミナールを夏期の時間割りのように開催いたしますので、どうぞふるって御参加願います。
 ところで鎌倉市民アカデミアという名前をきくと、ただちにかつての「鎌倉アカデミア」を想起される市民も少なくないでしょう。
 敗戦の混乱のなかの昭和二一年、青少年達に新しい教育をという地元の人たちの意気込みと、鎌倉周辺に住まいする学者・文士の情熱とが結合されて、各種学習のひとつとして「鎌倉アカデミア」は誕生しています。それから四年余りの存続にすぎなかったが、戦前の上田市を拠点とする信州自由大学とともに、自由大学の典型、理想の大学像として一部で再評価されてきました。鎌倉市民にとっても、今日の教育状況のなかで、かえって一層、あの戦後の私塾を忘れ難く、脳のなかによみがえさせることになっているようです。
 昨年の朝日新聞の地方版の投書欄に「鎌倉アカデミアの再建を切望する」と題するHさん(五五歳)という市民の投書がのっていました。「関係者の意を積み重ねてあの寺子屋大学が再び開校できないものでしょうか」と。
 また市長の正木さんもわたし達にむかってしばしば熱っぽく語られる。「鎌倉アカデミアみたいなものが再興できないだろうかね」と。
 鎌倉市民アカデミアは、そうした声に直接答えるものとして誕生したものではありません。わたし達は、もとよりそれだけの力量と条件とをもちえていません。再興ということになればもっと広く大きい力の結集が必要とされるでしょう。ただ差しあたりかつて「鎌倉アカデミア」に身銭を切ってかかわりつづけてきた教師集団と同様の、熱意ある担当講師グループの結集・編成を、今後とも続けていくことで、わたし達の答えとするものであります。
 「鎌倉アカデミア」という開かれた大学、生涯出たり入ったりを自由とした大学、学歴社会での通用はもとよりおぼつかないのに、ひたすら自分の個性をみがくことをめざして多くの若者があい集いし「大学」、その源流を地元にもつ鎌倉にひとつの学習運動を創りだし、参加することによって、わたし達自身もそこから共に学びたいと考えています。 昭和51年4月1日    鎌倉・大学人の会
資料8 和光大学・人文学部教授会・経済学部教授会(昭和53年5月12日)
 第三の点は開学一二年を経て、在日朝鮮人(ないしはその血をひく)学生や障害者学生が少しずつ増加してくるとともにこの点からも「開かれた大学」の内実が問われるにいたっているということである。教学の側からの主体的な教育理念なしに、このような学生をただ受けいれるだけなら、実質的には「少数者」を排除することと変わりはないからである。だからこそ、在日朝鮮人学生の一部が、「民族差別問題研究試論特講」の開講を要求し、障害者学生は他の学生とともに同等に学ぶ権利を主張している。いずれも根拠のある主張である。一般に、日本における民族教育の要求をわれわれは、なによりも近代日本の再検討や、日本に単一の民族しか存在しないという考えを問うものとしてとらえる必要があると考える。この認識から、和光大学における民族教育の現実化にいたる過程には、まだ解決すべきいくたの問題が介在していると思われるが、教授会としては、この問題について、いまだ明確な見解をもちえていない。一方、障害者学生の要求に応える道が、昨年一○月二○日付けの学長文書にみられるような、単なる施設の保障の問題ではないことは、教授会でも最低限の確認はあるが、障害者学生の自立と、他の学生・教職員との連帯の論理について、教授会としては、まだ充分な理論的展開をなしえていない。しかし、教授会としては、在日朝鮮人学生や障害者学生を受けいれることが、和光大学の理念と教育・研究の質を積極的に問い直す契機であることを確認する。このことは、「少数者」とともにある大学を目指すという意味では、教学の重要な側面であると思われる。
資料9 岩手大学農学部「営農技術学科」の構想 (農民と大学農学部)
 岩手大学農学部では、農民が大学講師として教壇に立っている。ここ三年来(昭和五十年来)のことである。大学がスカウトした岩手や秋田の農民である。学歴など問題ではない。小学校卒の農民もいる。幾十年の営農実績なり、在村運動の経験は、農学を求める青年に伝達されなければならない。農協の運動家、共同経営のリーダー、農村文化運動の村の実践家、養蜂農民、花づくり農民もいる。開拓の酪農民・肉牛農民もいる。
 現役農民で大学の先生を兼ねることは、農学部の教育と研究を考えるうえで、当然とるべき大学のあり方だと考えてきた。事実、これらの農民は、大学の教壇に立っても、貫禄とともに迫力がある。農業の実践的経験を、大学生に語って尽きない。慣れない手つきで白ぼくを握り、トツトツとして農業と農民の生きるすべを語っている。現役農民を、岩手大学農学部の教壇に立ってもらうが、予算の関係でその数はとっても少ない。お金があれば、岩手や秋田に限らない、全国から、いろいろの農民を動員したいと思っている。
 小学校しか出ていない農民が、大学の先生になっているということが、ニュースになってから、私のところに激励や感激の便りが、全国から寄せられている。ユニークな大学のあり方だという人が多い。だが、農学部の学生が農民を先生にしてユニークだろうか。私はわからない。農民に学んでこそ教育である。さらに日々、学者から教わる科学や技術にたいし、批判の目を養うことは、大学教育本来の姿だと思っているからだ。実践農民のいのちをかけた、営農技術のきしみから多くのものを学び、学問や研究から導かれた農業科学との距りの渦の中に、学生を投げ込んで、自己拷問を遂げさせることは、農学部としてユニークでもなんでもない。青年の教育にとって、まことに当然のことである。
 こうして、大学農学部は農村から、多くのものを学んでゆくけれど、だが、「受け身」だけではない。今年(昭五十二年)から、大学の先生によって、「営農技術大学講座」をもつことにした。聴講生の資格は農民・農協職員等、農業関係に限定した。百名の募集にたいし、百五十七名の応募があった。地元からだけでない。隣県から、東京からの希望もあった。七月〜九月までの、三期に分けての、夏の日の暑いさかりの受講に、最後までねばり通した農民は百七名にのぼっている。この受講修了生によって、「岩手大学営農同窓会」もつくられた。大学農学部が農村の母校になってゆく、その道を大学の栄光として求めなくては、農学部の存在意義は少ない。







2,地域における人間発達と大学の出会い(和光大学人間関係学部・連続シンポジウム 2000年)三つのシンポジウム・解題ー *和光大学人間関係学部紀要・第5号 2001年



 新しい世紀を迎えるこの2年、1999年から2000年にかけて、人間関係学部(人間発達学科)は3回の公開シンポジウムを企画・開催してきた。すなわち「地域における人間発達とは」(第1回、1999年6月26日)、「地域と大学の出会い」(第2回、1999年10月16日)、「地域の人間発達と若者たちの躍動」(第3回、2000年6月24日)である。
 第1回シンポジウムについては、その主要部分がすでに昨年の学部紀要(第4号、1999年)に収録されている。このときの討論部分をさらに発展させるかたちで、第2回が企画され、さらに第3回へと連続させるかたちでシンポジウムは実施されてきた。各回ともに、学内の教員・学生はもちろん、学外から(とくに川崎・町田)の市民、自治体職員、高校生、また他大学の教員・学生などの参加を得て、静かな討論が重ねられてきた。
 この連続シンポジウムをつらぬくキーワードは、「地域」「人間発達」そして「大学」である。ここには、第2回(一部に第1回討論部分を含む)および第3回のシンポジウム記録を収録しているが、まずはじめに、全体としてのシンポジウムのねらいと視点、3回にわたる経過等について、若干の解題を記しておくことにする。

 連続シンポジウムのテーマ設定といくつかの視点
 私たちはシンポジウムを企画するにあたって、なぜ「地域」と「人間発達」そして「大学」の関わりについてのテーマを掲げてきたのだろうか。
 「なぜ地域にねざす人間発達を課題にするのか」については、すでに第1回シンポの冒頭に、問題提起がなされている(梅原利夫、人間関係学部紀要4号)。「地域における人間発達」のテーマは、私たち人間発達学科にとって重要な研究テーマである。しかし、「地域」の概念も「人間発達」についての認識も、常識的で分かり易いようにみえて、深く追究していくと、理論的になかなか難しい課題を含んでいる。「私どもの学科のキーワードである人間発達というのは、実はまだまだ深めきれていません」という指摘がある。「地域」概念についてもそうであろう。しかしこれらのキーワードが、新しい問題状況を背景として、さらに深めるべき重要な研究課題であることは疑いないことである。
 戦後の教育改革から半世紀余を経過した現在、子ども・若者たちの発達や教育をめぐる状況は厳しいものがある。周知のように、いまさまざまの問題が激発している。戦後の民主主義にねざすいわゆる民主教育とはいったい何であったのか。その後の経済高度成長下の教育政策は何をもたらしたのか。そして生涯学習が喧伝され、あらたな教育改革が唱導されている現段階において、どのような展望が画かれているのだろうか。とくに学校教育をめぐる状況には深刻なものがあり、混迷のなかの模索、挫折からの脱皮の努力、が試みられいる。他方では、戦後教育改革から50年余を経た現在、これまでの蓄積が吟味され、あらためてその当否を問う動きがあり、政治的には、たとえば教育基本法の見直し問題がいま政策的な課題にもなりつつある。
 人間発達が問われる場面は、もちろん学校教育に限定されるものではない。家庭や地域や、生涯発達の視点にたてば、労働・職業や高齢社会の状況が問われることになる。今回の私たちの関心は、とりわけ「地域」の現実に焦点をあてて、そこから人間発達の問題状況と課題を考えてみよう、ということであった。
 地域もまた、戦後50年余の歳月のなかで、大きく変貌をとげてきた。伝統的な地域の人間関係が弛緩・変質し、子ども・若者たちを包んできた共同的な文化(遊び、年中行事、祭り、童歌、芸能など)も、この間に急速に活力を失ってきた。地域生活のなかから、子どもと若者は姿を消してきている。逆に言えば、子どもと若者たちの人間発達にとって「地域」は明らかに比重を失ってきた。1960年代の地域変貌のなかで、いわゆる「地域の教育力」再生の取り組み(各種の地域教育運動)が注目をあつめてきたが、いまどのようなエネルギーを持続しているのだろうか。
 1960年代から、すでに30年余りを経過して、いま新世紀への転換点・2000年に到達した。この段階において、私たちの「地域」はどんな実態にあるのだろう。人間発達にとって地域はいかなる意味をもちうるのか。そして「大学」として、これらの課題にどう関わるのか。
 私たちは、このような問題意識をもって公開シンポジウムを企画したのであるが、その際、年次ごとの単発イヴェントとしてでなく、前述したようにテーマの継続性をもって、できれば数年次にわたる流れで取り組んでみようと考えた。課題にアプローチしていく視点は、当初からそれほど“体系的”に組み立てていたわけではないが、振り返ってみて、次の五つの構えのようなものが基底にあったように思われる。シンポジウムは大学キャンパスで開かれるが、思いとしては大学を出て地域の現実にたつ、そこで何が動いているのかを謙虚に知る、そういう姿勢にこだわりながら、シンポジウムは進められてきた。
1,講壇的な理論枠組みからスタートするのでなく、現段階の「地域における人間発達」の実相から問題を考えていく。 
2,「地域」「人間発達」にかかわる厳しい状況の認識とともに、それだけでなく1990年代の地域の新しい発展的な動きに着目していく、いわば“発見”的な姿勢をもつ。
3,地域の学習・文化運動、各種の非営利市民(NPO)活動、自治体の施策・施設づくり運動などに実際に参加し実践している市民(若者を含む)の生の報告・発言を重視す る。
4,大学を地域に開くという一方向性の「公開」ではなく、地域から大学への流れ、地域の市民活動と大学の研究・教育活動との交流、ゼミ・フィールドワーク等による地域活動への参加、といった双方向性の関係づくりを模索していく。あわせて将来の課題として学生の調査実習の拠点づくり、市民によるゲスト講師ネットワークづくりをも視野のなかにいれていく。
5,学科教員主催シンポ開催・運営にあたって、関心ある学生の積極的な参加を求めていく。
 この五つの視点は、学科会議等で折りにふれて個別に提起してきた経過があるが、必ずしも充分に論議が深まっているとは言えない。しかし企画・準備の担当者(筆者)としては、ひそかに“五つの挑戦”として考えてきたことであった。果たして、これらの挑戦が実際にどの程度に実現できたかについては、単純な評価は避けなければならないが、課題は多く残されているというのが率直なところである。たとえば、5、学生の積極的な参加、にしても、第1回シンポでは、ほとんどその具体的なかたちにならなかったし、第2回・第3回シンポでも、企画・交渉段階からの参加には至らなかった。しかし、教員側の呼びかけにより、資料パンフ準備、当日の運営(司会を含めて)、テープおこし、記録づくり等について、少なからぬ学生の参加と協力を得ることは出来たのである。

 「地域と大学の出会い」(第2回)と「若者たちの躍動」(第3回)について
 「地域における人間発達」をテーマを掲げ、いわば地域主義的な姿勢をもってシンポジウムを準備・開催していく試みのなかで、大学と地域の新しい関係が始まったように感じている。シンポジウムは、大学が位置する町田市・川崎市の多様な市民活動、それを担う活溌な女性、父親、そして若者(高校生を含む)などの市民たち、さらに両自治体の行政・施設の職員たち、との新しい出会いを生む契機となってきた。もちろんこの二つの自治体だけでなく、相模原市、横浜市、東京三多摩など他地域からの参加者も少なからず見られたが、以下に示すシンポジウム登壇者の顔ぶれから明らかなように、とくに町田市・川崎市の関係者と「大学」との「出会い」が主要な柱となってきたのである。第2回シンポジウムの「出会い」というテーマは、第1回の討論とその後のいくつかの展開(町田・川崎への学生のフィールドワーク、両市からのゲスト講師の招聘など)を通して創出されてきたと言ってよい。そして第3回シンポジウムへいたる2年間の間に、「地域と大学」の対話が始まり、拡がりを見せてきたのである。
 私たちにとって幸運なのは、この両都市は共通して、市民各層に地域的諸問題に関心をもつ人たちが少なくなく、しかも若者たちを含む、新しいスタイルの市民活動が活溌に展開されてきた地域である。両都市それぞれに経過は異なるにしても、今日のある種の社会的市民的成熟を歴史的に蓄積していく独自のプロセス(とくに1980年代以降)が見られる。地域のなかで、その量的な拡がりについては評価が分かれるところであろうが、質的に多様かつユニークな市民活動が少なくない点については、多くの人が認めるところであろう。以下のシンポジウム記録に収録されている多彩な市民レポートの活気がそれを証明してくれる。
 たとえばその典型的な事例を、最近の両都市の動きから一つずつあげるとすれば、この間に町田市では子どもセンター「ばあん」の設立(1999年5月)があり、川崎市では「子どもの権利に関する条例」策定に向けての運動(1998年9月より調査研究委員会設置、2000年6月に最終骨子案・修正版まとまる)があった。それぞれの課題に向けての活溌な市民運動があり、中高生を中心とする子どもたちの主体的な参加も活溌で、それに対応する自治体行政側の姿勢も柔軟なものがあり、他の都市ではあまり例を見ないユニークな取り組みとなってきた。この事例に象徴される独自な市民・若者たちの新しい市民的エネルギーが、私のたちシンポジウムにある熱気をもたらした。とくに第3回シンポジウムでの高校生たちの発言はまさにフレッシュであり、堂々としていた。
 「地域と大学の出会い」という場合、一方の和光大学側の条件はどうであろう。和光大学の開学の思想には、当初から「開かれた大学」の理念が内在していると考えることができる。しかし同時に、その後の大学運営や学生運動との対応のなかで、単に常識的に「大学を社会に開く」「公開講座を開く」というだけでなく、大学の教育・研究の質を問い直すかたちで「開く」ことの吟味と努力が重ねられてきたと言えるのではないだろうか。具体的には、障害をもった学生や朝鮮民族学校系学生の受入れに見られるように、他の大学と比較して「開く」ことへの質的は追究が重ねられてきている。これらの経過はすでに忘れられたかの如くであるが、大学を「開く」ということはどういうことか、その実質的な意味を考える上で、きわめて重要な歴史を含んでいる。たとえば、やや古い記録であるが、1978年当時の人文学部・経済学部教授会が提起している「開かれた大学」の内実を問い直す視点、「少数者とともにある大学を目指す」指摘などは、大学を地域に開く、地域と大学が出会う、ことの意味を深い次元で示唆している。(小林「地域、社会に開かれた大学とは」和光大学総合文化研究所『東西南北』)1997年、を参照)
 もちろん、その後の和光大学の教育・研究活動のなかに、このような苦悩の歴史がどのように生かされてきているか、実質的かつ本質的に「開く」努力が年次的に蓄積され発展してきたかどうか、あらためて「自己点検」する必要があろう。たしかに虚像と実像のギャップもみられる。しかし国立大学と比較して、私立大学のもつ独自の柔らかな組織構造があり、「開かれた大学」理念を現在の時点で具体化しているパイディヤの市民講座や移動大学等の努力もある。このような大学の歴史と体質に支えられて、私たちの「地域と大学の出会い」というテーマも提起され、シンポジウムを通してゆったりと根をおろし始めている。
 さて、第2回の「出会い」シンポジウムの報告と討論をへて、私たちはあらためて第3回のテーマを設定することになる。町田でも川崎でも、大人たちの市民運動に支えられ、それに並行して、若者たち・子どもたちの活溌な活動が胎動し始めていることを知ったのである。具体的には、上述した町田市子どもセンター「ばあん」の設立(その前の町田市「子ども憲章」づくり)、あるいは川崎「子ども権利条例」への取り組みなどの過程に典型的に示されている。この両活動に共通して「子ども委員会」「中高生メンバー」あるいは川崎「子ども・夢・共和国」等が活溌に“躍動”してきている。
 その背景には、国連「子どもの権利条約」理念の登場があり、日本社会にこの思想を定着させていこうとする「子ども権利条約ネットワーク」等の運動がある。若者たちは、社会参加や意見表明などの国際的な権利と参加の思想に勇気づけられ励まされながら、地域のなかで積極的かつ具体的な取り組みに加わり始めている。その姿を大学キャンパスから垣間見ながら、「若者たちの躍動」のテーマが設定されることになった。地域と大学の「出会い」という第2回シンポジウムのテーマが、第3回「地域の人間発達と若者たちの躍動」の課題を引き出したと言える。
 このような課題に関連して、子どもの権利条約、子どもの遊びと文化、子育ての地域ネットワーク、などの問題に深くかかわってきた増山均氏(日本福祉大学教授、和光大学非常勤講師「子育て文化論」担当)から、理論的な立場からの問題提起をお願いすることになった。







3,大学を開くことの意味ー田中征男『大学拡張運動の歴史的研究』を通して
   (和光大学人間発達学科・第2回公開シンポジウム「地域と大学の出会い」問題提起)
        和光大学人間関係学部紀要・第5号 2001年

1,日本の大学の閉鎖的な体質
 田中征男先生の代役をどういうふうにつとめるか、どうお話しすればいいか、昨夜一晩中考えながら、お手元の不充分なレジメを作ってまいりました。ご本人の中身の濃い話をお聞きできないのは残念ですが、またいずれかの機会があるだろうと思います。今日の私の話の前半では、田中先生の名著『大学拡張運動の歴史的研究』をご紹介しながら、大学を開くことの意味を歴史的に考えてみる、後半は、町田・川崎からの「地域からの報告」に向けて、今日のテーマである「地域と大学の出会い」について私なりの問題提起をさせていただきたい、と考えています。
 私は社会教育ないしは生涯学習の分野の研究をやってきました。主として学校教育の外側の問題、たとえば公民館・図書館などの公的な機関やいろいろな社会教育施設について、そして地域の市民活動や文化運動などの問題に関心をもってきました。海外ではこの分野を必ずしも社会教育と言わず、たとえばユネスコにみられるように、成人教育とか継続教育と呼ぶ場合が多いのですが、そのなかにはフォーマルな学校的形態による教育活動をかなり含んでいますし、歴史的にみても、大学の公開あるいは拡張(エクステンション)が一つの主要な形態となってきたと考えられます。
 それにたいして日本の社会教育の場合、あるいは近年の生涯学習の形態でも、ノン・フォーマルなコミュニテイ・エデュケーション、あるいはイン・フォーマルな地域活動として展開してきていますし、したがって学校教育との関連から問うのでなく、むしろその外側の領域として捉える傾向が強いのです。ですから、もともと大学との関わり、大学と社会教育の関係は、積極的な課題としてこれまで視野の中に入ってこなかったわけです。それは明らかに私たちの視野の狭さ、課題意識の弱さなのですが、同時に、制度としての日本の大学というものが歴史的に地域や社会から遊離し、特権的な性格や内側にこもる閉鎖的な体質を色濃くもってきた、そういう歴史と実態の反映でもあったと思います。それだけに最近ようやく、生涯学習時代の到来というわけで、学校の地域への開放とか、とりわけ「大学」を社会的に「開く」ことの意義や課題が問われるようになってきた、といえましょう。
 欧米の大学にみられる近世から近代への歩み、イギリスなどでは19世紀後半の近代大学への改革と脱皮の試みをみると、そこにある程度共通して大学を社会に開く「拡張」(エクステンション)の努力が含まれていたようです。ヨーロッパの大学の歴史を私は専門に研究してきたわけではありませんけれど、少しヨーロッパの成人教育の歴史を調べていきますと、鮮やかに大学が登場してくる、むしろ歴史的には中心的な役割を果たしてきたように思われるのですね。例えばイギリスのオックスフォードやケンブリッジなどの古い伝統をもった大学を含めて、19世紀後半の近代的な大学への脱皮を志向するする改革が、宗派的制限を撤廃するとか女性に門戸を開くとか、いろんな形をとって進行するなかで、一つの大きなテーマは大学を地域に開く、社会にエクステンドすることであったと考えられます。当時の新しい労働運動や協同組合などの民衆運動と出会って、20世紀に入ると、大学の拡張講座としての成人教育の制度が形成されてくる、これに国の行政の役割が参加して、大学と労働組合と行政の3者がコンビネーションを組んで、例えばイギリスの近代的な成人教育の典型的なかたちが出来上がってきました。ですからイギリスの成人教育の研究は、大学の役割の研究と不可分の関係をもっているわけです。
日本の場合はどうでしょうか。日本の主要な大学の歴史は、社会や労働運動というより、むしろ国家との関係を強くもたせられてきた。日本の大学は地域や民衆から大きく離れて、象牙の塔という言葉があるように、アカデミズムの世界を立てこもり、学歴社会の構造を作り出してきた、歴史的には主としてそういう役割を担ってきたと言えるでしょう。地域の活動とか人々の暮らしからは意識的に隔離され遮断されて、大学の研究や教育が行われてきたのでしょう。そういう歩みのなかで日本の大学特有の閉鎖性とある種の特権性が、抜きがたい固さでつくり出されてきたのではないでしょうか。
 ヨーロッパ近代の大学が、研究と教育と拡張の三つの機能をもつのに対して、日本の大学は研究と教育の二つの機能しかもたないと言われる所以だろうと思います。

2,田中征男『大学拡張運動の歴史的研究』の意義
 このような欧米研究との比較から、日本の大学と社会教育の遊離した関係がはっきりしてきて、常識となり定説化してくると、逆にそれが固定した認識になって、変動する歴史の断面や細かな地域の動きなどが柔軟に見えなくなるように思います。私自身も、ものごとの一般的かつ公式的な理解で、ずいぶんと自分の研究を一面的なものにしてきたような反省があります。
 大学と地域の関係について言えば、私にとって衝撃的だったのは、一つは土田杏村などの大正期「自由大学」の歴史と出会ったときでした。国立教育研究所の『日本近代教育百年史』研究グループとして、実際に信州・上田に調査に出かけ、猪坂直一『枯れた二枝』の小冊子などに即して、地域のなかから創り出された日本的な民衆大学の歴史を知ったとき、あらためて日本教育史が教えないあと一つの歴史を知ったのです。それが1970年前後の頃だったと思います。
 それから少し経って、このテーマに関して目がさめるような印象をもって読んだ本があります。それが田中征男著『大学拡張運動の歴史的研究』でした。いまは同じ学科の同僚ですので、田中さんと呼ばさせていただきますが、田中さんのこの本から、明治から大正にかけてこれほどの「開かれた大学」の思想と実践があったのか、日本にもこんな歴史があったのかと、妙な表現ですが、ひどく感激したことを記憶しています。帝国大学を中心とした日本の大学制度の特権性・閉鎖性に抗して、大学を社会的に開いていこうという思想と運動が、このように果敢な展開されてきたことへの感動を味わうことができました。
 田中さんのこの本は、1978年に野間教育研究所紀要(第30集)として、講談社から出版されました。「はしがき」にはこう書いてあります。「…わたしの基本的な問題意識は、もともと、本当の意味で国民に“開かれた大学”とは一体どういう大学なのかを問うこと」(はしがき)であったと。取りあげられている「思想と実践」は、上述の自由大学運動はもちろん、大山郁夫「二つの社会教育観」、「大学拡張」概念の吟味、「通信講学会」、片山潜「キングスレー館」、吉野作造「大学普及会」、戸坂潤の大学・学生論など、多岐にわたっていますが、その中心的な部分は「東京専門学校(早稲田大学)の校外教育運動」にあてられていて、たくさんの史料・文献をもとにどっしりとした重みのある研究になっています。
 今回の企画にあたって、あらかじめ田中さんにお願いしてシンポジウムへの次のようなメーッセージを寄せていただきました。ご案内「ちらし」の裏面に掲載している文章です。
 「今から四半世紀も前の1970年代なかば、価値観の相違をこえて“開かれた大学”と いうことが取り沙汰されたことがあります。そのとき僕は、“開かれた大学”“大学を 開く”ということの意味内容を分析・吟味し、あわせて、早稲田大学を事例として、国 民に開かれた大学の思想と実践を丹念に追跡するという仕事をしたことがあります。現 代も新しい装いをもってかってのような問題状況がリアルに展開しています。
  当日は短い時間ですが、戦前の早稲田大学の実践を簡潔に紹介し、あわせてその内容 と意味を考えてみたいと思います。「地域」という言葉も、「地方」との関わりなどの 関係で吟味してゆかねばならないと思いますが、他の方々の発表や討論のなかで少しで も深められることを願っています。」
 今回、私もあらためて第三章「東京専門学校(早稲田大学)の校外教育運動」を読み直してみました。早稲田大学の前身である東京専門学校の創設期に、学問の独立の理念と社会に向けて学問を普及する方向が提示され、大学を社会に開こうとする積極的な努力が重ねられてきた事実には、実に鮮烈な印象がございました。 
その内容について、ここで細かく紹介する余裕はありません。後日にこの本を直接読んでいただく、また別の機会に田中さんにお話しを願うことにして、私なりに印象的なことを三つほど取りあげてみることにいたしす。約一世紀前の、学問を社会へ普及し、大学を地域へ開こうとする試みが、いまなお新鮮な問題提起として現代的な意味を持ち続けていることに注目したいと思います。

3,学問の独立と普及・拡張への挑戦
 早稲田大学の前身、東京専門学校は1882(明治15)年に開校され、創立20周年を期して1902(明治35)年に早稲田大学と改称されます。田中さんの本は、東京専門学校の創立から明治末期まで、早稲田大学が「校外教育部」を設置(1909年)するまでの歩みを細かく分析されています。そして、この章の最後の1行には「こうして早稲田大学の大学拡張運動は、大正期にはさらに発展的に展開されていくのである」という記述が結びになっています。
 まず第一に、私が何より印象的だったことは、東京専門学校の建学の思想とその社会的背景が、その後の学問の社会的普及と大学の拡張運動の起点になっていることです。東京専門学校は大隈重信によって創立されますが、同校創設の最大の功労者である小野梓(当時30歳)の有名な「祝開校」と題する演説は、その建学理念を内外に広く宣言するもので、「近代日本の教育思想の問題としても、次の五つの点で重要な意味」をもつものとして田中さんは注目しています。
 すなわち、第1には「一国の独立は国民の独立に基し、国民の独立は其精神の独立に根ざす」こと、第2は国民精神の独立を達成するには「学問の独立」が必要であること、第3にそのために「自治の精神を涵養」し「活溌の気象を発揚」すべきこと、第4に現実の政治と法律に改革すべき課題があること、第5に政党・政治からの「教育の独立」、の五つでした。
 このように「独立」理念が強く主張されたのには、どんな背景があったのでしょうか。ご存知のように大隈重信は「明治14年の政変」で下野し立憲改進党を結成しましたが、東京専門学校の創設はその直後でありました。それだけに「政党の用に供する」学校ではないかという社会的疑念があり、また明治政府からの「隠然公然の圧迫」もあったといわれます。政治的な争いの渦中で、圧力もあったんですね。そういう中で、だからこそ学問というものが政治から独立していく必要がある、そこに「学問の独立」を主張しなければならない背景があったのでしょう。そして、学校にとっての厳しい社会的環境はさまざまの困難を与えたと同時に、しかし「独特の個性をも与える」ものでありました。
 いわゆる官学に対抗し、政治的な圧迫を打ち破り、新しい理念をめざす学校の「存立の社会的基盤」をどこに求めるていくか。学問と学校の「独立」を確保し、社会的な存立の基盤を確立していくために、つまり国家の統制と保護によって存立するのでなく社会的に存立していくためには、当初から社会に向かって「開かれた」学校を志向していく必要があったのです。田中さんは、当時「開かれた学校」を追究しなければならない「内的必然性」をもっていたと指摘しています。この点が第一に印象的なことでした。学問や教育の「独立」の思想が「開かれた学校」への志向と深く関連していることに注目しておきたいと思います。
 第二には、学校を開くこと、大学を拡張すること、その試みが、多元的かつ制度的に柔らかな方法で模索されていったこと、その努力が歴史的な積み重ねられてきていることです。近代的な専門学校あるいは大学の初期創造の時期は、現在の確定し固定した学校制度より以上に、いろんな試みを柔軟に展開する可能性をもっていたのでしょう。それとの比較で言えば、現在の大学がなんと固い構造になっていることを痛感します。大学拡張運動が展開されていく経過をたどっていくと、いろんな試みを果敢に提起していく精神、いわば実験的な取り組み、その勇気と情熱を垣間見る思いがいたします。
 たとえば「公衆ヲ会同」しての「学術演説会」「公開学術講演会」「学術拡張演説会」に加えて、「巡回学術講話会」「通信教授」「講義録発刊」「校外生制度」、さらに「公開講義」「聴講生制度」「図書館開放」など実に多彩です。そして1909年の「校外教育部」の設置にいたるわけです。この30年ちかくの過程には、いろんな挑戦が歴史的に凝縮され蓄積されている感じがします。
 私には「公衆ヲ会同」という表現がとりわけ印象的です。選ばれた学生を教室に集めて学問を講じるという伝統的なスタイルでなく、キャンパスを出て「公衆ヲ会同」して学術演説会をやっていこう、巡回の学術講演を開いていく、さらに講義録を発行し、校外生制度を組織化する、というわけです。
 第三には、これらの大学拡張運動のモデルとして、欧米の大学拡張(University Extention)の形態があったことは確かでありました。東京専門学校・早稲田大学の大学拡張の実践は「正しく欧米の大学拡張事業と揆を一にするものであった」と自負されていますし、明治末期に大学内に専門機構として「校外教育部」が登場した際には「本大学は夙に欧米諸国の為すに倣いユニヴァシテイー・エキステンションの趣旨に基き時々地方に派遣し公衆を会して講演会を開き・・」と趣意書にうたわれています。最初のところだけもう少し読んでおきますと、「・・・講演会を開き来りしが、今回特に校外教育部を置き従来の規模を一層拡張し、一面講義録を以て通信講義を成すと同時に、地方有志の需めに応じ数日間連続して業務の余暇を得ざる人もしくは晩学の人のために組織的の学科を講ずるの方法を定めいよいよ発表を見るに至れり。すなわち左にその趣旨と規則を載す」というものです。当時のたいへん意欲的な雰囲気が伝わってくる感じです。
 続けて「校外教育部」の「規則」が紹介されていますが、そこには「第1条、本大学は校外教育部を設け以て大学教育の効果を学苑以外に普及せしめんことを期す」「第2条、本大学校外教育部は巡回教育と通信教育(講義録発行)に分つ」と規定されています。これによって、早稲田・校外教育は、巡回教育と通信教育の「二種類の教育形態によって構成されることが明確」になったわけです。
 日本の大学が基本型としてはまったく大学拡張の形態をもたなかったという認識のなかで、欧米モデルを追いながら、巡回教育と通信教育という日本型の拡張事業が積極的に追究されてきた早稲田大学の事例、そういう歴史があったことは私にとってはきわめて印象的なことでありました。
 
4,日本型と欧米型のいくつかの異同
 この本には、いくつか統計表が掲載されていますが、たとえば1888(明治21)年から発足する「校外生」(講義録購買者)の推移の一覧表など興味深いものがあります。その初期の頃は1,500人から2,000人代でありますが、1893年あたりからは校外生制度も社会的に定着をみせ、それ以後順調に発展して、早稲田大学と改称される1902(明治35)年には1万3千に達し、1904年には1万7千を超える校外生を擁するという成長ぶりです。もっとも校外生から正規の卒業までこぎつけた人の比率は案外と少ないようですが。
 1893(明治26)年は、当時の東京専門学校評議員会が「巡回学術講話会」を発足させた年です。この年は、静岡・岐阜・京都・大阪・神戸の5ヶ所で合計7回の学術講話会・懇親会が開催され「延べ1万名以上の聴衆」という予想外の成功をおさめたとあります。そこには当時の知識・学問を求めようとした人々の意欲と、それに応えようとした学校側と若い学者たちのエネルギーが伝わってくる感じがいたします。学校側はこれに自信を深めて、以後「講話会」は毎年開催され、やがて「地方講習会」と名称を変えながら、早稲田大学の大学拡張運動の重要な柱となっていったのです。
 このような事実の推移からすれば、たしかに欧米の大学拡張運動をモデルとしつつこの時期着実な歴史を歩んだとみることが出来ましょう。早稲田大学は「…欧米諸国の為すに倣いユニヴァシテイー・エキステンションの趣旨に基き…」という「校外教育部」趣意書を実際に具体化する努力をしてきたのです。
 しかし、そういう側面と同時に、早稲田大学に見られる日本型の歩みと欧米型の展開とはいくつかの違いも見られるように思います。
 早稲田大学「校外教育部」の設置は、その原型として、たとえばイギリスの大学構外教育部(Extra-Mural Department)の組織を想い起こさせます。エクストラ・ミューラルに、つまり壁の外に、開いていく拡張事業を担う部局の組織化ですね。イギリスでは1870年代に、ロンドン、オックスフォード、ケンブリッジ等の主要な大学に構外教育部、拡張部といった部局が設けられます。そして、大学のこういう組織・機能と協同組合や労働組合等の社会的運動体がネットワークを組むかたちが動き始める過程で、二十世紀の初頭になりますと、「労働者に高等教育を行う協会」がマンスブリッジ(A,Mansbridge)夫妻によって設立され、それが有名なWEA(Workers´Educational Association、労働者教育協会)に発展していくことになります。1903年から1906年にかけてのことでした。時期的にはこれに少し遅れて早稲田大学に校外教育部が設立されたことになります。
 ちなみに、それからほぼ1世紀を経過した現在の和光大学について考えますと、活動的には小規模ながら「ぱいでぃあ」の公開講座や「移動大学」などがこれにあたると思われますが、それを担当する組織は小さな世話人会と数人の係が頑張っている程度で、とても「デパートメント」の部局とは言えません。
 ところで、早稲田の日本型大学拡張の歩みと、たとえばイギリスのユニヴァシテイー・エキステンションの形態とは、歴史的にみて、どのような相違点があるのでしょうか。詳しく申しあげる時間はありませんが、簡潔に3点を指摘しておきたいと思います。
 一つは、大学を社会に開こうとする場合、それを受ける社会あるいは地域の側の状況が違っていたのではないか。社会の側の組織化というか、あるいは社会的市民的成熟度というか、かなり大きな落差があったように思います。少なくとも日本の場合、大学拡張運動が協同組合や労働組合の組織的な運動と接点をもつかたちにはならなかったのは確かです。
 二つには、大学拡張運動の歴史が生み出した「校外教育部」のような試みが、大学の組織・機能論として拡がりを見せなかったし、大学の制度論に結合して広く普及することはなりませんでした。
 あと一つは、イギリスの成人教育制度の形成過程のなかに大学拡張の歩みが大きな役割を果たしたのに対し、日本の社会教育制度のなかには大学はほとんど位置づけを与えられなかった点があげられると思います。

5,それから一世紀、いま何が始まろうとしているか
 田中さんが精力的に画き出した明治・大正期の大学拡張運動から、すでに1世紀がたちました。第2次世界大戦後の教育改革からも半世紀が経過しています。そして今、日本の大学は、地域や社会との関係において、どのように位置と役割をもっているのでしょうか。歴史的に取り組まれてきた模索・挑戦の努力を現代に生かしながら、いま大学は社会に開かれているのか、あるいはなおかつ開かれていないのか、お互いに問いかける必要がありましょう。 
 戦後の教育改革では、新しい教育法制の中に大学の開放に関する条項がないわけではありません。しかし、まったく積極的な規定ではなく、戦前からの大学の伝統的な体質も色濃く残存して、やはり戦後教育改革は、日本の大学の歴史的体質としての閉鎖性を打ち破るという改革の契機にはならなかった、この点については失敗したと言わざるを得ません。戦後の新学制においても大学は依然として閉鎖的であって、その状況は基本的にいまなお変わらない、というのが一般的な理解でしょう。高等学校から進学する20歳前後の同一年齢層の学生たちに試験を課して選抜し、そこで学歴を付与して社会に送り出すというパターンを基本的には脱することができないまま今日に至っています。新しい思想や科学を求めている社会の多様な人々に多元的に大学を開いていく、成人層にも広く機会を提供して、市民・住民の「自己形成、主体形成の課題に向かって大学を開く」(田中、前出書、はしがき)というような状況はまだ生まれていないように思います。
 しかしそれだけに、この間に新しい模索や脱皮や挑戦の努力が重ねられてきたことも忘れてはなりません。やはり時代は変わってきている、そのあたりに着目しながら、私たちはどのような可能性を発見しうるかが、いま問われている課題でありしょう。
 たとえば、大学内部からの公開・開放の努力があります。1970年代以降の生涯教育・生涯学習の国際的な波を受けて、リカレント教育の構想や、国立大学でも社会人入学、夜間開講、聴講生拡充、公開講座、単位互換制度、生涯学習センター設置など、これまでにない動きがあります。個別の事例でも、農業・農民との交流を求めた岩手大学農学部の事例、「地域に根ざし、地域に学び、地域に奉仕する開かれた大学」を実践しつつある沖縄大学などのユニークな試みがあります。和光大学もまたその一翼に加わって開かれた大学への挑戦を重ねてきた大学と言えるでしょう。
 大学を開く努力は、同時に地域のなかからも提起されてきました。一般の戦後教育史では教えませんが、大正期の上田(信濃)自由大学運動のような、日本的な民衆大学創造の一連の運動がありました。戦後初期では、たとえば庶民大学三島教室、鎌倉アカデミーなど、1960年代の信濃生産大学、山形等の農民大学、地域住民大学等の試み、最近の市民大學や講座・セミナーづくりの運動、社会教育や公民館活動のなかで模索されてきた市民大学づくり、などです。これらについては、和光大学総合文化研究所によって企画されたシンポジウム「二一世紀に向けて大学のあり方を考える」のなかで取りあげた経緯がありますので、ここではこれ以上は触れません。シンポジウムの記録は同研究所年報『東西南北』(1997)に収録されていますのでご覧下さい。
 さて、私たちの和光大学についてはどのような可能性を見出すことができるのでしょう。和光大学は相対的に新しい大学です。私立の小さな大学です。小さいけれども大学としての固有性、独自性を主張してきた大学だと思います。先ほど冒頭の石原先生のご挨拶など伺いながら、他にも和光大学の創設から関わっておられる方々もいらっしゃって、いろんな話しをお聞きしたいわけでありますが、独自の建学の理念をもち、大学紛争を含めて格闘しながら自らの道を歩んできた大学と言えるでしょう。大規模な大学に見られない小さな大学の個性と柔軟さ、国家的な制度の中に縛られているんですけども大学のもつ自由と自主性、自己主張のようなものを比較的に鮮明にもっている面白さ、私自身もこの大学に所属して、実際に体験的に楽しんできたところがあります。このような大学の体質の形成には、やはり初代の梅根悟学長の役割が大きかったことはたしかでしょう。
 大学の正式文書にもよく登場するキーワード「自由な研究と学習の共同体」は、単に学生と教職員だけの閉鎖的な共同体であってはならず、それが存立する基盤である市民社会を含めて、学びたいものが集い探求しあう自由な共同体、という広い理念が内包されていることを読みとっておきたいと思います。この考え方に立てば、大学は決して閉鎖的であってはならず、地域と社会へのあついまなざしをもって、開かれた大学の理念を追究していく必要がありましょう。物理的にも壁を作らず、門を置かず、キャンパスを囲い込むことをしない、そういう風景が自ずからつくられてきたわけです。私は和光大学に来た最初の日に、その辺りに期待を持ちながら、あそこの坂を上がったことを今ふっと思い出しました。
 この機会に和光大学の様々な議論のなかで、学生紛争のさなかに記録された貴重な文書をひとつご紹介しておきたいと思います。大学を開くということは基本的にどのような意味なのか、を示唆するものがあります。少し古い資料なのですが、1978年5月12日「人文学部教授会・経済学部教授会」記録、当時は2学部ですから、実質的には全学教授会の記録、ということになります。
 「…開学12年を経て、在日朝鮮人(ないしはその血をひく)学生や障害者学生が少しづつ増加してくるとともに、この点からも“開かれた大学”の内実が問われるにいたっているということである。教学の側からの主体的な教育理念なしに、このような学生をただ受けいれるだけなら、実質的には“少数者”を排除することと変わりはないからである。…中略… 教授会としては、在日朝鮮人学生や障害者学生を受け入れることが、和光大学の理念と教育・研究の質を積極的に問い直す契機であることを確認する。このことは、“少数者”とともにある大学を目指すという意味では、教学の重要な側面であると思われる。」
 大学を開くということは、“少数者”とともにある大学を目指すというのです。とかく量的に社会への拡張を考えがちな傾向にたいして、その質を問う視点が提示されていて、傾聴に値するところがあります。いったい私たちは何をめざし、いかなる方向性をもって、大学を開こうとするのか、あと一つお互いに自問しあう必要があるようです。もしかすると強者の側からの開放論に荷担している場合もあるのではないでしょうか。

6,地域からの報告に向けて
 与えられた時間がもうなくなってしまいました。最後に大急ぎで、まとめをいくつか申しあげて話を終わりたいと思います。
 歴史を振り返ってみて、いま大学も地域も大きな変化のなかにあると言えましょう。その変化がどのように展開していくか、また自覚的にどのような変革を創出していけるか、とくに大学に問われていることだろうと思います。 
 大学に比べて、地域の変化はもっと激しく動いているのではないでしょうか。大学は地域の変化と比べれば、むしろ鈍感に停滞していると言ったほうがいいのかも知れない。地域の変化には、一面で負の側面がみられます。地域の解体現象、共同的関係の喪失、地域文化の枯渇、家庭・子ども・学校をめぐる憂慮すべき問題の激発、などがそうです。 
 しかし他面、地域はこれまでになく活溌に躍動し始めている、いわば積極的な正の側面が新しい展開を見せ始めている、と思います。とくに1990年代の、新しい質の参加・行動型の市民活動、あるいは市民ネットワークによる文化協同運動などの動きがその典型です。それが1998年の特定非営利活動促進法(NPO法)を生み出す背景ですし、この法がまた地域の新しい市民活動を胎動させていくことにもなるのでしょう。今日ここにご参加下さった町田・川崎「地域からの報告」の方々は、それぞれ取り組む課題は違いますが、ともに地域の新しい変化と躍動を実際に担う元気印の市民の皆さんたちです。
 私はさきほど大学と地域の関係について、欧米と比較して、日本の地域の状況は市民的組織化というか、社会的成熟度の点で大きな落差があるのではないかという意味のことを申しあげました。早稲田の大学拡張運動の時代はそうであったかもしれません。しかし時代は動いています。今二十一世紀を前にして、大学のまわりの地域の状況は明らかに変化してきている、市民が課題を共有しネットワークを組み積極的・行動的に活動し始めている、そういう市民活動の潮流がはっきりと見えるようになってきたと思います。このあとの「地域からの報告」は、そのことを具体的に実証してくれるはずです。
 従来の伝統的な地域住民組織や既存組織に依拠した地域活動、あるいは労働組合などとは明らかに違った、新しい質のネットワークによる市民活動が、新しい地域を創出しつつあると見ることも可能かも知れません。自発型、参加型、行動型の市民がさまざまの姿で動き始めているように思うのです。もちろんそれぞれに多くの課題や矛盾や悩みをかかえているとは思うのですが・・。
 このような“新しい地域”の創出を想定した場合、大学と地域の出会いの質もまた変化していくのではないでしょうか。大学を地域に開くという方向性は、大学から地域への一方的な流れではなくなり、地域から大学への流れや、地域への大学の参加や、地域と大学との協同などの双方向性・多方向性をもった流れを可能にしていくと思われます。
 少なくとも古いタイプの大学公開講座のようなあり方は大きく修正されてくるでしょう。大学のアカデミズムを市民に送る、市民はそれを受ける、大学によって地域は啓蒙される、そういった一方向性の関係を基本的に脱皮していく必要があります。形としては大学に来て市民が学ぶ、ということもありましょうが、同時に大学が地域に出て学ぶ、大学と地域がともに学ぶ、市民が大学に来て教える、そんな形も多方向性をもってさまざま生まれてくるのではないでしょうか。
 これからの地域と大学の新しい出会いをめざして、未開拓の可能性を掘り起こす想いで、今から町田・川崎の地域からの報告をお聞きしたいと思います。
 時間を若干超過してしまいました。終わりの部分は早口でお分かりにくかったと思います。充分に田中さんの代役をつとめることはできませんでしたけれども、田中さんのお仕事に学びつつ、私なりの問題提起とさせていただきました。





4,大学と地域の出会い

       
東海高等教育研究所『大学と教育』第31号(2002年) 小林文人


 もともと日本の大学は、地域ないしは社会・市民のなかから萌芽し発展していくという歴史をもっていない。主として国家によって創設され、公立や私立の大学と言えども、国家が定める基準に拘束されて運営されてきたというのが主要な流れであろう。地域や市民の側も、自らの社会的装置として「大学」を創り出すという意識や運動において、これまで自覚的な認識をもつことができなかった。
 このような日本・大学史の特徴を、いわばいびつな体質として捉えるようになる契機が私には二つあった。一つは、十九世紀後半の(たとえばイギリスの)大学拡張運動の歴史を知ったときである。そこには大学を“開く“改革努力と民衆教育運動の胎動があった。大学を開くという努力は(単に公開講座を設けるにとどまらず)大学の閉鎖性や特権性から脱皮しようとする近代化への改革と連動していたし、またそれを求める民衆教育運動を呼び起こし、労働者教育協会(WEA)等の組織化につながっていったのである。
 あと一つは、戦前日本においても類似の大学開放の努力がみられたこと、また地域のなかにも民衆大学を創ろうとする模索があった事実である。たとえば明治期の東京専門学校(現・早稲田大学)校外教育運動に見られる「学の独立」「社会的な存立」「開かれた大学」への取り組みがあった(田中征男『大学拡張運動の歴史的研究』一九七八年)。あるいは大正デモクラシー期の「信濃自由大学」の試みは、まさに地域からの民衆による大学づくり運動の貴重な足跡である。しかし、もちろんこれらが日本の大学史の主流とはなってこなかった。
 信濃自由大学について『枯れた二枝』(猪坂直一、一九六七年)が書かれたように、それらは戦前の国家主義的教育体制のなかに埋没し、そして枯れていったのである。

 戦後教育改革期において、大学改革はどのように進展したのか。本論の主題に則して、大学を社会に開く、大学と地域が出会う、その協働、という視点にたってみた場合、戦後教育改革は残念ながら成功したとは言い難い。日本の大学は一面で戦後的な脱皮をとげつつ、しかし、なお閉鎖的な制度のなかに安住してすでに半世紀が経過したことになる。そしていま、行政改革路線の外圧による「大学の構造改革」の嵐に苦しんでいるというのが実状であろう。
 それだけに、いまあらためて「地域と大学の出会い」が課題として問われることになる。この点では一九九〇年代には新しい状況が生れてきたように思われる。一つは生涯学習の潮流である。生涯学習振興整備法(一九九〇年)自体は(残念ながら)一言も「大学」にふれていないが、九〇年代の中央教育審議会や大学審議会等の答申は「生涯学習機関としての大学」の役割を提示し、生涯学習審議会もリカレント教育について言及している。いま再編成が求められている全国各地の教育系大学・学部等では生涯学習センター設置が大勢となる時代となった。
 いま一つは、地域の新しい動きである。これまでにない展開を見せて始めている地域・自治体がある。各種の参加型市民活動、NPO的組織、ボランティア・ネットワーク、生活協同・学習文化運動等の新しい展開。そこでは現代的課題に取り組む高度かつ実践的な知識・技能・思想・運動への学びが求められている。地域と大学の出会いの新たな契機、その可能性は明らかに増大している。

 このような状況から考えると、大学を地域に開く、というこれまでの伝統的な「大学拡張」「公開講座」の方式はいま大きく修正を迫られているのではないか。地域と大学の出会いの構図は、新しい現代的な方向を模索していく必要がある。
 いくつかの課題を思いつくまま列挙してみよう。
一、大学が講壇的かつ恩恵的に地域に「公開」するのではなく、むしろ地域を発見し、地域の活力
 に出会う姿勢をもつこと。
二、それはとりもなおさず、大学から地域への一方向的な流れではなく、地域から大学への流れや、
 地域への大学の参加や、地域と大学の協働など、双方向性の回路を多元的につくっていくことで
 あろう。
三、「地域と大学の協働」への市民の行動的な参加と、同時に(教員のみでなく)学生の積極的な
 参加が期待される。
四、具体的に大学側のゼミ等による地域活動への参加やフィールドワーク、それへの市民の参加・
 協力、市民によるゲスト講師制度、地域の各種施設・機関(見学、実習等)協力ネットワーク化、
 それらの継続的な展開のための条件整備、など。
五、教員・市民の実践的取り組みとその自治的制度化の課題。

 筆者が勤務する和光大学では、このような課題を意識しつつ、「地域と大学の出会い」をテーマと
する連続・公開シンポジウムを実施してきた。問題提起とはなったと思うが、しかしその具体的な展
開は容易ではない。道は遠い。しかし・・・。




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