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沖縄タイムス?(2018年11月21日)  

600年以上続く沖縄・竹富島の祭りに、廃れゆく地域が習うべき姿があった


沖縄・竹富島で600年以上も続く「種子取祭」。この小さな島に大勢の人々が押し寄せ、1年で最も盛り上がる

東京から南西に約1950キロ――。羽田空港から国内最長路線となるのが、沖縄県の南ぬ島 石垣空港である。直行便の飛行時間は3時間15分。距離は東京〜北京(中国)とほぼ同じだ。

 その空港から石垣島の港までバスで約30分、さらにフェリーに10分ほど乗って海を渡ると、サンゴ礁が隆起した周囲約9.2キロメートルの小さな島に到着する。竹富島である。

 人口は350人程度。信号機もない、コンビニもない。日が沈むと真っ暗になるような島だが、観光客はこの数十年で急増。1989年(平成元年)に86000人だったのが、2014年には51万人を超えた。石垣島から最もアクセスが良いので気軽に日帰りできることや、八重山諸島を周遊できる船のチケットが充実したことなどが背景にある。

 観光客だけではない。人口も1993年ごろを底に、増え続けている。20189月末で351人と、10年間で20人ほど増えた。県外からの移住者も多い。


竹富島の位置。沖縄本島よりも台湾が近い(出典:グーグルマップ)

 この竹富島は、神々が宿る島だと言われている。なぜだろうか? 八重山諸島の中で最初に神がつくった島という言い伝えも然ることながら、島内には至るところに御嶽(オン)と呼ばれる祭祀の場がある。この島で神に祈りを捧げる祭礼の数は年に約20回もある。

 中でも最も盛り上がるのが、毎年秋に全島を挙げて行われる「種子取祭(タナドゥイ)」だ。600年以上も前から続く竹富島の伝統行事で、国の重要無形民俗文化財にもなっている。

 旧暦9月または10月の庚寅(かのえとら)、辛卯(かのとう)の両日を中心に、9日間かけて五穀豊穣と子孫繁栄を祈る。なぜなら竹富島は痩せた土地で農作物が育たないからだ。昔から米などは近隣の西表島などから仕入れるしかなく、主食は粟や芋だった。台風も頻繁に来る。そうした不利な環境だからこそ、なおさら豊作を願う人々の信仰心が強まったのは言うまでもない。

舞台で披露されるお供え物の粟

 18年の種子取祭は1019日〜27日に開かれた。この期間は観光客に加えて、竹富島の出身者が続々と帰省してくる。島にやって来る人々の数はトータルで数千人とも言われる。

 そしてまた、出身者はただ故郷に帰ってくるだけではなく、大半は踊りや演奏などで種子取祭にかかわることになる。舞台に上がることができるのは島の誉れ、誇りでもあるのだ。

 驚いたのは、観光客も祭りを形作る一員として参加することが半ば常識となっている。

 

観光客も一団に加わるユークイ

 その代表例が7日目夜に行われる「世乞い(ユークイ)」。これは神の使いである神司(かんつかさ)を先頭に100人前後が「道唄」を歌い、太鼓と銅鑼などを鳴らしながら、島内の3つの集落(東集落、西集落、仲筋村)の家々を回り、儀式を行うというもの。この夜回りは種子取祭を統一した根原金殿をまつる根原家から始まり、その後は各集落に分かれて深夜まで行われる。


ユークイの一団。前方には迎え入れる家の人たちが待っている


庭で歌い、踊る


すっかり夜が更けてもユークイは続く

 そして翌日の午前5時、3集落に散ったユークイの一団は根原家に再び集まり、ユークイの終わりを告げる「ユークイ留め」を行なう。その後、種子取祭の中心場所である「世持御嶽」に一団が戻って来るのだ。

 大勢の観衆や演者が見守る中、神司たちが遠くからゆっくりと歩いてくる場面は、種子取祭のハイライトの1つである。


種子取祭8日目の朝、世持御嶽に帰ってくる神司たち


大勢の人たちに見守られる一団

 種子取祭インは7日目、8日目の奉納芸能だ。世持御嶽に設置された特設舞台において、両日とも午前8時ごろから午後5時ごろまでぶっ続けで行われる。2日間で実に80ほどの演目が披露されるのだ。演目は大きく分けて「踊り(ブドゥイ)」と「狂言(キョンギョン)」の2種類。演目は初日に決められ、その内容は毎年変わる。

18年に行われた種子取祭の内容(出典:星野リゾート)


世持御嶽

 会場は多数の立ち見が出るほどの盛況ぶりで、老若男女が舞台を見守っている。子どもたちの席もある。どうやら種子取祭の期間は、島にある唯一の学校、竹富小中学校は授業が休みのようだ。まさに島民全員参加の大イベントである。

 

うつぐみの精神

 記者は今回、竹富島に初めて訪れ、種子取祭を目の当たりにして感じたことがある。

 それは「オープン」ということだ。日本では大小さまざまな祭りがあり、基本的にその多くは開かれたものではあるが、単に外から鑑賞するものと、主体的に参加できるものでは、意味合いがまるで異なる。規模が大きかったり、神聖度合いが強くてディープだったりするほど、フラッとやって来た観光客が参加するのはハードルが高い。しかし、種子取祭はそれが可能なのだ。

ユークイでは観光客も島民の自宅に上がる

 これは竹富島の精神である「うつぐみ」に由来する。

 「かしくさや うつぐみどまさる」(一致協力することが何よりも大切である)

 島の偉人、西塘(にしとう)の遺訓とされる言葉で、今なお島民たちはこれを心に抱いて、お互い助け合いながら生きているという。

 実際にユークイに参加して思ったのは、いくら習わしだからといって見ず知らずの大勢の観光客までを自宅に上げて、ピンダコ(ニンニクとタコ)や泡盛を振る舞うというのはなかなかすごいことである。つまり、参加した以上は知らない間柄ではなくなり、一致団結する仲間として見るということなのだろう。


ピンダコ


儀式で回ってきた泡盛。恐らく石垣島の「請福」ではないか(記者の個人的な感想です)


塩も

 この独特の考え方は、日本のほかの地域、特に衰退著しい地方にとって生き残るための術(すべ)になるのではないかということである。

 これを単にその土地の伝統文化だという一言で片づけてしまうか、何か見習えるところがあるのではないかと捉えるのでは、大きな差が生まれる。

 そんな竹富島の本質を知るためには、近年の出来事にも触れておく必要があるだろう。


売らない、汚さない、乱さない、壊さない、活かす

 1972年、沖縄が日本に復帰すると、さまざまな企業が商機を狙って沖縄にやって来た。竹富島も例外ではなく、結果、リゾート開発などのために23割の土地が本土企業に買い占められたのだ。

 先祖代々守ってきた土地を手放した島民にもいろいろな理由があるが、多くは資金を得ることが目的だろう。このエピソードを聞いたとき、沖縄の音楽グループであるネーネーズが歌う「黄金の花」がふと頭に浮かんだ。黄金で心を捨てないでほしい、いつか黄金の花は枯れるのだからと――

 しかし、そこから竹富島の島民のエネルギーがすごかった。土地を取り戻す運動を起こすのだ。とはいえ、決して簡単なことではない。島民は資金集めに奔走した。

 そうした最中に生まれたのが「竹富島憲章」である。

 これは、土地の買い占め業者などから島を守るための4原則である「売らない」「汚さない」「乱さない」「壊さない」を定めた「竹富島を生かす憲章案」(72年制定)をベースに、自然・文化的景観を観光資源として「活かす」を加えた5つの基本理念をはじめ、島の伝統文化を守る精神などがうたわれている。


重要伝統的建造物群保存地区になっている竹富島の集落

 この憲章が制定された翌87年には、竹富島の集落が国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定された。これによって建物の修理や新築などを行う際には、事前に国へ届け出を行い、許可を受ける必要性が生じた。つまり、自由に開発できなくなったである。土地を勝手に売ることはできないし、移住者も基本的には空き家に入る。借りて、また返す。その循環だ。

 こうした取り組みによって、多くの企業は土地の売買を諦め、さらには土地を取り戻し、島は守られたのだ。

 一見するとこのような運動は保守的であり、いかにも地方的だと思うかもしれないが、先述したように、竹富島に根付く風土はオープン性である。独立心や自治精神が強い地域だと、通常はよそ者を排除することが往々にしてあるが、島のしきたりの中で生きるのであれば、竹富島は受け入れてくれる柔軟さがあるのだ。

 2012年に開業した星野リゾートの「星のや 竹富島」で総支配人を務める羽毛田実氏も、竹富島の間口の広さを強調する。

 「竹富島は外から入ってくる人たちに対しても間口が広いと思います。その上で、きちんと信頼関係を築いていけば、認めてもらえるようになるのです」(羽毛田氏)

地域が存続するために……

 ただし、島に入り、同じコミュニティーの中で暮らすのなら、出身者だろうとよそ者だろうと区別は一切なし。どんなことにも主体的に参加する決まりがある。例えば、毎朝の道の掃き掃除や、年に2回行われる自宅の内外や敷地に面した道の清掃点検などだ。これをきちんと行わなければ罰せられる。これは共に島で生活する者すべてに課せられた義務である。一緒に島の文化を作っていく主体者だから。こうしたところにもうつぐみの精神が表れている。

集落の白い砂の道。毎朝掃き掃除が行われている

 日本の地域の特徴として「閉鎖性」がしばしば語られる。これはネガティブな側面だけではなく、安心、安全なコミュニティー作りのための自衛という観点もあるかもしれない。しかし、閉ざし続けた結果、廃れていく地域があるのは事実だ。

 「景観の美しい南の島だからできる」「うちは北国で山奥だから無理」――。そうではなく、地域が存続するために何が必要なのかを今一度真剣に考えなくてはならない。日本の数多くの地域はそうした時期を迎えているのだ。人口減少は待ってはくれない。消滅可能性の危機は迫っている。

 もちろん、地域にはそれぞれ事情や風土がある。しかし、人々を引き付ける竹富島の保守性とオープン性を併せ持つスタイルは、日本の地域がこれから生き延びていくためのヒントになるかもしれない。そう強く感じた。

20181121 11:00

7日目の奉納芸能 (以下・写真)


竹富口説


伏山敵討


神に向けて奉納芸能を行う


ユークイ (7日目の夜)



鉢巻は男女で結び方が異なる





家の中に入りきらなければ、庭にゴザを敷いて座る










男女に分かれる



8日目の奉納芸能
























弥勒



              
 
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